父上は溜息を吐いて立ち上がり軍装を整える。
そんな怪我で戻る気なのかと父上の腕を掴んだ。
それに先程の物言いも気になる。
父上の血を見て改めて、此処は戦場なんだと怖くなった。
「父上」
「お前は休んでいろ」
「なら、父上だって」
「私を誰だと思っている」
冷ややかに笑うも父上の首筋には冷や汗が流れていた。
もしかしたら痛みを気力で抑えているのかもしれない。
父上は昔から知らない所で無理ばかりする人だったから、きっとそうなんだろう。
怪我した片腕は使えないから、父上の腕を掴むだけで精一杯だったけれどそれでも父上には伝わったみたいだ。
解ったと一言、俺の我が儘に甘んじてくれた。
父上は俺の腫れた頬に触れて苦笑すると、直ぐに俺から離れて寝台に横になって溜息を吐いた。
「後程、曹丕様に会いに行こう。私も頭を下げるが…」
「あ、はい…」
「あの御方とて、色々無理をしておられるのだ。察してやれ」
「…父上は」
「うん?」
「そんなに、曹丕様の事が大事?」
初めての戦。俺は俺で色々鬱憤がたまっていたのだと思う。
不満とか不安とか色々あったけど話す暇がなかった。
何か話せば曹丕様曹丕様って言うのが少し釈然としない。
父上がこんなに無理してんのに、曹丕様は父上に何かしてあげているのだろうか。
父上の枕元に腕を組んで顔を埋め、膝をついて座った。
俺は今相当ふてくされていると思う。
父上はきっと俺達家族よりも曹丕様が大事だって言うだろう。
ああ聞かなきゃよかった、と目を閉じた。
「曹丕様も含めて…、私は皆を護りたいとは思う。私の才を揮う場所は此処であると」
「曹丕様の方が大事ってこと?」
「そうは言っていないだろう。それに、私にどちらかを選べと言うのか」
「俺は父上みたいになれない」
「ほぅ。それは何故」
「俺は皆を護るとか無理です。俺の手の届く範囲が精一杯だ。
なるべく皆死なせたくないけど、俺ってまだまだ…あー、めんどくせ」
「これ、昭」
「すみません。考えがまとまらないので忘れて下さい」
「いつか答えが聞けような?」
「さぁ、どうですかね。
俺はのんべんだらりと家でごろごろしてたいんですけど、父上の子に生まれちゃったからそうもいかなくて」
「…ふむ」
今のはちょっと言い過ぎただろうか。父上は黙ってしまった。
顔を上げて謝ろうとしたら、父上は既に目を閉じていた。
幕舎の入口に人の気配がして振り返る。
「何をしている」
「兄上」
「父上、御容態は如何ですか?」
「掠り傷だ。皆心配し過ぎだ。大事ないと言うのに」
「少々貧血気味と医師は申しておりました。無理はせぬようにと、曹丕様も仰っております」
「あの御方は…、全くもう」
膝をついて父上の枕元に侍る兄上の来訪に少々苦笑し、俺は幕舎を出た。
頭を掻きながら溜息を吐く。
つか父上、曹丕様が好きなんだな。
幕舎を出て暫く歩いていると、目の前から郭淮が走ってきた。
「よぉ、郭淮」
「これは司馬昭殿!怪我をなされたと、お聞き致しましたが」
「いやぁ、別に大したことないって。それよりお手柄じゃん郭淮」
「いえ、私の功績は全てあの御方の采配と夏侯覇殿の協力あっての事。私の実力ではございません」
「相変わらずだな。父上の見舞い?」
「はい。報告も兼ねまして。司馬懿殿の御容態は如何か?」
「本人は大したことないって言ってるけど…、俺のせいで傷付いたようなもんだから」
「して、御自分を責めていらっしゃるのか」
「まぁ…そんな感じ。居心地が悪くて」
「ふむ。司馬昭殿、暫し此処でお待ち下さいませんか。貴方に話したい事がある」
「別にいいけど」
「暫しお待ちを」
郭淮は急ぎ足で父上の居る幕舎に走った。
暫くして幕舎を出ると、俺の元に走ってやって来た。
待たせた事を郭淮は詫びて、俺と一緒に陣中内を歩きながら話を始めた。
父上のように采配を行う傍ら、兵卒達を気にかけて声を掛ける。
郭淮も張コウ将軍も本当によく気がついて、気が利く。
話し方や態度を見ているだけで父上が慕われているのも、父上が慕っているのも持ちつ持たれつの良い関係なのだろうと言う事が読み取れた。
「父上には会えた?」
「はい。あの御方は、私にとっての天。日の光のようなものでございます」
「大袈裟だっての。そんな事ないって。家では部屋に籠もってばっかだし」
「左様か。お労しいお姿でしたが、さほど大事には至らぬ傷で何よりでした…。
私よりも曹丕殿の方が動揺は隠せていない御様子」
「ああ、だろうなぁ…。はぁ…」
「…。司馬懿殿の心情をお察しし、少々踏み込んだお話しを聞きました。
司馬師殿、そして司馬昭殿を真に愛されておいでなのでしょう」
「兄上はともかく、俺が?誰に?」
「私が司馬懿殿以外の話をしましたか?」
郭淮が父上を崇拝してるのは相変わらずみたいだ。
そんな郭淮に父上は色々と相談したのだろう。
郭淮はひとつ咳払いをすると、俺に向き直った。
「私は武将ではないから、剣を振るう事がない。兵卒らには高みの見物だと思われているだろう」
「?」
「人を殺す所を子供達に見せたくなかった。また子供達に人殺しをさせたくなかった」
「父上がそう言ってたのか?」
「はい。本当はもっと家に居て子供達の傍に居てやりたかった、戦などさせたくなかったと仰っていました」
あの厳しい父上がそんな事を言っていたなんて俄かに信じがたい。
それに今更、今更だ。
今更そんな事言われたって、俺にどうしろってんだ。
もうこの手は他人の血に汚れてる。
兄上なんて俺より手慣れてる。
「…父上が俺を庇う事なんてなかったんだ。
総大将なんだぞ。父上がまさか何も考えていない訳ないだろうけど」
「何も考えられなかった、と仰っていましたよ」
「え…」
「体が勝手に動いてしまった、と」
いつも俺に厳しくて、氷みたいな冷たい瞳をしている癖に何でそんな事言うんだよ。
郭淮から聞く父上の話は、俺の知ってる父上らしくない話ばかりだ。
自分が傷付くって、解らない訳でもないだろうに。
「今更、そんな事言われたって。俺、父上にそんな風に言われた事ないし」
「まぁ、そうでしょうな。ですからあの御方は御自分に厳しい。
司馬昭殿の失態は司馬懿殿の責任となるでしょう」
「父上は何も失態なんてしてないだろ。俺のせいなんだから」
「責任を取る。それが指揮官、そして親と言うものです。
どんなに大きくなったところで親子の関係は変わりますまい」
「なになに?何の話?」
「夏侯覇」
何も知らない顔をして、通りすがりの夏侯覇が足を止めた。
郭淮が事情を話すと、夏侯覇はからからと笑う。
「素直じゃないなぁ、司馬懿殿は。司馬昭殿もだ」
「夏侯覇殿もそう思われるか」
「何が?」
「自覚ないんだな司馬昭殿。ならきっと司馬懿殿もそうだ」
「??」
「俺の父さんもそうだった。自分が傷付いても構わない、軍を差し置いても助けたいって思っちゃうんだってさ。
俺もそう思うよ。俺にもし子供がいたら、やっぱり俺も無意識に助けるね」
「それが親子でしょう。先の時代から子よりも親が大事とされてきましたが、そんな事はないのです」
「お前の代わりは何処にもいないと言う事だ」
夏侯覇と郭淮の言葉に被せるように背後から声がした。
曹丕様の姿を確認して、三人とも頭を下げる。
曹丕様は夏侯覇と郭淮にいくつか指示を出した後に、張コウ将軍を指差した。
「あのお人好しを余り無理させるな」
「何と!ああ、安静にしていて下さいと申し上げたのに!」
「いやいやいや張コウ、無理すんなよ?俺達も手伝うからさ」
「おや、お二方。私は大丈夫ですよ。張儁乂、これしきの事で先陣が務まりましょうか!」
「あーもう、解った解った。今から曹操様や父さんが来るから、あんま急がなくても大丈夫だって」
「それはそれは」
「皆で帰り支度と致しましょう」
張コウが力仕事を率先して行っているのを見て、郭淮と夏侯覇が走り、談笑をしながら手伝っていた。
少し遠方にいらっしゃる曹操様や夏侯淵将軍らも此方の軍に合流するらしい。
明らかな戦勝、という結果ではないけれど、この戦の目的は果たした事になるだろうか。
隣に立つ曹丕様と目が合うなり俺は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした…」
「否。私こそ大人気なかった」
「と、仰いますと」
「仲達の代わりだ。あれはまだ父親に成りきれない。
…否、自制心の強い仲達が気持ちを抑え過ぎたあまりに、己自身の立ち位置を忘れてしまったのだろう」
「はぁ…」
「あれはお前達に手をあげる事がない。仲達は春華よりもお前達に甘い。
故に私が代わりにお前を叩いた。すまなかったな」
「躾ですか」
「軍律を乱せばどうなるか、思い知っただろう」
「はい。でも、父上だって俺を叩いたりしますよ」
「あくまでも軽く、だろう。これで二回目だ」
「二回目?」
「師の初陣はもっと酷かった」
「え?」
「何だ、仲達から聞いていないのか。ならば私から話してやる」
曹丕様は苦笑した後、俺を一瞥して歩いた。
付いて来いと言う事なのだろう。
幕舎から出て来た兄上を見つけて首根っこを掴むように引きずり、曹丕様は俺の前に立たせた。
「何ですか急に」
あの兄上が借りてきた猫みたいな扱いをされていて少し笑った。
兄上は曹丕様が苦手だった。
俺には似たもの同士だと思う。
曹丕様は兄上の頬を摘みながら笑う。
「怒ると目元が本当に仲達に似ているな」
「何ですか」
「お前の初陣は酷かった、と言う話を昭にな」
「…申し訳ありません」
「何があったんです?兄上」
兄上が俺を一瞥し口を噤むが、曹丕様が目線で促し兄上は苦々しい表情で語り始めた。
「策は順調だった。人を殺める事に何の抵抗もなかった。ふと気を抜いた際に…私は殺されかけた」
「え?そんな話聞いてないんですけど」
「聞かれなかったからな」
「でも、何とかなったんですよね?」
「…父上が咄嗟に私を庇った為、事なきを得た」
「あ…」
「傷付けたくない、護りたいと思う方ほど、思い通りにいかない。戦場では子とは思わんと仰った御本人が…」
「あれは、仲達が自分に言い聞かせているのだ。彼奴は、お前達が心配で仕方ない」
「…血塗れの父上に抱き留められた私は、まるで幼子のようだった…。
父上の血に濡れて、とても怖かった。
この御方を、自分のせいで失ってしまうかもしれないと思ったら、堪えきれなかった」
色々と思い出したのか、兄上は今にも泣き出しそうな顔をして、目元を拭うと曹丕様に向き直った。
「あの時は本当に、申し訳ありませんでした」
「何、過ぎた事であろう」
「人一倍、狼狽なさった癖に」
「当然だ。あれは私のものだぞ」
「私の父上です」
「ま、まぁまぁ」
曹丕様の一言に兄上がむっとし、俺が間に入って今にも始まりそうな口論を止めた。
そんな話をしていると前方にしずしずと父上が歩いているのが見えた。
もう幕舎から出て来て良いのだろうか。
口論しかけてる曹丕様と兄上を余所に、父上の元に駆けつけ抱き締めた。
父上は身動き出来ず疑問符を沢山浮かべた顔で俺の肩口に埋まる。
「昭?」
「ごめんなさい。ごめんなさい、父上」
「…もう、よいわ。次はないぞ」
父上が俺の頭を少し背伸びをして撫でた。
昔は俺が一番小さかったのに、いつの間にか父上よりも兄上よりも大きくなった。
小さな父上の肩口に埋まるようにして、呟く。
「はい。だから、父上」
「うん?」
「父上も父上になって下さい」
「?」
「軍師とか総大将とか確かに父上はどんどん偉くなっていくけど、父上はたったひとりの俺の父上には代わりないから」
「…ふ、そうだな。そうだった。なれば司馬懿はお前達の父に戻ろう」
「はい!その方がいいです」
「腕は大事ないか?護ってやれず、声もかけてやれずすまなかった。それに頬も腫らして」
「はは、やっぱ俺の父上は父上がいいです」
「?」
父上が軍師から父上に戻るなり、俺の心配ばっかしてて笑った。
まぁ、確かに腕は痛い。
腕は痛いけど、家族なのにずっと素っ気なかった父上が俺を見て話してくれるのが嬉しかった。
ふと、俺の腕に触れていた父上の手が目の前から離れた。
あれ?と思って顔をあげたら父上は曹丕様の胸の中に埋まっていた。
「もう良いのか」
「私は掠り傷だと仰いましたのに」
「心配性すぎやしませんか曹丕様」
「大切なものを傷付けられたら、私とて怒る」
「…子供」
「なに?」
「貴方は師よりも昭よりも子供ですね。
私がいないと駄目なのですか?幾つになられたと言うのです」
「ああ、駄目だ」
「言い切った…だ…と」
「ふ、ははは」
「はっはははは」
父上と曹丕様の痴話喧嘩に兄上と笑う。
父上と曹丕様も目を合わせて笑っていた。
どうせ戦うなら、俺はこの人達の為に戦いたい。
「もっと強くならなきゃな。はぁ…めんどく」
「昭」
「ああ、はい、すみません」
「お前と言う奴は」
「はは、やっぱり父上はそうでないと」
父上に睨まれながらも、何処かそれが嬉しくてまた笑った。