夢を見た。
私が夢と認識しているのだから、これはきっと夢なのだろう。
懐かしい人達が笑って、私の横を通り過ぎる。
石段を上って行く。
私には気付いていないのか、皆は私に目もくれなかった。
『仲達』
愛しい人の声。
幾久しく聞く耳によく馴染んだその声に振り向くと、朧気に子桓様のお姿が見えた。
「子桓様…」
『仲達は何処か』
『我が君、司馬懿殿は未だ』
『何故、仲達が私の傍に居らぬ』
子桓様は私を探して、何段か石段を下る。
目の前に姿が見えているというのに、私の声は子桓様に届く事はなく触れる事すら適わなかった。
曹操殿の外套が翻り、皆を連れて先を歩く。
この男こそが覇王たる男だった。
その後ろを夏侯惇殿や郭嘉殿が続く。
彼らに言いたい事が沢山あった。
御礼も謝罪もし足りない私を通り過ぎた過去。
私の大切な人達。
「…子桓様…」
目の前にいるのに私の声は届かない。
ただただ懐かしい顔触れに、私は最敬礼で皆を見送るのが精一杯だった。
『…仲達』
一番最後尾に子桓様が居る。
未だ私の姿を探しているらしい。
変わらぬお姿にふ、と笑い子桓様に頭を下げた。
「皆に置いて行かれますよ。私も直に子桓様の元に参ります。
…それまで、少しだけ…仲達をお待ちいただけますか」
届かぬであろう私の願いと声の何と虚しい事か。
それでも子桓様は淋しそうに眉を寄せて笑ってくれた。
『…待っている』
そう一言残して、私に背を向けた。
私の言葉が通じたか何て解らない。
ただ、数十年ぶりに見たそのお姿が懐かしくて愛おしくて手を伸ばした。
あの頃に戻りたい。
「待って下さ…っ、私だけ、置いて逝かないで…下さい…」
頬を伝う温かいものに私は泣いているのだと気付く。
歩くのもやっとの体だとて、皆の背を追い掛けた。
消え入りそうな子桓様の背に手を伸ばす。
「もう、独りは…」
「っ?!父上!!!」
聞こえた師の声に振り返ると、ゆっくりと視界が反転して自分が落ちているのだと気付いた。
天高く続く石段を歩いていた。
この国に最期の別れをしようと、庭園内の石段を上っていたのだ。
一番高いところから見渡そうと、毎日通った白い石段を上っている途中だった。
あれは、夢ではなかった。
私は幻に手を伸ばし、段差を踵から踏み外していた。
師が走って私に手を伸ばすが、間に合わない。
やけに自分の体が落ちるのがゆっくりとした時間に感じられた。
誰の手にもかからない。こんな虚しい最期なのかと、少し笑って目を閉じた。
「っ…!」
「はぁ…、良かった…父上…っ」
「昭…?」
下の段に居た昭が私を受け止め腕に埋める。
私を庇って肩を石段に強く打ったようだ。
「…昭、肩が」
「父上…、父上は未だ、此処に居て下さい。お願いです。お願いですから」
私の頬を伝う涙を拭い、昭は私を強く抱き締めた。
元々高熱がありふらついていた足元だった。
師と昭が私を横に抱いて歩くと聞かなかったのだが、石段は自分の脚で上りたいと我が儘を言った。
我が儘を言ったが故にこの様だ。
「解った…。だから、もう」
「父上、お怪我は…?」
「…師、私は大事ない。昭を看てくれぬか」
「俺は平気ですよ。それよりも父上、元々酷い熱で無理してんですから…。
此処からは俺が抱いて歩きますから楽にして下さい」
「…む」
「景色を見たら、少しお休みになって下さいね」
そう言って昭は私を横に抱き上げ、師は私を案じて傍を歩いた。
師と昭に連れられ、石階段の最上階に着いた。
師が椅子を用意し、昭が私を座らせてくれた。
「今日もいい天気ですね。いい景色です」
「…そうだな」
「父上、お体の具合は如何でしょうか?」
「大事ない」
正直視界が霞んでいて景色はぼやけており、よく見えていなかった。
ただ青々とした蒼天だけが私の目にはっきりと見えていた。
青い蒼い魏の国。
初めは仕える気など更々なかったと言うのに。
何の因果か結局、私一人が生き長らえてしまった。
一体何の罰だと言うのだろう。
「司馬懿殿?!何をなさっているのです!」
「…安静にとの、御言葉では」
「郭淮、トウ艾か」
軍礼を取りながらも二人は私達の元に駆け寄る。
郭淮に至っては、膝を付いて私の身を案じてくれた。
トウ艾とて、病状の私が大階段の頂上にいるのが心配で堪らないと言った顔をしている。
「げほっ…、司馬懿殿、どうか安静にして下さい。貴方様は未だ、魏になくてはならない御方」
「私よりも、お前が大丈夫か?」
「げほっ、ごほっ…私は常に半死半生。どうか私よりも貴方自身を御労り下さい」
郭淮は私の手を握り締め、深く深く頭を下げる。
恩を売ったつもりはないのだが、私が郭淮の細君の命を助けた事があった。
郭淮は私を崇高なもののように崇め称える。
私はそんな器ではないと苦笑し肩を叩くのだが、郭淮は青白い手で私の手を握り締めた。
「司馬師殿、司馬昭殿が傍に居られると言う事は…そう言う事なのでしょう司馬懿殿」
師と昭が承知している事なのだとトウ艾は悟り、私を少し悲しそうな瞳で見つめた。
もう時間がないのだと、トウ艾は解ってくれているらしい。
一文官だったトウ艾も今や頼もしい将軍のひとりだ。
私の容態を解った上で何も言わなかったのだろう。
「…トウ艾、郭淮よ。未だ若輩者の我が子らの補佐を頼まれてくれぬか」
「承知した。自分も若輩故…力及ばずながら精一杯尽くす所存」
トウ艾は私に軍礼を取り、深く頭を下げた。
郭淮は少し黙り込んだ後、私の手を握り締めて下を向いた。
「げほっ、ごほっ…、何を弱気な…。貴方様らしくもない」
「ふ…、頼まれてくれぬか。私の大切な…、大切な子供達なのだ」
師と昭を見つめて笑い、背もたれに体を凭れた。
胸が苦しくて肩で息をし、目を閉じる。
師が私の異変に気付き、膝を付いて私を案じ背中をさすった。
郭淮が私の手を離し、両袖に手を入れて深く深く私に頭を下げる。
「御仕えしましょう。私の命に代えましても、司馬師殿と司馬昭殿は私が御守り致します」
「…礼を言う。其れを聞いて安堵した…」
安心して微笑むと、郭淮は今にも泣きそうな顔をする。
胸の痛みに口元を抑えて咳き込むと、掌は吐血で真っ赤に染まった。
郭淮とトウ艾には見せぬように掌を握り締めて隠したが、師と昭には見られてしまったようだ。
昭が焦って私を横に抱き上げる。
師も眉を寄せて、吐血に染まった私の手を握った。
「父上、横になってお休み下さい。
先帝の御部屋が空いております。使わせていただきましょう」
「悪い郭淮、トウ艾。父上には時間がないんだ。またな」
「…はい」
「司馬懿殿っ、げほっ、ごほっ…」
「ふ…、体を大事にな…郭淮」
「ああ、私の事よりあなた様こそ…!」
「トウ艾、これからの活躍を期待している」
「…御意」
師にそれ以上話してはいけないと言われて私は口を閉ざした。
郭淮とトウ艾を置いて、師と昭は足早に回廊を走る。
先導して道を開ける師と、私を抱いて走る昭を見つめて笑う。
「…師、昭」
「父上、喋ったらまた血が」
「後を任せられると言うのは、何と幸せな事だろうか…」
「っ、何言ってんですか父上」
「…着きました。支度します」
淋しそうな顔をして師は眉を寄せ、昭は唇を噛む。
昭の泣きそうな顔に手を伸ばして撫でた。
師が開けた扉の部屋は、私にとって何とも懐かしい部屋だった。
今は使われていない先帝の部屋。
子桓様が使っていた部屋だ。
師が寝台を整え、昭が私を横に寝かせてくれた。
高熱は相変わらず酷い。
胸の痛みが少しは収まったものの、咳き込む度に吐血してしまい息をするのも苦しい。
寝台に敷いていた白い敷布は、あっという間に私の血で赤黒く滲んでしまった。
私の死に際の、何と血腥い事か。
これまで私が屠ってきた命の報いだとでも言うのだろうか。
幾数十万と殺した私に今更報いとは、笑わせる。
報いならば、こんなものでは済まされないだろう。
私が咳き込む度に師と昭の瞳には絶望と恐怖が滲み、それは涙となって頬を伝った。
幼子のように私の袖を掴み泣く。
師と昭はどんなに大きくなろうと、どんなに立派になろうと私の子供だった。
どんなに大人になろうとも私にとっては我が子でしかない。
可愛らしくて仕方ないのだ。
「っは、…子桓様の寝台を、汚してしまった…。何て、事を」
「敷布なんて…そんな」
「あの方の亡き後…此処で、私は何夜…明かした事だろう。
お前達には…淋しい思いをさせただろうか…」
「そのような事…。もう良いのです」
「…ごめんなさい。俺達が父上の支えになれなかったから」
「…何を言う。遺された私にとって…、お前達は私の全てだった…。愛している」
「っ…、私達が父上を御守り出来なかった」
「父上、狡いですよ…、何でそんな事今言うんですか!」
「今だから、だ。それにお前達は…今日まで私を護ってくれた、ではないか…。
流石の私とて、年と病には勝てぬ」
寝台の前に膝を付く師と昭の頬を撫でた。
私の言葉にぽろぽろと涙を流す二人が愛しくて愛しくて堪らない。
時刻は夜になろうか。
言葉を発する事出来ぬ程の吐血をし、最早水も飲めぬ程に体が弱っていた。
体中の血を吐いてしまったのではないかと思う程に敷布は赤く染まり、私の手も血に染まった。
師が呼んだ典医が私の症状を見て首を横に振る。
もう直ぐ、なのだろう。
少し症状が落ち着いたが、胸は相変わらず痛む。
息をする事すら苦しい。
典医は去り、司馬と姓のつく者達だけが遺された。
師は眉を寄せて私の手を掴み、昭も私の手を握り締め寝台に突っ伏して動かない。
私はもう死ぬのだろう。
安らかな死、というのはどうやら望めそうにない。
死ぬ、という事は何と寂しい事か。
先人の方々もこのような気持ちだったのだろうか。
最期の言葉を遺したい。
師と昭にそう伝えると二人は慌ただしく準備をしてくれた。
師が敷布を換え、私の口元の血を拭った。
肩に紫紺の上衣を掛けられる。
昭が呼んでくれたのだろう。私が顔を知る皆々が集まっていた。
元姫は口元を抑えて昭に寄り添い、郭淮は膝を付いて涙を流している。
諸葛誕やトウ艾らは壁に背を付け、厳しい顔をして目を閉じていた。
賈充が寝台に突っ伏したままの昭の肩を叩き、膝を付く。
「子上」
「…認められっかよ。さっきまで普通に話してたのに…」
「認めろ子上。現実は物語よりも厳しい。
寝台に突っ伏しても何もなかろう。もう時間がないと言ったのはお前だ」
「そうだけど…」
「親が子より先に死ねるというのは…幸せな事だぞ昭」
「…父上」
「子の幸せを願わぬ親などこの世に有りはしない…。私の唯一の未練はお前達の事だ」
「魏はどうでも良い、と?」
鐘会が腕を組みながら私に首を傾げる。
師と昭が掴みかからんとしていたが、私が止めた。
「だって、そうじゃないですか」
「ふ…、小僧。貴様に一つ忠告しておいてやろう」
「おや、何です」
向き直り、脚を組んで寝台に座り鐘会を見上げた。
「国とは、有能な者が治めればそれで良い」
「…曹家でなくとも良いと?」
「先帝が私に遺した言葉だ。有能な者など、今や数少ない。今の世は凡愚ばかりよ」
「なら、此処に居るじゃないですか」
「…ふ、よく言うわ。貴様、私の前に立つと言うのならば片手で捻ってくれる。
言っておくが貴様なぞ、我が子らの足元にも及ばん」
「…っく、この」
「口を慎まれよ鐘会殿。これ以上の無礼は自分が許さぬ」
「この御方を見下す事は私が許さない。膝を折らぬかっ」
この死に損ないが、と鐘会は吐き捨てようとしたのであろう。
トウ艾と郭淮が鐘会を止めて、私の前に膝を折らせた。
今まで静観していた師の瞳が沸々と怒りに燃えていたが、私が頬に触れる事でそれは収まった。
鐘会に掴み掛からんとする昭を賈充と元姫が止める。
まだまだ若い、と思いつつ鐘会の顎を掴み上を向かせた。
「我が子らは甘いが、私は甘くないぞ鐘会」
「っ、誰が貴方に立て付くと言ったのです。私とて、貴方に勝てるとは思っていない!」
「…ほぅ、珍しく素直ではないか」
「無礼でした。謝ります。これでよろしいですか」
「お前なぁ…」
「ふ、態度は気に食わんがその度胸に免じて許してやろう」
鐘会から手を放してやり、脚を組み直した。
昭が呆れて頭をかく。
隣でまごついている諸葛誕を指で呼ぶと、即座に諸葛誕は私の前に膝を付いた。
狗のような奴だと苦笑し、肩を叩く。
「…司馬家と諸葛家、相容れぬと思っていたが」
「諸葛家の名に恥じぬよう…、私の力及ぶ限り魏を御守り致します」
「ふ…、諸葛家の事などもうどうでもよいわ」
「何と…!」
「貴様が諸葛亮に並ぶとも思わぬが…、まぁせいぜい精進するがよい。悪評を己が才で覆せ」
「はっ」
少しはましな顔付きになっただろうか。
諸葛誕は目を輝かせて私に頭を下げた。
「賈充、元姫」
「はっ」
「はい」
「言わずとも、解るな?」
「…、御意」
「お任せ下さい」
昭の事はこの二人に任せておけば大事なかろう。
別に昭の出来が悪いとは思っていない。
思ってはいないが、手放しで安堵は出来ない。
昭には、性格の面で些か不安が残る。
だから、可愛くて堪らない。
昭の頭を撫でながら、膝立ちで侍る師の頭を撫でた。
師が気付き、私の手に甘えるように目を瞑る。
「師よ、お前の事は特別案じておらぬ」
「淋しい事を仰いますな…」
「まだ親離れ出来ぬのか?師よ」
「父上こそ、子離れ出来ぬくせに…」
「ふはは、違いない」
「私はあなたがいないと生きていけません…」
「…何を言うか」
「司馬懿殿、私達は部屋を出ます」
「うん?」
「御家族でお話ししたい事もあるでしょう」
「ああ…すまぬ」
「どうか安らかなる時をお過ごし下さい。私は、あなた様に出会えて幸福でございました」
「ふ…、言い過ぎだ郭淮」
元姫と郭淮が気を使い、師と昭以外の皆が部屋を出た。
師と昭が皆を見送る間、最後に部屋に残った元姫を呼び止める。
少し咳払いをして、元姫に向き直る。
「元姫よ」
「?…はい」
「…そなたならば、私の娘になっても構わぬ」
「っ…!」
「花嫁姿が見れぬのが口惜しいが…、昭を頼む」
「こちらこそ…」
元姫はぽろぽろと涙を零して泣いた。
私が泣かせてしまった。
涙を拭うように頬を撫でると、元姫はゆっくりと瞼を開けて私を見上げた。
「司馬懿殿…」
「うん?」
「幸せ…、でしたか?」
「ああ…、私はずっと独りだと思っていた。もうあの頃の魏に戻る事も適わぬだろうと…」
「私達が居ても…司馬懿殿を独りだと、思わせてしまったのですね」
「否。思っていた、と言ったであろう?」
「…?」
少し肩を落とす元姫の背中を叩き、元姫を見下ろして笑う。
「亡くしてしまったと思っていたが…また、私の大切な者達が増えてしまった。
皆未だ何処か頼りないが、近い未来…この国を支えてくれるであろうと信じている」
「…司馬懿殿は…」
「うん?」
「…本当に、魏を」
「初めは面倒だと思っていたのだがな…。結局私が最期まで遺ってしまった」
「戻りました」
「ただいま、父上」
師と昭の声がして、元姫の頭を撫でてから手を離した。
涙を強引に拭い、元姫はかつかつと師と昭の間を通り過ぎる。
扉の前で深く頭を下げ、元姫は扉を閉めて去っていった。
暫く親子三人で他愛のない話をしていた。
師と昭が一方的に話しているばかりだったが、私はそれでも幸せだった。
今、この一時を与えてくれた事を天に感謝しよう。
掴む事すら適わなかった天に。
師と昭に手を伸ばすも、とても眠くて腕が上がらない。
そのまま寝台に横になり溜め息を吐くと、師と昭が枕元の前に膝を付いて座る。
「…師」
「此処にいます」
「昭」
「父上の傍にいますよ」
「独りに、しないでほしい」
「独りに、させません」
「…愛して、いる」
「っ…、私もあなたを愛しています」
「俺も、父上が大好きだから!だから…、だから」
「…ありがとう」
本当はもっと沢山話してあげたかったのだが、もう瞼を開けているのも声を出す事も出来なかった。
何故か体の痛みはなかったが、酷く眠い。
師と昭が泣いている。
その声を聞いて、去ったであろう皆が駆けつけてきた。
私は皆を背後から見ていた。
「父上…?」
「父上、父上っ!」
「司馬懿殿…」
ああ、私はもう。
体の痛みも煩わしさも何もない。
もう一つの自分の体を部屋の隅で見ていた。
しかし、意外にも…。
私の為にこんなに泣いてくれる人達がいるとは思わなかった。
私がそう思っていただけで、私は独りではなかったのかもしれない。
さて、これからどうしたら良いのか。
何分、死んだ事がないのでどうしたら良いのか解らずその場に立ちつくしていた。
「久しぶりだな」
「!…殿?」
「相変わらずだな司馬懿よ」
不意に聞き覚えのある声が聞こえて振り向くと、曹操殿が其処にいた。
曹操殿だけではない。
曹操殿を慕う人達が其処に居た。
「よぅ、御苦労だったな」
「よっ!相変わらず生っちろいなぁあんたは」
夏侯惇殿と夏侯淵殿が肩を叩く。
懐かしさに声が出ず、口元を抑えていた。
頭をぽんぽんと叩かれる。
「やぁ、頑張ったね。君の采配を近くで見ていたよ」
「あははぁ、あのつんけんしていた人が随分立派になったもんだ」
「郭嘉殿、賈ク殿…。私なんて、そんな…あなた方に比べたら」
「そこは素直に喜びなよ」
「謙遜なさんな。あんたはよくやってくれた」
郭嘉殿と賈ク殿が笑いながら私に話し掛ける。
張遼殿や徐晃殿にも話し掛けられ、張コウには背中から抱き締められた。
張コウは私の浅はかな提案で、敵軍の手にかかり命を落とした。
私が殺してしまった。
過ぎた時間を思い出し、後ろを振り向き張コウに深く頭を下げる。
「司馬懿殿?」
「お前程の将を、私の軽率な判断で…。許せ…とは言えぬがどうか謝らせてほしい」
「何を今更。何年経ったと思っているのです?」
「しかし」
「もういいんですよ。
そんな事を言い出したら、私だって何処かの名族の方に謝らなければなりませんもの」
「それは、そうだが」
「もう時効ですよ司馬懿殿。許して差し上げます。それよりも私によくお顔を見せて下さいませ♪」
「う…」
「ふふ、司馬懿殿は相変わらず小さいですねぇ」
「お、お前がでかいのだ!」
「ああ、美しい人!私はずっと司馬懿殿に触れたかったのです」
断罪されても構わないと思っていた私の罪や誤りを、皆は難無く許してくれた。
張コウは私を抱き締め、今更だと言って笑う。
ずっと触れたかった、と張コウは私を抱き締めた。
私は先の魏帝に刃向かった過去もある。
しいては曹操殿や此処にいる人達も裏切った事になる。
引け目を感じずにはいられなかった。
思えば、あの人がいない。
「あの…、曹操殿」
「何だ」
「子か…、いえ、曹丕様は…」
「ああ、子桓はな」
「此方ですよ、旦那様」
「貴方様をお待ちです。二人きりでお話ししたいと」
「…!」
「ふふ、相変わらずですこと」
扉を開けたのは春華に甄姫様、蔡文姫殿だった。
久し振りの再会に思わず春華に駆け寄った。
「春華、お前…!」
「ふふ。ずっと旦那様の傍に居ましたのに、旦那様ったら気付かないの」
「鈍感な男ですわね」
春華の手を握り、傍に駆け寄ると春華から私の胸に埋まる。
周りに少しからかわれながらも、春華を胸から離さなかった。
泣きそうになる目頭を必死で抑える。
そう言えば先程から皆や春華の言っている言葉が引っかかっていた。
近くで見ていた。
ずっと触れたかった。
傍に居た。
どういう意味だろうか。
「…近くで見ていた、触れたかった、傍に居たとは…どういう意味です」
「うん。そうだよ?」
「そのままの意味だが」
「?」
「私だけじゃないわ。旦那様が気が付かなかっただけ」
「司馬懿殿が気が付かなかっただけで、我等はずっと直ぐ傍におりました」
「傍に居た…?」
「旦那様は一人じゃなかったの。ずっとね。ずっと誰かが傍に居たわ。
私の他にもう一人、ずっとずっと旦那様の傍に居たの。今は一人、玉座の間に」
あなたを置いていってしまったから。
ずっと、あなたを独りにさせなかった。
皆がそう言ってくれた。
春華の肩に埋まり、目を閉じる。
泣くまいとしていたのに、堪えられなくなるではないか。
私は独りなんかじゃなかった。
蔡文姫殿が私の肩に触れる。
「無理もないでしょう。私達はもう見えないのです。触れる事も適いません」
「……。」
「司馬懿殿、未だですの?」
「未だ、とは?」
「我が君の事をお忘れになって?玉座の間ですわ。ずっと一人でお待ちなの」
春華の肩口に埋まり、頭を撫でられる事に甘えていたのだが甄姫様に呼ばれた。
玉座の間にあの人が居るらしい。
後ろを振り向けば、子供達が私の躯を抱いて泣いていた。
名残惜しいと言えば嘘になる。
春華に背中を押され、扉に手を掛けたが一歩を踏み出せないで居た。
師にも昭にも、皆にももう二度と逢えないのではないだろうか。
そう考えると皆と離れたくない。
春華が察したのか、私の頬を抓る。
「い、痛いではないか…」
「何時まで主を待たせるおつもり?」
「皆に別れを言うべきなのだろうか。私の声はもう届かぬだろうか」
「さようなら、は必要ないわ。何時でも逢えるもの」
「そうか」
「今度は見守る側になっただけのお話し。触れられないだけで…、何時でも傍に居れるわ」
「なれば…」
「ええ。行ってらして」
春華は泣いている師と昭の頭を撫でて笑う。
曹操殿や皆がいつの間にか部屋から居なくなっていて、張コウが扉の前に立って待ってくれていた。
「いざ、あの御方の元へ」
「皆は…」
「城内を歩いておりますよ。我らは生前と何ら変わりません。
この広大な中華の大地とて、死者の国などありませんからね」
「解った。なれば張コウよ、その…戦から帰ったら茶を飲もうと約束していたな…。
…まだその約束は有効か?」
「ああ!覚えていて下さったのですね!」
「後程、約束を果たそう」
「はい、喜んで!時間は沢山ありますからね」
張コウは嬉しそうに手を振り、私を玉座の間の前まで送ってくれた。
皆相変わらずで、変わらない。
この扉の向こうに子桓様が居る。
逢うのは二十余年ぶりとなる。
私達が恋人だったのも二十余年前の事だ。
何を話したら良いのだろう。
何を伝えたら良いのだろう。
どのような顔で逢えばいい。
もう既にないはずの鼓動が聞こえるような気さえして胸を抑える。
一度深く息を吐き、それなりの覚悟を決めて扉を開けた。
扉を開けて数歩。
玉座に人影を見つけて歩いた。
月明かりの玉座の間であったが、靴音すら響かない。
玉座に座っていた御方が立ち上がり、階段を下りる。
どちらともなく歩調が早くなり、気付けば駆け出していた。
「…、…来てしまったか、仲達」
「はい…」
「っ…、仲た……、つ…?」
「子桓様…、子桓様…っ…」
顔を見るなり涙が止まらなくなり、その胸に埋まる。
背中に腕を回して抱き付いた。
沢山言いたい事があったのに言葉が出て来ない。
涙も止まりそうにない。
ただただ、字を呼んで子桓様の胸に埋まり涙を流し続けていた。
子桓様は何か言いたげではあったが、ふ…と微笑むと私の頭や頬を撫でて抱き締めて下さった。
少し涙も落ち着いて腫らした目を擦っていると、子桓様が頬を撫でる。
そのまま唇を合わせ深く絡められた後、何度も何度も口付けをされる。
私の涙を拭いながら、子桓様は何度も口付けた。
頬を包み、額同士を合わせて子桓様は私を抱き締める。
「…少しは落ち着いたか?」
「はい…」
「お前が取り乱すとは…。それ程までに私に逢いたかったか」
「はい…」
「…素直だな。驚いた。少しは変わったか」
「何です。私が素直だといけませぬか」
「…ふ、やはり変わっておらぬな。私の仲達だ」
今の私に取り繕う余裕などない。
心情に対して素直な言葉でしか話せなかった。
子桓様が私を子桓様のものだと言ってくれた。
如何に今までの己が仮面を被り、自分を隠して生きていたのか思い知るに至る。
懐かしくて嬉しくて、堪らない。
子桓様からの口付けに私もお返しをして、手を置いて胸に埋まる。
子供をあやすかのように子桓様は私の頭や背中を撫でた。
ぽつりぽつりと私から子桓様への思いを伝えたくて、語る。
「…あなたに逢ったら言いたい事が沢山あったのですが…、お顔を見たら堪えられませんでした…」
「私も仲達に逢ったら何か言おうと思っていたのだが…、それどころではなかった」
「…?」
「大儀。よくやった…。数え切れぬ程辛い思いをしたであろう…。もう苦しくないな?」
子桓様の声が何処か震えているように感じて見上げると、子桓様の頬に涙が伝っていた。
私の前だからと子桓様は堪えていたのか、灰色の潤んだ瞳に私を映して涙を流す。
子桓様の頬に触れ、口付けるとぽろぽろと涙が零れ落ちた。
こんな風に泣く人だっただろうか。
子桓様はそのまま私に甘えるように語る。
「…父や皆、細君には逢えたか?」
「はい…」
「仲達、仲達…」
「はい。子桓様」
「…漸く声が届いた。漸くお前に触れられた」
「ずっと…私の傍に居て下さったのですね…?」
「私が己に課したのだ。ひとりにさせない…、と」
子桓様は再び私に屈み、目線を合わせて口付ける。
二人して涙し、互いが愛しくて堪らない。
子桓様に言いたかった言葉や謝罪。
全てを話すも、子桓様は何もかも私の全てを許してくれた。
相変わらずこの人は私に甘い。
そして私は相変わらず、子桓様を愛してやまなかった。
「…仲達」
「はい」
「もう一度…恋人として、もう一度、私の傍に居てくれぬか」
「…何を今更仰います…。私はずっと、ずっと…子桓様だけのものでしょう?」
「そうであった、な」
再び子桓様から告白されたが、今更だと笑う。
私達はずっと恋人だった。
子桓様はずっと私の傍に居てくれた。
涙を拭い、子桓様が私の腕を取り歩く。
「これから、どうしましょうか」
「何、時間はある…。神などは居らぬのだ。お前とて皆と話したい事もあろう」
「左様なれば、先ずは…」
「何がしたい?」
「先ずは…子桓様の傍に居とうございます…。あなたに触れていたい…」
「…ふ、存分に甘えるがいい。私もお前に甘えさせてもらうとしよう」
「子桓様たら」
「二十余年待ったのだ。これ以上は待たぬ」
子桓様。
曹操殿や皆、春華。
私の大切な人達。
師や昭の背中を見ながら、子桓様と手を繋ぎ回廊を歩いた。
師と昭は寝台に突っ伏して動かないようだ。
「大丈夫だ。お前達は私の自慢の息子達なのだから…」
「声はいつか、届くだろう。お前の大切な者達に」
「はい…、あなたの隣で私は見守りましょう」
「何、私はもう何処にも行くつもりはない…」
三国の物語は続く。
この国の往く末を共に見届けようではないか。
子桓様はそう言って私と手を繋ぎ、また口付けた。