仲達を抱き、師を許したあの夜。
力無く余韻に浸る仲達を私に託すと、師は頭を下げて去っていった。
別に私も憎んでいるつもりはない。
ただ仲達にこれ以上触れさせる事はしなかった。
口付け以上は、私が赦さない。
悪魔でも、親子だという線引きはした方が良いだろう。
ただ、私が居なくなったら師に仲達を任せられるだろうか、と何処か遠くで考えていた。
改めて私は人間なのだと思い知る。
戦が落ち着き、父が帰還した。
神妙な面持ちの父であったが、詮索はしなかった。
良く留守を守った、と父に激励を受けた。悪い気はしない。
あれから幾夜か過ぎた夜の事。
部屋に仲達は不在だった。師もいない。
屋敷を出たところ、背後に人の気配を感じ振り返る。
高い屋敷の屋根の上に、悪魔の姿の仲達と天使の姿の師が見えた。
私に対し、二人は背を向けている。
私には気付いていない。
私達以外には人気はなかった。
黒い翼と白い翼が対称的に夜空に映える。
仲達と師は隣り合い、何か話し込んでいるようだ。
暫くして師が仲達の手に口付け、飛び去って行った。
月に照らされた仲達の黒髪が艶々と煌めいている。
暫し見とれていたが、ふわりと香る白檀の香りに傍に行きたいと思った。
「仲達」
「!」
やはり私に気付いていなかったのか、声をかけると漸く仲達が振り返った。
「こんな夜分に…如何されました子桓様」
「私も其方に行きたい」
「危のうございますよ」
「お前が居れば問題ない」
「…畏まりました」
仲達が翼を広げ、私の前に舞い降りた。
私の悪魔はいつもそうして舞い降りる。
私の手を取り、ふわりと仲達が飛び立つ。
僅かな時間を飛行し、屋根に降り立った。
私の手から離れようとする仲達の腕を引き寄せ、唇を合わせた。
面食らったように驚く仲達であったが、抵抗もなく私の口付けに甘んじた。
仲達は何時だって私を許した。
触れる事も、口付けも、情事すら。
命すら全て私のものだと、仲達は全てを差し出した。
故に私も仲達の全てを許した。
唯一、戸惑っている事が一つだけ。
「…子桓様」
「待てと、言うに」
仲達の翼を断ち切り、人に堕とす事。
私は未だ躊躇している。
私が仲達を殺してしまうかもしれないという不安感がどうしても拭えなかった。
人伝に聞いた噂話。
黒き翼を断ち切れば、仲達は人に成れる『かもしれない』
正確な情報ではなかった。
また、人在らざる者達の血肉を喰らえば同じように不老に成れる『かもしれない』
こちらも正確な情報ではないが、権力者が最後に行き着く先は不老不死だと先の時代の皇帝が物語っている。
現に先の時代の皇帝は不老不死に焦がれていた。
そういう者達から、仲達が目を付けられているのかもしれないと思うと背筋がざわめいた。
父が仲達を見出したのは才あってこそだ。
決して血肉を食らう為ではないと信じている。
「…仲達」
「はい」
「ずっとお前の傍に居たい」
私とて不老不死になりたい訳ではない。
仲達を食らうつもりもない。
殺せる筈がない。
今の己にとって仲達がいない世界など考えられなかった。
「子桓様」
「ん…?」
「私の覚悟は出来ています」
「…私の覚悟が足らぬようだ」
「師も、その時は駆けつけると」
「あれから、師と話したのか?」
「はい」
屋根に隣り合い腰を下ろす。
仲達が夜風を遮るように私を翼で包んだ。
話題は暫し師の話になった。
父親に恋焦がれた天使にはあの夜以降、直接は話せていない。
「…師の想いはどうするつもりだ?」
「私はあの子の父親です。今までもこれからもずっと」
「余り疎んでやるな。仲達が父親であるなら…師の想いも解らんでもない」
「全く、誰に似たのだか」
それは間違いなくお前だろうと思ったが口には出さなかった。
仲達が師を子として愛している事は私から見ても充分伝わった。
師は充分に仲達に愛されて育ったのだろう。
「もう一人、息子が居るだろう」
「昭の事ですか?」
「其奴も天使か」
「ええ。私と同様に一部の者にだけ己が何者であるかを明かしています」
「何故」
「人の子に許嫁がいますから」
「ほぅ」
「師は聞かれなければ、誰にも何も話さない子です」
仲達の下の息子が、何処か仲達と重なった。
師に対しては相変わらずだなと思う反面、何処か私に似ているとも思った。
「あの子は師とはまた違い、やれば出来る子なので割と放任しています。私も子離れしなくては」
「…お前は、兄弟の優劣を比べたりせぬのだな」
「どちらも私の息子ですから」
「…やはりお前を選んで良かった」
「何です?」
「いや」
良い父親だ、と素直にそう思った。
別に私の父と比べた訳ではない。
風が出てきた。
私を守るように仲達が翼で風を遮る。
冷たい夜風。
仲達の頬に触れれば冷たい。
長居は無用と思い立ち、屋根から飛び降りる。
踊場に降り立ち、仲達を待った。
屋根の上、仲達は私を見下ろしている。
突然飛び降りた私を案じたのか、私の姿を見つけて安堵し溜息を吐いた。
「御無理召されるな。貴方様は人なのだから」
「余り私を見くびるな」
これくらい造作もない。
仲達は申し訳ありません、と一言謝罪した。
続けて下りようとした仲達を制し腕を広げて待ち構える。
仲達は困惑しつつも制止した。
「あの…」
「良いから、飛び込んで来い」
「私、重いですよ」
「お前を抱き留めたいのだ」
「…もう、恥ずかしい人」
仲達が両手で顔を隠した。
恐らく赤面しているのだろう。
「早く」
「もう…解りましたから」
仲達が観念したようにふわりと飛び降りた。
私の腕に収まる直前に翼や角が結晶のように夜空に弾け消え、仲達は人の姿になり私の胸に埋まった。
そうか。
仲達にとって、私の腕に収まるにはこの翼は邪魔なのだ。
私の首に腕を回す仲達を抱き締め、唇を合わせる。
舌を絡め深く口付けようとも、仲達は私を甘んじて受け入れた。
きゅっと仲達が私を抱き締める腕に力を込める。
唇を離し、暫し見つめれば仲達から唇を合わせられた。
「…貴方が好きなのです」
「知っているが」
「…人の命の短いこと口惜しい」
「不老である命を縮めようとしているのがお前だ」
「…貴方様のいない世界なんて」
仲達は私が思っていた言葉そのままに、同じ言葉を口にした。
仲達の覚悟が伝わった瞬間だった。
「貴方様の居ない世界に、私一人で永久に生きろと仰るのか」
ずっと貴方様のお傍にいたい。
仲達の続けた言葉。
私が先程伝えた言葉。
同時に、私が世界で一番愛しい者に愛されていると確認する事が出来た。
「私がお前を殺してしまうかもしれない、其れが…私は怖い」
「…死しても構いません。貴方様に殺されるなら」
「私の想いを知っていながらふざけるな。それにお前の息子が黙っていない」
「なれば、師にやらせましょうか」
「…それは断る」
仲達を横に抱き上げ私の部屋に連れて行こうとしたが、仲達は首を振り違う方向を指で示した。
その方向に何があるか、私は知っている。
今更、特に用のない部屋だ。
仲達には既に別の部屋を与えている。
「…師があの部屋で待っています」
「謀ったな仲達」
「こうなると思っていましたから」
人気のない回廊。
仲達を抱き寄せ向かうは鳥籠の部屋。
既に使われていない無用の部屋だ。
人の姿の師が鳥籠の前に佇んでいる。
「師」
「お待ちしておりました父上、曹丕様。相変わらずの御様子で」
「妬くか、師」
「大いに」
「ふ…それは私の双剣か」
「はい。滅奏です」
仲達を床に下ろした。
足を着くと、仲達は師から私の滅奏を受け取った。
師は膝をついて頭を下げた。
仲達は師の前に立ったまま振り返らない。
「…私の最期の我が儘です。聞いて下さいますか」
「最期、などと言うな」
私はこの光景を見た事がある。
以前見た夢だ。
あの夢の通りであるのならば、仲達の末路は報われない。
夢と異なるのは、師が居る事だ。
不安になり、仲達の字を呼んだ。
「仲達」
「はい、子桓様」
夢と違い、直ぐに返事が返ってきた。
少しだけ安堵した。
「死なないと、良いのですけれど」
「仲達」
「もし貴方より先に死んでしまったら、ごめんなさい」
夢の中の台詞を復誦するかのように、仲達は双剣を携えて私に向き直った。
双剣を私に託すと、仲達は微動だにせず押し黙っている師に向き直った。
「…翼を断ち切れば、同時に角も爪も砕け消えるでしょう。父上は、人となります」
師は私に向けて言葉を投げ、仲達に向かい目を閉じた。
翼さえ斬り落とさば、仲達は人になると言う。
「師」
「はい、父上」
「最悪、後は任せたぞ」
「最悪など、起こさせませぬ。貴方を決して死なせはしません」
「それは頼もしい」
「…怖くは、ありませんか」
「ない、と言えば嘘になる」
仲達が師を慈しむように抱き締めた。
師の方が身丈が高いので、仲達が抱きすくめられている。
今暫くは、見逃してやることにした。
怖くて、当然だ。
己の翼を断ち切らせるなど、並大抵の精神でどうにかなるものではない。
殺されるかもしれないと言うのに、仲達は酷く穏やかな表情をしていた。
「…御覚悟は、出来ましたか?」
「お前こそ」
師の頬を撫でてから離れ、仲達は私に向き直った。
人の姿を解いて、翼を広げた。
鳥籠の中、二人。
師は外から私達を見守っていた。
「…絶対に、貴方を救います」
師が格子を握り締める。
仲達は師に微笑んだ後、双剣を持つ私の正面に立った。
「私を失う覚悟はお在りですか?」
「ない」
「…ふ」
即答したら、仲達が朗らかに笑った。
優しい笑顔を向けた後、私の首に腕を回し触れるだけの口付けをする。
「そんな貴方だから、私は子桓様を選んだのです」
仲達は直ぐに離れた。
両手は双剣を構えていた為、抱き締める事が出来なかった。
「…覚悟は出来ています。子桓様」
仲達が背を向けて翼を広げ、膝を付いた。
滅奏を構える。
私も覚悟を決めた。
報われない最悪より、先にある時間を信じた。
「赦せ」
瞬時に、滅奏を振った。
黒き羽は斬り落とされ、同時に角や爪も砕け散り、跡形も無く消えた。
ただ唯一。
私が斬った背中は夥しい鮮血を散らし、籠を満たした。
口からも血を吐くも、一言も発さず仲達は前のめりに倒れた。
微動だにせず、ただただ視界が紅に染まった。
「父上!」
「離れろ、師」
師が離れたのを確認した後、凍気を剣に宿すように、氷の刃で鳥籠を斬り刻み壊した。
もう必要ない。
双剣を床に刺し、床に倒れる仲達を抱き上げた。 紅い血は見る間に仲達の蒼い服を染め、紫に滲んでいた。
微かに息をしている仲達に師も駆け寄る。
急激に冷たくなる体温と、重みがなくなる仲達の体に『死』が過ぎる。
仲達は血を吐きながらも、私の腕の中で笑っていた。