あの後、子桓様と師と昭と食事を共にした。
子桓様はしきりに私の容態を気にしていたが、曹操殿に報告せねばならぬと日が暮れる前に私邸へ帰られた。
たまには家族水入らずで過ごせ、と仰る。
明日、共に出仕する事を約束し別れた。
師や昭に余計な心配をかけまいとしていたが、夜になると既にない筈の羽根が痛んだ。
幻肢痛と言うものだろうか。腕や脚を失うと起きる現象らしい。
寝台に臥し、形容し難い苦痛に耐えた。
こうして人間は寿命が減るのか、と深夜ひとり苦痛に耐えながらぼんやりと考えた。
幻肢痛に特効薬などなく、治す事は出来ない。
曹子桓の生を見届けようと決めた時から、既に不死として生きる気はなかった。
共に生きようとも、私が遺されるのは解っていた事だった。
今後、子桓様に置いて逝かれるのは解っている。
私自身にはどうすることも出来ない。
それでも私が人に堕ちた理由。
あの御方のいない世界に、長く生きるつもりはない。
あの御方以外に添い遂げるつもりもない。
私が初めて人に恋焦がれた。
初めて、生きて、死に逝く人を羨ましいと思えた。
あの御方を愛している。
思えば、人の欲する不老不死など虚しいものだと嘲笑った。
独りで生き続ける事がこんなに虚しい事はない。
不老も不死も捨てた。
ただ一人の司馬仲達という人間として生きて死ぬ事を選んだ。
愛したい人がいる。
傍に居たい人がいる。
体中を巡る痛みに堪えながらも、私はたまらなく幸福だった。
寝台の上、扉に対し背を向け臥していたが、背をさすられてる感覚に身を起こした。
霞む視界に映ったのは、今にも泣きそうな顔の師だった。
「師…?」
「痛むのでしょう」
体を起こした私に、師は触れるだけの口付けを施した。
師から伝わる思いは純粋で、引き離す事が出来なかった。
師に口付けられると痛みが消えた。
癒やしてくれたのだ。
「…痛みが引いた…。」
「大丈夫、だと仰いますな。大丈夫でない事など師には解っています」
唇を指でなぞり、師は私を寝台に横たえた。
師を見れば自室から走ってきたのか、寝間着姿のままだった。
痛みによって生じた汗に気付くと、直ぐに濡れた布巾で拭ってくれた。
拭われる感覚が心地良く、目を閉じる。
この子は全て解っているのだ。
「礼を…、いや。ありがとう」
「いいえ」
「心地良い」
「それは良かった」
額や首元を布巾で拭われる。
何となく師を見つめた。
私の視線に気付いてか、師は柔らかく笑った。
私にこのような笑顔は出来ぬな、と何処となくそう思った。
母親譲りだろうか。
「父上」
「うん?」
「お体を拭かせて下さいませんか」
「ああ…」
今は師の言葉に甘えようと、体を起こし上衣を脱いだ。
自らの背中は見れない。
背中はどうなっているのか聞こうとしたが、師は無言で作業に徹していた。
程なくして作業は終わり、上衣を着せられた。
そこまでやらずとも良いと言ったのだが師が聞かない。
「…父上は」
「ん?」
「本当に人間に成られたのですね」
「…淋しいか?」
「怖かった、です。貴方が居なくなってしまうのではないかって」
子桓様と同じような口振りで、同じ事を泣きそうな顔で話す師に面影を感じずに居られなかった。
この子は私の子なのに、どうしてこんなにもあの御方に似ているのか。
恐らく口に出せば師が不機嫌になるだろうと、あえて言葉にはしなかった。
「あのまま貴方が目覚めなかったら…一生公子を恨むところでした」
泣きそうな顔を胸に埋めて、頭を撫でた。
母親ではないので、ふくよかな胸はない。
私は子供達よりも、人で在る事を選んだ。
子桓様を選んだ。
非道い父親だと、己自身でもそう思う。
そんな父親でもこの子は赦してくれた。
「師」
「はい」
「今宵は供に寝ないか」
「…宜しいのですか?」
「たまには良いだろう?」
「是非とも。嬉しいです」
子供達が幼い頃、よく一緒に寝ていたのを思い出しながら師を引き寄せ布団を掛けた。
私よりも背丈があり、師の胸に私が埋まるようになってしまった。
「大きくなったな」
「いつの間にか、抜かしてしまいましたな」
「…色々と心配をかけた。お前もゆっくり休むといい」
「はい。また痛むようでしたら仰って下さい」
「…ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい父上」
天使である師は、まるで私を護るかのように抱き締めた。
自らも疲労しているだろうに、私を心配する師がたまらなく愛しい。昭とて同じだ。
傷を癒やす為に放出した力をきちんと埋め合わせているのか心配になったが、
私が聞くよりも先に師が眠りについてしまった。
疲れているのだろう。
子供が愛しい。その気持ちに偽りはない。
愛しい者たちに囲まれて私は死にたい。
口には出さず、師に抱き締められながら私も眠りについた。
明くる日。
朝食の際、師と一緒に寝た事を話したら一頻りに狡い狡いと昭は師に詰め寄っていた。
師は嬉しそうに昭に話す。
そんな二人を横目に見ながら、髪を結った。
新調した官服を着て、冠を被る。
羽扇を持つと師と昭が向き直った。
「お供致しましょうか、父上」
「そうだな、頼もうか」
「あ、俺も行きます」
「左様なれば二人とも仕度を」
「はい」
「はーい」
二人とも私を邸まで送ると言い出したので其れを許可した。
ぱたぱたと居室を出て行く二人を見送り、ゆっくり茶を啜る。
暫くして官服に着替えた師と昭に迎え入れられ、邸に向かった。
城門をくぐり抜け、白い大階段を上っていく。
最近視線や気配を感じない。
私を監視していた者たちはいつの間にか居なくなっていた。
子桓様の命だろうか。
何れにせよ、自分の屋敷に何事もなく帰されているという事は監視の対象から外れたらしい。
諸葛亮も暫くはなりを潜めている。
先の大戦は奴の策で我が軍が大敗したと聞いた。
もはや天使でも悪魔でもない私は用済み、と言うのならその方が良い。
余計な手間をかけなくて済む。
そう思っていたのも束の間、頬を掠めるような距離で矢が目の前を過ぎて行った。
羽扇を掠ったのか、はらりと一枚、黒い羽根が落ちた。
咄嗟にたじろいだが、即座に師と昭が私を囲んだ。
「父上!お怪我は?」
「大事ない」
「…これは、矢文のようですね」
師が矢に付いた文を取る。
案の定、送り主は予想した通りだった。
送り主に予想通りだったが、宛名は私宛ではなかった。
「大事ないか」
大階段の上、正面口に子桓様が剣を抜いて立っていた。
先の出来事を見ていたのだろう。
訝しく、眉間に皺を寄せている。
両脇に付き添う衛兵に目配せをし、衛兵達は階段下に駆けて行った。
「子桓様」
「無事か、仲達」
「はい」
「師、昭」
「我らは大事ありません」
「そうか」
軍礼を取り頭を下げる私の手を子桓様が掴む。
此処から離脱する、と言わんばかりに引き寄せられる。
昭が其れを見て、軍礼を解かぬまま子桓様に頭を下げた。
「父上をお任せ致します。曹丕様、俺達も警備に回りますよ」
「そうか。深追いはするな。奴を見つけ次第、捕縛せよ。
こう易々と彷徨かれては警備を固めざるをえんな」
「…奴は空から来るのでしょう」
「左様なれば」
「お任せを」
私に一度目を合わせ、子桓様と私に軍礼をし、師と昭はその場を去っていった。
あの子達は天使だ。空から追うつもりなのだろう。
「深追い無用。四刻したら屋敷へ戻れ。後は衛兵に任せよ」
「しかし」
「逃げ足は早いはずだが、どんな策があるのか解らん。
何より私はお前達を傷付けられたくない。良いな」
「…っ、はい!」
師と昭に一言付け加えてから見送った。
二人ともどことなく嬉しそうに笑っていた。
「お前にしては珍しいではないか」
「何がです」
「お前は余り感情を言葉にしないからな」
「何です。私が子供に甘いと御不満ですか?」
「いや、別に」
回廊を歩く。
子桓様の後ろを歩きながら話をした。
会議室に通される。
曹操殿と夏侯惇殿が居た。
殿に直にお会いするのは久しく、拝謁し頭を下げる。
「子桓、司馬懿と共に参りました」
「子桓か。そして久しいな、司馬懿」
「よぅ、もういいのか」
「長らくの不在、申し訳ありません殿」
「良い。子桓から全て聞いている」
夏侯惇殿に肩を叩かれた。
曹操殿に促され、子桓様の座る卓の隣に腰を下ろした。
曹操殿が腕を組む。
「大した覚悟ではないか、司馬懿。お前にとって子桓は其れ程か」
「お前に出会ってから曹丕は棘が抜けたようだ。お前が曹丕を変えたか司馬懿」
「曹丕様は何も変わっておりませぬ。元々お優しいお方です。
変わったのは私です。曹丕様に出会い、色々な感情を知り、与えられ、失いました」
「…確かに、表情が豊かになった。以前のお主は人形のようだったが」
「左様でしたか…?」
頬に触れ、下を向いた。
磨かれた石の机に映る己の顔は何か変わっただろうか。
「手はどうした」
「…手?」
「甲が斬れている」
「あ…」
先の矢文だろうか。
どうやら甲に掠っていたらしく、時間が経ってから血が出ていたようだ。
子桓様がいち早く気付き、私の手を取った。
矢文の事は話すつもりはないらしい。
「父よ、話はまた後日。仲達の手当てをして参ります」
「ああ、大筋の話は聞いているしな。司馬懿」
「はい」
「子桓を任せた」
「…此方こそ…」
曹操殿が笑う。
夏侯惇殿はひらひらと手を振った。
深く頭を下げ、子桓様を見ると子桓様は既に扉に向かっていた。
私の手を強く握っている。
一瞬、この方の幼少期を思い出した。
軍礼をし、部屋を退室すると子桓様に手をまじまじと見つめられる。
「天使であれば、これくらい直ぐ治せるのですが」
「…痛むか」
「いいえ。大事ありません。話の腰を折ってしまい申し訳ありませんでした」
「…天使であれば、か」
「子桓様?」
手を握られたまま、執務室を通り過ぎる。
久しく感じる子桓様の部屋。
寝台に座るよう促され、腰を下ろした。
子桓様も隣に座る。
「私でも良いか?」
「?」
仰る意味が解らず首を傾げていると子桓様が手の甲の傷口に唇を寄せた。
「子桓、さま?」
「天使は唇で触れて癒やすのだったな」
「…っ、あれは、師が」
「美しい種族だと思うが」
「ゃ…」
傷口を舌で舐められる行為を直視出来ず、顔が熱くなる。
そのまま手を引っ張られ、子桓様に口付けられた。
子桓様の沈香の香り。
少しだけ、血の味がする。
子桓様の胸元を引っ張り、寝台に寝転んだ。
子桓様の腕の中に収まる。
「…仲達」
「っ…まだ昼間です。駄目です」
「ちっ」
「其れより」
袖から矢文を出し、子桓様に渡した。
相手は無論、諸葛亮からだった。
「…私の閨で随分と不躾だな」
「貴方様宛です」
「奴が私に何の用だ」
「お読み下さい」
内容は私も読んでいない。
私の冠がころり、と寝台の下に落ちていった。