「子桓様」
私の字を呼ぶ声は、本来此処では聞こえてはいけない者の声だ。
字で呼ぶ事を許している者など、一人しかいない。
あの兄弟は何をしている。
「…仲達、来てはならぬとあれほど」
「子桓様」
私が人払いをしている意味を、仲達が理解していない訳がない。
感染症の布告を流布したのは他ならぬ仲達だ。
此奴は、全てを理解した上で私の元に来たのだろう。
扉に鍵をかけなかった事を後悔しながら薄ら目を開けると、
既に仲達は入室し私の傍に侍っていた。
「…帰れ」
「嫌です」
仲達は私の第一声に全く聞く耳を持たず、即答した。
私の額に乗せていた濡れ布巾を取り、新しく水を汲んで桶に浸す。
濡れ布巾を乗せる前に、仲達が私の額に手を乗せた。
ひんやりとしていて冷たい。
手の感触が心地良く、目を閉じていると仲達が私の頭を撫でた。
師と昭の頭を撫でるような優しい手に正直怒る気も失せたが、
仲達にうつすわけにはいかない。
仲達が私の手を握り、指を絡める。
私を押し倒すように上にのしかかり、唇を合わせようとするのを避けた。
悲しそうな顔をさせてしまった。
「…暫し待てぬのか、仲達」
「貴方にもしもの事があってからでは、遅いのですよ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」
熱に浮かされた力の入らぬ手で、仲達の唇をなぞった。
風邪と同じで、空気は元より粘膜からなら更に病はうつる。
口付けや情事など絶対にしてはならぬと、私から仲達を引き離し屋敷に隔離した。
目の前の情人はおそらく、私の病を貰いに来た。
自分にうつせばいい、と思っている。
仲達から執拗に口付けを迫るなど、よっぽどの事だ。
「…お前にだけは」
お前が一番大切なんだ。
頬を伝う涙を指で拭い、それでも口付けを強請る仲達の頬を両手で包んだ。
「…子桓様」
「駄目だと言うに」
「ぃ、や」
ぐっ、と力を込めて仲達が強引に唇を合わせる。
長く続く熱で、仲達を押し退ける力もなく唇を合わせてしまった。
私の手首を寝台に抑えつけて、仲達は口付けを繰り返す。
私が耐えていた事が全て無駄になった。
否、今ならまだ間に合うかもしれない。
本気で力を込めれば仲達を退かす事は出来た。
其れをしないのは、一重に仲達の瞳を見てしまったからだった。
睫毛は濡れて、幾度も繰り返す口付けに瞳はとろけて雫が溢れていた。
「しか、ん…さま」
「…相当、寂しがらせた、か」
「ん…」
こくり、と小さく頷いて仲達は胸に埋まった。
どうして私が手を出せない時にこういう反応をするのだ仲達は。
生殺しか。
私の体力が健全であれば既に押し倒しているところだ。
仲達がずるずると体を後退させる。
はっ、として体を起こすもまだ熱が残っていて起き上がれない。
そうこうしている内に、
仲達は既に半勃ちしている私のものを寝間着から出して唇を寄せ、口に含んだ。
「…やめよ。今の体では、私はお前を抱けぬ」
「…自分で、します」
「うつると、言っているだろうが!」
「…うつされに、きたのですよ」
「…この、馬鹿者め…」
いつも以上に素直に感情をぶつける仲達は、
私の危惧など承知で見上げて柔らかく、優しく笑った。
仲達の奉仕など珍しく、今まで散々禁欲していた身に取って、体が反応しない筈もなく。
ましてや、本命の情人。
我慢など出来ず、執拗な仲達の奉仕に口の中に果ててしまった。
「っ、く…」
「ん…、っ」
仲達が口元を抑える。
咄嗟に何とか体を起こし、熱で揺らぐ視界の中、漸く仲達を捉えた。
「っ…直ぐに吐き出せ、仲達」
口の中に指を入れるも、仲達は既に白濁を呑み込んでしまっていた。
慣れぬ行為に仲達の顔色は悪い。
当たり前だ。
普段であれば、私は仲達をこの様には扱わない。
奉仕などさせない。
このまま傍に置いては、私にも仲達にも良い事はない。
これ以上は…と肩を掴んだところ、仲達が私を力任せに押し倒した。
押し倒された反動で、寝台に深く埋まる。
高熱を持った体では、仲達相手とて抗う事が出来なかった。
私の体の上、仲達は私のものに手を添えて己に当てがう。
髪で表情が見えない。
止めさせようと腰に触れるも力が入らず、
仲達はゆっくりと下を向いたまま腰を下ろしていく。
体を繋ぐ温もりと同時に、滑る滴り。
腰を無理矢理進めた仲達の接合部に触れて見れば、指が紅く染まる。
解しもせず、無理に繋げた体は傷付いてしまったのだろう。
「…もう、…っん」
「黙ってて、下さい」
仲達は私の頭を抱きしめるように唇を合わせ、腰を揺らしていった。
私に何も言わせない気なのか、仲達は唇を幾度も合わせて舌を絡める。
腰を揺らす度、くぐもるような吐息が聞こえた。
何度か、強制的に果てさせられ中に注ぎ込むも仲達は腰を止めない。
厭らしい水音と肌のぶつかる音が部屋に響いていた。
「…私に、うつし…て、ください…私が、貴方の代わりになりますか、ら」
「っ…仲達…」
幾度も時を重ねて、体を重ねて、仲達の事は心も体も解っているつもりだった。
私はまだ仲達の事が解ってやれていないようだ。
「何て馬鹿な事を…」
「っ…何とでも仰って下さい」
「…馬鹿者め。何の為に私がお前を引き離したと思っている」
「子桓様のお傍に行きたかったのです」
「お前だけは、仲達にだけは、と思っていたのに」
恐らく既に手遅れだ。
快楽は、感じていないのだろう。
仲達のくぐもる吐息に色香は感じられない。
少しだけ、体を起こした。
背中に枕を重ねて、何とか寝台に座る。
口付けを続ける仲達を引き離し、
体は繋げたまま仲達を強く抱き締め落ち着かせた。
「もう、良い」
私の熱がうつってしまったのかのように、仲達の体が熱い。
腰を掴み仲達から引き抜くと、
私の白濁と赤い鮮血が混じったものが仲達の体から滲む。
白い寝間着に、赤く滲む其れは余りにも痛々しい。
病をうつさせる為の作業と言えよう仲達の行為は、とても情事とは呼べぬものだった。
仲達の前髪をかき上げて耳に髪を寄せる。
露わになった顔を上げさせ、頬を伝う涙をなぞる。
傷むであろう秘部にそっと触れ、そのまま指を滑らせ仲達のを握った。
「ぁ…」
「…そのまま、大人しくしていろ」
仲達のをゆっくりと擦りあげながら、私の腕の中に抱き留める。
漸く色香の混じる声になった仲達をそのまま攻め立て続け、果てさせた。
くた…と力無く私に凭れる仲達の額は熱っぽい。
枕元の粉薬を取り上げ、己の口に水と共に含み仲達に口移す。
仲達に抵抗出来る力はもうない。
何度かに分けて、粉薬を含ませた水を口移しで飲ませた。
「…子桓様の、お薬でしょう…」
「何もしないよりは良い」
「私の為に、薬など」
「薬など幾らでも作れる。病因が判明したのでな」
「病因は…?」
「流行性感冒、だと」
仲達を抱き起こす。
成る可く情事の名残を消し、汚れた服を脱がし私の寝間着を着せた。
「…お前に、代わりはいない。お前は作れないのだ、仲達」
「…はい」
「お前を司馬家に返す。成る可く、他人と接触するな。
食事以外は暫し口を塞げ。子供達にうつしたくはないだろう」
「はい…」
仲達に今一度だけ口付けて、その口を長い布で後頭部に巻きつけるように封じた。
暫く息苦しいだろうが、私も初期症状の時は皆にうつすまいとそうしていた。
「…師、其処に居るな?」
人の気配のする部屋の扉に声をかけた。
慧眼恐れ入る。
曹丕様は昭から話を聞き、追ってきた私に気付いていた。
扉の向こう側。
父上の嬌声にも似たくぐもる声を聞けば、この部屋で何をしていたかなど想像に容易い。
会話を聞く限り、父上が曹丕様に無理矢理体を求めている。
うつされにきた、と父上が明言しているのでそのままの意味なのだろう。
呼び掛けに応じ私が扉を開けようとするよりも先に、内側から扉が開いた。
曹丕様が父上を横に抱いている。
「曹丕さ…」
「直ぐに連れて帰れ」
私の腕の中に父上を引き渡すなり、曹丕様は即座に扉を閉めた。
どん、と扉に寄りかかる音と咳き込む声が部屋の向こう側から聞こえた。
「…大丈夫ですか?」
「師、頼みがある」
「はい」
口元を布で封じられた父上の瞼は閉じられている。
父上を横に抱いたまま、扉越しに曹丕様の頼みを聞いた。
「…医師らに兵と民の分も薬を作らせている。
残念ながら予防の術はない。
私は数えて五日目だが、病にかかれば十日は熱が引かぬと思え」
「父上は…もう?」
「…恐らく感染しただろう。
仲達の袖に、薬が入っている。熱が酷ければ其れを飲ませろ。
その薬は熱を鎮めるが同時に催眠作用も強い」
「御意」
父上が目を覚まさないのはその為か。
少しだけ安堵し、扉から離れた。
見上げれば、少しだけ扉が開いている。
曹丕様が私に目を合わせた。
熱に浮かされ酷く辛そうだが、相変わらず涼しげな雰囲気を纏う御方だ。
父上の主であり、父上を愛して止まない情人は扉の隙間から父上の頬をひと撫でして離れた。
「…師」
「はい」
睨み付けられる曹丕様の眼光に、真っ正面から受けて立った。
殺気すら感じられるその眼差しは、他ならぬ父上の事だからだろう。
「手を、出すな」
「それは…自信がありませんね」
「なれば、仲達を返せ」
「嫌です。父上は私の父上ですから」
一礼をして扉を閉めた。
曹丕様に対し、挑発的にあえて煽るような返答をしたが、実際それは真実だった。
口を拘束され、感染し、自由の利かない体。
情事の名残。
赤の混じった白濁が、白い父上の寝間着に滲んでいた。
曹丕様とて暫くは静養が必要だ。このような機会はきっともう訪れないだろう。
少し体温の高くなってきた父上を、決して誰にも会わせぬように閉じ込めようと屋敷に急いだ。
正門から屋敷に入る。
待ち構えていた昭が、頭を下げながら扉を開けた。
此奴には小一時間に、
父上を病床の曹丕様の元に向かわせた事がどれほどの事か、叱りつけたばかりだった。
「…おかえりなさい。兄上、父上は…」
「隔離せねばな」
「やっぱり、ですか」
「解っていた事だろうが」
昭の額を小突き、奥の部屋の寝台に父上を寝かせた。
父上の私室に病因を持ち込む訳にはいかないだろう。
昭も後に続いて部屋に入ってきた。
「お前は出て行け」
「ですが」
「お前にもうつるぞ」
「そんな事を言ったら兄上だって」
「…覚悟はとうに決めている」
父上の口元の布の上から、唇を指でなぞる。
小さく息をしているのが解った。
「兄上?」
「…どうして、曹丕様でないと駄目なのか解りかねる」
父上の顔の横に手を付く。
昭が私の肩を掴んだ。
「っ、兄上、駄目です」
「…お前は、堪えられるのか?」
「それは…」
寝室で、父上を押し倒し口付ける昭を見た。
私がずっと我慢していた事を、私よりも先に昭が行動に移した。
嗚呼此奴もか、と。今でもそう思う。
曹丕様に寄せる妬みとは違う憤りを、何処となく昭に感じている。
憎らしい訳ではない。
「…此処に居るだけでも危ういが、口付ければ無論。それ以上は勿論…解っているな?」
「兄上」
「…どちらにせよ、父上の体を清めなければ」
「…え、まさか」
「掻き出さねばな」
父上は相変わらず眠りについている。
頬に遺る涙の跡に唇を寄せた。