夜夜よよ 09

断ち斬られた翼は玻璃が砕けるように消えた。

角も爪も、まるで始めから何もなかったかのように砕け散った。
自分の夥しい鮮血を見た後、嗚呼死ぬかもしれないな…と何処か遠く他人事のように考えていた。

何か言葉を話そうとしても、吐血でむせかえる。

斬られた感覚はあるが、痛みがない。
痛覚が麻痺しているのだろうか。背中が凍てついたように冷たかった。

血だけは止まる事無く流れ出ていた。
襲い来る睡魔は、重い貧血からだろうか。
唇を合わせられる感触にぼんやりと瞼を開いた。

「…死ぬな」

子桓様の唇が血濡れている。
綺麗だと見つめていると
、子桓様が私を抱き上げた。
視界の端に映る師が、私の背の手当てをしている。
背中が冷たいのは、傷口が凍てついているからだった。
そんな事が出来る人を私は一人しか知らない。

繰り返し唇を合わせる子桓様が、単に口付けているのではなく、
私の口内の吐血を取り除いているのだとぼんやりとした頭の端で漸く理解した。

「しか、…さ」
「喋るな」
「っ…だ、…、です」

大丈夫です、と言ったつもりが伝わらなかった。
一度咳払いをしたら、かなり呼吸が楽になった。
内臓が傷付いている訳ではない。
子桓様の蒼い官服は、私の血に濡れて紫色に染まっていた。
嗚呼、勿体無い。

師が目配せをし、子桓様がそっと身を引いた。

「…?」
「父上、あと少しです。
 曹丕様の御前ですが…貴方を救う為、師に口付けをお許し願えますか?」

血に汚れた白い天使は、私の赤黒い手に唇を寄せた。
少しずつ睡魔が襲う感覚に瞼が重い。

「…子桓様、は」
「其れでお前が救われるなら、赦そう」
「父上は…」
「…ん」

子桓様が赦すのなら、私も許す事にした。
元より初めから死ぬつもりはない。
こうなる事は解っていた。

体を起こせない私に代わり、子桓様が私の背を抱いた。
傷口は浅く必要最低限の箇所のみ斬られ、師により止血されている。
やはり私は斬られていたのだ。

私が頷くと、向かい合うように師が翼を閉じて跪き、唇を合わせた。
師の瞳に映る私の瞳の色は紅く、そう言えば私は悪魔だった…と遠く思い出しながら意識を手放した。














涼やかな風が頬を撫でる。
ふわりとした薄絹が体に触れている。

「仲達」

好きな人の声。
柔らかい唇。
口付けられている感触。

「…子桓、さま…」
「…!」

口付けられた後、呟くように字を呼んだ。
ゆっくりと瞼を開くと、泣きそうな笑顔の子桓様が居た。
不思議に思い首を傾げていると、すり寄るように頬を寄せた後、優しく抱き留められた。
どれ程眠っていたのか覚えていないが、寝台の帷の隙間から差し込む光が眩い。

「…漸くお前の声が聞けた…」
「漸く…?そんなに眠っていましたか?」
「今日で何日目だと思っている。もう目覚めないのかと、この私が絶望する程度には日が経っている」
「…?」
「覚えていないか」
「はい」
「…もう、良いのか」
「はい…体に痛みはありません」

子桓様と共に、ゆっくり起き上がる。
よく見れば、此処は私の屋敷だ。
あの夜の視界の端で、子桓様が鳥籠を斬り壊したのを何となく思い出した。
確かに体に痛みはない。

「…私は、人に成れたのですか?」
「ええ」
「!」

子桓様とは別の聞き覚えのある声が答えた。
扉の方を向くと人の姿の師が佇んでいた。

「やはり貴方でしたか」
「私の勝ちだな」

子桓様と師が何やら話しているが、私には何の話なのか解らない。

師は私に歩み寄り、寝台の下に跪く。
子桓様が私から離れ、寝台に腰掛けた。

「私と共に、ずっとお前の身を案じていた」
「…師、近ぅ」
「はい、父上」

師の覇気がないのは、私を救う為、力を尽くしたからだろう。
意識を失う最後の口付けの際、師は私に『愛しています…』と囁いた。
私は何も答える事が出来なかった。

師が私の傍に歩み寄る。
目に見えて疲労しているその様子に、頬を撫でて抱き寄せた。
師は瞼を閉じ、安堵したように私の肩に頬を寄せた。

「父上…」
「苦労をかけた…体は、大事ないか?」
「はい。昭も手伝ってくれましたから」
「昭が?」
「昭とて、父上を失いたくないのです」

めんどくせ、が口癖の昭が私の為に手を貸したと師は言う。
あの子はよく悪態をつくので、正直疎まれているのではないかと思っていたのだが。

「…そうか、あの昭がな」
「お前の次男なら、私の代わりに師と交代でよくお前の面倒を見ていた。
 …意外に涙もろい奴だったな」
「涙もろい?」
「お前が目を覚まさぬと、涙を流していた」
「左様でしたか…私が厳しく当たる為、昭からは疎まれていると思っていたのですが」
「そんな訳ないでしょう」

昭の声がした。
皆さんお揃いで、と昭は笑いながら子桓様に頭を下げ、寝台の前の卓に座った。

「父上、漸くお目覚めで」
「心配をかけた…まさかお前が手を貸すとはな」
「そりゃあ兄上だけに任せてたら、色々ヤバそうな予感がしたんで」
「どういう意味だ」

師がむっとして昭を睨んだ。
ふ、と私と子桓様が笑うと師が顔を逸らし昭が笑った。

「やはり曹丕様でしたか」
「無論だ」
「つまんねーです」
「先程から何の話を?」
「ふっ」

はぐらかされた。
子桓様が先程からずっと上機嫌だ。
師と昭が何故か肩を落としている。
会話から察するに、子桓様に軍配が上がったようだが一体何の事やら私には解らない。
とりあえず、珍しくあの昭が泣いたと言うので次いでに聞いてみる事にした。

「泣いたのか、昭」
「ちょっ、ま…曹丕様!父上に言いましたねっ?!」
「…ふ、ああ」
「もうっ、秘密にして下さいって言ったでしょう」
「別に良いではないか。お前がそれだけ取り乱したのだろう?」
「それは…そうですけど」

子桓様が笑い、昭が恥ずかしそうに顔を背けた。
いつの間にやら、子桓様と昭は仲が良くなっている。
師だけは相変わらずのようだ。

久しぶりに親子揃って過ごせる時間に少なからず心が和らいだ。
子桓様が私の瞳を覗き込む。

「…仲達」
「はい」
「瞳の色が変わったな」
「…?」
「天使の時は蒼、悪魔の時は紅い色をしていたのだが」
「よく見ていらっしゃいますね」
「綺麗な瞳だと常々思っていた。何より、お前の事は私がよく見ている」

今の瞳の色は鳶色だ、と子桓様は仰った。
師が察し、私に手鏡を渡す。
確かに私の瞳の色は鳶色で、私自身を映していた。

「…瞳が何色になろうとも、父上はお変わりなく麗しいです」
「私が言おうとしたのだが」
「っふ…ははは」
「全く、貴方達は」

そもそも私は男なのだが。
子桓様と師が揃って同じような顔で言うものだから、つい可笑しくて笑ってしまった。
昭がやれやれとため息を吐いた。

どうやら、漸く人に成れたようだ。
鳶色の瞳が鏡に映る。
子桓様が好いている黒髪が変わらぬのは幸いだった。

「…仲達、ずっと眠っていたのだ。何か口にしろ」
「そう、ですね。そう言われてみればそうでした」

子桓様が鏡を取り上げて、私の身を引き寄せた。
そう思うと腹が減った。

「何か持ってきましょうか」
「軽い物が良いですね」

昭と師が顔を合わせて頭を下げ、部屋を足早に出て行った。
起きてからずっと賑やかだ。











漸く二人きりになれたような気がする。
やれやれと、寝台の背に凭れようと体を傾けたら子桓様の腕に阻まれた。

「?」
「…良かった」
「何です?」
「…本当にもう、目覚めないのかと」

そのまま、背中から抱き締められる。
振り向かずそのまま大人しく腕の中に収まる。
子桓様の不安は目に見えて解った。

「…死なぬと言ったでしょうに」
「……。」
「淋しかったのですか?」
「…怖かった、な」

私の首筋に沿うように後ろから抱き締められる。
振り返り、私から口付けた。
子桓様が不意打ちに弱いのは知っている。
私は此処に居ると、子桓様に示したかった。

「…この」
「ふふ」

不意打ちの口付けに動揺し、強く抱き締めようとして、子桓様が手を止めた。
私の体を気遣い、躊躇しているのだろう。

「…大丈夫ですよ」
「だが」
「なれば、後程確認して下さいませ」
「…無理はするな」
「してません」
「なれば」

漸く安堵したのか、子桓様が強く抱き締めてくれた。
子桓様の匂いがして、とても懐かしく愛おしい。
やはり私はこの人が大好きだった。




ここ数日私が眠っている間の話を聞いた。
あの夜、私は子桓様に伴われ師に連れられて宮殿に程近い自分の屋敷に戻り、昭に迎えられた。

昭は師から全てを聞き、予め迎え入れる準備をしていたようだ。
私からは昭には何も伝えていないと言うのに、子供達だけで話が進んでいた。
無論、子桓様は関与していない。

いつの間にやら昭に看破されていたようだ。
この鋭さを戦場で生かせれば幸いなのだが、どうにもあの子には厳しく接してしまう。

昭が泣いたと言う話。
長い時の間、目覚めぬ私に師は落胆し、昭は泣いたと言う。

「『このまま父上が目を覚まさないなんて俺は嫌だ』と、お前の枕元で泣いていた」
「…ふ、あの昭が、ですか」
「愛されているではないか」
「漸く、その自信がついたように思います」
「漸く?」
「私が子桓様の元にばかり行くものですから」
「何だ、私のせいか?」
「少なくとも師は、そうでしょうね」
「…ままならぬものよ」

話題の師と昭はまだ来ない。




先程の師と昭と子桓様の会話。
思い出して整理してみても、やはり私にだけ解らない話のようだ。
釈然としないので思い切って聞いてみる事にした。

「師と昭と、何の話をしていたのですか?」
「ああ…お前に言うと絶対に怒りそうだから話さないでおこうかと」
「何ですか」
「話さぬと言っているだろうが」

にやつきながら言われても何の説得力もない。
これは何が何でも聞かねば、と言う気になってきた。
頭ごなしに問い詰めても、きっとこの人は話してくれないだろう。
昔からそうだった。

「…嫌いになりますから」
「!…待て」
「もう嫌いです」
「待てと言うに」

目を閉じて顔を背け、立ち上がる素振りを見せたら子桓様は直ぐに私を引き止めた。
手を強く握り、私をまた引き寄せ背中から抱き締められた。

「怒るなよ」
「話しなさい」
「…っく」

眉を動かさず笑うと、絶対に怒るなよ、と子桓様は罰が悪そうに話し始めた。






「…は?」
「だから、口付けていたと」
「馬鹿ですか貴方は…」
「主君に馬鹿と言うな」

甄姫様からの入れ知恵で、子桓様は寝覚めの口付けを試していたと言う。
確かに子桓様は公子、立場上は王子様だ。

「『お姫様は王子様の口付けで目覚める』と、甄が」
「誰がお姫様ですか」
「仲達」
「馬鹿めがっ」

素で馬鹿と口走ったが本当に呆れる。
愚直に御伽噺を信じ、実践する様子を想像したが似合わなくて笑った。

「…それでな」
「まだ続きがあるのですか?」
「私の話を聞いて、師と昭も実践した」
「はっ…?!」
「それで誰が仲達を目覚めさせるかと言う話に」
「…全く、もう」

漸く話が繋がった。
別に子供達と幼い頃に口付けくらいはしているが、人を勝負事に使わないでほしい。
呆れて溜息を吐いていると、後ろから不意に口付けをされた。

「嫌いになったか?」
「揃いも揃って何をしているのやら」

また口付けをされそうになって、次は避けた。
避けられるとは思っていなかったのか、子桓様は面食らっている。

「…口付け、させろ」
「嫌です。私の唇はそんなに安くありません」
「悪かったと言うに」

普段以上に触れ謝罪を乞う子桓様であったが、どうにも仕返しに苛めたくなった。
振り返り、子桓様の唇に人差し指を当てる。

「なれば償いとして、本日はもう口付けられませぬよう」
「私に死ねと申すか」
「そんな事で死なないで下さい」
「いや、死ぬ」

不服、とばかりに子桓様が顔をしかめたが二人分の足音がして離れた。


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