曹丕様は姜維に斬りかかったが、槍で防がれた。
もう一方の剣で弓を斬り壊した。
「っく…!曹丕が出てきたか!」
「仲達」
「…掠っただけです」
「!!」
父上は首筋を抑えて態勢を立て直し武器を取った。
矢は地に刺さっていただけで、父上の体を貫いてはいなかった。
父上は矢を避けてはいたが、首筋と頬は斬れて血が流れていた。
安堵すると尚更左肩に刺さった矢に激しい痛みを感じる。
俺も曹丕様に加勢したいが、腕が動かない。
「下がっていろ、昭」
「父上っ…!」
父上はそれ以上何も言わず、羽扇を捨てて剣を取った。
父上が剣を使うところなんて初めて見た。
曹丕様が父上の身を案じるも、父上は曹丕様の心配を余所に姜維を追い詰めた。
軍師とは高みの見物だと、と俺は何処かでそう思っていたのかもしれない。
父上は俺が思っていたよりも遥かに強かった。
曹丕様と父上に攻め込まれ、徐々に姜維は推されていく。
姜維は手負いの父上を狙うが、曹丕様が父上を護るように応戦していた。
曹丕様は父上に退がっていろと言わんばかりだった。
それでも父上は退かなかった。
父上は護られるばかりは嫌だと言わんばかりに羽扇を拾い、姜維に向き直る。
「諸葛亮の言い様に誑かされたか」
「違う!そうではない!私はあの御方に感銘を受けたのだ!」
「安い感情論だな。よりにもよって蜀に寝返るとは。相応の覚悟は出来ていような」
「っく、曹丕と司馬懿二人では分が悪すぎるか…。
いや、司馬懿に一矢届いただけでも良しとしよう。退くっ!」
「逃がすか」
「…深追いは無用です。策なら既に」
正面を向いたまま後退りする姜維に対し曹丕様は追撃態勢を取ったが、父上が首筋を抑えて膝を付いた。
父上の首回りが真っ赤になっている。
「…仲達」
「大丈夫です…」
父上は俺を一瞥した後、首筋を抑えて再び立ち上がった。
まだ血が止まっていない。
父上はひとつ溜息を吐き、崖下を見やった後に曹丕様に向き直った。
「…、郭淮と夏侯覇が上手く動いたようです。
最早馬超と馬岱に破竹の勢いはございますまい。袋の鼠です」
「策は成ったか」
「何?」
父上と曹丕様が見つめる先には二つの狼煙が見えた。
策が成った、と父上は笑みを浮かべて立ち上がり、羽扇を持ち姜維に向ける。
「っ、!」
「貴様に一つ教えてやろう。私こそが囮だ。
遊軍が本陣を陥落せんと息づいたようだが、貴様等は深く斬り込み過ぎた。
本隊に通ずる間道は潰してある。さて、本当に逃げられるか見物だな」
「我が軍の別働隊が、今頃貴様等の本陣を急襲している筈だ」
「くっ…!馬超殿、馬岱殿!撤退だ!」
「身の程を知るが良い」
「逃がしはせんぞ」
逃げる姜維に向かって曹丕様と父上は斬り込む。
姜維はその勢いのまま崖下に落ち、見えなくなった。
崖前で曹丕様と父上は立ち止まる。
獅子奮迅の勢いで蜀軍は我先に本陣を駆けて撤退を開始したが、蜀軍は次々に数を減らした。
父上の言葉通りに、蜀軍は散開し壊滅寸前だ。
姜維、馬超、馬岱の姿は見えない。
「なんだこれ…」
思わず口に出た。
こんな数の人の死体を見た事がない。
確かに俺も人の命を奪ったが、こんな数は…。
父上はこの惨状を予期した上で、何の躊躇いもなく策を実行するのか。
曹丕様は全てを知った上で許可するのか。
一人殺しただけでも胸が痛むのに、父上は無表情で何百、何万と殺す。
寧ろ冷たく涼しい顔すらして。
父上は眼下を見下ろし追撃の指示を出していく。
身振り手振りが崖下の将らには見えているらしく、父上が声を出さずとも兵は動く。
少し背筋が震えた。
父上の策は敵に全く容赦がない。
矢が刺さったままの肩を抑えながら、首筋を抑える父上に近寄り手を伸ばした。
この人は本当に俺の父上なんだろうか。
「父上」
「…昭よ。師から離れるなと」
「ごめんなさい。でも、俺は」
「黙れ」
「っ?!」
父上との会話を遮るように曹丕様が俺に歩み寄り、俺の右頬を叩いた。
父上が目を見開いたが、曹丕様の手前、何もしてはくれなかった。
曹丕様は俺に背を向け父上に向かい合うと、首筋と頬の傷に触れて目を閉じた。
父上の首筋に口付け、汚れた血を吸って地に吐いた。
父上が少し身じろぐが目を閉じて、曹丕様にされるがままになっていた。
そのまま父上の肩を引き寄せ、曹丕様は高台を下りていく。
父上にならまだしも、まさか曹丕様に叩かれるとは思っていなかった。
余りの不意打ちに動けない。
「付いてやれず、すまなかった。此方は落ち着いた。傷を見せろ。まだ矢は抜くなよ」
「…兄上?」
「父上は曹丕様に任せよ。出血は酷いが、幸い傷は深くない。
後程、お見舞いに行こう。私も父上が心配だ」
父上と曹丕様と入れ違いに、兄上が居た。
声を掛けられるまで気が付かなかった。
俺の腫れた頬に気付き、兄上が頬を撫でる。
父上は何もしてくれなかったが、兄上は優しく頬を撫でてくれた。
やばい。何か泣きそうだ。
矢が刺さったままの肩も痛いけど、何よりも胸が痛い。
父上に叩かれるよりも、曹丕様に叩かれる事が怖かった。
俺が勝手に兄上の元を離れた事で、父上の元に敵を近付けさせすぎてしまった。
俺は泳がされていたんだ。
敵を引き連れている事に気付かず、父上を危険な目に合わせてしまった。父上を傷付けてしまった。
曹丕様は其れを怒ったんだろう。
勝手な真似をして、父上を危険な目に合わせたと。
父上が何よりも大切だから。
父上も俺より、曹丕様なんだろうか。
何も言ってはくれなかった。
自分の不甲斐なさが嫌になる。
兄上に付き添われ、高台を下りる。
戦は既に落ち着いていた。
「新兵は狙われやすい」
「…?」
「真っ先に狙われる。それに、利用されやすい。戦に対し忠実だからな」
「忠実?」
「言われた事に忠実、まだ自分の思いにも忠実だ。
お前は、父上に危機を報せようとしたのだろう。あれこそが策とは知らずに」
「はい…。余計な事をしました」
何もかもが予定通り、父上の掌中だった。
俺はそうとは知らずに馬鹿な事をしてしまった。
兄上が肩を叩く。
「否。お前が潜んでいた姜維を引き寄せた事で策は成り、敵本陣への間道を叩けた。
今頃は散り散りであろうよ。この戦の目的は勝利ではない」
「……。曹丕様は未だ、怒ってますかね」
「さてな。曹丕様は恐らく、父親になれぬ父上の代わりをしてくれたのだろう」
「父上の代わり?」
本陣の幕舎の中に父上を連れた曹丕様が入るのが見えた。
正直どんな顔をして会えばいいのか解らない。
兄上が俺の手を引いて、幕舎内で手当てをしてくれた。
左肩に包帯を巻いて貰っていると、張コウ将軍が入ってきた。
「おや、これは失礼」
「いえ。どうぞお座り下さい」
「それでは失礼して。直ぐに行きますからね」
「はい」
「司馬昭殿、お怪我は大丈夫ですか?」
「いや、俺よりも張コウ将軍、それ」
「ふふ、やはり馬超は手強かった。私もまだまだですね」
張コウ将軍は腹を斬られていた。
槍で掠ったような斬り傷から血が滲んでいた。
部下の兵が早急に傷口を抜い、手早く包帯を巻いていく。
少し冷や汗をかいて張コウ将軍は溜息を吐いて立ち上がった。
「よし、では行きますね」
「少し休まれては」
「司馬懿殿がちょっとね。あの方の為ですからもう少し頑張りますよ」
「父上に何か?」
張コウ将軍の言葉が気になり立ち上がった。
「父上に何かあったら…俺のせいだ」
まだ父上の顔を見ていない。
もしかしたら傷の具合が酷いのかもしれない。
悪い方にしか考えられなくて頭を抱えた。
兄上も青ざめて張コウ将軍に詰め寄るが、張コウ将軍は笑った。
「ふふ。曹丕殿と司馬懿殿が子煩悩なのも解る気がします。
含みのある言い方をしてしまってごめんなさい」
「?」
「?」
「今、司馬懿殿は曹丕殿に手当てをされて幕舎で休んでおられます。
昨晩から眠っていなかったとお聞きしましてね。代わりの指揮は曹丕殿が行っています。
ですからお手伝いをしなくてはいけないのです。
実はね、曹丕殿は司馬懿殿より指揮がちょっと危なっかしいのです。これは秘密ですよ」
「へぇ…」
「くれぐれも内緒にして下さいね!勿論、素晴らしい御方なのですか」
「良かった。父上に大事がなくて何よりです。なれば、私も手伝いましょう」
「おや、それはそれは。司馬師殿が手伝って下さるのなら、とても有り難いです」
「兄上、俺も」
「お前は休んでおけ」
「でも、俺だって」
「ふふ。司馬懿殿の所に行ってみては?」
「行って、怒られない…ですかね…」
よりにもよって曹丕様に手を挙げさせてしまった。
相当お怒りなんだろう。
曹丕様が怒っているなら、父上もきっと怒っている。
会うのが怖い。
張コウ将軍は俺の不安を余所ににっこりと笑って肩を叩いた。
「今なら司馬懿殿は軍師ではありませんよ。
行って御覧なさい。貴方の事をとても心配しておられました」
「嘘だ。だって俺には、何も…」
「行って差し上げて下さい。眠っているかもしれませんが」
「…じゃあ、こっそりと」
張コウ将軍と兄上は足早に陣に戻った。
二人を見送ってから父上のいる幕舎の前に立つ。
眠ってますように。
そう願いつつ幕舎の布を開けた。
簡易的に作られた寝台に父上は横になっていた。
父上の顔には冷たく湿らせた布が置いてあった。
顔は見えないが寝息が聞こえる。
良かった。眠ってた。
父上の頬には血止めの布が貼られていて、首には包帯が巻かれていた。
近くには血で汚れた布が置いてある。
傷口はもう縫合されてるんだろう。
父上の傍に座り、首筋に手を伸ばした。
「誰だ」
「…っ!!」
伸ばした手を抑えられ、首筋に向かい羽扇を突きつけられた。
父上は軍装を解いていないし、武器も手放していなかったのだ。
軍師の顔だった。
俺の顔を見てから殺気の隠った色の瞳が少し柔らかくなり、父上は溜息を吐きながら羽扇を置いた。
「…昭?」
「ご、ごめんなさい。お邪魔しました…」
「待て」
立ち去ろうとした。正確には逃げようとしたが、父上が手を離さない。
「肩はもう良いのか」
「…もう、手当てしてもらって、平気です」
「見せてみろ」
「父上?」
俺の腕を力任せに引っ張り、父上は俺に膝をつかせた。
包帯を取らないまでも、父上は少々手荒く俺の肩を見た。
見てから、肩に額を付けて溜息を吐いた。
「私は、軍師には成りきれん…」
「え?」
「…私は、子を楯になど出来ぬ。軍師なれば、そうしたであろう」
「父上?」
ゆっくりと重い口調で語る父上の首筋にはまだ血が滲んでいた。