明くる朝、師が仲達を迎えに来た。
本調子ではないでしょう、と師が仲達の身を案じていたが、仲達は大丈夫だと師の頭を撫でた。
何処か顔色の悪い師と、仲達を挟んで話をする時間があった。
此奴ときちんと話をしておきたかった。
「…先日から顔色が悪いが、大事ないか」
「元からです」
「否、それは」
「師、本当の事を」
「……では。私も父上に倣い、ある意味では人になりました。
昭も、人となりました。御報告が遅れまして申し訳ありません」
「なっ…」
「…何故だ?あんなに人を、私を嫌っていたではないか」
師も昭も人になったと言う。
言葉を詰まらせ俯く仲達に代わり、私が話を聞いた。
師がこれまでの経緯を話す。
「私は父上をお救いしたかった。父上の前で貴方様を殺めたくはなかった。それ故の代償です」
仲達の翼を斬り落としたあの夜。
師から見ても仲達は重体で、正直に言うと助かる見込みがなかった。
仲達の夥しい出血が尚更に、師の不安を煽った。
翼を斬られた仲達を抱き上げた時には既に瀕死に近く、持てる力全て捧げたが足りず昭にも手を借りたと言う。
二人分の力を全て仲達に捧げ力を果たした時、もう取り返しが付かないのだと察したと言う。
天に背いた悪魔の命を救ったのだ。
天使であるなら、救うべきではなかった。
悪魔が死ぬのを見ていれば、天使で居られた。
このままでは天使では居られないだろうが、昭も其れを承知で仲達の為に力を使い果たした。
「私達はただ、父上をお救いしたかった。死なせない、と約束しましたから」
堕天使となるか、または悪魔に堕ちるか。不死を捨てるか。
その選択肢の中で昭は、元姫がいるなら死んでも悔いはないと、人になる事を選んだ。
元々、昭は不死でいる事を好いていなかった。
「元姫にずっと置いていかれるのは嫌だ、と申しておりましたよ」
「……。」
「彼奴らしい。それで、お前が敢えて人を選んだ理由は何だ?」
「私の理由は」
師が仲達の手を取った。
今まで下を向いていた仲達が、師に気付いて顔をあげた。
「…下らない理由だとしたら赦さぬ。お前達が其処までする必要など」
「黙れ仲達」
「っ…ですが、私のせいで」
「…其れが私の望みです」
「何?」
師の言葉を遮る仲達を黙らせる。
仲達は今にも泣きそうな顔をしていた。
「曹丕様と添い遂げて、人となった貴方はいずれにせよ死ぬ運命。
貴方の居ない世界に私ひとりでずっと生きろと仰るのか?」
師が仲達に言った言葉は、仲達が私に言った言葉そのものだった。
師は仲達の無い世界、悠久の孤独と不死を捨てて人になる事を選んだ。
「…よく似た親子だな」
「よく言われます。其れが私はとても嬉しい」
「馬鹿め…本当に、馬鹿な事を」
「…曹丕様」
「今暫くは赦そう」
師が私に赦しを乞う事など、一つしかない。
師の手を握り締め俯く仲達を師が抱き締めた。
私の前で仲達に触れる事を赦したのだ。仲達は目を閉じ、師の好きなようにさせている。
「私の翼は片方残りました。昭も未だ翼は残っています。
悪魔を救った、と言うより、親を救ったと天に見なされたようで…。
悪魔を救った罪として片方をお返しし、親を救ったと善として翼は剥奪されませんでした。
翼があるだけで…残念ながら既に何の力もなく、私は人と変わりありません。此れが今までの経緯です」
「なれば、翼は」
「片方だけ、此処に」
片翼だけになった翼を師が出して見せた。
仲達を包むように丸くなる。
仲達はその片翼に触れ、唇を寄せた。師が仲達の額に口付けを落とす。
「…貴方は決して私を選んではくれませぬが、私は貴方をずっと御守り致します」
「…本当に、兄弟揃って馬鹿共め」
「だって…私は貴方が好きなのです。昭とて、口ではああ言ってますが貴方の事を慕っております」
師を初めて子供らしい、と思った。
ませガキではあるが。
駄目だと叱る親に対し、駄々をこねるように師は仲達に甘えている。
何だか取られたような気がして仲達の手を引っ張った。
師が気付いて翼をしまい、仲達を私に返した。
鈍感な仲達だけが私の気持ちに気付かず、首を傾げながら私の胸に収まった。
「昭は?」
「まだ寝ているかもしれませんね」
「帰るか、仲達」
「…はい。一言言ってやらねば気が済みません」
「だがその前に仲達、子供らに言う事があるだろう?」
「…はい」
今にも泣きそうな顔の仲達の頬を撫でた。
師が、ふ…と笑い屋敷まで先導した。
仲達を伴い、早朝の邸内を歩く。
「兄上、おはようございま…あ、父上!ん?曹丕様も?」
「昭!」
「えっ、何?」
「師もそこに座れ」
「はい」
「えっ?朝から何です?俺、何かしましたっけ」
玄関を開け、昭を見るなり、師の手を引いて仲達が駆け寄った。
仲達が私に頭を下げ、離れていった。
床に座る兄弟に一喝、この馬鹿共!と叱った後、仲達は師と昭を一頻りに抱き締めた。
仲達の挙げた手を見て叩かれると思ったのか、昭は目を瞑ったが師は穏やかに笑っていた。
「…父上?」
「本当に馬鹿な事を…己の身がどうなるか考えなかったのか」
「父上の事しか、頭になくて」
「貴方のいない世界なんて考えたくなかったのです」
「…それでもお前達は、私の為と言うのか」
「はい。貴方の為ならば」
「父上がいなくなったら寂しいって言うか」
「…馬鹿め」
師と昭に額を寄せ、仲達は泣きそうな顔で笑う。
二人を抱き締め、目を閉じ仲達は言った。
「…ありがとう。お前達が私の息子で良かった」
師が幸せそうに笑う。
昭はぽかんとしていたが、師の笑みを見て笑いながら仲達に抱き付いた。
師よりも大きい昭に抱きつかれると仲達がすっぽりと隠れてしまう。
「おも、い」
「父上、父上」
「何だ」
「俺にもちゅーして下さいよ」
「は?」
「おい、昭」
「だって、曹丕様や兄上ばかり狡いし」
さて、そろそろ返して貰おうか。
昭に埋まる仲達の襟口を掴み、背中を胸に埋めて捕まえた。
「っ…子桓様」
「そろそろ返してくれ」
「元々うちの父上なんですけど」
違いない。
昭の言葉に皆が笑う。
笑ったら腹が減った。
「朝食にしましょうか、まだですよね」
「ああ、馳走になる」
「肉まんがいいです」
「兄上って本当に肉まん好きですよね」
仲達に手を引かれ、司馬家に招かれる。
回廊で師と昭と別れた後、仲達の部屋で二人きりとなり腰を引き寄せ口付けた。
甘く口付け、舌を絡めて吐息の触れる位置で話す。
「…何です?」
「お前達の事」
「?」
「いずれ魏となる私がまとめて貰い受ける」
「…魏…?」
「お前が人となるのなら、私はお前達の拠となろう」
「子桓様が…?」
「私はお前達を護る国になる」
お前達をずっと護る。
そう仲達に告げた。
それももう、千年以上も昔の話。
三国志として語られる長い長い物語。
私は魏の皇帝となり、二二六年に死んだ。
仲達はその二十五年後。師も、昭も。魏も死んだ。
あれから千年と、八百年。
来世で逢う約束。
探せども、捜せども。一度とて出逢う事はなかった。
世界にたった独り遺されたような感覚に溜息を吐いて、読んでいた本を置いた。
仲達は私の半身だと改めて想う。
「…この学園の、生徒会長殿は貴方ですか?」
「相違ないが、お前は?」
放課後の夕方。
図書室で見慣れない学生に話しかけられた。
その顔を見て、思わず持っていた本を落とす。
「落ちましたよ」
目の前の男を見たまま固まった私に、別の男が本を拾う。
その男の顔にも見覚えがありすぎた。
「師…?昭…か?」
「…幾年ぶりでしょう。我らを覚えていますか?」
「忘れる筈がない」
「やっぱり曹丕様でしたね、兄上」
「どういう意味だ?」
名前を名乗るでもなく、私と異なる制服を着た学生二人は師と昭だった。
師と昭には記憶があるらしく、私を見るなり畏まって頭を下げた。
「此方へ」
「早く!」
師と昭は私の手を引っ張り何処かへ連れて行く。
師は近隣にある鳳凰学園とは別の学園の生徒会長をしていると言う。
昭も同じくそこの生徒だ。
「何を急ぐ?」
「我が校の理事長が帰られてしまいますので」
「理事長?」
「会議だとかで。俺等はその付き添いです」
「ただ、父上が貴方を覚えているかどうかは」
「…仲達が、いるのか?」
師と昭が居るのなら、と一理の望みは抱いていた。
ただ、人の記憶など危ういもので。ましてや千年以上も昔の話。
「大丈夫ですよ!だって俺達は天使だったんですから!恋人を引き逢わせるのが役目です!」
昭が笑いながら、私の手を引いた。
正面玄関の曲がり角に白いスーツの男が立っている。
師と昭が私の手を離し、その男の方に歩み寄った。
何かを話し込んでいる。
その男が帽子の柄からちらりと私の顔を見た。
白いスーツの男は私に向き直り、帽子を取った。
「お初にお目にかかる。生徒会長をやられているとか」
正面から顔を見据えた。
鳶色の瞳。切れ長の眉。白い肌。黒い髪。
仲達だった。間違いない。
ただ、会話の様子からは私の事は覚えていないようだった。
やはり記憶など曖昧なもので、逢えたと思ったら、忘れられていた。
相手は他校の理事長。其れ相応に接さねばならぬだろう。
拳を握り締めて、話を続けた。
「会議だとお聞きしているが」
「はい。此方は我が子達なのですが、どうしても私を生徒会長の貴方に会わせたいとせがまれまして。
此方は師、此方は昭。御挨拶を」
師と昭が我らの会話に耳を澄ますように押し黙っている。
形式的に挨拶を交わすと、仲達は顎に手を当て考え込むように私を見ていた。
「…失礼だが、何処かでお会いしただろうか?」
「…否」
「左様でしたか…長居をしましたな。失礼します」
仲達が背中を向ける。
師と昭が引き留めようと手を伸ばすより先に、私が仲達の手を握った。
「何か?」
お前が言うと約束したではないか、この嘘吐きめ。
「魏」
「ぎ?」
「魏と言う国を覚えていますか?」
どうせ覚えていないのだろうと思ったが、聞かずにいられなかった。
本来ならば仲達が言う約束の言葉だったのだが。
「ぎ…、魏?」
駄目か。
師も昭も落胆しているのが見てとれた。
「…申し訳ない。お気になさらぬよう」
記憶に頼った私が馬鹿だった。
手を離して頭を下げた。
師と昭に目配せをして踵を返した。
残念だが、私の事は覚えていないようだ。
師と昭が車に乗る。
その車を見送ろうと、背中を見送った。
車に乗ろうとした時、仲達が私に振り返った。
「…曹魏…」
「如何された」
「暫し、待たれよ」
仲達が車から離れ、私の手を掴んで引き止めた。
その鳶色の瞳は潤んで雫が今にも溢れそうだった。
「…子桓、さ、ま…?子桓様なのですか?」
「…思い出した、のか?」
「本当に、貴方なのですか?」
「如何にも。千八百年ぶりだろうか。少しは変わったか?」
「…いいえ、全く。どうして私…貴方に気付けなかったのか」
「漸く逢えたな、仲達」
溢れる雫を指で拭った。
人前という事もあって、抱きしめてやる事は出来ない。
肩を抱くのが精一杯だった。
「父上、曹丕様」
「此方へ」
「?」
「お前たち、解っていて付いて来たな?」
「父上が鈍感だから、俺達がお手伝い」
「会議になど普段ついて来ない癖に…何かと思ったら」
後部座席に仲達と乗せられた。
代わりに師と昭が出て行く。
「大変不本意ですが」
「何だ」
「父上をお願い致します」
「なっ」
「再会したら、したい事だってあるでしょう」
師が不機嫌を顔に書いたような表情をして、不躾にドアを閉めた。
昭が笑って手を振る。車は止まったままだ。
「…女には生まれず、申し訳ありません」
「良い。出なけれな師と昭には会えなかったかもしれぬ」
「子桓様」
「…少しだけで良い。触れさせてくれ」
仲達が手を伸ばす。
その手を握り、唇を合わせ強く抱きしめた。
「子桓様」
「何だ」
「あの日々を、あの夜夜を覚えていますか?」
「無論、忘れた事はない」
仲達を想う夜夜。それは今も変わらず。
漸く再会できた仲達に、これ以上ない程に強く抱き締めた。
「私…人に、生まれましたよ子桓様」
「言っただろう?仲達であれば構わないと」
頬を包んで顔を寄せ、また口付けた。