私はもう長くないだろう。
寝台で横になりながら、直ぐ傍に侍る仲達にそう告げた。
仲達は一度私を見た後、少し震えた声でただ一言、そうですね、と呟いた。
感情を押し殺した言葉であろう事は、仲達の顔を見なくても直ぐに解った。
そう、私達は愛し合っている。
同性でありながらお互いに、惹かれ合って恋に落ちた。
口付けも、情事も、全てを赦した仲だった。
物語の始まりは、仲達が曹魏に出仕した事から始まる。
一目惚れだったのかもしれない。
物陰から見た新しい教育係は、幼い私の眼に眩い程に美しく映り、私は恋に落ちた。
初見は本当に女と見紛う程に仲達の体は細く、
これが戦場に立てるのかと疑問に思う程であったのだが、
その疑惑は良い意味で裏切ってくれた。
戦場に立つ仲達は、凛として鋭く、その軍略は多くの敵兵の命を奪った。
直接命を奪う立場にない仲達は軍略を奮う事に長ける分、少しでも失態を起こせば陰口を言われる事が多かった。
仲達の軍略は両刃の剣に等しく、矛先を間違えれば取り返しが付かなくなる。
恐れと、妬みからの下らない陰口だった。
仲達は独り、堪えていたのだろう。
決して口には出さぬが、小さく溜息を漏らしていたのを私は知っていた。
その頃の私は、陰で権力闘争の波に巻き込まれていた。
事態は表面化してはいなかったが、誰が曹孟徳を継ぐのかという話がちらついた。
いつか殺されるのではないかと思いながら日々を過ごしたが、
父が子桓、と私を呼んでくれる事に少なからず安堵はしていた。
仲達は其れを知ってか知らずか解らないが、
私を護るように常日頃から傍に居てくれたのを子供ながらに覚えている。
仲達も私の字を読んでくれないだろうか、と淡い想いを秘めたまま私は想いを告げずにいた。
幼い頃からその細い背中を見ていた私は、いつの間にか背丈で仲達を追い抜いた。
恋心を胸に秘めたまま、私はずっと仲達の傍に居た。
私に応えるように、仲達もずっと傍に居てくれた。
いつの間にか、お互いがかけがえのない存在なのだと、知らず知らずの内にそう思うようになった。
ある夜、仲達がひとり回廊の隅に佇んでいた。
その時の会話を今も覚えている。
「…どうした仲達、こんな所で」
「曹丕殿こそ」
「子桓、と」
「一臣下である私が、若君の字をお呼びする事は出来ません。いつも言っているでしょう」
この頃は未だ、仲達は字を呼んではくれなかった。
いつか呼んではくれまいかと、決まってこのやり取りを繰り返すのだ。
酒に弱く情緒の解せぬ仲達が、ひとり月見酒など何と珍しい事か。
隣に座り、仲達の杯を取り飲み干した。
仲達は月を見上げ、語り出す。
「この国も随分と、大きくなりました」
「そうだな」
「…貴方も随分と大きくなりましたね」
「もうお前を抜かしたぞ」
「…なれば、私はもう必要ありませんね」
「何?」
仲達は下戸であるのに杯を呷り、酒を飲み干していた。
体に良くはない飲み方に咄嗟に杯を奪い、仲達の手から取り上げた。
「酔っているのか」
「いいえ。孫子を復誦出来る程に醒めております」
「何故、必要ないなどと…」
「…疲れたのです。私が望んだ出仕ではないのに、過度な期待をし、媚び諂う輩共に付き合うのが」
「…お前にしては、珍しい事だ」
我慢の限界、と言うやつだろうか。
仲達の眉間の皺が消えない。日頃の疲労もあるのだろう。
弱音、と言うよりは愚痴だった。
たまたま通りかかった私に絡んできたのだろうか。仲達の頬はほんのりと赤い。
今宵の仲達はどうにも饒舌で、感情的だった。
仲達にとってはたまたまでも良い。
仲達が本音を私にだけ話してくれるのは嬉しかった。
それに、未だ私の想いを伝えてもいないのに手離す事が出来ようか。
美人だとか、軍略に長けているとか。
そういう理由を全て否定しても、私は司馬仲達という人間が好きだった。
「…必要だ」
「?」
「私には、お前が必要だ」
「ふ、教育係など他にいくらでも」
「お前が良い」
「え?」
「…お前が好きだ」
「ふふ、私も曹丕様が好きですよ」
そうだ。初めての告白は軽くあしらわれたのだった。
子供の戯れに、大人が流すように。
仲達は私よりも一回りほど年上で、妻子ある身。
考えてみれば当たり前だった。
その夜は仲達の愚痴を聞き、私の寝室で同衾をした。
明日、仲達に無礼でしたと謝罪されたが別に私は無礼だとも思っていなかった。
その夜から、幾夜か仲達と同衾をするようになった。
無論、何もない添い寝だ。
仲達自身から香る白檀の香りが何とも心地良く、
寝台に染み付いた仲達の残り香を嗅いだりしていたのを恥ずかしながら覚えている。
仲達には話していない。
あの夜から急激に距離が縮まったように思う。
仲達は本当に自然に、私の隣にいるようになった。
本当の意味で告白をしたのは、それから幾年月も経っていない昔の話。
大切な話がある、と仲達を私の部屋に招き入れ寝台に座らせた。
今日も仲達は良い香りがする。
「…好きだ。お前を、愛している」
「っ?!いや、あの…そんな…私、男ですよ」
「本気だ」
「…私には、家族が」
「私とて既婚している」
「…本気、ですか」
「本気だ。お前に口付けたり…抱き締めたり、恋人のような事をしたい」
「こいびと…」
いくら何でも唐突過ぎるだろう!と、今ならば過去の私に物申したい。
若かったのだ。あの頃は。
歳を重ねる度に、仲達を誰にも触れさせたくなかった。
私の想いを直に聞いて、仲達は真っ赤になった顔を背けて、本当に小さく一言だけ応えたのだ。
私の手に仲達が掌を重ね、本当に小さく一言だけこう言った。
「…私も、です」
その一言を、私はどれだけ待ち望んだだろうか。
予想以上の一言に、衝動的な感情を必死に堪えた。
そして私の物語は急展開を迎える。
勢いのまま初めての口付けをし、強く強く抱き締めた。
「ああ…、ああ、愛している」
「…もう、どうして…気付かぬようにしていたのに…酷い人」
「…ふ、仲達。ひとつだけ、ひとつだけだ。心からのお願いがある」
「何ですか」
仲達を押し倒し、幾度も口付けながら仲達の首筋に擦り寄った。
あの白檀の香りだ。
仲達の指先に口付け、正面から見つめた。
「子桓、と…呼んで欲しい」
「………子桓、さま」
「様は要らん」
「駄目です。それに字は特別なのですよ」
「…私に、お前は呼ばせているではないか。私はお前の特別ではないのか?」
「っ、駄目なものは駄目です!私は貴方の臣下なのですから」
「なれば、そうしようか仲達。私はずっとお前にそう呼ばれたかったのだ」
「…子桓様」
「ふ、良い響きだ」
積年の私の想いは叶ったのだ。
だが、それも、今は昔。
今はもう、曹子桓が終わろうとしている。
重い肺炎を患った。
最初はただの風邪だったのだが。
ここ数日、立て続けに戦に負けたからだろうか。
先日まで私は戦場に立っていた。
軍師である仲達を伴わない、私の戦。
内政に特化した私の政は、平穏ではあったが天下を齎すものではなかった。
私と仲達が魏に居れば、蜀も呉も迂闊に手は出さなかった。
暫くは冷戦状態が続いて平和なものだった。
蜀が不穏な動きをするまでは。
仲達は敵でありながらも、諸葛亮の才だけは認めていた。
好敵手であると互いに思っているのか、
二人が対峙する際はこれ以上にない緊張が走った。
ああ、このままでは。
是れまではっきりと自らの悋気を感じたのは初めてだった。
取られたくない。私を見てほしい。
私とした事が、嫉妬のあまり早まったのだ。
仲達を諸葛亮に会わせたくないが為に、戦場には仲達を伴わず。
私だけの力で諸葛亮を殺す為に、軍を動かした。
そして、早く殺さねば…と焦る余り大敗を喫した。
諸葛亮の策に嵌った。迂闊だった。
意地で仲達を連れて行かなかったのも、
勝利を焦る余り軍を深入りさせたのも、敗因は私にある。
私は戦が下手だ。
私如き、諸葛亮に渡り合える訳がなかった。
季節を待てという仲達からの進言も聞かず、下らぬ戦で兵を疲弊させた。
こんな事をしている場合ではないのだが。
「…仲達」
「はい」
「私は戦が下手か」
「…下手ですね」
「そうか」
小気味良いくらい仲達ははっきりと言った。
帰還した私に仲達は、何故私を連れて行かなかったのか!と軍議上で叱咤したが、
部屋で二人きりになれば、仲達は小さく震えて私の胸に埋まるのだ。
気が気じゃなかった、と。
不安でどうにかなりそうだった、と。
仲達は、よくぞ御無事で…と泣きそうな顔で私を抱き締めた。
仲達は二人きりになると本心を話してくれた。
そう、私にだけ。
「独りに、してしまうな」
「…そうですね」
仲達、仲達。
何れ呼べなくなるであろう愛しい人を何度も呼んだ。
「仲達」
「はい、子桓様」
決まって仲達は字を呼んで応えてくれた。
「…仲達、近ぅ」
「これでよろしいですか?」
寝台に座る私の直ぐ隣に仲達が座る。
肩を引き寄せると、仲達の冠が落ちて黒髪が肩に流れた。
もう抱き締める事も出来なくなるのか。
死ぬのは怖くなかった。
仲達を独り遺し、この国の布石を全て任せられるだろうか。
仲達は強い。
私よりも強い。
ずっと独りにしてしまう。
お前の世界に私が居なくなる。それはどのような世界なのだろうか。
心音を聞くように仲達は私の胸に耳を当て、目を閉じた。
長い睫毛がしっとりと濡れている。
外は少し暗く、しとしとと小雨が降っていた。
格子から天を仰ぐと、灰色の空が泣いている。
「…雨だ。本降りとならぬ前に迎えを呼ぶか」
「もう、遅いでしょう」
星を読める仲達にとって、天気などは空を少し見れば解るらしい。
生憎、仲達の顔色も曇っていた。
「なれば、少し雨宿りをしていくが良い」
「…雨が降らなければ、御傍に居てはならぬのですか?」
「…居て、くれるのか?」
「御傍に、居たい…です」
「…おいで」
胸に埋まる仲達を更に引き寄せ、私の体の上に座るよう促し抱き上げた。
靴を脱がせ、肩当てを外させ、仲達に唇を合わせた。
深く口付け、舌を絡めた際の水音は雨の音に消えた。
雨風が仲達の肩を冷やす。
寒くないように仲達を反転させ、寝台に埋めた。
裸足になった脚が冷たい。
午時葵の花弁が散っていた。
吐息が当たる距離にして点る情欲。
それは仲達もなのか、しっとりとした色を静かに放っていた。
お互いを情欲を視線を合わせて確認し、仲達は小さく頷いた。
それが仲達の返答だった。
仲達との情事。
繋ぐ手。
強くきつく握り締めるその手に唇を寄せ、
まるで子種を残していくように仲達の中に果てた。
私達との間には何も遺らない。
ただ、私達が愛し合っていたのだと、お互いが思い出せればそれで良い。
私の生はもう終わる。
私は明日、死ぬだろう。
仲達には教えなかった午時葵の花言葉。
午時葵の花は一日で散る。
願わくば、また。
来世で逢えるのなら、また仲達と恋仲になりたい。
きっと私はまた仲達に恋をする。
体を繋いだまま、仲達の頬を包み、額同士をつけた。
胸で息をする仲達の頬には涙が止めどなく流れていた。
まるで雨のようだ。
その涙に唇を寄せ、仲達を胸に埋めて言葉を紡いだ。
「…仲達…」
「は、い…、子桓、さま」
「来世で、逢えたら…またお前を好きになっても良いか?」
「…何です、来世の事など、今、解る訳…」
「きっと、私はまたお前に恋をする」
「なれば私は…お待ちしたら、よろしいの、ですか…?」
「今度は私が迎えに行く。待っていてくれるか…?」
「子桓様、なれば…」
仲達は涙を流しながら微笑んだ。
その仲達に口付け、抱き締める。
「再見…約束だ。また逢おう、仲達…」
私の愛しい人。
しとしととよく降る雨の中。
何処からか、香の香りが鼻を掠めた。
何故だか、何処か懐かしい。
傘はない。
急に降られてしまった。
本を買いに外に出たのだが、生憎暫く止みそうにない。
通りかかった店の軒先に走って駆け込むも、結局は濡れてしまった。
「…止みそうに、ないか」
「そのようだ」
「…?」
隣に一人の男が立っていた。
私よりも長身で、整った顔の男だった。
私のひとり言に、まるで以前から私を知っているように話す。
「…久しぶりだな」
「どなた、ですか?」
「ああ、そうか。何年ぶりになるのだろうな」
「…若君、ですか?」
「子桓と、仲達」
「ああ、またそうやって目上を呼び捨てにして」
偶然だろうか。
軒先に居合わせた男は私が以前、家庭教師として教えていた生徒だった。
その男は私を師父と呼ぶのが嫌らしく、
身内にしか呼ばせない字を呼びたがった。
字を呼ばれたい、と幼い若君がしきりに強請ったので私も字を呼んでいる。
字を呼ぶ意味を知らぬ程、幼かった彼だったが、
今やすっかり大きくなって、私の背を抜いていた。
「お久しぶりです、子桓様。大きくなられましたね」
「…仲達」
「何ですか?」
「…覚えているか。あの雨の日を」
「いつの事です?」
「白檀の香り、生まれ変わっても変わらぬのだな」
「…子桓様?」
「ふ、良い響きだ。懐かしい…覚えて、おらぬか」
仲達。
子桓様がそう呼ぶ内に、何故か古の服を着た自分が脳裏に蘇った。
紫の衣の服を着て、私は泣いている。
五月十七日。私が独りになった雨の日。
「…雨は止みそうにないな。寒くないか仲達」
子桓様が自分の上着を私の肩に掛けた。
仄かに香る香の香り。先程の香りはこの人だったのだ。
頭が、酷く痛い。
「しかん、さま」
「…頭が痛むだろう。少し休むと良い」
「貴方は…あの、子桓様、なのですか」
「…そうだと言ったら、信じてくれるのか?」
ひどく懐かしい香りと、安堵感。
止まらない涙。
「大人になったら、逢いに行こうと思っていた。
一目見た時から解っていたのだ。お前が、あの仲達だと」
「私が、何者なのか…あなたは解っていたと言うのですか…?」
「今を生きる司馬仲達、曹子桓はお前とまた共に生きたい」
「私の事を、覚えていて下さったのですか?」
「無論。忘れた事はない。早く大人になりたかった」
そう言い、子桓様は私の手を取った。
「また、お前を好きになっても良いか?」
「ああ…本当に、貴方なのですね」
雨に濡れているのか、それとも私の涙なのか。
今と過去の記憶が入り混じるも、この人は間違いなく子桓様だった。
ずっと、私は待っていた。
この時を。この再会を。
「…私も、です。子桓様」
「漸く逢えた…待ち侘びたぞ、仲達」
子桓様がふ…と笑い、私に屈んで唇を合わせた。