私達わたしたち大切たいせつひと 01

ここの所、父上が帰らぬ夜が続いている。


赤壁の戦いにて敗北したとの報が国中に伝わっていた。
国中はその話題で持ちきりだ。

父上は参戦されていないが、父上の主君である曹操様やその御子息の曹丕様が参戦されていた。
炎の赤い壁が大船団を飲み込み、数々の計略と季節外れの東南の風が魏軍を次々と飲み干していったと言う。

御主君、曹操様を逃がす為に曹丕様は戦場に留まり、負傷されて帰国された。
その報を聞いてから、父上は不在だ。


父上は曹丕様の幼い頃からの教育係だった事もあり、その報を聞いてから冷静さを欠いていた。
書記官である父上は数々の戦況報告を聞き、父上なりに戦況を見極め、敗北の要因を私と昭に話してくれた。
私と昭はまだまだ若輩で、戦すら経験していない。

父上は、戦は嫌だと常日頃話していた。
その割には、軍略を語る父上に何処か矛盾を感じる。
恐らくは素直でない性格が災いしていると、子供の私ですらそう考えずには居られなかった。



真夜中の事だった。
殿軍の曹丕様が帰国して数日経った後の夜に、父上はとても疲労された御様子で漸く帰宅した。

「お帰りなさいませ」
「…ああ、ただいま。師か…。心配を掛けた」
「…相当お疲れの御様子。湯浴みを致しますか?」
「ああ…」
「畏まりました」
「師よ…その、春華はどうしている?」
「母上ならば」
「此処におりましてよ、旦那様」

昭と共に母上も父上を出迎えた。
数日間何の報せもなく帰宅しなかった事を母上が言葉の隅々に棘を持って父上を攻め立てていたが、
父上の耳には入っていないようだった。
流石に母上も父上を案じたのか、叱責を止めた。

「…旦那様?」
「すまぬ…」
「…子上、旦那様を寝台にお連れして」
「えっ?は、はいっ」
「早くなさい。子元は手桶に冷たい水を入れて持ってきなさい」
「は、はい」

足元がふらつき体勢を崩した父上を母上が受け止める。
母上の肩口に凭れて父上は目を閉じていた。
母上が父上の頬に触れて眉を寄せ、後を昭に任せた。
水桶を用意し、父上の寝室に走ると母上が寝台に寝かせた父上の額を撫でていた。

「もう、旦那様ったら無理をなさって」
「母上、父上は」
「曹丕様が帰国されてからここ数日間、寝ていないんですって」
「なっ…!」
「はぁ?!だって今日で何日経ったと思って」
「三、四日経つかしら。もう…困った人ね」

水で濡らし冷やした布巾を母上は父上の目元に置いた。
父上はもう眠ってしまったのか、吐息だけが聞こえていた。

「赤壁に参陣した文官の殆どがお亡くなりになって…。
 主だった軍師の方々も負傷されていて戦後処理に人手が足りないそうよ」
「…働き詰めていらしたのですね」
「ええ。それに連日曹丕様を見舞っていたと。その曹丕様から帰宅命令が出て帰ってきたんですって」
「父上も御無理をなさる」
「旦那様ったら、人様の心配をしている場合ではないでしょうに…」

母上が父上と曹丕様の関係を御存知ない筈はない。
全てを知っている上で、その様に仰っているのだろうか。
私達は曹丕様が父上に取ってどれほどの存在かを知っている。

父上が自分の命より大切だと常々仰っていたのを私は知っていたが為、何とも言い難い複雑な心境だった。
昭もそれを知っていたが、目配せをし敢えて母上には何も言わなかった。


父上が私達の前では強がり、夜中に思い詰めたような顔をして書簡を読んでいたのを目にしている。
相当、心労にもなっていた筈だ。

過労と寝不足で父上は熟睡しているようだった。
母上は既に眠ってしまった父上の服を脱がしている。
床に落ちた冠を拾い、装飾品や肩当てや帯などを母上が外して私と昭が丁寧に畳んだ。

官服から寝間着に着替えさせて、掛け布団を掛け直す。
母上が父上の額に口付けを落とした。
日頃厳しい母上とて、父上の事を相当心配していたらしい。

「子元、子上はもう寝なさい。旦那様は暫くは起きないでしょう」
「はい」
「母上は?」
「今夜は旦那様の傍に居るわ」
「解りました」
「母上も御無理なさらぬよう」
「誰に言ってるの?子上」
「ああ、いや、すいません。おやすみなさい」

私は大丈夫よ、ありがとう、と昭に一言伝えて母上は手を振った。
昭と頭を下げて部屋を退室した。

私も父上が心配で堪らなかったが、また明日お話し出来たら話そうと部屋に戻った。



全て解っているわ、といつかお話しようとは思うのだけれど。
其れを言ってしまったら、私を気遣い、影で恋偲ぶような旦那様の顔が見れない。
旦那様が曹丕様の前では、恋人同士のような笑みを浮かべて笑うのを私は知っている。
其れがとても可愛らしいと思うのだけれど。
口にしたらきっと旦那様は狼狽なさって、もうそのお顔見せてくれないでしょうから…まだ秘密。

「曹丕様の事が心配で心配で、堪らなかったのでしょう?」

旦那様の体を濡らした布巾で拭いていく。

其れくらい私にはお見通し。
私よりも旦那様は細かな事を気にして、曹丕様の事になると人一倍気に病んでしまうお方だった。
昔から、そう。
でもその感情を面に出さず心内に秘めたまま、涼しげな顔をして笑う。
そんな旦那様がほおっておけなくて、私は隣に居る。

旦那様は、自らの心内を読まれるのが苦手。
だから人一倍、我慢もなさる。
勿論、其れもお見通し。だから何も言わなかった。
旦那様は矜持がとても固いお方。
殿方の矜持を、私が悪戯に踏みにじって傷付けて良いものではない。


静かに眠る旦那様の痛んだ脚を洗うべく、掛け布団を寄せて脚を布巾で拭いた。
歩き尽くした脚は靴ずれなさっていて、脹ら脛が張り詰めている。

脹ら脛の緊張を指を使い揉みほぐしていくと、気持ち良さそうな吐息が聞こえた。
旦那様が額に乗せた布巾をどけて、薄目で私を見ていた。

「…春華?」
「そのまま寝ていらして」
「心地良い…」
「それは何より」
「…ふ、お前が私に優しいなど…明日は雪か」
「まぁ。私はいつも旦那様に優しくてよ」
「…よく言うわ」
「旦那様、何か私に言う事があるのではなくて?」
「う、うむ…」

ひとつ咳払いをして、旦那様は今まで不在にしていた事の謝罪と理由を簡潔に話した。
そして留守を守った私に感謝の言葉を下さり、今一度目を閉じた。

「お眠りなさいませ」
「…暫く休養するようにと御命令賜った…」
「曹丕様の御命令でしたら、旦那様は従うのでしょう?」
「ああ…寝る」
「あと、旦那様」
「うん?」
「ただいま、の口付けが未だでしてよ?」
「なっ?!」

脚を洗い綺麗に拭き終わり、旦那様の枕元に腰を下ろした。
一言礼を言って、旦那様は私から目を逸らす。

「そ、そのような習慣など、い…今までなかったではないか!」
「甄姫様は曹丕様にそのようにしていただいていると、お聞きしたので。羨ましいと思いまして」
「うちはうち、余所は余所だ」
「頑固なのは、歳を取ってからになさいませ」

旦那様がなかなか此方を見てくれないので、両手で顔を掴み顎を上げさせて深く口付けた。

旦那様は予期せぬ事に弱い。
そのまま舌を絡めて深く深く口付けると、涙目で私を見つめる。
切れ長の瞳に長い睫毛が濡れて、綺麗。
泣き顔がとても愛らしい方。つい苛めたくなってしまう。

曹丕様が旦那様に執心なさるのもよく解る。

「ただいま、は?」
「…ただ、いま」
「ふふ、お帰りなさいませ」
「何だと言うのだ…。恥ずかしい」

旦那様が肩を引き寄せて、私を腕に抱く。
やられっぱなしは嫌だったのか、珍しく旦那様から私の頬に口付けをして顔を背けてしまった。

旦那様は色恋沙汰が苦手。恋愛事は奥手。
私と手を繋ぐのも随分と時間が掛かった可愛らしい方。

だから、これは旦那様からの精一杯の愛情表現。
旦那様から口付けてくれるなんて珍しくて、嬉しくて。

「…旦那様、此方を向いて?」
「嫌だ」
「真っ赤ですよ?」
「私は寝る」
「ふふ、可愛い人」
「…う、煩い」
「今まで離れていた分、離しませんよ」
「…それは、その…悪かった」

旦那様を胸元に埋めると、静かに目を閉じた。
間もなく寝息が聞こえて安堵する。
髪を撫でながら、いいこいいこと頭を撫でた。

旦那様の首筋に、髪をかき上げたら見える程度の鬱血した小さな痕を見つけた。
所有印なのだろうと指で肌をなぞる。
勿論、誰が付けたか解っていた。

旦那様が心の底からお慕いしているただ一人の人。
あの方ももう子供でもない。
痕を付けるだけで終わった訳でもないでしょう。

旦那様が酷く疲労なさっている理由のひとつは、恐らくはその方のせい。

「一度、きちんとお話しした方がいいかしら…。ねぇ、旦那様?」

別に私は構わなくてよ、と耳元で囁き旦那様の頭を撫でた。



今朝起きたら、朝食が用意されてはいたものの母上の姿が台所になかった。
先に起きていた兄上が黙々と肉まんを食べているのを見つけて、挨拶をして隣に座った。

「お二人は?」
「父上は未だ就寝中だ。母上は父上の傍に」
「へぇ。珍しくいちゃいちゃしてますね」
「今日は母上の機嫌が良い」
「うーん。今日は雪ですかね」
「どういう意味かしら、子上」
「っ?!な、何でもないです!ごめんなさい」
「子上のそういう所は旦那様にそっくりね」

いつの間にか背後にいた母上に頬を摘まれ、慌てて謝罪した。
兄上は我関せずと茶を啜ってる。

正直母上の笑顔はたまに怖い。
にっこりと笑って母上は俺の肩を叩いた。

「なれば罰として、子上にはお使いを頼もうかしら」
「お使い?」
「是れを公子様に」
「曹丕様に?」
「旦那様がね、淋しそうだったの」

母上はやっぱり知っているらしい。
父上のお気持ちを知った上で、曹丕様に手紙を宛てたみたいだ。
書簡を小さく丸めたような筒を渡された。

今まで黙っていた兄上が母上を見上げて口を開く。

「お言葉ですが母上。曹丕様なら何もしなくてもその内来ると思います」
「あら、そう?子元はよく解るわね」
「幼い頃から、父上に連れられてよくお会いしていたもので」
「なれば、子元も子上と一緒にお迎えに行ってくれる?」
「お迎え、ですか?」
「高貴なお方を供もなしに呼びつけるなんて無粋な真似はしないわ。
 私がお迎えに上がろうと思っていたの」
「なれば、私もお迎えに上がります」

結局話の流れから、母上の手を煩わせまいという話になり。
俺と一緒に兄上も曹丕様を迎えに行く事になった。


朝食を済ませて身なりを整え、城内を兄上と歩く。
白い大階段を上る。

今日は晴れ晴れとしたいい天気だった。
暖かくて気持ちいい風が流れている。

家を出る前に一度父上を見に行った。
髪を下ろされて楽な服に着替えられ、格子を適度に下ろされた寝台で静かに眠っていた。
先に部屋を訪れていた兄上が置いて行ったのか、父上の着替えが置かれていた。

ふかふかの布団が気持ち良さそうで俺も父上の布団にまざりたかったけど、先ずはお使いが先だ。
名残惜しくその場を去った。

先を歩く兄上に声を掛ける。

「兄上」
「何だ」
「今日はいい天気ですね」
「そうだな」
「曹丕様のお迎えするのは別にいいんですけど、手ぶらで帰るのは何か寂しくないですか?」
「早く帰ってこいと、母上に怒られるのが関の山だな」
「う…、それは勘弁。でも何かこう、父上を喜ばせたいじゃないですか」
「それは曹丕様にお任せするべきであろう」
「あー…それ言われたら適わないです」

何だかんだ俺が気にしたところで、俺の思い付きじゃ兄上にも母上にも曹丕様にも適わない。
やれやれと溜め息を吐いた。

兄上が俺の胸を小突く。

「大人しく従う事だな」
「はぁ…、そうします」
「その気持ちはきっと父上に伝わるだろう」
「伝わるといいですけどね」

城門前に着いた。
門番に取り次いでもらい、曹丕様の元に向かって歩く。
子供の頃に父上と歩き回った広い城内だったが、いつの間にか少し狭くなったように思う。


数ヶ月ぶりにお会いした曹丕様は戦後の傷痕が生々しく、まだ包帯が取れていなかった。
椅子に腰掛け、書簡に筆を走らせている。

手短に挨拶を済ませ、用件を簡潔に話すと曹丕様は漸く筆を置いて我らに向き合った。

「後程、仲達に会いに行くつもりだった」
「左様でしたか」
「その書簡は」
「私の母より、あなた様へと」
「ほぅ」

兄上が書簡を手渡し、曹丕様が手紙を読み始めた。
読み終わると曹丕様はふ…と笑い、手紙を丸めて着替えを始めた。
まだ包帯には血が滲んで痛々しい。
兄上が曹丕様の着替えを手伝う。

「仲達は尻に敷かれているのか」
「え?あー…、そうですね。そうかもしれません」
「ふ、そうか」

着替えを終えた曹丕様に上着を掛けた。
靴を履き替えて俺と兄上の先導の元、部屋を出た。

「母上が何か?」
「仲達の事ばかり書いてある。昨晩の仲達の様子に気になる事があり、私に来て欲しいと」
「何かあったんですか?」
「直に聞こう。その前に聞きたい。昨晩、仲達は眠っていような?」
「はい。今朝、私が話しかけても身動ぎもせず」
「…そうか。それを聞いて安堵した」

廊下を歩き、城門を通り階段を下りていく。
曹丕様が話を続けた。

「先日まで私が伏せっていてな…。仲達が寝ずに私を看てくれていた」
「傷は酷いのですか?」
「大事ない。良くなってきている」

兄上の問いに曹丕様が眉を寄せて答えた。
俺は空気を読めない訳じゃないけれど、どうしても気になって曹丕様に振り向いた。

「あの」
「何だ?」
「その、あんまり言いたくないかもしれないんですけど…赤壁は」
「ああ、聞きたいのか」
「はい。まだ戦も経験してない俺が聞くのも何ですけど…」
「…出来れば私にも」
「良かろう」

兄上も俺に合わせてくれて、歩く歩幅が遅くなった。
家につくまでという条件で、曹丕様は俺達に戦の話をしてくれた。

「正直、死ぬかと思った」
「…あなた様からそのような言葉を聞くなど」
「今まで、戦勝の話しか聞いたことないです」
「完敗だ。父も私も、勢力や数に驕っていたのやもしれぬ。壊滅、と言う言葉に近しい死者を見た」

曹丕様は自軍と敵軍の立場から赤壁の話をしてくれた。
策略。思惑。数の大差。
全ては炎に焼き尽くされたと言う。
曹操様を逃がす為に、自ら死地に残った事も話してくれた。


話が終わり、家の門前に着いた。
曹丕様が胸元を正す。

「仲達の子らよ」
「はい」
「はい」
「軍師の席が空いてしまった、と父は私に言った。近い内に沙汰があるやもしれん」
「それは…」
「それって」
「私は、戦場にまで伴うつもりはないのだが…な。父の命であれば逆らえまい」
「公子様、お待ちしておりました」

出迎えた母上が曹丕様に一礼をして扉を開けた。







仲達の妻、春華が私を招き入れた。
師と昭に声を掛け、春華は二人に肉まんを渡して別の部屋に下がらせた。
師は嬉しそうに肉まんを頬張り、昭は何処か我等を気にして歩いて行った。

春華に向き直る。
春華は仲達の眠る部屋に案内をしてくれているようだ。

「幾分、久しい」
「公子様に御足労をお掛けし申し訳ありません。傷の具合は如何ですか?」
「大事ない。して、手紙の話を聞きたい」
「旦那様はまだ夢の中ですの」
「…起こしてやるな。私が疲れさせてしまった」

扉を開けると寝台に仲達が眠っていた。
静かな寝息が聞こえる。熟睡しているようだ。

春華は椅子を二つ用意し、仲達の枕元に近い椅子を私に譲った。

「…かなり無理をさせてしまった。お前達にも心配を掛けたな」
「いいえ。連絡を寄越さないのは旦那様ですもの」
「厳しいな」
「あなた様が心配で堪らなかったのでしょう」
「仲達が何か言ってたか」
「その前に、お茶を煎れますわ」
「すまぬ」

春華は一礼をして、茶を煎れる為一度部屋を出て行った。
仲達の方に振り向き頬を撫でる。

「今暫く、休むがいい。きっとこれからまた忙しくなる…」

頬を撫でると仲達が少し身じろいだ。
起こしてしまうと手を離そうとするも、仲達から手に擦り寄る。

「…公子…」
「…ん?」
「……。」

起こしてしまったのかと仲達に身を寄せたが、仲達は目を覚ましてはいなかった。
私の夢でも見ているのかと椅子から立ち上がり、仲達の顔近くに顔を寄せる。

「どうした?」
「…子桓…さま」

仲達の頬に涙が伝っていた。
夢の中でも心配させてしまっているのだろうか。
その頬の涙に口付けるように、唇を寄せた。

「昨晩からその調子ですの」
「…見られてしまったか」
「知ってましたわ。旦那様は秘密にしたかったのでしょうけれど」
「仲達を攻めてくれるな…。私が惚れたのだ」
「ふふ。公子様がそう仰るのなら、旦那様には秘密にしましょう」

春華が茶を煎れて戻ってきた。
仲達を挟んで向かい側に春華は座り、仲達の頬に口付けた。

「旦那様が帰って来ない理由も、旦那様を見てしまえば解ります」
「すまない。それ程までに仲達に心配させてしまったか…」
「もう御加減は宜しいのでしょう?」
「大事ない」
「旦那様を抱き締めて差し上げまして?」
「ああ、一頻り」
「それ以上の事もしたのでしょう?」
「…隠し事は出来ぬな」
「旦那様を沢山愛して差し上げて。旦那様は寂しがり屋の癖に、我慢してばかり」
「承知した」
「ですが、私も旦那様を愛しています。公子様には負けません事よ?」
「ふ、恐れ入る」

春華は何もかも解っているのだろう。
私が仲達を抱いた事も解っているのだろうか。
春華は仲達に何度か口付け、唇を塞ぐ。
息苦しくなった仲達が身動ぎ、目を覚ました。

「……?」
「よく眠れまして?」
「春華?」
「旦那様を案じて、公子様がいらしてます」
「?!」
「少しは休めたか?」
「!!?」

私が居るとは思わなかったのだろう。
仲達は慌てふためいて身を起こしたが、春華が胸に埋めて落ち着かせた。

「何故公子が…」
「旦那様ったら、自覚はないのですね」
「何の話だ?」
「ふふ。旦那様の分もお茶を煎れました。お腹空いたでしょう?」
「うむ…」
「公子様と待っていらして?」
「ああ…」

春華は仲達の額に口付ける。
私に目線を合わせて笑い、春華は仲達の髪を撫でて部屋を退室した。

二人きりになり、茶を啜る。

「何故公子が此処に?」
「お前の細君に呼ばれた」
「申し訳ありません…」
「いや、よく気が付く良い女ではないか」
「…?」

仲達はよく解っていないようだ。
寝起きでとろけている瞳に唇を寄せ、仲達の肩を引き寄せ胸に埋めた。
私の胸に仲達は触れて目を閉じる。

「もうお体はよろしいのですか?熱は?」
「大事ない。お前こそ、少しは眠れたのか?」
「はい」
「お前が倒れまいか、気が気ではなかった」
「私は大丈夫です。少し疲れただけですから」
「少し、か?」

帰国した私の姿を見るなり、今にも泣きそうな顔で私の無事を喜んだ。

日々私の身を案じながら、仲達は押し寄せる大量の執務を片付けていた。
書官がいないので、書簡を片付ける者がおらず仲達に執務が回ってきているのだろう。

毎晩遅くまで仲達は執務に追われ、私が帰国した真夜中に寝室を訪れた。
二人きりになり、仲達は漸く涙を流した。

私はその夜は酷い熱で、殆ど仲達と話す事が出来なかった。
珍しく仲達から唇を合わせ、私に身を寄せた。
寂しくてたまらなかったのだろうか、仲達から何度も唇を合わせてくれた。

止める事が出来ず、そのまま仲達に誘われるようにその身を抱いた。
私が熱に浮かされていたのを気にして、仲達から腰を揺らして涙を流していた。
情事に積極的ではない仲達には珍しく、自ら。
私を想う気持ちが伝わり、一頻り強く抱き締めた。

朝には仲達の姿はなく、執務に駆り出されていた。
真夜中には私に会いに来る。
仲達が全く眠れていないのだと気付き、執務を私の命で止めて家に帰した。


漸くゆっくりと眠れたのであろう。
やはり自宅に帰したのは正解だった。
仲達に厳しい春華ではあったが、仲達の体調を察してくれるものと踏んでいたからだ。

「仲達」
「はい…」
「まだ横になっていろ」
「…もう平気ですよ」
「瞼を腫らせて何を言うか」

仲達の瞼に唇を寄せ、そのまま唇に口付けた。
仲達が少し口を開いたので、そのまま舌を絡めるように深く口付け寝台に寝かせた。
唇を離す際に、仲達が私の唇を指でなぞる。

「…どうした?」
「少し怖い夢を見たのです…」
「私を呼んでいた」
「公子を?」
「今日は一日傍に居るつもりだ」

扉が開く音がして、春華が盆に料理を乗せてやってきた。
仲達が部屋を出て行ったので、春華を手伝う。

春華は笑って、私に礼を言い小声で話した。

「旦那様は落ち着きまして?」
「ああ。だがまだ眠らせてやってくれぬか」
「公子様は、どうされるおつもり?」
「傍についていたいのだが、構わぬか?」
「私に許可など、必要ないでしょう?」
「仲達よりそなたに許可を得なければと思ったまでだ」
「ふふ、よくお解りで」
「仲達の事なら私に任せよ。私のせいだ。責任は取る」
「なれば、公子様にお任せしようかしら」

食事の支度が終わり、仲達を呼んだ。
顔を洗っていたのか、布巾で顔を擦っている。
私達の会話は聞かれていないようだ。


春華が其れを見て、仲達の髪を結う。

「すまぬ」
「御髪が随分伸びましたね」
「そのようだ」
「私にも触れさせてくれぬか」
「ええ、どうぞ」

春華と仲達を挟むようにしてその髪に触れた。
私は仲達の黒髪が好きだった。
春華が私に櫛を渡し、髪をとかすよう促す。

「旦那様」
「何だ」
「公子様が髪をとかして下さるそうよ」
「!」
「旦那様。食事を終えたら、湯浴みをしていらして」
「ああ…そうしよう」
「ふふ、お背中を流して頂いても構いませんわ」
「それは私に言っているのか?」
「!」
「旦那様、お顔が真っ赤よ?」
「うう…」

春華は私に仲達と湯浴みをして来いと話す。
仲達の顔が赤くなったのを春華は見逃さず、仲達の頬をふにふにと摘んだ。
仲達のそういった仕種が可愛らしいと思うのは春華も同じらしく、私も仲達の頬を撫でた。

「二人とも何して」
「ふふ。可愛らしい方」
「無意識か?仲達」
「何が…?」
「公子様も旦那様が可愛らしいと」
「っ…、そのような事はない」

仲達は私達から逃げるようにして椅子に座った。
春華と顔を見合わせて、笑う。

「子猫みたいでしょう?」
「そう言われれば、そう思わなくもない」
「構って、苛めたくなってしまいますの」
「余り苛めてやるなよ」
「公子様だって旦那様を泣かせている癖に」
「…そう言ってくれるな」

春華とは話が合うが、私よりも仲達に構いたいらしい。
私が仲達を一人占めしているからだろうか。

春華が隣に座って、私と仲達に箸を渡した。
春華が私の分も軽食を作ってくれたらしい。

「公子様も召し上がって下さいませ」
「すまぬ。馳走になる」
「旦那様の好物を用意しましたの」
「!」

仲達が何処となく嬉しそうに料理を口に運んでいた。
春華が顔を綻ばせて笑い、仲達の世話を焼いていた。

何だかんだと仲達に厳しい発言が目立つものの、仲達を思っている事が私には解った。
春華も仲達と同じ、何処か素直ではない。
素直に仲達が心配だったとは言わない。

「似た者夫婦か」
「何です?」
「いや、何でもない」

春華の笑みに首を横に振って答え、茶を飲んだ。





食後。
仲達が軍師にされるかもしれない旨を、仲達本人と春華に伝えた。

仲達は別段驚く事もなく、そうなると思っていたと言った。
春華は顔をしかめて、仲達の手を握る。

「春華?」
「では旦那様は、戦場へ駆り出されるのですね」
「…そうなるな」
「旦那様はさして腕力がある訳でもございませんのに」
「軍師なれば、前線に置かれる訳ではあるまい」
「では、護られた砦の上から沢山人を殺せと仰るのですね」
「…何だ、春華。言いたい事があれば話せ」
「旦那様は本当に鈍感な人」

春華は仲達の身を案じているのだろう。
仲達自身は気付いていない。
少し溜息を吐いて、春華は仲達の手を離した。

私の前に立ち、片膝をついて春華は私と仲達の手を取る。

「あなた様の為ならば、旦那様はきっと何処までもついて行くでしょう」
「違いない」
「春華?」
「お約束して下さい。私達の大切な人を護ると」
「約束しよう。私も仲達が傷付くのは堪えられん」
「公子…、それでは私の立場が」
「旦那様は黙っていらして」
「お前は私が護ってやる」
「…ですから、それでは私の立場が」
「旦那様が不甲斐なかったら、私も戦場に立ちますわ」
「信用されてないな…」
「公子様は旦那様が心労で倒れる前に、お体を養生なさって下さいませ」
「痛み入る。そうしよう」

私の手を離し、仲達の掌に口付けを落として春華は仲達を胸に埋めた。
仲達には見えていないだろうが、春華は仲達が心配で仕方ないらしい。
私も仲達が心配で仕方ない。


「私達の大切な人、か。違いない」
「ですから…大切になさって」
「ああ」

春華は仲達から離れ、ふわりと笑った。
本心を悟られていないのか、仲達は首を傾げていた。
私達に気をきかせたのか、春華は湯浴みの支度をすると言って部屋を出て行った。




「春華と話が合うのですか?」
「お前の事となると、な」
「…左様で」
「お前はどちらに妬いているのだ?」
「別に妬いてなど」

私に妬いているのか、春華に妬いているのか。
仲達は何処か憮然としていた。正直、仲達は解りやすい。
軍師には向いていないような気もする。

「仲達」
「はい」
「湯浴み、私も共に入っても良いか」
「お、お好きになさいませ」
「…お前は本当に解りやすいな」
「何ですか」
「いや…、可愛いと思って」
「う、煩いです!何なんですかもう!」

確かに苛めたくもなる。
春華はこれと毎日過ごせるのだから羨ましくなった。
仲達は何処までも鈍感だが、愛しい事に変わりはない。

私達の大切な人、に違いなかった。



春華の声掛けに仲達と共に廊下を歩く。
改めて春華に声を掛けた。

「約束は守る。仲達は任せよ」
「ええ、公子様を信頼しております」
「何の話だ?」
「ふふ、秘密です」
「?」

春華の笑みに、仲達は首を傾げている。
私も笑い、仲達の肩を引き寄せた。


TOP