次に目が覚めた時、腕の中に居た筈の仲達がいなかった。
もう少しだけこのまま、と言った当人はどうやら忙しいらしい。
私の着替えを用意した上に、執務室にいますと書き置きを残して先にいなくなってしまった。
温もりの名残に寂しさを感じながら服を着替え、先ずは父に報告するべく父の元に向かった。
私の姿を見るなり、父は笑って私の肩を叩いた。
「戻ったようだな」
「はい。父をはじめ皆に御迷惑をお掛け致しました」
「否、戻れて良かったではないか」
「申し訳ありません」
「子桓」
「はい」
「食事でもせぬか」
「え?」
「嫌か」
「いえ、ただ」
珍しい事もあるものだ。
そう口には出さなかったのだが、顔に出ていたらしく父に笑われた。
結局、朝餉を共にする事にした。
父の傍に夏侯惇や郭嘉がいない。
私の傍に仲達がいない。
お互い供を連れず、親子二人きりで話すのは久しぶりだった。
朝餉を食べながら久しぶりに父と色々な話をした。
主な話題は私が幼い昔の話。
父は戦に明け暮れ、各地を転戦していた為に殆ど幼い頃の私を知らぬという。
ただ、ひとつ。
「お主の寝顔だけはよく覚えている」
「…っ、な」
「起きている時に会えなかったのでな」
「そう、ですか」
「仲達仲達と、よく司馬懿に懐いているものだと思ったが変わらぬようだな」
「変わりませぬ…か」
「大きくなった」
儂を易々と抜かしおって、と父は苦笑した。
久しぶりに話したが、父はやはり父で、私はこの人の前では子供なのだろう。
正直、頭が上がらない。
私が茶を飲む横で、父が蜜柑を食べている。
私の果物好きはこの人似なのかもしれないが、私はそんなに蜜柑は好きじゃない。
「食べるか?」
「…たまにしか甘いのがないので結構です」
「それが良いのではないか」
「…ふ」
「?」
「お主らそろそろ出て来たらどうだ」
父とは違う聞き慣れた声に振り向くと、夏侯惇と郭嘉と仲達が後ろに立っていた。
「お主ら、ずっと隠れておったな?」
「俺はたまたまだ」
「殿にしては、父親をしているところなんて珍しい事もあるなと思いまして」
「微笑ましいと思い、傍で見ており話しかける機を逃しました。お許しを」
仲達が頭を下げる。
父は別に良いと手を振った。
夏侯惇と郭嘉は父に話があるらしく、書簡を交えて話し合いがはじまってしまった。
振り向けば仲達がそっと私の傍に侍っていた。
「…よく眠れましたか?」
「否、目覚めたらお前が居なくて寒かった」
「…それは…その」
「何か理由でもあるのか」
「改めて…その、恥ずかしかったのです」
「何が」
「先生に何したの?」
話し合いに興じていた筈の郭嘉が仲達のすぐ横に来ていた。
赤面し顔を逸らす仲達の耳元で、郭嘉が何か囁いている。
「…っ…!」
「で、小さな曹丕殿と何をしたの?」
「ち、違…っあれは」
「余り私のものを苛めてくれるな」
大方昨日の出来事が郭嘉の耳に入っているのかもしれないが、仲達に言わせる気はない。
そのような辱めをさせるものか。
仲達を引き離すように立ち上がり背に庇うと郭嘉は笑った。
「先生の事が大好きなんだね」
「異論はない」
「!」
「はは、小さな君から変わってないね。きっと先生の気持ちも変わってないんじゃないかな?」
「…私」
「ちょっとそこの軍師さん、そろそろお仕事してくれませんかねぇ?」
「げっ」
仲達の言葉は、皮肉を含めた口調の声が遮った。
郭嘉と仲達が声の方向へ振り向くと、賈クが書簡を肘に挟んで歩いて来ていた。
郭嘉が賈クを見るなり逃げた。
父と私と夏侯惇に頭を下げ、父の背中に逃げた郭嘉を賈クが捕まえる。
どうやら郭嘉は抜け出して来ていたらしい。
「あーあ、見つかっちゃった」
「お忙しいのでしたら私も」
「…ああ、あんたはいいよ。曹丕殿の所に居てあげなよ」
ふてくされる郭嘉に仲達が手伝いを申し出たが、賈クが私をちらりと見た後にやんわりと断った。
私が仲達を引き止めて執務を妨げているのなら悪いと賈クに話しかけようとしたが、
賈クは唇の前で指を立てて首を小さく横に振った。
「私では、役不足ですか」
「違う違う。あんたはまだ教育係の先生でいなよって言ってんのさ」
「何故?」
「今朝から郭嘉殿がさぼりすぎで、司馬懿殿が働き過ぎだから」
「はぁ…」
「まぁ、あんたは気にしなさんな。曹丕殿を頼みますよ」
賈クは仲達の肩を叩いて郭嘉を引っ張っていった。
どうやら気を利かせてくれたらしい。
父と夏侯惇が、ほぅ…と感嘆の声をあげていた。
仲達だけが首を傾げている。どうやら気がついていないようだ。
「私そんなにさぼってないと思うけど?」
「じゃあ何で処理待ちの書簡が山になってんですかねぇ?」
「綺麗な女性が目の前にいたら話しかけないと失礼じゃない?」
「あんたは女中の仕事の邪魔しないの」
部屋から出る郭嘉と賈クの会話が聞こえて笑う。
仲達が進み出て袖に手を入れ、改めて父と夏侯惇に頭を下げた。
「…室に戻ります故」
「ああ」
「子桓を頼んだ」
「ですが、執務もあるでしょうし」
「儂はまだ教育係の任を解いたつもりはないが?」
「!」
「…孟徳」
父の言葉はつまり、仲達に休暇をくれてやるような意味合いなのだろう。
仲達が目を見開いていた。
夏侯惇が父の肩を叩いたが、父は構わぬと夏侯惇に視線を合わせた。
夏侯惇が溜息を吐き、仲達の背と私の肩を叩く。
「ほら、さっさと行け」
「元に戻ったばかりで何かと自由が利かぬ事もあろう。子桓は任せた」
「御意。…殿、ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
「父よ…次は葡萄を持って行きます」
「!…ああ、そうだな」
夏侯惇に背を叩かれ、父とまたこのような機会があればと声をかけた後に仲達と部屋を退室した。
何だかんだと小言を言いながら夏侯惇も笑っていた。
二人で回廊を歩く。
三歩後ろを歩く仲達に振り返った。
やはり身丈は元に戻っていて、仲達の背丈は私よりも小さい。
私の視線に気付いた仲達は私を見上げて首を傾げた。
「寒い」
「?」
そう一言呟き仲達の横に立ち、私に腕を組ませた。
最初仲達は戸惑うような仕草を見せたが、次第に自ずと仲達から腕を掴んでくれた。
「寒いのですか?」
「寒い」
「私とて寒いです」
室に着き、扉を閉めた。
仲達の背を扉に押し付けるようにして唇を合わせた。
私より少し小さい身丈の仲達の唇に合わせるように屈み、舌を絡め深く口付ける。
漸くこの身丈で口付ける事が出来た。
首筋に触れようとしたら仲達に手を握られる。
私の手は凍えて冷たくなっており、袖の中に入れて歩いていた仲達の手は温かかった。
「温かいな」
「このように冷えて」
「…仲達」
仲達を胸に埋めるように抱き締めて、少し腕に力を込めた。
肩口に埋まる仲達が私に擦り寄るように頬を寄せる。
「何です?」
「…改めて、約束を果たそう。ただいま」
「はい…おかえりなさい子桓様」
「すまない。私はお前に多大に迷惑をかけてしまった」
「迷惑だと思っていません。お気になさらず」
「…無体も強いてしまったな」
「あ、あれは…」
「郭嘉に何ぞ言われたか」
頬を撫で口付けると、くすぐったそうに仲達は笑った。
茶を入れます、と仲達は炉の前に座り茶器を出して準備をはじめた。
邪魔にはならぬよう腰に腕を回し、仲達を後ろから抱き締めて肩口に埋まった。
腹の前で指を組むと仲達が振り返った。
「何です?今日も甘えたがりですね」
「甘えていいと、言ったではないか」
「随分と大きな子供ですこと」
「…嫌か?」
「いいえ。どうかそのままで…私にだけ甘えて下さいませ」
ゆるりと仲達が笑う。
その頬に擦り寄り唇を寄せて、変わらないで居てくれる仲達にありがとうと伝えた。
茶を煎れる手が止まり、仲達が振り向く。
「元に戻られたあなたに言うのは失礼かと思ったのですが、言わせて下さいますか?」
「何だ」
「…変わらないのですね。本当に可愛らしい人」
「……?」
「改めて、あなたの成長を感じます」
首を傾げていると仲達はまた笑い、子供をあやすように私の頬を撫でた。
仲達の手の温かさに目を瞑る。
「仲達…」
「はい。あなたの傍にいますよ」
「ずっと…仲達が好きだ。愛している…」
「はい。知っていますよ」
「ん…」
温もりに安堵し子供のように擦り寄る私を連れて、仲達は背もたれのある大きな長椅子まで私を誘った。
靴を脱いで上がり、仲達の隣に座る。
仲達が茶を煎れてくれていた。
仲達は静かに隣に寄り添い、私に茶器を渡す。
今度は仲達から擦り寄るようにして空いた私の手に掌を重ねた。
「本当に…大きく、なりましたね。あんなに小さかったのに」
「元に戻っただけだ」
「元に、と言うよりも…以前よりひどくなっている気がします」
「何がひどい」
「以前よりも私に依存しておりませぬか」
「しているな」
「…全くもう。いくつになられたと言うのです」
「二十七」
知っていますよ、と一回り年上の仲達は苦笑し私と手の大きさを比べていた。
仲達の手は私よりも一回りほど小さい。
細くすらりとした白い手は温かく、握り締めると握り返してくれた。
仲達は冠を外し、髪紐を解いて改めて私の肩口に凭れた。
眠いのだろう。
仲達は早朝から執務を執り行っていたと聞いている。
「……。」
「仲達?」
長椅子の横に積まれた書簡と、筆の一式を引き寄せる。
茶で体が温まったからか、静かになった仲達はいつの間にか眠りについていた。
首がかくんと私の胸元にずり落ち、受け止める。
首が辛かろうと仲達を引き寄せ、枕がないので私の膝に仲達を寝かせる。
肩口に上着を掛けてやり、整った顔立ちの寝顔を見ながら頭を撫でた。
大分疲れていたのだろう。
「…今度は私が甘えさせてやろう。今は…おやすみ」
仲達の寝息を聞きながら少しでもたまっている執務を片付けるべく、書簡に筆を走らせた。
暫く時刻が過ぎ、扉の前に人の気配を感じた。
「失礼します。父上は居りますか」
「昼食を持って来ましたよー」
「師と昭か」
「曹丕様?戻られたのですね」
師と昭に入室を許すと、私の前で軍礼を取り頭を下げた。
私の膝枕で眠る仲達を見て、師が膝を付き仲達の頭を撫でた。
「…父上、お疲れだったのですね」
「父上がこんな無防備な姿を見せるなんて、意外ですね」
「お前たちにも迷惑を掛けてしまったな。すまなかった」
「いえ」
「ってか、小さい曹丕様は素直でとってもいい子でしたよ。可愛かったです」
「…仲達にも言われた」
よく似ている親子だと思った。
昭が付近から掛け布団を持って、仲達の肩に掛ける。
師が気を利かせて、私の肩にも上着を掛けてくれた。
「…お前が、珍しいな」
「脚がそれでは、動けないでしょう」
「礼を言う」
師は仲達が好きだ。
大が付くほど父上好きだ。
思い直せば、子供の頃から師は私には反発的な態度を取っていた。
それも一重に仲達を取られたくないからだろう。
その師が私を気にかけるとは。
私だけでなく此奴らも成長したのだなと何処となく思った。
「父上も曹丕様も風邪ひかないで下さいね。あ、昼食どうします?」
「…父上を起こしたくはない。漸くお二人になれたのでしょう」
「察しがいいではないか」
昭が持つ布を被せられた竹籠の中には包子が見える。
蓋を閉めた器の中にはおそらく汁物が入っているのだろう。
仲達の安心しきった寝顔を見てしまうと、今起こすのは可哀想だ。
師と昭も同じ思いなのか、墨干ししていた書簡をまとめて片付け昼食が入った竹籠を置いた。
「…成る可く、温かい内に父上とお召し上がり下さい。二人分ありますから」
「!」
「どうせ父上と御一緒だろうと思いまして」
「母上の手作りですよ。
じゃあ、俺たちは帰りましょうか兄上。ほら、母上を待たせると怖いですし」
「…解ってる」
二人とも眠る仲達の耳元で、帰りますね、と囁き私に頭を下げた。
「礼を言う。ありがとう」
「!」
「!」
「何だ」
礼を言ったら師と昭が驚いたような顔をして顔を見合わせ、私を見て笑った。
「…随分と、素直になられた御様子で」
「変わらんだろう」
「いやいや、ありがとうなんて言葉を曹丕様が言うなんてびっくりですよ!」
「…そうか。それはすまなかった。仲達にお礼はきちんと言うものだと以前…」
「ああ、確かに言われていましたね」
遠回しに無礼だが、気には止めぬ事にした。
私が今までそうだったのだろう。
師と昭が書き終えた書簡を持った。
序でに提出してくれるらしい。
「父上の再教育のおかげですかね。軍略以外では素直が一番ですよ。余計な敵も作りませんからね」
「では改めて、父上の事、よろしくお願い致します」
「解った」
頭を下げる師と昭に軽く手を振り、二人は静かに扉を閉めて去って行った。
「………。」
「起きたか?」
ぼんやりと仲達が目を開けていた。
はっとして体を起こし漸く事態を把握したらしく、そのままうなだれた。
「…私、眠ってしまったのですね」
「日向は温かかっただろう?寒くはなかったか」
「はい…お気遣い申し訳ありません…。脚は痛みますか?」
「少し痺れた」
膝枕にしていた脚を伸ばすと仲達がさすってくれた。
読んでいた書簡を置き、掛け布団ごと仲達を引き寄せる。
師と昭が昼食を届けてくれた旨を話し、少し遅い昼食を食べることにした。
未だ包子や汁物も温かい。
仲達をはじめとする司馬家は、父の代から本当によく尽くしてくれる。
感謝してもしきれない。頭が上がらぬというものだ。
なればこそ、我ら曹家が護ってやらねばならないだろう。
何より仲達は私の大切な人だ。
昼食を馳走になり、食後に茶を飲む。
仲達が卓を見渡して首を傾げた。
「此処に置いていた書簡は…」
「片付けておいた」
「え?」
「執務はきちんとやれと言ったのはお前だろう?仲達」
「…頭が上がりませぬ。随分といい子になりましたね、子桓様」
「先生なら、褒めろ」
「ふ、そういうところは相変わらずですね」
仲達は笑って私の頭を撫でた。
脚も粗方ほぐれたので仲達を膝の上に引き寄せ、向かい合うように座らせた。
「褒美が欲しい」
「褒美?」
「特別授業とか」
「はい?」
「房中術の授業はないのか先生」
「なっ…?!あ、ありません!ないです!」
動揺する仲達の唇をなぞる。
昨日の事を思い出したのか顔を赤らめて怒った。
半分冗談だったのだが、やはり素の仲達は可愛らしい。
「なら、後で」
「…っ」
「それなら良いか?」
「もう…」
仲達は頬を染めて目を逸らし、小さく頷いた。
夜ならいいです…と聞き逃してしまうほど小さな声で仲達はそう言った。
けしからん教育係の先生だ。
仲達の頬に口付けて擦り寄った。
「…素直になりましたね」
「先程、師と昭にも言われた。そんなに私はひねくれていたか?」
仲達が私の頬を撫で、耳に触れた。
少し冷えている上半身に仲達は掛け布団を引き寄せ、二人で包まった。
「尊大な態度、と申しますか」
「お前に似たのだ」
「そのような事は…」
「まぁ、お前も随分と棘が抜けて丸くなったとは思うがな」
「そうでしょうか」
私に心を許してくれている分、仲達は私に甘かった。
此奴、子供には甘いのだろうか。
以前から師と昭が、怒ると怖いけど父上の事は大好きです、と言っていた気がする。
「先生」
「?」
「仲達」
「はい」
「どちらが良い?」
「仲達、が良いです」
「そうか」
「公子」
「?」
「子桓様」
「何だ」
「どちらが良いですか?」
「字が良い」
「そういう事です」
二人の時だけですよ、と仲達は少し目を擦り私の肩口に埋まった。
その背中を昨晩仲達が私にしたように叩くと、仲達は首を横に振る。
「眠くなってしまいます…」
「疲れているのだろう」
「漸くあなたと二人きりになれたのですから…起きていたいです」
背中を叩くのを止め、代わりに髪を撫でた。
仲達にしては随分と愛らしい事を言う。
「なれば、私と何がしたい?恋詩でも詠んでやろうか」
「詩はよく解りません」
「つれないな。私が初めて恋をしたのはお前だと言うのに」
「そうなのですか?」
「初恋は叶わぬと言うが…」
「叶っておりますよ」
「ふ、そうか」
私につられたのか、今日の仲達は素直だった。
それに甘えたがる。
仲達とて、私にだけ甘えた自分を許してほしいのだろう。
私はずっと、仲達とこのような緩やかな時を共にしたかったのだ。
触れるだけの口付けを落とし、改めて仲達を抱き締める。
仲達と話しをしているだけで、いつの間にか日も暮れていた。
時は無限ではない。
「いつかまた」
「はい」
「お前と、このような時を過ごしたい」
「そうですね。執務が終わっていればの話ですが」
「執務も、戦乱も終わらせたら…ずっと仲達とこうしていられるだろうか?」
「そんなに私に甘えていたいのですか?」
「仲達が好きで仕方ない」
私の言葉に仲達は小さく笑い、私もですと答えてくれた。
またこのように過ごそう、そう約束して仲達に甘えた。