「貴方様なんて…大嫌い!」
言葉にしてから深く後悔した。
師と昭が見ている前で、私は子桓様にそう吐き捨てた。
きっかけは些細な口論だった。
それも馬鹿らしく、下らぬ事。
今日は予定が多々あり目まぐるしい。
執務を終え、子桓様に頭を下げ書簡を片付けた。
子桓様は、私が子供達にばかり接しているのが面白くないとそう言った。
子供らに話がある為、部屋を出ようとしたところ手首を掴まれる。
私の傍にずっと居ろ、と。
多忙だと言うのに話を聞いてくれない。
「直ぐに戻ります。至急、子供らに話があるのです」
「もう私には用がないと申すか」
「そうは申しておりません」
「私と子供とどちらが大切なのだ」
「比べられるものではありません。私にはどちらも大切です」
「…それ程までに子が大事か」
「私の子供なのですから当然でしょう」
「…お前に子供なんて居なければ良かったのだ」
「…何です」
いい歳をして我が儘を言っているのだとそう思って聞き流した。
子供らと話を済ませたら、書簡を渡しに殿や夏侯惇殿、郭嘉殿の元にも行かねばならない。
そう伝えて子桓様の手を振り払った。
子桓様は深く溜息を吐き、私の顎を掴みこう言った。
「…私だけでは飽きたらず、誰にでも股を開くのか仲達」
「っ…!」
気付けば私は子桓様の頬を掌で叩いていた。
待ち合わせの時間を過ぎ、痺れを切らした師と昭が扉を開けちょうど入ってきて固まった。
「…父上?」
「曹丕様?」
そして勢いでそのまま、大嫌いだと…そう言ってしまった。
言ってしまってから子桓様の顔が怖くて見れない。
「…そうか。ならばお前の視界から消えよう」
子桓様はそれだけ言って、私の前から去った。
子供らの横を過ぎて部屋を出て行く子桓様の背中を、私は追えなかった。
何故、あのような事を仰るのだろう。
私には貴方様だけなのに。
「父上、大丈夫ですか?」
「…ああ、遅くなってすまない」
「いえ。曹丕様と何かあったのですか?」
師と昭が不安げに私を見つめた。
心配をさせぬよう、何でもないと取り繕い用件を話す事にした。
胸が締め付けられたように痛む。
私を心配する子供らと別れ、書簡を渡しに殿と夏侯惇殿の元を訪れた。
室に入るとお二人は仲睦まじく碁を打ちながら話込んでいた。
「殿、書簡をお持ちしました」
「おお、待っていたぞ司馬懿」
「お待たせして申し訳ありません」
平に頭を下げ、殿に書簡を渡した。
正面に座る夏侯惇殿から視線を感じ、顔を上げた。
「私に何か」
「いや、何かあったのかと、そう思ってな」
「…いえ、別に何も」
「子桓か?」
「っ…」
「お主は解りやすいのぅ」
「何かあったのか?話ぐらいなら聞いてやらんでもない」
夏侯惇殿に促され、殿に肩を叩かれては退く事も出来ず、先程の出来事を報告し頭を下げた。
「…まるで、昔のお前を見ているようだな孟徳」
「ほぅ、そうか?」
「間違いなく曹丕は孟徳の息子だと改めて思ったわ。よく似ている」
夏侯惇殿が溜息を吐き、殿が首を傾げた。
殿が私の肩を叩く。
「司馬懿、子桓がお主の手を焼かせているようだな」
「別に私は…」
「暫し子桓から離れてみるか司馬懿。教育係としての任務は終わったのであろう?」
確かに、教育係として改めて子桓様に教える事は少ない。
前線に立つ事も、執務をこなす事ももう慣れている筈だ。
それでも私が側仕えを辞めないのは側近としてよりそれ以上の…否、それ以上の理由は殿には話せない。
「…殿の申し出とて、其れだけはお断りします」
「ほぅ」
「あの御方の傍に居ると、約束したのです」
「子桓はお主を好いておるしな」
「はい…、え?」
「子桓との関係など儂はとうに知っているが」
殿も夏侯惇もさらりと我等の関係を認めた。
私は口外したつもりはない。
御子息と関係を持っている事を殿自身に知られ、何故だか罪悪感が勝った。
「っ…!申し訳あり、ません…」
「謝る事ではなかろう。故にお主に子桓を任せられるというものよ。あれはお主でなければ駄目だ」
殿はゆるりと笑い、夏侯惇殿を見た。
きっと殿も夏侯惇殿でなければ駄目なのだろう。
そう思うと、殿と夏侯惇殿の関係は私達によく似ている。
「子桓の非礼は儂が詫びよう」
「いえ…そのような事は」
「で、曹丕は何処に行った?」
「…私の視界から消えると仰ってそのまま…」
「何処に居るのか予想はついているのか?」
「はい…」
「失礼。殿にお届け物です」
扉が開いて振り返ると郭嘉殿が何かを小脇に抱えて背後に立っていた。
私に気付いて郭嘉殿が笑む。
「ああ、何だ。此処に居たんだね司馬懿殿」
「郭嘉殿、申し訳ありません。書簡をお待たせしてしまい」
「いいよ。急いでないから」
「それは何だ?」
「書庫で拾いました。よくよく見たら見覚えがあったのでとりあえず殿に、と思いまして」
「…書庫…?」
私がよく資料を探しに通っている書庫は、幼い頃より子桓様が隠れている事が多かった。
棚に隠れて待ち伏せ、資料を探る私を驚かしたいのだとそう仰っていた。
幼い頃からの癖を何となく思い出す。
郭嘉殿が小脇に抱えていたのは小さな子供だった。
何処か見覚えが…と思いはしたが、よくよく見れば見覚えがあるどころではなかった。
「…曹丕様?」
「そうみたい」
「?!」
「あ?何だってこんな」
「随分と小さくなったのぅ」
幼い頃に見たままの子桓様がそこに居た。
郭嘉殿が犬猫のように首ねっこを持って持ち上げるので苦しそうだ。
「はい、殿。何だか躓いていたみたいですよ」
「ふむ」
「あ、あの」
「書庫に、過去に戻れる所でもあるのかもしれませんね。時間の裂け目みたいな」
殿に渡そうとした郭嘉殿の手をかいくぐり、ぼんやり私を見つめると小さな子桓様は私に手を伸ばした。
「ちゅ…たつ」
「うん?」
私の袖を掴む。
この子は私が司馬懿だと解っているようだ。
そもそもこの子桓様に記憶はあるのだろうか。
郭嘉殿が笑いながら、私を引き寄せた。
「殿、彼は司馬懿殿が良いみたいですよ」
「え?」
「司馬懿に負けたな、孟徳」
「むぅ…なればお主に任せた」
「はい、司馬懿殿」
殿に命じられ、郭嘉殿から小さな子桓様を受け取り、胸に埋めた。
泣いていたのだろうか。
赤く腫れた瞳には涙の跡が残っていた。
額に触れれば確かに熱い。
子供になり体温が上がっているとはいえ、熱すぎだ。
「…熱があるみたいです」
「そう?今朝姿を見た時はそんな素振りは見せていなかったけれど」
「…もしや」
ぎゅっと私の服を握る小さな手は私から離れようとしなかった。
原因が解らぬとはいえ、この子は子桓様に間違いはない。
もしかしたら先の私に宛てた非道い言葉は、寂しさ故の裏返しかもしれない。
私は執務や予定を優先するあまり、子桓様の不調を察する事が出来なかった。
子桓様は体の不調を口で伝えるのが幼い頃から下手な人だ。
どちらかと言うと、風邪をひいても熱があっても黙って我慢する子だった。
この人はきっと、心細くて寂しかったのだ。
ただそれが言えなかった。
私が冷たく接してしまった為、逆上させてしまったのだろう。
真実は解らぬまま、私は子桓様を抱き締めた。
「殿、曹丕様を暫くお預かりしても宜しいでしょうか」
「構わぬ。原因は此方でも調べるとしよう」
「御意」
「こうして見ると、まるで母親のようだね司馬懿殿」
「…馬鹿な事を仰いますな」
私が子桓様に出会った頃よりもかなり幼い姿だ。
様子を見たところ、記憶は薄ぼんやりとしているのだろう。
兎に角、微熱があるのだから看てやらねばならない。
郭嘉殿に書簡を渡し、御三方に頭を下げて自分の執務室へ連れ帰った。
簡素な仮眠用の寝台に寝かせようとするも、子桓様は私から離れてくれない。
「子桓様」
「いやだ」
「…横になりませんと」
「仲達がいい」
子桓様は私の胸元に埋まったまま離れようとしない。
私の胸元が良いと言うのなら仕方ない。
冷たく湿らせた布巾を持ち、冠と肩当てを外して靴を脱いだ寝台に横になった。
これなら子桓様も横になれる。
ひんやりとした冷たい布巾を額に当てると気持ち良さそうに子桓様は目を閉じた。
「書庫で何をしていたのですか?」
「ひみつだ」
「仲達にだけ、教えて下さいませんか?」
「なら、仲達にだけ話す」
「はい」
むすっとして、子桓様は私の胸に埋まる。
脚や手が冷えており、長い間あの書庫に籠もっていたのだろう。
ここまで幼い子桓様は初めて見たが、子供の扱いには師と昭で慣れている。
二人だけの秘密、というと子桓様は話してくれた。
「お前が見つけてくれないものかと、隠れていた」
「隠れん坊ですか?」
「そうしていたら、郭嘉に見つかってしまった」
「おや」
記憶は子供の頃のままなのだろうか。
以前から居る人物は誰なのか判別がつくようだ。
確か以前にも、一人勝手に子桓様が居なくなり隠れていた事があった。
そういう時は決まって、私と口論になった時だ。
幼少期の子桓様は罰が悪くなると何処かに隠れる。
まるで、私が必要なら探し出せと言うように。
「このように冷えて…見つけられず申し訳ありません」
「よい。結果的にはお前を独り占めできた」
「独り占め?」
「お前は私のものだ」
そうだこの人は昔から独占欲が強くて、寂しがりやだった。
「はい…」
「仲達?」
「…仲達も貴方が大好きですよ、子桓様」
些細な事で、私の事をこんなにも愛してくれる寂しがりやのこの方を大嫌いだと言ってしまった。
そんな言葉を咄嗟とはいえ使いたくはなかった。
目頭が熱くなる程に後悔し、子桓様を強く抱き締める。
「仲達」
「はい」
「どうしたのだ」
冷えた小さな手で、子桓様は私の頬を撫でる。
先の私との口論は記憶にないようだ。
私を案じる小さな子桓様がただひたすらに愛しい。
「ずっと…仲達がお護りします」
「…?」
「今は、おやすみなさい」
目を擦っているところを見ると眠いのだろう。
少しは温かくなった手を握り締め、子桓様の胸に埋めてぽんぽんと背中を叩いた。
うとうとと眠りについた子桓様を胸に埋めたまま、少しだけ体を起こし卓を引き寄せた。
左手は子桓様の背中を叩きながら、右手では書簡に筆を進めた。
いつからこんなに器用になったのか記憶にないが、師と昭に構われよくこうしていたのを思い出す。
思えばあの子らも子桓様も大きくなったものだ。
私だけが変わらないような気さえする。
いつの間にか私も寝入ってしまったのか、胸の中の温かさにぼんやりと目を開けた。
頭を撫でられている感覚に見上げると師が其処に居た。
「師?」
「寒くなってきたので、迎えに参りましたよ父上。昭もおります」
「郭嘉殿がさっき来ましたよ。良かったら曹丕様を持って帰っていいよ?って。
曹操様も様子を見に来たみたいです」
「この様子では子桓を引き剥がせぬわ、と仰ってました」
師と昭は既に事情を聞かされているようだ。
私が体を起こしても膝に埋まり、裾を握り締めて擦り寄る小さな子桓様。
随分と懐かれてしまった。
昭が眠っている子桓様の頬に触れ、師が溜息を吐く。
「しっかし、曹丕様ったら随分と可愛くなっちゃって」
「小さくなっても父上から離れぬところは相変わらずですね」
子桓様が子供達よりも幼いという光景は違和感がある。
頬に触れられていた子桓様がぼんやりと目を開けた。
「!」
「?」
「誰だ!」
「ああ、そっかぁ」
この方の今の記憶では、師と昭の事を知らぬのだろう。
私の背に隠れるようにして子桓様は師と昭から離れた。
子桓様に諭すように師と昭を紹介すると、漸く子桓様は警戒を解き、背中から出て来てくれた。
さも当然かのように私の膝に座る子桓様に苦笑し、抱き上げて立ち上がった。
「我等は帰路につきますが、共に来られますか?それとも殿の元に行かれますか?」
「…仲達がいい」
「承知致しました」
「自分で歩ける」
「はい」
床に下ろしても子桓様は私の服の裾を掴む。
随分と甘えたい盛りの年齢のようだ。
師と昭が伴って私の後ろを歩く。
「曹丕様ばっか狡い。俺も父上に甘えたいです」
「何を馬鹿な」
「昭に同意します。私も子供の頃に戻りたい」
「…子供だろうに」
「もう子供ではありませぬ」
「俺は子供に戻りたいかも」
「今日はどうしたと言うのだお前達」
やたら甘えたがる子供らに笑み、私を見上げる小さな子桓様と離れぬように手を繋ぎ帰路についた。