初めはその想いを利用してやるつもりだった。
魏の公子が私を見る目は、普段から他と違っていたのは気付いていた。
幼き頃よりお仕えしていたからだろうと、その時は深く考えなかった。
鳥籠から出たい。
私は、私のものだ。
そうは思えど、天に仕える身。
私に自由などない。
曹操殿に見出されたのは本当に運が悪いとしか思えなかった。
鳥籠に入れられるようになったのは、一度目の襲撃の夜。
蜀の諸葛亮が直々に高台にある私の部屋に訪れた。
その頃の私の扱いは未だ軽く、一文官、公子の教育係と言うような位置付けでまだ正体を誰にも証してはいなかった。
自らの正体を人に易々と証す程、私も馬鹿ではない。
諸葛亮が言う。
「司馬懿、貴方はいずれ、私の脅威となるでしょう」
「蜀の諸葛亮、か。どうやって此処まで来た。まさか飛んで来たとでも言うまいな」
曹操殿の側近く、如いては公子の側近くに私の部屋はあった。
警備は厳重で、ましてや高く高く造られたこの屋敷は地上から他人が易々入れる程生易しいものではない。
「飛んで、来ましたよ」
窓辺に腰掛け笑う諸葛亮にも、背に羽根があった。
「貴方とて、そうでしょう」
風の妖。
切り裂くような風が吹き、咄嗟に避ける為に宙に逃げた。
羽根を出した姿を見られてしまった。
「諸葛亮…!」
「人ではないと思っていましたが、まさか天使とは思いもしませんでした」
「この姿を見られたからには逃がさぬ」
「私も貴方を逃がしません」
暫く、部屋の中で重力をものともせず諸葛亮と対峙し如いては殺す為に戦っていた。
だが、騒ぎを嗅ぎ付けた夏侯惇が扉を開けた。
其処で私の正体は知られた。
「何事だ?これは…」
「夏侯惇…将軍」
「その姿は何だ?」
「これは…」
「邪魔が入りましたね。それでは失礼します」
「くっ、待て」
諸葛亮が笑みを浮かべて窓から去っていった。
羽根を痛めた私は地に降り、夏侯惇の前に頭を下げた。
「…人ではなかったか」
「この姿を見られたら…私はもう」
「まぁ、待て。怪我をしているな。手当てが先だ」
「しかし」
「有無は言わせん。お前は孟徳の、如いては曹丕のお気に入りだからな」
「公子には…」
「今は話さないでおくか」
「はい…」
夏侯惇将軍に連れられて、手当てをされ曹操殿に自分の正体を話した。
人に正体を知られたら去らねばならない、と思ったのだが曹操殿はさも当然かのように私の続投を求めた。
「宜しいのですか」
「良い。そんな理由でお主の才を失うのは惜しい」
「…そんな理由…」
曹操殿にとって人でない事など関係ないようだ。
唯才。確か以前そう仰っていたような気がする。
「それに漸く子桓が懐く教育係が見つかった事だしな」
「漸く?」
「子桓は今まで合わぬと言う理由で何人も辞めさせている」
「…そのようなお話は私は初めて聞きますが」
「曹丕が話していないようだな。お前を気に入っているようだぞ」
「…左様、ですか」
それから。
鳥籠の中に入れられるようになった。
私を護る為、という理由は解っていた。
同時に私を逃がさない為、という理由も透けて見えた。
感謝と少しだけの哀愁と。
独り過ごす鳥籠の夜夜はなかなか眠れない日が続いた。
そんな夜夜が続く折、貴方様に正体を見られてしまった。
鳥籠越しに私の手を握る公子。
長く見つめられて目線を逸らした。
離さない、と言われているようで私も抵抗はしなかった。
何より公子が今までになく怒っているように見えた。
夏侯惇将軍から鍵を奪うように公子は鳥籠の所有を求め、曹操殿に了承を得たと言う。
如いては私を奪うように、公子は私を求めていた。
鳥籠の開閉は曹丕様のみが行える。
曹丕様は、鍵を誰かに預けて代理を頼むような事はしなかった。
私と共に鳥籠に入り過ごしてくれた夜もあった。
誰かが居てくれる安心感からか、曹丕様が居るとよく眠れた。
毎夜とは言わずとも、曹丕様は私の鳥籠に泊まるようになった。
始めはよそよそしく礼節を保っていたのだが、次第に曹丕様が居る安心感に心は安らいでいた。
子桓様、と字をお呼びするようになって暫く経ったある夜。
今宵は泊まらぬと子桓様が去った後、鳥籠の鍵が開いている事に気付いた。
今なら出れる。
だが何故か、体が動かなかった。
今なら自由になれると言うのに。
「…子桓様」
わざと鍵を開けて行ったのだろうか。
忘れる筈がない。
此処を出れば自由。
そう思えど、私は籠に留まった。
「父上」
聞き覚えのある声がして、咄嗟に籠の扉を閉めた。
息子である師が、格子から舞うように籠の上に降り立った。
懐かしく輝く白い翼を羽ばたかせて、私によく似た顔をしている。
籠から降り、私の前に跪いて頭を下げる。
「師、此処に来てはならぬとあれほど…」
「父上を取り返すまで、私は諦めません」
「やれやれ…」
そうは言えど。
何か特殊な封がされているのか、物理的に籠を破壊する事は出来ない。
この子は私に逢いたくて此処に来る。
「聞き分けのない子だ…。私は此処からは出れぬ」
「私は父上を捕らえた者を赦しません」
「…お帰り。誰かが来る前に」
「父上、もう少しだけ」
立ち上がり、師は私の手を籠越しに握り締めた。
手の甲に擦り寄るように口付けを落とし、今にも泣きそうな瞳で私を見つめた。
やれ仕方ないと、頬を撫でてやると嬉しそうに目を閉じた。
この子に淋しい思いをさせているのは紛れもなく私だが、そろそろ親離れをしてほしいのも本音ではある。
「夜が明ける。お行き」
「…また来ます」
「来てはならぬと言っているだろうが」
全く聞き分けのない師は朝焼けに消えるように去って行った。
何食わぬ顔をしよう。
昨日は何もなかったと思わせるように。
おそらく、私は試されているのだろう。
此方も好意を利用するつもりだったのだが、すっかりその考えは消え失せてしまった。
何故かは未だ解らない。
子桓様は普段通りに出仕した私に少々驚いたようだが、何処か安堵しているようにも見えた。
いつも通りの一日を過ごした。
毎日見ているとなかなか気付かないが、子桓様が最近私の背丈を追い越しそうだ。
初見では私の腰に埋まるくらいの小ささだった気がしたのだが。
人の成長は早いものだ、と感心しながら己を鏡で見た。
人ではない私は歳を取らない。
ずっと変わらない見目のまま、人の世に居るのは何とも不気味な話だ。
天の使いは勝手に死ぬ事を許されていない。
殺されれば勿論死ぬが、死にかければ本能的に人から精力を奪う力がある。
それは無意識で、自覚して止めない限りその人を殺してしまうだろう。
地に這う人と言うのは、我等から見れば高みの見物の代物。
どうなろうと知った事ではない。
わざわざ私が天以外に仕えるような主たる人も居なかった。
言ってしまえば、今は曹操殿に捕まってしまったから従っているようなものだった。
あの人に、そう言われるまでは。
また鍵が開いている。
夜も更けた深夜。
子桓様は今宵も泊まらないと暫く籠に留まってから自室へ去って行かれた。
其れが淋しいと思うようになったのはいつからか。
こんな感情を私は知らなかった。
「…おや、今夜は鍵が開いているのですね」
聞き覚えのある声がして、振り返った時にはもう遅く矢が放たれた後だった。
咄嗟に身を護る為に翼を広げれば、白羽の矢が悉くに刺さる。
「っ…!」
「おや、逃げないのですか?」
籠の中にうずくまり、翼で体を覆うように身を隠すが、容赦なく至近距離から矢が翼を穿つ。
苦痛に霞む視界で見上げれば、諸葛亮が籠の中に居た。
ぶちぶちと音がして、羽根を毟られている。
此処で声をあげれば誰かが駆けつけて来るだろうが、如いては殿や子桓様に危害が及ぶ。
あの方を危険に晒す訳にはいかない。
私だけが傷付くだけで済むのならその方が良い。
袖を噛み、苦痛を押し殺すと諸葛亮が私の顎を掴んだ。
「…在るべき天にお帰りなさい。貴方が魏に居ると厄介なのです」
「…嫌だ、と言えば?」
「言わせませんよ」
再び羽根を抜かれた。
翼を伝う赤々とした血が床にも滲みていた。
「っ…く…」
「これで貴方はもう飛べません」
「何が、目的だ」
「貴方が魏から離れ、天に還れば其れで良し。悪戯に人の世に関わるべきではありませんよ」
「其れは…お前とて」
「私は主たる方を見つけましたから」
「主…」
「貴方に、そういう人がいますか?」
子桓様。
何故か諸葛亮の問いに無意識にそう答えた自分が居た。
苦痛で歪む視界に、いつの間にか諸葛亮が写らなくなった。
「…忠告しましたからね」
朝焼け。
朝が来れば諸葛亮は人の姿になるようだ。
この屋敷から脱出出来なくなる事を恐れて朝日が昇る前に窓から去っていった。
籠の中にうずくまり、どれくらいそうしていたのか。
私は何故、子桓様と答えたのだろうか。
何故、はやく逢いたいと思うのか。
まさか、私は。
「仲達!」
苦痛にぼやける頭に、子桓様の声が響いた。
ああ、やはり来てくれた…先ずは御挨拶をしなくては。
負傷した体を支えて子桓様は私を抱き締める。
その手は確かに震えていた。
子桓様から直接、敢えて鍵を開けていった旨を聞いた。
私を自由にしたかった気持ちと、私を留めて置きたい気持ちが子桓様に抱き締められて伝わった。
解っていた。
それ以上の言葉は要らなかった。
もう飛べない事、天に仕えない事、私の代わりは幾らでも居る事を伝えると子桓様は本気でお怒りになった。
お前しかいない。
子桓様が私をそう喩えた。
愛している。
そして、子桓様は私にそう言った。
今思えば…貴方から愛していると真っ直ぐな想いを伝えられて少し困ったのは、私も同じ想いだったからなのかもしれない。
直ぐにはお応え出来ず、赤面を隠す為に貴方の胸に縋るように頬を寄せれば、私以上に煩い心音が聞こえて笑った。
この人は本当に私が必要で、今の告白も嘘ではない。
ならば、私も…覚悟を決めよう。
地に、貴方に、墜ちる覚悟を決めた。
天に仕える事を辞め、貴方に仕える事を心に決めた。
勿論、天は赦さない。
天使でない私でも、悪魔になろうとも子桓様は私が良いと言った。
飛び散る羽根に天から見離された事が解り、反動で子桓様の胸に埋まった。
私はもう天使ではない。
「悪魔でも、愛して下さいますか?」
「誓って」
籠を背に、初めて子桓様と唇を合わせた。
私は子桓様のものになった。
子桓様との情事。
怖くて堪らない気持ちを抑えて、大丈夫と繰り返し貴方に伝えた。
貴方をがっかりさせたくなかった。
私の不安を感じ取った子桓様は一度は止めようとしたが、私が留めた。
貴方の想いに応えたい。
貴方からの愛撫にどう反応していいか解らず、己から漏れる嬌声のような声が嫌で、口を掌で抑えていた。
いつの間にか泣いていた私を案ずるように、子桓様が幾度も私に口付ける。
その後に、怖い、と素直な感情を伝えた。
子桓様と繋がった時、快楽よりも苦痛が勝っていたが心は満たされていた。
挿入を繰り返し突き上げられる感覚に慣れなかったが、子桓様がお上手なのか徐々に慣らされていった。
私が果てると同時に、子桓様も私の中に果てる。
注がれる感覚に、もし私が女だったら…なんてぼんやり考えた。
「…抜くぞ」
「もう…」
「ん?」
「もう抜いてしまうのですか…?」
「!」
「せっかく…私と繋がったのに…」
「…誘うな。初めての相手にそんな無体はせぬ」
誘うという言葉の意味が解らなかったが、子桓様は何処か動揺しつつも私から漸く己を引き抜いた。
私の血が混じった子桓様の其れは、私の股を伝い脚に流れていった。
急激な疲労感に、瞼が重くなるが子桓様を見ていたかった。
せっかく鳥籠の外に居るのに。
「子桓様…今宵は、居てくれますか」
「無論。独りにはせぬ」
「はい…」
ずっと独りだったような気がして、子桓様の首に腕を回した。
額に触れるだけの口付けを受ける。
「後は任せよ」
「後…」
「どうした?」
「貴方との名残がなくなるのが口惜しい」
「…誘うな、と言っているだろうに」
「誘う、って何ですか」
「無自覚か貴様」
赤面し、私の胸に埋まる子桓様に首を傾げた。
月が煌々と私達を照らしていた。