遠い昔の私達の物語。
今の時代にも語り継がれる三国志。
仲達の部屋に、其れが在った。
正史と演義。
書庫のような仲達の部屋の一角は三国志の資料で埋まっていた。
仲達は、師と昭と昼食を作っている。
買った本を置いてきてくれ、と仲達に頼まれて部屋に入った。
白檀の香り。
仲達の香りに満たされているその部屋は、本とパソコン以外は簡素なもので綺麗に片付けられていた。
その中に三国志を見つけた。
何度も読んでいるのか、カバーが破れている。
本棚の最上段に、木箱がひとつ置いてある。
年期が入っているその箱が気になり、勝手に開けるのは忍びないので仲達を呼んだ。
「仲達」
「何です?ああ、此処に居たのですね」
「…あれは、何だ?」
「ああ…是れを手に入れた時はまだ記憶が曖昧だったのですけれど」
「お前の記憶は、何処までだ?」
「…貴方が崩御された日の事だけ、思い出せません。
是れは考古学の教授の方に特別に譲っていただいた物です」
「何だ?」
「レプリカですが、私の宝物です」
「見たい」
仲達が静かに笑い、箱を開けた。今では珍しくなった竹簡がひとつ。
蒼い紐でくるまれて丁重にしまわれている。
仲達が私に竹簡を渡し、紐の結び目を解いた。
「…貴方にお返ししましょうか」
「返す?」
「これは、貴方のものです」
見覚えのある文字の羅列。
論語のように思えて新しい文章。
「…典論…」
「貴方の痕跡、これくらいしか見つけられなくて」
仲達が大切に箱にしまっていた竹簡は、私が遥か過去に書いた論語“典論” だった。
「…文章は傾国の大業」
「不朽の盛事。その通りになりましたね」
「仲達」
「はい」
“痕跡”と仲達は言う。 そして“宝物”だとも。
世に広まった私の言葉を、仲達は覚えていた。
ああ、もう…此奴は…。
記憶が曖昧だった癖に。
竹簡を箱に戻し、仲達を一頻り抱き締めた。
記憶が曖昧だったくせに、無意識でもお前は私を宝物だと言ってくれるのか。
「…仲達」
「ん…、何です?」
顎に手を添え、唇を合わせた。
愛している、大好きだ、と子供の頃のように仲達に伝えた。
唇を少し離して仲達は微笑み、額をつけてまた唇を合わせた。
仲達の脚が小さく震えているのに気が付いた。
唇を離し、腰を引き寄せて横に抱いた。
何も言わないと言う事は、仲達は既に無理をしているのだろう。
立っているのも辛い筈だ。
「…?」
「お前に無理をさせるつもりはない。私も手伝う。座っていろ」
「…ありがとうございます」
「辛ければ言え。私がいつも気付ける訳でもない。余り、心配をさせるな」
「ごめんなさい…貴方に迷惑をかけたくなくて」
「迷惑だと思っていない。お前の体の不調は私のせいだ」
擦り寄るように仲達の額に口付ける。
部屋から仲達を横に抱いて運び、キッチンのダイニングテーブルまで運んだ。
ダイニングテーブルでは遠かろうと、子供達のいるキッチンのカウンターの椅子に座らせた。
その隣に座る。
「曹丕様、父上はどうしたんです?」
「長く、出歩かせてしまったのでな」
「御無理をされているのですか?」
「ん、大丈夫だ」
仲達が私に目配せをして手を握り、キッチンへ行った。
“大丈夫です”と、仲達はそっと耳打ちで私に言った。
四人掛けのダイニングテーブルの上に取り皿を配り、師に渡された茶を仲達が入れる。
先程買ってきた私の箸を仲達がそっとテーブルに置いた。
昭が気付いて椅子に座る。
「父上、これどうしたんです?」
「曹丕様のを、買ってきた」
「…すまぬ。私は料理が不得手でな。暫く世話になると思う」
「へぇ、何か家族が増えたみたいですね」
昭が何気なく言った一言が嬉しかった。
顔に出たのだろう、師が私を小突いた。
「父上が不調だとお分かりなら、貴方も手伝って下さいね」
「そうだな」
「師、曹丕様に向かってそのような事」
「家族が増えた、と言うのなら“働かざるもの食うべからず”ですよ」
「確かに」
師が運んだのは炒飯みたいだ。
会話しながらも実はきっかり作っていたらしい。仲達が運んだ大皿は麻婆豆腐。
テーブルに置いた鍋はどうやらスープらしい。昭が作ったようだ。
れんげをまとめて渡され、それを配った。
正方形のダイニングテーブルの奥の席に仲達が座る。
師が仲達の左手、昭が仲達の正面に座った。
仲達に促され、私は仲達の席の右手に座った。
「いただきます!」
「待たせたな」
「…美味そうだな、お前が作ったのか?」
「師と昭が手伝ってくれたので助かりました」
茶で簡単な乾杯をして、料理を食べた。
とても美味い。
感想をそのまま伝えると仲達は照れくさそうに笑い、茶を飲んだ。
師だけ特別なのか、蒸籠にひとつ肉まんが入っていて笑った。
「美味いな、お前達が羨ましい」
「まー、外食よりも俺は父上の料理の方が好きですね」
「私もそう思います」
「ほぅ」
「嬉しい事を言ってくれるではないか」
子供達の言葉に仲達は微笑む。
この時ばかりは、私の恋人は父親の顔をしていた。
「子供の頃、父上はいつもお仕事で家に居なくて。
兄上は子供の頃からずーっと父上にべったりでしたよね。だから早く帰ってくるのが嬉しくて」
「…今もだろう」
「そうですね」
「…すまなかったな」
「いえ、昔の話ですし」
少し、胸が痛んだ。
子供の頃から、私は仲達を独占するように甘えていた。
我が儘な子供で、仲達の家庭の事まで考えてはいなかった。
この兄弟から、私は仲達を奪ってしまったのだろう。
恨まれるのも無理はないが、どうやら恨まれている訳ではないらしい。
食事を平らげると、仲達が茶を入れ直してくれた。
礼を言い、茶を飲む。
「御馳走様でした」
「美味かった…礼を言う。仲達は座っていろ」
「え?ですが」
「師と昭と話したい事がある」
「ん?何です?」
「後片付けを手伝って下さるのなら」
「構わぬ」
ダイニングテーブルの椅子では固いだろうと、仲達をリビングのソファーに座らせた。
師が茶を煎れて仲達に渡す。
「…脚を伸ばせ。腰が痛むだろう。お前の家なのだから、私に畏まる事はない」
「そうですね。そうします」
「後は任せよ」
仲達の肩を叩いて、キッチンに戻った。
慣れぬ皿洗いをしながら、片付けをする師と昭に話しかけた。
「…二人とも、記憶はあるのか」
「はい」
「覚えてますよー。誰が裏切ったとか逐一。とりあえず再会したらぶん殴って終わり」
諸葛誕とか鐘会とか。
私には余り聞き覚えのない名前を羅列して、昭は溜め息混じりに皿をしまう。
「潔いな、昭。師はどうだ」
「…現代に伝えられている出来事が、事実と異なり、
好き勝手に推測や憶測で書かれている事に腹が立ちます」
「仕方あるまい。殆ど文献が遺っていないと聞いた」
「…父上は、魏を乗っ取るつもりなどなかった」
「ああ、何かやたら父上を悪者扱いするんですよね」
私も三国志は既に読了している。
懐かしい名前が羅列されたその本は、現実味にかけるがある程度の脚色された内容で画れていた。
師と昭の末路も知っている。
師は混乱期の魏を抑え、昭は魏を持ってして蜀を平定した。
私の一族と司馬家は信頼と主従関係で繋がり、
少なからず怨恨と因縁もあり、一言では言い表せない。
手を取り合い、刃を向けたとされる両家。
少なくとも私と仲達は違った。
愛している。ただ純粋に私は仲達を愛していた。
「もう一度、があるのなら、もう一度逢いたかった。
もう一度、否、何度でも仲達に逢えるのならば幾度繰り返しても構わない」
「曹丕様って本当に父上の事が好きですよね」
「…ふ、後生に何を書かれようが私の知る司馬仲達は一人しかいない。
直に触れて、見て、話したあの仲達が真実だ」
「貴方は、思い出に生きている訳ではなさそうですね」
「…どういう意味だ」
粗方片付けが終わり、再び茶を入れてカウンターに立ったまま話を続けた。
昭はカウンターに座り、携帯をいじっているようだ。
仲達は隣の部屋のリビングに居る為、話の内容までは聞こえていないだろう。
「遠い過去の話です。貴方がお亡くなりになってから、更に父上は無理をするようになりました」
「…ただでさえ、素直でないのに」
「父上は、ずっと貴方のものでした。私達では代わりにすらなれない。
貴方が居なくなった魏の為に奔走して、魏のせいで亡くなったように思います」
師は眉を寄せ、隣の部屋のリビングで寛ぐ仲達の背中を見つめた。
「…仲達の最期を、見届けたのだな」
「はい。昭と二人、枕元で最期の言葉を聞きました」
「覚えているのか」
「父上の最期の言葉ですから」
聞けば師は応えてくれるだろう。
だが何となく、その先を聞くのが怖かった。
恨み言の一つでも言われているのではないかと、そう思えて聞くのは止めた。
「父上に恨まれているとでも、お思いか」
師が私の心を読んだかのように、私を一瞥して話した。
昭がカウンターに肘を付きながら話を聞いている。
「そう、思っていた。ずっと傍にいる、という約束を違えた故」
「人は死にます。ただ、貴方の天命が早かっただけの事」
私とて…、師は何かを言いかけて止めた。
ずっと私達の話を聞いていた昭が携帯を片手に立ち上がった。
「…曹丕様、昨日の父上のメール見せてあげましょうか?」
「メール?」
「俺、メール返信早いんですよね。
だから父上がメールで話してくれたんです。兄上には内緒にしてたんですけど」
「何?」
「父上には内緒ですよー?兄上も見たい?」
「見る」
「お二人とも、父上には秘密でお願いします。
昨晩、帰って来ないんだろうなって思って父上にメールした時の返信」
昭が何だかにやにや笑いながら、私に携帯を渡した。
私の隣で覗き込むように、師も携帯の画面を覗き込む。
『from:父上
上の階にいるが、おそらく帰れないと思う。
許されるなら、一晩泊まりたい。
ずっと逢いたかった人だから、一晩では話し足りないだろう。
お前達には心配をかけてしまうかもしれないが、
また、もう一度、許されるなら曹丕様の傍に私は居たい。』
恨まれてなんかいなかった。
そう思わせてくれた仲達の言葉は、メールとなって残っていた。
これがあの夜の本心なのだろう。
「…このメール、欲しい」
「ダメです。で、父上とちゅーはしたんです?」
「!」
「っ、昭、お前はデリカシーとかないのか」
「…した」
「さっすが!」
「曹丕様…!」
昭は応援してくれているのだろうか。
師はそうは見えないが、少なくとも恨まれているようには思えなかった。
「したんですよね、それ以上の事も」
「…した」
「あーやっぱり。つか曹丕様、流石です」
「…父上を泣かせたら、許しませんから。殴りますから」
「手遅れだな。もう何度も…」
「今すぐ、歯を食いしばって下さい」
「まぁまぁ!落ち着いて兄上!」
昭は携帯をしまい、師を抑えて笑った。
師が不貞腐れたように私の肩を小突いて溜息を吐いた。
どうやら、この子供達は変わっていないようだ。
「兄上を怒らせたら超怖いんで、父上をよろしくお願いしますね」
「応援してくれるのか?お前達からまた仲達を奪ってしまうのに」
「応援しますよ、俺はね。それに奪われたなんて思ってませんし」
「応援はしませんが、認めて差し上げます」
「ふ、礼を言う。さてそろそろ仲達の元に戻るか」
師と昭の頭を撫でて、隣のリビングへ向かった。
やたらリビングが静かで、仲達が身じろぎもしない。
ソファーに向かうと仲達は静かに寝息を立てていた。
無理もない。余り眠れていないのだろう。
それにしたって、疲れている筈だ。
「こんな所で寝ては」
「…疲れているからな。ベッドへ運ぼう」
「曹丕様はこれからどうしますか?」
「外出の予定がある。すまぬが、仲達は任せた」
「…父上の傍に、居てはくれないのですか」
「お前は私を追い出したいのか、留まらせたいのかどちらなのだ」
「父上の悲しむ顔を見たくないだけですよ」
仲達を横に抱き、部屋のベッドへ運んで布団を掛けた。
私の貸した服のままだが、着替えさせるのは起こしてしまいそうで止めた。
師が仲達の傍に座り、結った髪紐をといた。
「名残惜しいが、また夜に会いに行く」
「上の階ですしね」
「何かあれば携帯に。ではな」
窓から西日が差している。
仲達の顔に当たる西日に気付き、師がカーテンを閉めた。
「暫く、おやすみ」
仲達の額に口付けを落とし、師と昭に見送られて部屋を後にした。