小指に銀の指輪が光る。
約束の指、恋人の指。
仲達とようやく恋人になれた。
その証は二人だけの秘密としよう。
「…淋しがりや、め」
仲達は己が私の何であるのかずっと悩んでいた様子だった。
その不安が小指の指輪で解消されたのか、仲達は擦り寄る。
証が欲しかったのだろう。
もっと早く渡してやればよかった。
全く誰に似た?と問えば、おそらくは貴方様に、と仲達は答えた。
静かに涙を流す仲達を胸に埋めて、背中に腕をまわした。
ずっとこうして居たかったのだ。
主従と言わず。
公子と軍師と言わず。
ただ、曹丕と司馬懿で在り、子桓と、仲達と、字で呼び合い。
ずっと恋人で在りたいと想っていた。
時間の許すかぎり、仲達と共にありたいと。
その気持ちが私だけではないと気付いた時には、もう自分の気持ちに嘘をつくことは出来なかった。
同時に沸き起こる感情。
仲達が傍にいるだけで幸福感に満たされた。
そして今も。
これが恋なのだと、人を愛することなのだと仲達から直々に教わる事が出来た。
私の師父、私の軍師。
仲達は取り返しがつかなくなる、と主従の線だけは絶対に超えようとしなかった。
初めて口付けた時も、初めて私に抱かれた夜も仲達は主従であることを忘れなかったのだと。
仲達の最後の矜持。
それを今、私が取り払った。
私が仲達を堕としいれたのだとすればそうなる。
誓いを結んだ。
恋人であると、共に生きると。
小指の指輪に私の想いをひとしきりに込めて。
「ひとつ、お聞きしても…」
「何だ」
「子桓様は何故、私だったのですか?」
「さて、な。誰よりもお前が傍に居たからだろうか。いずれにせよ…私が仲達に堕ちる事は容易に想像がついていた」
「またそのような事を…」
「お前だけだ。仲達だけが唯一私を悩ませる」
全く大した奴よ、と額に唇を落とすと仲達は甘んじて目を閉じた。
握っていた仲達の左手は、さらさらとして温かかった。
眠いのだろう。
昨晩を思い出し、胸がざわめく。
「姫君」
「も、もう私は姫君ではありませぬ」
「ふっ、よく似合っていた」
「っ…忘れてくださいませ」
「桜桃」
「子桓様っ」
「ふ、愛いな仲達」
頬を赤らめて怒る姿が可愛らしく、思わず虐めたくなる。
愛しい、と仲達に唇を合わせる。
触れるだけのつもりが、いつの間にか深く交わるようになっていた。
私の首に腕をまわし、自ら求めてくる仲達に応えた。
堕ちたのは私だ。
唇を離す時には、互いに吐息も体も熱くなっていた。
心も体も互いに知り尽くしている。おそらく考えている事は子桓様も同じ。
子桓様が擦り寄れば、私の体に当たるものがあった。
男であるなら是非も無い。
「…仲達」
「此処では、駄目です…」
子桓様の吐息が色付く。
せめて此処では嫌だと首を横に振った。
「…まだ執務もございます。子桓様もまだ途中でしょう」
「私は今、お前を抱きたいと言うに」
はっきりとした物言いが恥ずかしい。
解ってはいたがこうもはっきりと言われると私も流されてしまいそうになる。
主従の線を超えて来た貴方はとても可愛いらしい。
だが公私の区別はつけなければ。
「堪えられませ…私も手伝いますから」
「ちっ、なれば即刻終わらせてくれる」
子桓様が私の手を取り、引っ張るように先に歩いた。
何だか子供の頃の子桓様のようで、笑いながら後に続いた。
執務室。
靴を脱いで、卓の前に座った。
子桓様と向かい合わせの席で残った書簡を片していく。
ほとんどは判を押せば終わるようなものばかりだった。
私が書簡に書き記し、子桓様が判を押す。それの繰り返し。
今日ばかりはやたら子桓様が執務に集中されている気がする。
「珍しいですね。貴方様がそんなに集中されるなど」
「…これが終われば褒美が待っているからな」
「褒美?」
「お前だ、仲達」
「…っ」
とんとん、と指で机を弾く子桓様はどこと無く落ち着かない様子で、その理由すら私のせいであると言い放つその表情に顔が熱くなる。
なんて優しい顔で笑うのだろう。
他人にこのような表情を見せたことがあっただろうか。
「あと幾つだ」
「あと二つ、です」
「一つ寄越せ」
残り二つの書簡の内の一つを子桓様が取り上げ、間もなく執務は全て片がついた。
盆に書簡を乗せ、提出すべく靴を履いた。
子桓様が私の左手を取る。
小指に口付けられた。
「…帰りは私の部屋に来い」
「は、い…」
「どうした?」
「…このような昼の刻限からそのような…昨晩もあれほど…」
昨晩を思い出して頬が熱くなった。
子桓様から目を反らす。
今のは地雷だった気がする。
「ふ、待っている」
掌に口付けを落とされて執務室を後にした。
ああ、もう。
かつかつと回廊を歩く。
文官たちに終えた書簡を渡して足早に部屋を後にした。
どうして、こんなに。
「顔が赤いですよ?」
柱に寄り掛かり額をつけ立ち止まっていたら後ろから話しかけられた。
声からして張コウだろう。
振り向けば、当たった。
「そう、見えるか」
「ええ、何だか恋をしている女性のような」
「私を女に例えるのはやめろ」
「だって司馬懿殿が美しいのですもの」
張コウからの『美しい』はもう聞き飽きた。
ただ、子桓様からは。
ああ、何故何かにつけてあの方が出て来るのだ!
「指輪をいただいたのですか?」
「ああ…」
「左手の小指の指輪の意味を解っておられますか?」
「ん?どういう意味だ」
約束の指輪、と言われただけで深い意味は知らない。
というか、その手の事柄はよく知らぬ。
「指輪をよく見せてくださいませ」
「ああ…」
張コウに左手を取られて、小指の指輪をまじまじと見られた。
にこっ、と笑う張コウ。
「…曹丕殿、ですか?」
「あ、ああ…そうだが…何故?」
「すごく司馬懿殿が大切なのですね」
羨ましいです、と張コウが呟いた。
この小さな指輪にどれ程の意味があるというのだろう。
「鈍感な司馬懿殿に、曹丕殿が小指の指輪に込められた想いを教えて差し上げましょう」
鈍感、と言われて多少苛立ちはしたがその通りなので何も言えなかった。
「小指は約束の指。誓いの指。小指に指輪を贈られると言うことは…司馬懿殿に何かを誓ったのでしょう」
「…ああ」
「それと小指の指輪は御守りの意味もあります。指輪に彫られた朱雀は魏の象徴。魏が貴方を護るようにと、願いがこめられているのでしょうね」
「………」
「そして恋人の指です。けして婚約の証である薬指には敵わない、好きな人がいる証。ちょっと切ないですね」
切なく片想いの恋をする方の指輪です、と張コウは言った。
「そんな意味が…」
「司馬懿殿は気付いていなかったのですか?」
「何がだ」
「曹丕殿は、薬指に指輪を嵌める前からずっと小指に指輪をされていましたよ」
「…そんな…馬鹿な…」
「司馬懿殿が気付かなかっただけですよ」
「つまり、それは」
ずっと昔からあの方に想われていた、と張コウに言われてから気付いた。
あの方の想いの大きさに顔が熱くなる。
「私の前では…嵌めていなかったはずだが…」
「司馬懿殿には秘密だったのでは?」
「どうしてそんな…」
「『叶わぬ恋』だと想っていたのでしょう」
「……」
「で、どうなんです?『叶わぬ恋』なのですか?」
「それは」
「後ろの方に、直接お話して下さいませ」
「後ろ?」
張コウに掌で後ろを指されて、振り返った。
「遅い」
なかなか来ないと思い、回廊を出歩けば案の定仲達は張コウに捕まっていた。
振り向く仲達の顔が真っ赤だった。
「?、どうした仲達」
「あ、あの、その、これは」
「司馬懿殿、私はこれで。曹丕殿、お邪魔致しました」
「ああ」
張コウが一礼し、ひらひらと舞うように去って行った。
仲達は固まったまま動かない。
「おい、仲達?」
「は、はい」
「…どうしたのだ?」
何故そんな泣きそうな顔なんだ。それに顔が赤い。真っ赤だ。
仲達の肩を持ち、回廊を歩いた。静々と仲達も歩く。
暫く歩いて、肩を持っていた腕を仲達に振り払われた。
嫌なのか、と少し淋しく思っていたら不意に仲達から腕を組まれる。
まるで恋人のようだ。
「仲達?」
「このまま…連れて行って下さいませ」
「良いのか、これで」
「っ…良いのです」
張コウに何か言われたのか知らんが、仲達から腕を組まれるとは思ってもいなかったので素直に嬉しい。
そのまま仲達は縋るように私の方に身を寄せた。
「どうした?何かあったのか」
「何かも何も、もう…ああ、もう…貴方という方は…」
「何だと言うのだ」
部屋についた。
少し日が傾いたのか西日が部屋に差し込む。
扉を閉めて、窓辺に立ち薄絹の帳を下ろした。
西日はぼんやりと優しい光になった。
横にいる仲達を見る。
びく、と震えた。
「先程からどうしたというのだ」
寝台に腰をかければ、窓辺からの風が帳を撫でてふわふわと靡いた。
風が心地好い。
おいでと手を伸ばせば、仲達が私に飛び込むように寝台になだれ込んだ。
仲達の冠が床に落ちた。
「お、い」
「何故、何故もっと早く」
「仲達?」
見上げて仲達の顔を見れば、流れた黒髪でよく見えない。
その前髪を撫でて指ではらえば、ぽろぽろと私の顔に雫が落ちた。
「仲達…?」
「私は言われなければ解らないのです。ごめんなさい…貴方の想いを…知ってしまいました」
「想い?」
「小指の指輪」
「ああ…教えて貰ったのか」
仲達は情緒だの、色恋だのの話しには特別疎い。
鈍感なのをいいことに、深い意味を伝えず指輪を託した。
お前が持っているだけで私は満たされたのに、まさか深い意味まで知られるとは。
「…ずっと好きだった、お前が」
「はい…」
「叶わぬ恋、だと思っていた」
「…私もずっとそう想って…」
「!…馬鹿者…今更そんな事…」
幸せすぎてどうにかなりそうだ。
ずっと片想いではなかったのだと、今知った。
ぽろぽろと涙を流す仲達が綺麗だと、頬に触れる。
「両想いなら、何をしたらいい?」
「子桓様の…お好きなように…」
仲達が涙を零しながら柔らかく笑って、私に口付けた。