桜桃おうとう 01

執務が片付いたところで、卓に筆を置いた。
肩をポキポキと鳴らすと扉を叩く音。
珍しい来客。

「失礼します。ああ…ようやく司馬懿殿を見つけることが出来ました♪」
「ようやくも何も今朝からずっと此処にいるが」
「ずっと外に居たもので」

珍しく張コウが執務室に訪れた。何か飲茶らしきものが見える。

「お疲れ様です。執務は終わりました?」
「今しがた終わったが…何だ」
「私とお茶しませんか♪」
「構わぬが。ほぅ、で…お前が入れてくれるのか」

張コウが私の返事を聞くなり、茶器を用意する。
やれやれと冠を脱いで、靴を脱ぎ寛いだ。

「はい、どうぞ」
「よい頃合いに来た。昼食がまだだったので助かる。礼を言う」
「いえいえ♪それは良かった」

点心はいくつかあるようなので、昼食を食べるのを忘れていた事を思い出し肉まんを手に取った。

「今日はお一人ですか?曹丕殿は?」
「留守だ。殿に呼ばれたとか何とか」
「おや、司馬懿殿を置いて行かれるとは珍しい」
「執務がたまっている故、私が断ったのだ」

入れてくれた茶を啜る。
張コウがにこりとして笑う。

「して、私に何か用事でも」
「別に何も」
「は?」
「私だってたまには司馬懿殿に構って欲しいんですよ~?」

プリプリと拗ねるそぶりを見せながら張コウが微笑んだ。
自分より年長の将軍が見せる幼いそぶりに苦笑しながら茶を啜った。美味い。

「司馬懿殿、司馬懿殿」
「今度は何だ」
「桜桃食べます?」

張コウが手にしているのは桜桃だった。
ひとつ摘んで食べる。
この時期の桜桃は甘く、疲労した体に果物の甘さが染み渡る。
あの方も葡萄がお好きなので、よく分けて貰う事を思い出しつつ二つ目を口に入れた。

「これ出来ます?」
「桜桃の茎が何だと言うのだ?」
「もし司馬懿殿が出来なかったら、一日私のお願いを聞いて下さいね♪」
「おい、ちょっと待て何の話…」
「見てて下さいね~」

いきなり理不尽なお願いをされ、解せぬまま張コウが桜桃の茎を口に含んだ。

「?」
「はい、出来ました♪」
「!?」

舌の上に乗った桜桃の茎は、先程まで何もなかったのにいつの間にか結ばれていた。
皿に置かれた片結びの桜桃の茎をまじまじと見る。

「…どうやったのだ?」
「舌で結びました♪」
「これを私にやれと?」
「出来なかったら私のお願いを一日聞いて下さいね♪」
「う…やってやろうではないか」
「さすが司馬懿殿♪」
「…ただし、あの方を裏切るような行為だけは出来ぬ」
「解ってますとも」

名前を出さずとも張コウには事情が解っているようで安堵する。
いくら賭けに負けた罰でもあの方を怒らせるようなことだけはしたくない。

しかし、舌で結ぶなどどうやったのか皆目検討が付かない。

桜桃の茎を口に含む。
暫くいろいろやってみたが、やはり私には出来そうにない。

「…でき…」
「出来なかったら今日一日、女装して下さいね♪」
「?!」

割とろくでもない張コウの願望を聞き、何とか結ぼうと舌で転がすが進展はない。

「くっ…」
「素直に出来ないと認めたらよろしいのに」
「認めてたまるか!」

ただでさえ普段から女のような理不尽な扱いをされているというのに女装など、拍車をかけるようなものだ。
半ばヤケになって試みたがやはり無理だった。
茎を皿に置いて、机に突っ伏した。

「…何故、よりにもよって女装なんだ…」
「ふふ、私の勝ちですね♪」
「何故お前は出来るのだ?」
「これはちょっとしたコツがいるんですよ。あと、これが出来る方は口付けが上手な方なんですって」
「はぁ…」
「試してみます?」
「け、結構だ」
「ふふ、冗談ですよ。あの方にバレたら無事じゃ済みませんからね」
「…っ」

張コウに顎を掴まれ上を向けられ口付けされそうになり、慌てて離れた。
解せぬ事だが、魏内では我らの主従の『関係』はあの方のせいで広まっているらしい。
私としては秘密にしておきたいことなのだが、甄姫様にもどうやら話がいっているようで内心気が気ではない。
特に何も言われていない故に気になる。

「さて…女装ですね」
「くっ…!」
「私がそれはそれはとても美しくして差し上げます」
「…もう好きにしてくれ」

もう諦めた。
こうなったらどうにでもなれ。

飲茶を食べ終えて、張コウに手を引かれて執務室から移動する。
入れ違いのように、子桓様が戻ったとの報告が入った。

張コウの私室に入る。
綺麗に整頓され、片付いてはいるが何だかきらびやかで見ていて眩しい。
まずこれは男の部屋ではない。

「…何処から女装させますかね。とりあえず脱いで下さいませ♪」
「屈辱だ…」
「まあまあ♪」

紫色の朝服を脱ぐと、直ぐに女物らしいゆったりとした服を着せられた。
胸を詰められて息苦しい。
女性の胸のようなものが出来た。複雑過ぎる。

「司馬懿殿は…甄姫様のような妖艶な感じではなくて、文姫殿のような清楚な感じが良いですね」

髪紐を解かれて、櫛でとかす張コウの慣れた仕草。
あーでもないこーでもないと張コウがいろいろ私に着せては思案している。
遊ばれている気がしたがそこは堪えた。

「失礼。張コウ将軍はいらっしゃる?」

聞き慣れた女性の声に、はっとして振り返ると扉に甄姫様が立っていた。

「あら、随分と楽しそうな事をしていらっしゃるのね」
「これは甄姫様」
「…し、甄姫様?!」
「私もまぜなさい。将軍、司馬懿殿でしたらこの色の方が。貸して御覧なさい」
「成る程。流石ですね」
「は?…えっ」
「大人しくなさいね、司馬懿殿」
「…はい」

甄姫様に目を閉じるよう命じられて、目を閉じた。
何やら顔にいろいろ塗られているような…。

「睫毛の長いこと。羨ましいですわ」
「そのような事は…」
「目をお開けになって?」

甄姫様に頬に触れられ、目を開ける。
張コウは満悦といった心地で笑い、甄姫様は満足げだ。

「…?あの」
「まるで何処からかやってきた姫君のようですね♪」
「私達の腕と、元が良いからかしら?」
「??」

解らない、と困っていると張コウが鏡を私に向けた。
そこに映っていた私の姿からは普段の面影が消え失せ、自分で見てもまるで女のようで何だか落ち込み溜息をついた。
流した黒髪だけが、以前のままの形を成していた。

「髪は私にお任せ下さいね♪」

張コウが櫛で手際よくとかしていく。
何だか頭が重い。

「靴は…平らな物がいいですわね」
「下半身が…寒いのですが…」
「我慢なさい」
「はい…」
「指を見せて下さる?」
「はぁ…」
「このままではまだ男の手ですわね。これをはめれば少しは角張りがごまかせるかしら?」

中指に紐を通され、手を覆う刺繍された布をまかれる。
手は指先しか出ない。

「ところで何故、女装ですの?」
「散々私にいろいろしておいて…今更それを聞きますか」
「私が司馬懿殿との勝負に勝ったのでお願いしたのです♪」
「くっ…!」
「どんな勝負でしたの?」

張コウが私の髪をとかしながら自慢げに甄姫様に話していた。
甄姫様は笑って、私の顎を手で掴んだ。

「それくらい、私とて出来ましてよ」
「!」
「我が君も出来ますわ。そういえば先程帰還されましたわよ」

さすがこの夫婦である。
ということはつまり…頬が熱くなり考えるのを止めた。

「…今日はもうお会いする事は敵いませぬ」
「せっかく女装なさったのに?」
「も、元々不本意だ馬鹿めがっ」
「ねぇ、司馬懿殿。私からのお願いも聞いて下さる?」
「え…」
「聞いて下さる?」
「は…い…」

この方に凄まれたら基本的に勝てない。
そもそも身分が上の方なのだから当たり前なのだが。

「今日一日、その姿で我が君にお会いなさい」
「はっ?!」
「ああ、でも話しては駄目よ?司馬懿殿だと正体が解ってしまいますわ」
「私のお知り合いの姫君、と言う事に致しましょうか。司馬懿殿は元々名家の御出身ですし」
「そんなことは」
「一日限りの姫君を演じなさい。ただ話しては駄目よ?口が効けないことにしておきなさい」
「はぁ…」
「それに、曹丕様と居る事で『司馬懿殿』でないお話しが聞けるかもしれませんよ?」
「……。」

自分でありながら自分でない姿に戸惑いつつも、一日という期限もあって直ぐに脱ぐ事は出来ない。
自分でいながら自分ではないというのなら、客観的に話を聞く事も可能だろう。

あの方の考えを『司馬懿』ではない立ち位置で聞いてみたい。
ほんの少しだけ、私が不安になっている部分もある。

「筆談で…構わないのでしたら…」
「では私が貴方を曹丕殿の所までお連れ致しましょうか♪」
「…暫く話せぬゆえ傍に居てほしい」
「ああ、司馬懿殿にそのお姿でそう言われると…恋に堕ちてしまいそうですね」
「何を馬鹿な」

張コウは紳士的に私の手を取り、先導して歩く。
甄姫様が私の肩にふわりとした布を巻いた。

「?」
「これだけはいつもの貴方の白檀の香りをつけておきましたわ。我が君は気付くかしら?」
「気付かないように振る舞えばよろしいのでしょう」
「私は後で結果を聞こうかしら。張コウ将軍、しっかりと傍について差し上げて」
「御意。勿論です♪」
「では…また後程」
「ふふ、愉しみにしていますわ」

部屋を出て張コウの後ろにしがみつくように歩く。
正直、姿が変わっているとはいえ余り見られたくはない。
張コウは楽しくて仕方ないようだが、私は歩きづらくてならない。

不安を両手いっぱいに抱えて、あの方の元へ。










仲達が執務を終えて先に帰宅したというので、何となしに中庭の庭園内で詩作に耽っていた。

閉じた瞼に思い浮かぶのは紫紺の衣の我が軍師。
気付いたら恋歌ばかり書いていた。

ふと、白檀の香り。
仲達の普段使っている香の香りがした。

仲達かと思い顔を上げると、黒髪の長髪をふんわりと肩に流した薄い紫の衣の美しい女性が立っていた。
雰囲気は仲達に似ている。切れ長の瞳がこちらを見た。

何だか不安そうに私を見つめるので、優しく声をかけた。

「如何された、姫君」

その女性は困ったように横を向いた。私を見て頬を染め口元を袖で隠した。
少し離れたところに張コウが居ることに気付く。

「何だ、居たのか」
「こんにちは、曹丕殿」
「この姫君はお前の知り合いか」
「そんなところです。ただいま宮中を御案内中でして♪」
「姫君、名は」

姫君は喉元をおさえて首を横に振った。

「耳は聞こえておりますが、お話が出来ない方なのです。御容赦下さいませ」
「こんな美しいのに勿体ない。天は残酷だな」
「筆談ならば出来ますよ」
「ほぅ」

張コウが携帯用の筆と、書簡を姫君に渡した。
姫君がそれを受け取り、慣れた手つきですらすらと何か書いている。

『お初にお目にかかります曹丕様。お忍びで宮中に参ったもので名は明かせません。御無礼をお許し下さいませ』

書簡にはそう書かれていた。


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