日毎、発作的に咳き込むようになってきたと思う。
人前では堪えているのだが、夜中になると咳き込む。
誰にも自分の病の事は言っていない。
誰にも余計な心配はかけたくなかった。
何より、子供達が多大に心配するのが目に見えている。
妻の春華はもういない。
血を吐いたら、残された時が少ない証。
七日と生きられるかどうか。
秘密裏に私を診察した医師はそう言った。
誰にも何も言わず、戦場に立つ。
初夏の風は心地良く私の頬を撫でて通り過ぎていく。
先日命日だったからだろうか。
頬を撫でる風に、既にないあの人の面影を重ねて自分を慰めていた。
私はあれからずっと独りで生きてきた。
もう少しでまたお逢い出来るのかもしれない。
何処か頭の端でそう考えながら、羽扇を上げて指揮を取った。
昭が突出し過ぎているのか、元姫が諫めているが苦戦しているとの報告を受けた。
「師」
「はい」
「昭の援護に行け」
「…しかし、私が此処を離れれば父上を警護する者が居なくなります」
「別に構わぬ」
師を見ず、戦場を見下ろしながら我ながら冷たく言い放ったと思う。
「…何を、仰って…」
「自分が行きましょう。司馬師殿は司馬懿殿の元に」
「それで構いませぬか、父上」
「…昭らを助けて欲しい。彼奴、一度きつく仕置きせねばなるまい」
「御意」
「頼む」
師とトウ艾の前で、あからさまな態度を取ってしまっただろうか。
トウ艾は足早に本陣を駆け下りて行った。
戦場を見下ろし、羽扇で口元を隠した。
息苦しい。このような時に発作が来てしまったらしい。
師の前で自分の弱い姿を見せたくはない。
堪えようにも、今度の発作は肺すら蝕まれているのか同時に胸も痛んだ。
「…父上?」
「何でも、ない」
羽扇では隠しきれず背を向けた。
胸が痛い。堪えきれず咳き込み視界が回る。
地に倒れる視界の端に、あの人が居たような気がした。
「父上!!」
師の声が遠くに聞こえる。
ぼんやりとした視界に、師の泣きそうな顔が見えた。
口元を抑えた掌には赤い血が滲んでいて、再び咳き込むと鉄の味がする。
どうやら私はこれまでらしい。
漸く天に赦されたのだろうか。
遺された短い命で、私にあと何が出来るのだろう。
頬にぽろぽろと何かが落ちてきていた。
師の涙が私の頬を伝っていた。
「患って、いたのですか?…どうして、言って下さらなかったのですか…」
「うん?余計な事だろう」
「もっと早く仰っていただけたのならば、手の…施しようも…」
「ない。血を吐いてしまった…あと十日も生きられぬ」
「そんな…」
「先ずはこの下らぬ戦を終わらせねばなるまいな」
師の手を借り、口元を拭い立ち上がった。
師が後ろから私を抱き締める。
あんなに小さかった師も、随分と大きくなったものだ。
「…父上はもうお下がり下さい」
「総大将は私だ」
「お願いです…このままでは、お体が」
「大事ない。もう落ち着いた」
師を離して頭を撫でた。
昭らはどうやら無事らしい。
トウ艾がやってくれたようだ。
昭が前に出たせいか、敵は怯み予想以上に有利に事が動いている。
機を見て、郭淮と鐘会も前に出させた。
「殲滅せよ。謀叛し下らぬ戦を起こした此奴らに、明日の日を見る資格はない」
「はっ」
「御意」
目を瞑っていても勝てる戦だったが、退く訳にはいかなかった。
この戦の目的は謀叛人の殲滅にある。
粗方の指示を出し終わり目を瞑る。
戦の音が耳に響いていた。
「父上、お下がり下さい…。お願いです。お願いですから…」
「しかし未だ」
「あなた様は総大将であり、この国を束ねるお方。ですが私にとっては…たった一人の父上なのです」
「……。」
「私の一度きりの我が儘です…。お願いですから、もう、お下がり下さい…」
「…仕方あるまい」
気丈な師にこうまで泣きつかれては断る事も出来ない。
指示を出し終えた事もあり、師に付き添われ本陣の幕舎に入った。
椅子に促され漸く腰を下ろすと、師が私の膝にしがみつくようにして頬を私の腿に乗せた。
「師?」
「…どうして、言って下さらなかったのですか」
「言ったら、お前が一番心配するだろう」
「言わなければもっと心配になります…あと七日だなんて突然過ぎます。
…どうしたら良いのか私には解りません…」
「すまぬ」
ぽろぽろと私の膝上で泣く師の頭を撫でながら、幕舎の外にいる伝令の報告を聞いた。
昭が敵将の首を討ち取ったらしい。戦は間もなく終わるだろう。
「さぁ、立て師。皆が帰ってくる」
「もう少しこのままで居させて下さい…」
「…少しだけだぞ」
「父上…」
師の涙を拭おうとも、涙が止まらない。
膝上から顔を起こさせ、胸に埋めた。
師が胸をさする。
「此処が、痛むのですか…」
「お前が余りにも泣くから、お前が幼い頃の真似をしただけだ」
「父上が温かいので…落ち着くのです」
「昭が帰ってくるまで、だぞ」
「はい…」
「すいません。もう帰ってきましたけど」
昭の声が聞こえて見上げると、幕舎の入口に昭が血糊に濡れて立っていた。
他の者達は外に控えているらしい。
師の肩を叩いて立ち上がり、昭を手招く。
師が幕舎の入口の帷を下ろした。
「その血は」
「あ、これは俺の血じゃないです。元姫も無事です」
「そうか。それを聞いて安堵した」
「突出してすいません。トウ艾の援軍、ありがとうございました」
「奴は」
「討ち取りました。首級は本陣に」
「よくやった。だが」
昭を頬を撫でた後に思い切り抓った。
昭が痛い痛いごめんなさい!と喚くので、離してやり再び頬をさすった。
「もう家族を失いたくはない。己の手腕を買い被るな。自重せよ」
「はい…ごめんなさい父上」
「解れば良い」
苦笑し手を離そうとするも、昭は手を離さなかった。
何だと問おうとしたが、昭は私の掌に付いた血を見ていた。
「ねぇ、父上」
「何だ」
「これは返り血じゃない…。父上、何処か怪我でも?」
「…いや、何でもない」
「父上?」
昭くらいには、教えなくとも良かろう。
吐血を拭った手で昭に触れてしまった事に今更ながら後悔した。
察しのいい昭にはいつか解ってしまうだろう。
そう思っていた矢先にずっと黙っていた師が口を開いた。
「昭、父上にはもう時間がない」
「え…?」
「師」
「もう秘密にするのはやめて下さい。
家族でしょう。あなたも今そう仰ったではありませんか…」
「じゃあ、兄上が泣いていたのも関係あるんですか?」
「…全く、仕方あるまいな」
師がまた泣きそうだ。
昭がおろおろと狼狽していたがそれを抑えるように頬に触れ、師の頬にも触れた。
「父上?」
「私はあと十日も生きられぬ。全権は師に託そう。
昭は師を補佐せよ。後は…そうだな。好きにするといい」
「…え?ま、待って下さい!突然、そんなのって…」
「兄弟仲良く、な」
「はい…」
「父上…そんな」
「おいで」
涙を流す師と狼狽する昭を肩に抱き締め、頭を撫でた。
私よりも大きい我が子達はまだまだ頼りないが、きっとこの腐りきった時代を何とかしてくれるだろう。
「大きくなったな」
それだけ言って幕舎を出て、帰陣した全軍に勝ち鬨を上げさせた。
師と昭は暫く幕舎から出て来なかった。
戦後の後始末も終え、久しく留守にしていた我が家に漸く帰る事が出来た。
居間に落ち着き腰を下ろすと、いつも春華が茶を煎れてくれた事を思い出す。
『お帰りなさいませ。仲達様も子供達も皆が無事で何よりですわ』
そんな春華の声が聞こえた気がした。
「お帰りなさいませ」
「!…ふ、ただいま」
師が茶を煎れてくれた。
私によく似た容姿で、何処か春華の面影を残した師。
春華を真似て、茶を煎れてくれたのだろう。
「お前もお上がり」
「はい」
「兄上、俺のも」
「ほら」
遅れて居間に入ってきた昭に師が茶を渡した。
遅れた理由を聞くと、どうやら武器の手入れをしていたらしい。
最近めんどくせ、はなりを潜めたようだ。
春華によく似て育った昭は、性格は何処か私に近いところがある。
やり残した事をほおっておけない性格なのは私にそっくりだ。
何を言おうとも、二人とも私達の愛しい息子達である事に変わりはなかった。
兄弟の仲が良い事に安堵する。
茶を飲んだ後、発作が起き息を詰まらせた。
咳き込み続けて卓に滲むほど血を吐いてしまい、師と昭が即座に駆け寄ったのが見えて目を閉じた。
気付けば寝台の上に寝かせられていた。
軍装は解かれ、服は寝間着に着替えさせられている。
温かい手元を見ると、師と昭が揃って私の枕元で膝を床に付けて眠っていた。
「…風邪をひくぞ」
月が煌々と輝いている。
夜中なのだろう。
眠っている師と昭の頭を撫でると、昭がゆっくりと目を開いた。
「父上!」
「しっ。師が起きる」
「…っ、すいません。もう、大丈夫なんですか?」
「少しは落ち着いた」
師にも昭にも、目尻に泣いた跡があった。
いつまでも親離れ出来ぬ子供達の頭を撫でる。
肩を起こし、師と昭の方へ体を向けた。
「ずっと、傍に居てくれたのか?」
「はい…兄上と一緒に。医者も呼びました」
「そうか」
「肺を患われていると…」
「そうだ。末期らしくてな。血を吐いたらもう死ぬらしい」
「そんな、他人事みたいに言わないで下さい…」
怒ったように昭は言い、敷布に顔を埋めた。
ふわふわした茶色い髪を撫でてやると昭は安堵して目を閉じる。
「昭、師に何かかけてやれ」
「…それより」
「うん?」
「今夜は、父上と一緒に寝たいです…兄上も一緒に」
「寝台が狭くなるわ」
「じゃあ、このままで居させて下さい」
「…やれ、仕方ない。言ったら聞かぬからな、お前は」
「!」
「早く師も入れてやれ。布団が足りぬわ。もっと持って来い。風邪をひく」
「っ…はい!」
「静かにしろ」
「あ、すいません」
全く幾つになったのだか。
眠っている師を抱いて私の隣に寝かせ、布団を何枚か持ってきた昭は師とは逆側に寝転んだ。
子供達に挟まれるようにして、横になり布団に埋まる。
「…俺、何かにつけて…父上に反発してたと思います」
「そうだな」
昭がぽつりぽつりと話しはじめた。
師は無意識なのか、私にしがみつくように寄り添ってくる。
「父上が兄上ばっかり褒めるから、俺を見て欲しかったんです」
「……。」
「俺は兄上みたいにはなれないけど、父上に認められたかった」
「構って欲しかったのか」
「簡単に言うとそうです」
「…私はそんなお前を知っていたから、お前に父上を譲っていた時もあったのだぞ」
「師?」
声に気付き振り向けば、少し前から師は起きていたらしい。
私に擦り寄り、昭の額をつつく。
「兄なのだから我慢しようと、何度自分に言い聞かせた事か」
「そうだったんですか?」
師と昭のちょっとした蟠りは解けたようだ。
二人は笑いあい、私に擦り寄る。
これからはきっと、もっと仲良くやってくれるだろう。
「ねぇ、兄上。実はずっと思っていた事があるんですけど」
「何だ」
「父上と肉まんとどっちが好きなんです?」
食べ物と比べるな、と昭を小突いたが師は至極真剣な顔をして悩んでいた。
「じゃあ、父上が苦戦しています。
その目の前に肉まんが落ちています。
このままだと潰されちゃいます。さて、どうします?」
「その肉まんを食べながら父上をお助けする」
「いや、その、どっちかじゃなきゃ駄目なんですけど」
「ははは」
師と昭のやり取りに声を出して笑った。
結局師の答えは重大な問題なので返答出来ない、らしい。
笑ったらまた息が苦しくなった。
私が少し咳き込むと、師と昭がこの世が滅んだかのような絶望した顔を見せる。
直ぐに発作は収まり、師と昭の頭を撫でた。
「…父上」
「大丈夫だ。まだ死なぬ」
「でも」
「疲れているだろう。二人とももう、おやすみ」
私は大丈夫だから。
そう言うと二人とも頷いて目を閉じた。
それぞれの頬を撫でて目を閉じると、師も昭も私に擦り寄るように眠りについた。