いまむかし二千年にせんねん物語ものがたり 02

ずっと、忘れているつもりだった。

口付けられた事がまるで当たり前であるかのように、私は拒まなかった。
こんな唐突に、しかも男からの口付けなど初めてされる筈なのだが。
口付けられた後、此処が街中だと言う事を思い出し慌てて子桓様を突き放した。

「…嫌、だったか?」
「街中、です!」
「!ああ、そうだな。忘れていた」
「……。」
「なぁ…街中じゃなかったら、良かったのか?」
「…っ」

口元を抑えて顔を逸らした。
ひどく胸が痛み、動悸が酷い。
後ろに面した硝子に映る私の顔は真っ赤だった。泣いた目尻が腫れている。

若君だという事は解っている。
だが、あの子桓様だという事実を未だ私の頭が受け止め切れていない。

ただ名前が同じだけなのだと思っていた。
あの子が、まさか。

願いが叶うのなら、いつか何処かで逢いたいとは思っていた。
断片的にしか思い出せない。私は一度、この人を忘れようとした。

私には、辛過ぎた離別の記憶。


心が抉られるように傷み、涙が涸れるほど独りで泣いた。
独りで生きるのが辛過ぎたから忘れようとした。
他の誰にも言っていない私の秘密。周りに言われる程、私は強くなどなかった。

急に色々思い出したせいか頭が痛い。
子桓様が私の肩を引き寄せ、頬に手を添える。
温かい手に私は目を閉じた。

「…仲達、色々と話がしたいのだが時間はあるか?今もまだ講師なのか?」
「講師と言いますか…学園を経営しています。学園は今の時期、春休みで」
「ほぅ、偉く出世したではないか」
「あなたは?」
「大学院に上がる。やはり文学を読み解くのは面白い」
「相変わらずですね、若君」
「…子桓、と」
「子桓、さま」

このやり取り、十数年前に…いや其れよりも遙か彼方の昔。
遙か過去に、こう呼んでいた。

唐突に断片的に思い出す過去の記憶。
私は是れを“気のせい”だと思っていた。

私は子桓様ほど記憶がはっきりしていない。
ひどく懐かしく、愛しい、優しい時間。
滅多に泣かぬ私から零れ落ちる涙。
私はきっと、この人を本当に深く愛していたのだ。

流れゆく長い永い時間、私はこの人を待っていたのだろうか。
確証はないが、少なくとも私は同性である彼からの口付けを拒まなかった。

「…先日、越して来た」
「引越?そう言えば貴方は確か北京に父君と」
「父もこの街にいる。大学院に上がる際、此方に通えるよう手続きをしてな」
「どうしてまたこんな片田舎に。文献なら都会の方が」
「お前が居るから、帰ってきた」

さらりと子桓様がそう言い、私の手をそっと握った。
まだ雨は止みそうにない。


この方が幼く、私がまだ若い頃の話。
まだ息子達も幼かった。
この方の父君、曹操殿に引き抜かれるような形で暫く学園の講師をしていた。

その学園に居たのが子桓様だった。
名前を聞いた時、懐かしい名前だと思ったのは覚えている。

父君がお仕事で忙しい分、子桓様はよく居残り私の授業を受けたがる子だった。
頭の良い子で、特に文学に関してはずば抜けて優秀だった。

遅い時間まで彼を学校に残すのは良くないと思い、
良ければ家に、というお誘いを受けて通うようになったのが家庭教師の始まりだった。
サービス残業くらいにしか思っていなかったのだが、あの頃から若君は私を慕ってくれていたように思う。
たまには私の家に呼び、幼い師と昭と共に勉強会をしたり、
夕食を共にしたり、子桓様が家に泊まる事もよくあった。



字を呼んで欲しい。
私も字を呼びたい。

いつだったか、子桓様はそう言った。
遥か過去の懐かしいやり取りに、初めはやんわりと断った。
私が若君と呼ぶ度に憮然な顔をする。

子桓、と。
幾度も繰り返す彼とのやり取りに仕方なく、一度だけ呼んだ。
その時の余りにも嬉しそうな笑顔に私は負け、字を呼ぶようになった。
今までそんな風に笑わなかったのに。

私が字を呼ぶようになると、子桓様も私の字を呼びたがった。
一講師の字を生徒に呼ばせるのはどうなのだろうと迷いはしたが、彼に字を呼ばれるのは嬉しかった。

彼はきっと、私の特別になりたかったのだろう。
私は彼の感情を知らず、利用していたように思う。

同じ名前の彼を思い出して、少しだけ幸せになりたかったのだ。
それがまさか、当人であったと思う筈もなく。

「…仲達」
「はい」
「暫し、待っていろ」
「?…はい」

灰色の空を見て子桓様は私に向き直り、軒先を離れ、小走りで雨の中に消えた。



雨足が強くなっている。
気温も低くなっている。
きっとすっかり濡れてしまっているだろう。

雨音に混ざる靴音。
肩や髪を濡らし、紺色の傘を差して子桓様が帰ってきた。

「…待たせたな。寒かろう」
「いいえ、貴方こそこんなに濡れて…」

胸元から手巾を出し、頬を伝う雨滴を拭った。
冷たくなった頬に掌を寄せると、子桓様が安堵したように目を閉じる。

「…白檀」
「はい」
「仲達の匂いだ」
「風邪をひきますよ。傘はひとつだけですか?」
「お前と歩きたかった。駄目か?」
「…仕方ありませんね。私の家は歩いて直ぐ近くです。寄って行かれませ」
「知っている。お前に会いに行くところだったのだ」
「左様でしたか」

雨が降らねば擦れ違っていたかもしれない。
皮肉にも、雨が降った御陰で私達は巡り会えたようだ。

子桓様が私の手を引き、傘の中に招いた。
引き寄せられるようにお互いに手を繋ぎ、雨の中を歩いた。





「…本当に、久しぶりですね」

雨の中、仲達はぽつりと小さく呟いた。
それはどちらの意味だ?とは聞かず、そうだな、と短く応えた。
仲達の態度には未だ戸惑いが見える。
恐らく、仲達は全ての記憶がある訳ではなく、現代の記憶の方が強いのだろう。

だが口付けは拒まなかった。
記憶ではなく、体が覚えていたのだろうか。
仲達が正気に戻らねば、私はもっと深く口付けていただろう。
相変わらず、柔らかく薄い唇だった。

「私の部屋も直ぐ近くでな。お前の部屋の少し上の階だ」
「上の階?同じ花園ですか?」
「…迷惑だったか?驚かせようと思ったのだが」
「言ってくだされば良かったのに」
「連絡先を知らなかったんだ。住所だけ覚えていた」
「携帯は?」
「ある。後で連絡先を教えて欲しい」
「良いですよ」

花園に付いた。
傘をたたみ、仲達とに連れられエントランスを通りすぎる。
エレベーターのボタンを押す仲達の手を掴み、止めた。

「…?何です」
「私の部屋に」
「宜しいのですか?」
「部屋は片付いている」
「そろそろ子供達も帰ってきますし、その方がいいのかもしれませんね」
「師と昭は元気か?」
「もう高校生になりましたよ」

私の部屋の階を押し、エレベーターの扉を閉めた。
一言仲達は断りを入れてから、携帯電話を取り出しメールを書いている。

“曹丕様にお会いした。上の階にいる。晩御飯は好きにしろ”

簡素なメールだな、と思いつつ。
師と昭、それぞれに一言加えてそれぞれ送信しているのを横目で見た。
律儀な事だ。マメでおせっかいな性格は変わっていないらしい。

エレベーターが止まった。
仲達を先に下ろし、手を繋いで廊下を歩く。
私の部屋の扉に何やら袋がかかっている。

「…何です?」
「三成だ」
「みつなり?」
「日本人の友達だ。ツレの左近と遊びに来たらしい」
「日本からわざわざ?…と、言いますか。三成と左近って…まさか」
「石田三成だ。覚えているか?」
「…あの、嫌味な男ですか」
「ふっ、お前がよく言う」

三成の事は、それとなく覚えているらしい。
それにしても一体どうやって此処まで入ったのかよく解らん。
確かエントランスには守衛が居た筈だが、上手く言いくるめたのだろうか。

袋には和菓子と蕎麦が入っている。
“曹丕へ。司馬懿に会えたらいいな。検討を祈る。引越し祝いだ。また来る”
“曹丕さんへ。司馬懿さんによろしくお願いしますね。また米でも送りますよ”
と走り書きしたメモが入っていた。
何だあいつらは。父母か。

鍵を開けて、仲達を迎え入れた。
いくつかの荷物はまだ開封していないが、その殆どは本だ。
箱を開けたら読んでしまう、と思い敢えて開けていない。

「失礼します」
「ああ」
「こんな広い部屋に、一人で住んでいるのですか?」
「狭いよりは良かろう」

鍵を置いて、バスタオルを取り後ろから仲達を包んだ。
私の上着を脱がせ、椅子にほおり投げた。

「…貴方こそちゃんと拭かれませ。風邪を引きますよ」
「大丈夫だ」
「嫌ですっ…!」
「…仲達?」

強い口調で、まるで何かを怖がっているように仲達は叫んだ。
タオルに埋まる仲達の顔を上げさせ、髪を拭いた。
何か、泣きそうだ。

「…ごめんなさい。あの、お風呂、入ってください」
「そうする。お前は」
「男二人で風呂はちょっと」

何を今更、とも思ったが。
考えてみれば私達は先程再会したばかりで、初めからこのような関係になった訳ではない。
記憶があるとはいえ、まだ私と仲達はこの世では再会したばかりなのだ。

肩にタオルをかけたまま、仲達は私から離れた。
風呂を見つけて、湯を入れてくれているようだ。
その後ろについて行くように、濡れた上着を脱いで仲達の背後に立った。
鏡越しに私と目が合う。

「何か温かいものでもお飲みになって下さい」
「仲達」
「…はい」
「この時代、風邪くらいで人は死なぬぞ」
「っ…そう、ですけれど」

思っていた通りだった。
仲達は、私の死を今もまだ偲んでいる。
風邪、という単語を聞いてから顔色が変わった。
私は此処にいるのに、過去の私を見ている仲達はやはりそれでも仲達だった。
此奴も、ずっと私を待っていてくれたのだろうか。

「私を案じてくれたのだな。悪かった」
「…ごめんなさい。此処にいるのは、貴方なのに」
「共に、入らぬか。狭くはないはずだ」
「…年上の男の体など、別に見たくもないでしょうに」
「全て見たい。今のお前を」
「…本当に、貴方はあの時から変わっていない」

悲しむような顔をしていた仲達の目尻からほろりと涙が溢れた。
泣きそうな笑み、その頬に唇を寄せると仲達は眼を閉じた。
湯が流れる音を聞きながら、仲達を鏡の方に背を押し、
漸くゆっくりと口付けが出来る、と何度も口付けた。
先程から仲達は泣いてばかりだ。
私の前だから、感情を表に出してくれるのだろうか。



二人位は余裕で入れる浴槽に、脚を伸ばして入った。隣に仲達が座る。
ほんのりと赤い頬に、濡れた睫毛。
髪留めでまとめた黒髪と、白いうなじ。
白い肌は相変わらずだが、細い肢体も相変わらずだった。
美人、と三成のツレの左近ならそう言うだろう。

相変わらず、仲達は美人だった。
幼い頃に見たまま、殆ど変わらず綺麗なままだ。
髪を下ろせば女に見えなくもないが、別に性別などどうでも良かった。

私の肩に湯をかけて、仲達が不意に手を握った。
膝を抱え込むように座り、仲達は私を見た。

「どうした?」
「…懐かしいのです。何もかも。愛おしいのです、この時間が」
「私の居ない世界を、覚えているか」
「…思い出したくもありません」
「そう言うと思った。だから文学を専攻したのだ」
「文学?」
「論語や詩歌は無論好きだが、な。古文にも興味がある」

記憶がはっきりと目覚めた時から、仲達の行方が気になった。
私が此処にいるのなら、お前も何処かにいるのだろうか、と。

私のいない世界、仲達はどう生きたのだろうか。
正直、知らないままの方が良かったのかもしれない。
自らあの時代を調べ、仲達が生きていた跡を探した。

“三国志”と称された私たちの物語の中に“司馬仲達”の名はない。

国の為、魏の為、私の為に傍に居てくれたお前が。
“魏ではない”と、史実の筆者が言う。
それどころかまるで裏切り者のような後世の扱い。
世が世なら私自らが斬り捨てている。

お前に、仲達の何が解ると言うのだ。
講師である仲達は恐らく、何もかも知った上で敢えて講師である道を選んだ。
そして今日まで、私のいない世界を生きたのだ。

漸く、逢えた。



「…貴方は、私の一族が何をしたのか…知っているのですか?」
「晋」
「はい」
「だから、何だ」
「え…」

謝罪などいらない。独りにしたのは私だ。
寧ろ謝るべきは私の方であるのに。
私のいない世界での仲達は、歴史の矢面に立たされ、
気丈に振る舞い、誰にも心を明かさなかったのだろう。

誰もその肩を支えられなかったのかとも思ったが、そうではない。
仲達が、肩に触れることすら許さなかったのだ。

仲達の手首を掴み、そのまま胸に埋めるように抱き締めた。
髪留めで留めていた黒髪がはだけ、湯に流れ落ちた。

「私は魏を護れませんでした。何も、出来なかったのです」
「だから何だ。
 後世が何と言おうが、お前は私の一番大事な臣下だ。教育係で、軍師で、私の右腕だ」
「…っ、はい」
「そして、私の…恋人だ」

細い肩を抱き寄せ、更に力を入れた。
もう離さない。離したくない。

「もう一度…私を愛してくれるのですか?」
「ああ、勿論。お前が一番だと何度も言っているだろう」
「一番大事な、臣下だとしか」
「…なら、こうだ。一生、私のものになれ」
「そのような事、言われずとも、もう…」
「何だ?」
「…っ、言うものですか」

言葉や文学を専攻する私に対し何も語らないとは、随分と手古摺る相手だ。
だがそれが良い。
色恋に疎い仲達だとて、言葉であればきっと通じるだろう。

「お前に逢うまではいつ死んでもいいと思っていた」
「…子桓様」
「そしてお前に逢えたからには、死ぬ訳にはいかなくなった」
「ええ、そうして下さいませ」
「また、共に生きたい。私がいないお前の世界はもう終わりだ」
「…はい。ずっと…ずっと、この時をお待ちしておりました」
「二千年と数十年、長く待たせたな」

目頭が熱くなってきた。仲達の前では泣くものか。
私はもう子供じゃない。

素肌の仲達を強く、きつく抱き締め、改めて口付ける。
仲達から首に腕を回してくるその仕草に笑み、何度も口付けた。

「ずっと、私を貴方のものにして下さいませ」
「無論、そのつもりだ」
「…そして」
「何だ?」
「子桓様は、私のものです」
「ふ…、そうだな」

思いがけない仲達の言葉に笑み、幾度となく強く抱き締めた。


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