曹操様の息子、曹丕様。
夏侯淵将軍の息子、夏侯覇。
そして司馬懿の息子は兄上と俺だ。
何だか曹丕様と夏侯覇には親近感を感じる。
親が凄い人だと、やっぱ子供も期待されるもんなのか。
父上と曹丕様は高台の陣中にいる。
兄上は張コウ将軍の話を聞いているみたいだ。
組み木の防護柵を見上げながら背伸びをした。
やっぱ何処か陣中の空気がぴりぴりしてる。
小競り合い程度に敵には遭遇すれど、父上は元より兄上とて武器を構える事なく拠点に到着した。
澄ました顔の父上を遠くに見た。
「遠いなぁ…」
「どうした、昭」
「父上が遠いですね、兄上」
「…仕方あるまい」
隣にいる兄上と遠くにいる父上の背中を見ながら馬で駆けて拠点に入った。
「戦だな。戦かぁ…」
「早く休みなよ司馬昭殿」
声を掛けてきたのは夏侯覇だ。
兜を小脇に抱えて俺を見上げる。
此奴は俺よりも小さい癖に、俺よりも遥かに戦の経験がある。
「なぁ、夏侯覇ってさ」
「何?」
「あー…、その、戦ってどうよ?」
「あの司馬懿殿の息子の司馬昭殿でも不安?」
「父上は関係ないだろ」
「ははは、やっぱそう言われるよな。今のはわざと」
夏侯覇と焚き火を囲んで座った。
ちょっと遅いけど、夜食を食べつつ夏侯覇と暫く話した。
俺みたいに適当に考えているのかと思ったら、夏侯覇は結構真面目だった。
「やっぱ父さんが立派な人だと、嫌でも周りは期待するよ。
俺も昔はそれが嫌だったけど、あの夏侯淵殿の!とか言われたらやっぱ俺頑張んなきゃなぁって思うね」
「お前は父親が歴戦の将軍だもんなぁ。お前もやっぱ弓が上手い訳?」
「いやいやいや!父さんが凄すぎるだけだって!
俺は俺だよ。父さんみたいにはなれないし」
「随分と興味深い話をしているな」
「!」
「曹丕様?」
宵闇に混じって曹丕様が現れた。
上の陣地から様子を見に来たらしい。
曹丕様の隣には父上も居たが、何処か気だるそうにしていた。
具合でも悪いんだろうか。
夏侯覇と共に曹丕様と父上に軍礼を取ると、曹丕様は楽にしろと焚き火の前に座った。
「…子桓様」
「何、少し話したいだけだ。直ぐに戻る」
「では私は少し席を外します。将軍らのところにおりますので」
「ああ、解った」
「昭、曹丕様に失礼のないように」
「…あれ?…はい」
さっきは子桓様と字で読んでいたのに、父上は故意に曹丕様に言い直した。
何か理由がありそうだが、立ち去る父上には聞けなかった。
暫く自分達の父親の話をして、夏侯覇にも曹丕様にも何処か近しいところがある事が解った。
父親みたいになりたいかと言うとそれは違うと、三人とも意見が一致して笑う。
「父さんみたいにはなれないよ。俺は俺だから」
「ああ、まぁそりゃあな。
俺はどちらかと言うと母上に似てるって言われるし。
俺って父上に似てるところとかないんじゃないかなぁ」
「親が偉大だと窮屈、よな」
「曹丕様もそう思いますか?」
「そう思っていた時期もあった。殺されかけた事もある」
「?!」
「権力者の兄弟など仲良くは出来ぬものよ。
周りはどの子を持ち上げれば自分が得をするか、と言う者達で溢れていた」
「うへぁ…」
「兄弟は大切にしておけよ、昭」
曹丕様は少し悲しそうに笑うと、俺の肩を叩いた。
曹丕様の過去形の言葉に首を傾げる。
「いた…?」
「仲達が私の世界を変えてくれた。お前達も良い臣下に恵まれると良いな」
「曹丕様は司馬懿殿を信頼してるんですね」
「ああ。あれは私のものだ」
「つか、父上が何かしましたっけ?」
「…傍に居てくれる。其れだけで良い。
其れを今もしてくれているのは仲達だけだ。それに私個人、仲達が好きでな…」
「曹丕様、昔っからそうですよね。うちの兄上よりも父上にべったりって言うか」
「ふ、あれも淋しがりやだからな」
「父上が?」
曹丕様は父上の事だと嬉しそうに話す。
本当に好きなんだなぁ、父上の事。
夏侯覇は父上の話を聞いて首を傾げていた。
「俺は司馬懿殿がそんな弱いとこ、見た事ないですけどね。
あの御方はいつも涼しい顔で凄い策をぽんぽんと。いやいや本当に、凄い人です」
「はは。父上ってそんな風に見られてんだな。
俺の父上って凄いんだな。家じゃそんな風には見えないけど」
「この初陣、仲達を知る良い機会となるだろう。お前が無理をする必要はない」
夏侯覇も曹丕様も父上を賞賛し褒めてくれた。
俺は父上の事をまだ解ってなかったのかもしれない。
此処にいない父上に代わり、夏侯覇と曹丕様に礼を言って頭を下げた。
「でも何て言うか、頭の良い人達の言う事は難しくて俺には解らない」
「あれは人前では凛として居るが、人一倍無理をしている。誰にも言わぬがな…」
「司馬懿殿が?」
「あんな厳しい父上がまさかそんな事。それに、何で俺や兄上には言ってくれないんですか?」
「彼奴の生き方は策略そのものだ。故に誰かが本音を聞いてやらねばな。
身内の前だとて、軍師であろうという矜持が強いのだろう。
戦場ではお前達の前だとて、彼奴は父親にも司馬仲達にもなれん」
本音を聞く。
父上がきっと無理しているであろう色々な事。
其れはきっと父上の信頼たる主の曹丕様にだけしか聞けない事なんだろうか。
家族にくらい話してくれたっていいのに、父上の中では俺達の順位が低いみたいだ。
俺達の前でも矜持が勝つのか。
子供の頃にあんなに甘えさせてくれた父上にしては冷たくて、ちょっと寂しい。
さり気なく曹丕様は父上の事を語るが、其処に笑みはなかった。
心配。顔にそう書いてある。
曹丕様はちょっと過保護な節があるみたいだ。
「今回の策。当初から私は賛成していない。仲達が矢面に立つ策など許せるものか」
「え…?」
「お前達はおびき寄せる為の囮だと思っているだろうが、本当は」
「其処までです。口をお慎み下さいませ」
いつの間にか父上が居た。
曹丕様の後ろに屈み、口を掌で塞ぐ。
曹丕様はふ…と笑うと父上の頬に触れた。
夏侯覇が軍礼を取ったので、俺も一応礼を取る。
ただ俺にとっては軍師様ってよりは父上で、まだ割り切れていない。
身内だから、何か畏まりたくない。
「師に会ってきました。そろそろ戻りましょう」
「ああ、解っている」
「お前達も早く休め」
「はい。お邪魔しました」
「昭もだ」
「はーい。じゃあ、おやすみなさい父上」
「おやすみ」
父上は俺の背中を叩いて曹丕様の傍に戻り、陣を去って行った。
夏侯覇と軍礼を取り頭を下げるも、やっぱ寂しい。
「昭。お前は仲達によく似ている」
「え?」
「ではな」
去り際に曹丕様が一言、俺の肩を叩いて言った。
見た目では兄上の方が父上に瓜二つだ。俺の何処が父上に似てると言うのだろう。
「司馬昭殿?」
「悪ぃ!ちょっと抜けてくる!直ぐ戻るわ」
「いやいやいや!もー!せめて、陣内から出ないで下さいよー!」
「はいはい、っと」
少し走れば間に合うであろう距離に父上達は留まっている。
ひとつの幕舎の中に入って行ったのを見かけて後を追いかけた。
戦が落ち着くまでは会えないだろう。
父上はまた暫く雲の上の人だ。
顔を見れる内に、父上ともうちょっと話したかった。
きっと俺はまだ、父上の子で居たいんだ。
父上の背中を見つけて幕舎の入り口の布に手を掛けた時、少しくぐもるような声がして手を止めた。
父上は曹丕様の胸に埋まって目を閉じていた。
まるで恋人のように、父上を抱き締めて曹丕様は背中を撫でていた。
「…?」
曹丕様が父上を好きってそういう?
色々考えが頭を過ぎったが、目の前の出来事が事実なんだろう。
何故か俺はその光景を見ても、あまり動揺しなかった。
何処かで、やっぱりと思っていたのかもしれない。
声を掛けるのは止めて、暫く様子を見る事にした。
父上は曹丕様の胸に埋まって目を閉じている。
何か二人だけで話しているらしく、聞き耳を立てた。
「昭も結局、戦に巻き込んでしまいました…」
「時代だと言えばそれまでだが…。少なくともお前のせいではないだろう」
「…一つも失敗出来ません。策が失敗したら師や昭が」
「お前の策だ。万全なのだろう?私はお前を信頼している」
「ですが」
「お前の不安、私なれば全て聞いてやれる。吐き出せば良い。
お前が父親になれぬなら、代わりに私が見守ってやろうか」
「駄目です。そんな…恐れ多い。それにあの子達は私の子です」
曹丕様の前では、父上はまるで女子のように大人しかった。
その言動に棘はなく、父上は曹丕様の胸に体を預けて言葉を続けた。
涼しく冷たい眼をしている、と父上はよく言われるが、曹丕様の前では人間らしかった。
俺や兄上を戦に巻き込みたくなかったと言うのが父上の本音で、戦場では軍師で居なきゃいけない。
子供達が傷付くのは耐えられない。
子供達が傷付いても、手を差し伸べる事すら出来ないと父上は曹丕様に語る。
「私は軍師です…。策は我が武器…。私情で子供達を最優先にする事は出来ません」
「失う覚悟は出来ているのか、仲達」
「はい…、と言いたいところですがとてもとても…。私には無理です…」
兵の前での父上は冷徹で平静だったが、本当は不安で堪らなかったのだろうか。
いつもこうして父上は本当の気持ちを皆に隠していたのだろうか。
そして曹丕様にだけ、何もかも話すのか。
「…その身、任せるが良い」
「…此処は戦場ですよ」
「なれば少しだけな」
曹丕様は父上の顎に手をかけて顔を上に向かせると、そのまま口付けた。
そういう関係なんだろうって解ってはいたものの、目を反らせない。
あの父上が曹丕様にだけにこんなに身も心も開いているのに、俺達には本心すら話してくれない。
それが少し寂しかった。
子供の頃はあんなに色々話してくれたのに、曹丕様の方が信頼出来るんだろう。
父上は今にも泣きそうで…寂しそうな顔で曹丕様からの口付けに甘んじていた。
同性同士の口付けだが、別に気持ち悪いとは思わなかった。純粋に愛し合っているように見えたからだ。
寧ろ人間らしい父上が綺麗に見えた。
父上が気怠そうにしていたのも曹丕様が原因だったんだろうか。
父上は曹丕様の恋人、なのか。
不意に肩を引っ張られ、幕舎から離された。
「何っ…、兄上?」
「無礼であろう。幕舎に戻るぞ」
「っ、すいません」
兄上は平静としていて、俺の腕を掴む。
手を引かれ、父上達のいる幕舎から足早に離された。
元の幕舎まで戻ったところで、俺は漸く兄上に声をかけた。
「兄上は、その…知ってたんですか?」
「曹丕様が隠されないからな…。ああも堂々と振る舞われては知らぬ方が可笑しい」
「父上も?」
「父上は知らぬ。私が全てを知っているだけだ」
俺もだけど、兄上は俺よりも親離れが出来ないみたいだ。
兄上が幼い頃は父上がなかなか帰って来なくて、兄上はいつも寂しい思いをしていたらしい。
その後、俺が生まれた時、父上は俺に構うよりも兄上の事を特に気に掛けていたらしい。
俺は下の子だから周りが相当ちやほやしたらしく。
兄なのだから大丈夫だろう、と大人達に勝手に決めつけられて兄上はほおっておかれる事が多かった。
父上は兄上を気にして、とある一日中ずっと二人きりで甘えさせてくれたらしい。
兄上は父上に対して遠慮がちだったから、我が儘とか一切言わなかった。
その兄上が唯一我が儘を言ったのが、父上の事だった。
「兄上って未だ小さい頃みたいに、父上の事が好き?」
「未だも何も…今もお慕いしている。それがどうかしたか」
「はは。兄上が相変わらずで安心しました。父上は師のものです、って言葉、覚えてます?」
「ああ、勿論。叶わぬ願いだが…、今も父上の事は本当にお慕いしている」
「兄上は反抗期とかなさそうですよね」
「なかった。誰があのお優しい父上を傷付けられると言う」
「…うーん。そしたら俺は今、反抗期なんですかね」
「父上に何か不満でもあるのか」
元の幕舎に戻り、兄上と枕を並べて横になった。
不満があるって程でもないが、家族に本音を話してくれない父上に距離を感じてしまっただけだ。
「まぁ…、ちょっとだけ気になる事が。あ、でも何でもないです」
兄上は基本的に父上の味方だし、兄上に話しても解決しない事だ。
こういう事を影でこそこそ言うのは性に合わない。
俺なら本人に言う。
「父上がお前の事を気にかけていた。明日は前線だが、大事ないか」
「うーん。兄上がいるし父上もいるし。皆がいるから俺はきっと大丈夫ですよ」
「無理はするな。初陣なのだからな」
「はい。まぁ、善処します」
「父上に迷惑はかけるなよ」
「解ってますってば」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
兄上の隣に横になりながら目を閉じた。
兄上から掛布を少し分けて貰って丸まるように眠った。
寝台じゃないから、ちょっと寒い。
誰かに頭を撫でられている気がして身をよじる。
髪を撫でられていた感覚だけは残っていたが、誰もいなかった。
ただ兄上がふわりとした笑顔で笑っていた。
「…父上?」
「さてな」
「あ、父上でしょう?」
「もう寝ろ」
兄上の反応から見て多分、父上が来ていたんだろう。
兄上ははっきりと言葉では言わなかったが、そう思う事にした。
怒号と騒音がして、兄上に起こされた。
まだ起きる予定の時刻じゃない。
つか真っ暗だ。
「なになに?何事です?」
「走れ。剣を離すなよ」
「?」
幕舎を出て気付いた。
闇に紛れて何か居る。血と埃の匂いがした。
「本陣へ向かう」
「は、はい!」
「後ろは振り返るなよ」
漸く夜襲だと気付いた。
どうやら夜襲に対する策は既に行われているらしく、騒動は静かに収まっていく。
本陣につく頃には、夜襲の騒動の収拾がついていた。
「おい、みんな!生きてるか?誰も死んでないよな!?」
「…お前は戦において、誰も死ななければ良いとでも思っているのか」
「父上!」
「甘いな。状況は」
「負傷者は少数。死者はなし。陣地の兵は全て本陣に避難致しました。
夜襲とは無粋ですね。敵は焦っているのでしょうか?」
「!」
「して、相手は」
「斥候かと。生憎、捕らえる事は適わず。面目ない」
いつの間にか父上が居て、いつの間にか張コウ将軍や郭淮が居た。
流石に規律の取れた魏軍。夜襲箇所からの全軍撤収も早かった。
「…お前達に、大事はないか」
「あ、は…はい」
「我等は皆無事です」
「ならば良い」
父上は張コウ将軍や郭淮を連れて話し込んでいる。
幕舎から出て来た曹丕様が俺達の身を案じてくれた。
何人かに曹丕様は声をかけてから父上の隣に立った。
軍師の顔をして屹立とし、父上は兵達に指示を出していた。
父上は俺達を一瞥しただけで、声はかけてくれなかった。
「皆、このまま本陣にて待機。この私がいる陣に斥候などは入らせん」
「はっ」
「御意」
どうやら方針が決まったらしい。
結局下の陣地には戻らず、本陣で固まって夜を過ごす事になった。
斥候くらいなら軽くひねり潰すくらい訳もないのに、魏軍は本陣に退いた。
逃走した斥候が軍の動きを見ていたら本陣の場所が解ってしまうのではないだろうか。
そのままの疑問を父上に投げ掛けようとしたが、父上は忙しそうなので郭淮に聞きに行った。
「と、俺は思うんだけどさ」
「あれは司馬懿殿の挑発ですよ。お気になさらず、堂々とお振る舞いなされい」
「挑発?」
「あの御方の御子息とて、策の内容を話すのは御法度。
安心なされよ、司馬懿殿の策は万全です」
「まぁ、それならいいんだけどさ」
郭淮はこのまま本陣の守備につくらしい。
父上や曹丕様、張コウ将軍らは今夜は寝ずの番らしい。
「つか郭淮大丈夫か?俺がなんならお前と代わるけど」
「げほっ、はは、司馬昭殿はお優しい。あの御方と同じような事を仰る。
ありがとうございます。その御言葉で私は更に励む事が出来ましょう!
それでは見回りに行って参りますので、またお会い致しましょう」
「あー、うん解った。あんまり無理すんなよ」
「待って郭淮、俺もついて行くわ!」
「夏侯覇殿?」
夏侯覇もそれなりに経験がある事を見込まれたのか、父上が指示を出したらしい。
郭淮と共に夏侯覇は本陣守備についた。
「司馬懿殿が俺を郭淮の補佐に、ってさ。手伝うぜ郭淮」
「ああ、何と言う事でしょう!」
父上の計らいと夏侯覇の言葉に郭淮は感激して泣いていた。
郭淮の涙もろさに苦笑しながら、俺は兄上の元に戻った。
「お前は休め。私が傍に居てやろう」
「もー!何ですか皆して。俺だって戦えますよ!」
「人を殺めた事のない昭には未だ大事は任せられん、と父上が仰せだ。
私はお前の傍に居よう。悔しければ戦働きで返すが良い」
「っ、そりゃ、そうですけど」
「お前は優しすぎる故に、甘いのだ。敵に同情などされては困る」
「しないですって」
「どうだろうな。もう休め」
「はぁい」
兄上に髪をぽんぽん叩かれて幕舎に引っ込んだ。
兄上が髪を撫でてくれた。
遠くの高台で父上が陣地を見下ろしているのが見える。
月明かりが父上を照らしていた。
兄上は父上に気付いて肘をついて見とれている。
恋をしているような瞳で兄上は父上を見つめていた。
「父上、何してんでしょうね」
「お休みにはなられないのだろうか…」
「曹丕様が居るなら、大丈夫でしょう」
傍に曹丕様の姿が見えた。
二人は遠目から見たら、主従にも恋人にも見えた。
兄上も知ってるんだろう。何も言わなかった。
「…父上の為ならば、私は何でもしよう」
「…あの、初陣で何があったんです兄上」
「いずれ話そう」
兄上は座ったまま目を閉じる。
仮眠を取るよう促され、父上から貰った護身刀を抱きながら目を閉じた。
目を覚ましたら戦は始まっていた。
兄上は既に武装していて、剣を整えていた。
急いで武装を整えて、兄上の元に向かう。
「すいません!あれ、でも俺、寝坊しましたか?」
「いや、戦が始まるのが早かった。戦に朝も夜もない。
この幕舎を出たら戦場だ。私について来れるか?」
「兄上と一緒なら!」
「ふ、行くぞ」
兄上の傍から離れぬように走って幕舎を出た。
顔の直ぐ横に矢が飛んできた。
どうやら直ぐ近くに敵軍がいるらしい。
まだ姿が見えないが、怒号が聞こえる。
「このまま前線に向かい、敵軍を引き連れて本陣に戻る。
張コウ将軍が前線をかき回しているようだ。郭淮、夏侯覇は両翼に居る」
「なっ?!それじゃ本陣の父上や曹丕様に敵が」
「策だ。お前は私と同じ、司馬懿の息子だろう」
兄上は笑いながら、馬に乗り坂道を駆け降りていく。
それに習うように俺も馬で隣についた。
敵軍が見えた。
蜀軍の緑の旗、馬の文字。
恐らく馬超と馬岱の遊軍だろう。
という事は敵の本隊は未だ戦場に着いてない。
「誰かと思えば、司馬懿の小倅か!」
「待ちなさい!あなたの相手は私ですよ!」
「張コウか、いいだろう!我が相手に不足なし!」
「ちょっと!若!勝手な真似は止してよね。そっちじゃないんだって、あーもー!」
正面に馬超の姿が見えたが、俺達の相手には分が悪過ぎると張コウ将軍が前に出た。
庇ってくれたんだろう。
張コウ将軍は片目を閉じて俺達に合図を送り、馬超を引き離した。
本陣に向かう張コウ将軍を残った馬岱は追わない。
馬岱が追わないとなると、父上の策が成り立たない。
「馬岱!俺が相手になってやる!」
「ちょっとちょっと!馬で俺に張り合うつもり?」
「っ、退け昭」
「大丈夫です!無茶はしませんから!」
このまま背を向けながら、本陣に退いてやる。
でも馬岱はなかなか動かなかった。
寧ろ兄上の方に向かっている。
「兄上!」
「退くぞ」
「ちょこまかと!どっちでもいいから俺に捕まってくんない?」
「何?」
馬岱の狙いは俺達どちらかの捕縛らしい。
俺達を捕まえてどうするのか魂胆は見えないが、尚更捕まる訳には行かない。
なら馬岱の目的を利用して、本陣に引きつけられる筈だ。
兄上と目を合わせて本陣に向けて馬を駆けた。馬岱が追ってくるのを横目で見ながら駆ける。
「よし、これなら」
「何がよしなの?」
「!」
「戦場では初めて見るね。君が弟の司馬昭?」
「…早っ!」
「振り向くな、走れ!」
「追いかけっこなら負けないよ~!」
追わせているつもりが馬岱にはあっという間に追い付かれた。
まだ本陣の入り口手前だ。
ふと眼前に蒼い旗が見えた。
「手間取っているな、師、昭よ」
「!」
「曹丕っ?!何でこんな前線に?」
「親の代わりだ」
本陣の前面に曹丕様が立っていた。
本陣奥深くに父上は居るのだろう。
曹丕様は剣を抜き、馬岱の足元に振るう。
馬岱は避けて旋回し、態勢を立て直した。
一騎討ちとでも言うかのように馬岱は曹丕様の前に向かい合う。
曹丕様が不敵に笑うと本陣の扉が閉じた。
「!」
「退け。仲達に敵を近付けるなよ」
「御意!曹丕様は?」
「ふ、私を誰だと思っている」
「行かせないよぉ!」
「とぅっ!」
「?!」
「若っ!もう何処行ってたの!」
「張コウ」
「少々深手を負いましたが、まだ行けます。此処で食い止めなくては」
曹丕様の横槍を入れるかのように馬超が飛び出してきた。
後ろから追い掛けるように張コウが走って曹丕様の前に立った。
本陣にこの二人を留まらせておけば本隊が出て来る。
馬超と馬岱は遊軍なんだろう。遊軍に動きがなければ敵軍本隊も大人しくはしていない。
結果的に馬超と馬岱の軍は本陣におびき寄せられてくれたようだ。
「父上は馬超らを本陣に閉じ込め、救援に来る本隊を釣り上げるおつもりなのだろう」
「だけど兄上、相手は馬超じゃ分が悪すぎます。
それにこのままじゃ本陣が。俺、父上に知らせてきます!」
「待て昭、我等は曹丕様達の…おい!」
兄上の制止も聞かず、一人高台へ走る。
立ちはだかる敵兵を何人か斬った。
死んだかどうかは解らないけど、初めて人を斬った。
「あーもう、めんどくせ…、退いてくれよ!」
本陣の高台への行き方は裏道しかない。
表立った道は造られていないので、本陣の高台には道を知っている魏軍の兵しか辿り着けない。
まだ高台に敵は辿り着いていない様だった。
高台の縁に父上が見えた。
「父上!」
「昭?何故此処に。師の元を離れては」
「父上、相手は馬超と馬岱です!あの二人相手じゃ分が」
「…!退け、昭!」
「見つけたぞ司馬懿!」
父上に肩を突き飛ばされた後、父上がそのまま倒れた。
何が起きているのか解らない。
解らないが、父上に矢が刺さっていた。
「父上っ!!」
「お前の行動は解りやすかった。尾行したら案の定だったな」
「なっ、おまっ、魏軍じゃ…」
「私は姜維。蜀の諸葛亮殿にお仕えする者」
弓矢を番えていたのは見覚えのある顔だった。
魏軍の軍装は身に付けていないが、俺は此奴は魏軍だという認識だった。
地に伏し動かない父上の元に駆けつけたいが、俺の肩にも矢が刺さっていた。
放った矢は一つじゃなかったんだろう。
「黄忠殿程ではないが、至近距離であれば嫌でも当たる」
「っ、止めろ!」
「司馬懿の首、討ち取らせてもらう!」
「そこまでだ」
姜維の背後から現れたのは、曹丕様だった。