俺が父上の腰帯くらいの身丈だった頃。
兄上もまだこの頃は俺よりも少し大きいくらいで、よく後ろに付いて歩いて遊んで貰った。
寒いと父上にぐずると、父上は自分の上着を被せてふわふわの腰掛けで包んでくれた。
兄上にも同様に、寒くないようにと首掛けを巻く。
父上が薄着になってしまった事を気にして甘えるように擦り寄ると、笑いながら甘えさせてくれた。
父上は子供の俺から見て、ちょっと過保護だとは思っていた。
だけど、本当はとても厳しい人だった。
十七か十八になる位の頃の話だ。
「聞いているのか、昭」
「あー…、はいはい。聞いてますよ」
「返事は一度」
「はい、すいません」
存分に甘えさせてくれた子供の頃が懐かしい。
父上も兄上も追い抜いた身丈になる頃には、父上は全く甘えさせてくれなくなった。
寧ろ距離を感じるくらい、その言動は厳しい。
優しかったあの頃が寧ろ偽りだったんじゃないか、って思う位には最近父上は俺に厳しい。
と言うのも、父上が転戦している戦のひとつに俺が同行する事になったからだ。
俺にとっては初陣になる。
兄上は二年前くらいに初陣を済ませた。
初陣を済ませ、帰宅した兄上が平静な顔をしながらも、何処か血の匂いがしたのを覚えている。
深夜に父上と二人で話をしているのを目にしてから、殊更に兄上は父上に従順になった。
元から兄上は父上の事が大好きだったけど、それがもっと酷くなったような気がする。
兄上の初陣で何かあったらしい。
この時代、子が親に認められるひとつの方法として戦がある。
父上が国の軍師である以上、それは避けられない事なんだろう。
武力でも、知略でも良い。力のない者はこの国では生き残れない。
正直言うと、俺は戦とか苦手で。
間接的に、策で大量に人を殺している父上が怖いと思う時もあった。
兄上の剣に血がこびり付いているのを見て恐ろしいとも思った。
敵は今更話して解る相手じゃない。
人を殺して褒められる世の中だ。
初陣を成していない俺の考えはきっと甘いんだろう。
父上に言ったら悉く論破されるだろうし、兄上に言ったら鼻で笑われそうだ。
俺の気持ちを誰かに話すつもりもなかった。
数日後に控えた初陣は、父上が総大将で兄上も参戦する。
どうやら曹丕様も参戦するらしい。
曹丕様は父上を直属の部下に持つこの国の公子だ。
父上は曹丕様が幼い頃からの側近で、俺が子供の頃から父上の傍には曹丕様が居た。
幼い頃の俺は曹丕様によく抱っこされてたらしい。
俺としては父親がもう一人居るような感覚で、曹丕様が父上の傍にいるのは普通だった。
つんけんしている父上や兄上とは違い、曹丕様は冷徹な眼差しでいて物言いは素直だから話しやすい。
今回曹丕様が参陣する理由は、父上に代わり総大将を任せられる人、と言う事らしい。
父上の補佐、或いは曹操様から何か言われているのだろうか。
曹丕様が参戦されるのなら、実質的に総大将は曹丕様なんだろう。
小さな戦ひとつであれど、曹操様に逐一報告が行く国だ。
才を認められている父上だってその例外じゃない。
「以上。復習しておくように」
長い長い父上の軍略に関する講義が漸く終わって
溜息を吐く。
卓に突っ伏すと父上に頭を羽扇で叩かれた。
「っ、痛いですよー」
「昭、聞いていたのか?」
「はいはい。復習しときまーす」
めんどくせ…、と言葉にすると父上を怒らせるだけなので黙っておいた。
眉を寄せて溜息を吐く父上の表情は相変わらず険しく、澄ましている。
「何度も言うが、軍令違反は厳罰。私が指揮を取る戦とて同様だ。例外はない」
「はい。言うこと聞きなさいって事ですね」
「…戦場では、何があろうとも私はお前達の父親にはなれない」
「…?」
「肝に命じておくように」
それだけ言うと父上は席を立った。
入れ違いに兄上が室に入り、扉の先には曹丕様の姿も見えた。
父上を待っていたのだろう。
兄上も曹丕様に気付いて頭を下げた。
曹丕様が俺に気付いたのか、父上と兄上を下げて室に入ってきた。
立ち上がり頭を下げる。
「初陣だそうだな」
「はい」
「親の前で初陣というのは、如何なる心境か」
「緊張しますけど、父上と兄上も居ますし…あんまり不安には思っていないです」
「それは頼もしい限りだな。私も初陣はお前くらいの歳だった」
何処か懐かしむように曹丕様は俺の肩を叩くと、両袖に手を入れて静かに傍に控える父上を見た。
「師の時もそうであったな」
「はい…。戦場では私は軍師にしかなれませぬ故」
「何。仲達が居れば直ぐに終わる戦であろう」
「はっ…」
曹丕様は父上を伴い、室を出て行った。
兄上と共に頭を下げる。
戦場では父親になれず軍師にしかなれない、ってどういう意味だろう。
何となく父上の言葉が引っ掛かって、兄上に声を掛けた。
「初陣ってどうでした?」
「どうという事はない」
「戦場での父上は、父上じゃないんですか?」
「…ああ、少なくともお前の知る父上ではないな」
「どういう意味です?」
「己が目で見るが良い。父上に迷惑は掛けるなよ」
「はぁ…、よく解りませんけど解りました」
やっぱり何かあったらしい。
今は聞く雰囲気じゃないなと兄上の機嫌を伺いつつ、父上の講義内容をまとめた。
行軍を行う魏軍の真ん中くらい。
兄上と一緒に配置されて行軍に加わった。
父上と曹丕様は少し後ろに控えている。
先頭には張コウや郭淮や夏侯覇がいるらしい。
定軍山に程近い辺境、国境内で軍は止まり陣を敷いた。
陣地に着いたのは夜で、夜営の支度を手伝う。
資材を運ぶ折、父上達が幕舎の帷の隙間から見えた。
曹丕様の隣で父上は淡々と諸将らと軍議をしているようだ。
執務室で見る時の眼差しと何ら変わりはない。
相変わらず冷ややかな眼差しだった。
父上は、人を殺す事に抵抗がない人なんだろうか。
冷ややかな瞳はそう見えた。
俺の任務を父上から言伝される。
今回の戦は撃退戦。
国境を越えて侵入してきた蜀軍を退却させるのが狙いだ。
対蜀に関しては父上が指名される事は多い。
曹操様が父上の手腕を買っているのだろう。
曹丕様と父上は本陣から指示を出し、策を仕掛けると言う。
本陣に何があっても前線を後退させ、ある程度交戦したら両翼に退けとの事だった。
策の内容については詳しくは教えてくれなかった。
俺には本陣が手薄になるって意味合いに聞こえる。
「大丈夫なんですか?」
「程々に撤退せよ。良いな」
「…父上が、心配ですよ」
「策だと言っているだろうが」
俺の不安が父上に伝わったのか、久しぶりに二人きりで話した際に父上は俺の胸を叩いた。
俺よりも小さくて細い体なのに、その瞳には自信に満ちている。
「軍を伴えとは言わん。騎馬で師の後ろに居るが良い」
「……。」
急に甘えたくなって、立ち去ろうとした父上の手を引っ張った。
今の父上が甘えさせてくれるかは解らない。
「昭?」
「何でも、ないです」
「…怖いか?」
「…はい」
下を向いたまま素直に頷くと、父上は俺の頬を撫でた。
こんな風に優しく触れられるのは久しぶりで嬉しくて目を閉じる。
父上は俺の手にひとつの小刀を握らせた。
「護刀だ。胸元にでも入れておけ」
「はい…」
「…お前はやれば出来る子なのだから、期待している」
「そんなこと、ないです」
「お前は自覚がないだけだ。無理は禁物。己が力量を弁え、危機ならば師を頼れ」
「父上」
「うん?」
「父上、…死なないで、下さいね」
「…ふ、私を誰だと思っている」
少し手を伸ばして俺の頭を撫でる父上の手を握った。
俺は軽口で話すけど、本当は怖くて堪らなかったんだ。
「仲達」
「はい。今参ります」
幕舎の外から曹丕様の声が聞こえて、父上は立ち去った。
それきり父上とは二人きりで話していない。
自分の目に見える距離で蜀軍を確認したのは数日前。
張コウが前線で敵を陣地内に誘導しているらしい。
郭淮が援軍で駆り出され、兄上もいずれ前線に出ると言う。
父上の指示で、目標の場所にじわじわと敵軍をおびき寄せているらしい。
戦が始まってしまうと、父上や曹丕様と直接話す機会など滅多になかった。
歩兵達や小隊長の話なんかを聞くと、父上や曹丕様は雲の上の人らしい。
正直そんな風には思えなかったが、軍に馴染むと確かに距離を感じた。
皆の話を聞くと、意気込みを語る者や切々と語る者など様々だ。
父上と曹丕様は慕われていたし、何処か恐れられてもいた。
「俺にはそんな風には思えないけどな。父上は父上だし」
「いやいやいや、戦に行ったら解るって。怒らせたら超怖いし、敵に回したくないね」
「ああ、それは解るわ」
「司馬懿殿を息子としてではなく、将の立場から見てみたらいずれ解る事でしょう」
「そんなもんかねぇ」
「司馬懿殿は、とても美しい方ですよ。因みに見た目だけの話ではありません」
「はぁ…」
夏侯覇と郭淮と張コウ将軍に城門の前でそう言われた。
張コウ将軍は父上がお気に入りらしく、よく父上に構っているのを見てる。
普段は紳士的で物腰柔らかいが、これでも魏の五将軍に数えられ武力はかなりのものだった。
郭淮と夏侯覇は昔からよく知っていたし、今更って感じだ。
父上が気を利かせたのか、曹丕様なのか曹操様なのか解らないが陣内は俺の顔見知りばかりだ。
諸将の働きあってか、統率力も士気も高い。
伝令が届いた。
いよいよ持って前線へ向かう際、兄上に肩を叩かれた。
「兄上?」
「始めは、見ているだけで良い。私の後ろに居ろ」
「はい。兄上、父上は?」
「彼処だ」
後方の高台に父上が羽扇を持って佇んでいた。
少し後ろに曹丕様が剣を持って立っている。
兄上は父上を見つめその場で軍礼を取った。
「…兄上?」
「私は初陣で窮地に陥り、父上の策に救われたのだ」
「…そうだったんですね」
兄上が父上に陶酔するのはそのせいか、と何となく思った。
父上の右腕とはいかなくとも、兄上は兄上で武力も知略も冴えている。
「戦場を掌握した父上の策は美しい」
「兄上、張コウ将軍みたいな事を言ってますね」
「…父上は今や、魏の司馬懿だ。父上の強さが今に解るだろう」
「うーん…やっぱり父上は父上としか」
「ふ、行くぞ」
門が開き、馬の腹を蹴って初めての戦場に駆け出した。