わたし大切たいせつ人達ひとたちはなし 01

日毎、発作的に咳き込むようになってきたと思う。
人前では堪えているのだが、夜中になると咳き込む。

誰にも自分の病の事は言っていない。
誰にも余計な心配はかけたくなかった。
何より、子供達が多大に心配するのが目に見えている。
妻の春華はもういない。

血を吐いたら、残された時が少ない証。
七日と生きられるかどうか。
秘密裏に私を診察した医師はそう言った。



誰にも何も言わず、戦場に立つ。

初夏の風は心地良く私の頬を撫でて通り過ぎていく。
先日命日だったからだろうか。
頬を撫でる風に、既にないあの人の面影を重ねて自分を慰めていた。

私はあれからずっと独りで生きてきた。
もう少しでまたお逢い出来るのかもしれない。
何処か頭の端でそう考えながら、羽扇を上げて指揮を取った。

昭が突出し過ぎているのか、元姫が諫めているが苦戦しているとの報告を受けた。

「師」
「はい」
「昭の援護に行け」
「…しかし、私が此処を離れれば父上を警護する者が居なくなります」
「別に構わぬ」

師を見ず、戦場を見下ろしながら我ながら冷たく言い放ったと思う。

「…何を、仰って…」
「自分が行きましょう。司馬師殿は司馬懿殿の元に」
「それで構いませぬか、父上」
「…昭らを助けて欲しい。彼奴、一度きつく仕置きせねばなるまい」
「御意」
「頼む」

師とトウ艾の前で、あからさまな態度を取ってしまっただろうか。
トウ艾は足早に本陣を駆け下りて行った。



戦場を見下ろし、羽扇で口元を隠した。
息苦しい。このような時に発作が来てしまったらしい。

師の前で自分の弱い姿を見せたくはない。
堪えようにも、今度の発作は肺すら蝕まれているのか同時に胸も痛んだ。

「…父上?」
「何でも、ない」

羽扇では隠しきれず背を向けた。
胸が痛い。堪えきれず咳き込み視界が回る。

地に倒れる視界の端に、あの人が居たような気がした。

「父上!!」

師の声が遠くに聞こえる。
ぼんやりとした視界に、師の泣きそうな顔が見えた。


口元を抑えた掌には赤い血が滲んでいて、再び咳き込むと鉄の味がする。
どうやら私はこれまでらしい。
漸く天に赦されたのだろうか。

遺された短い命で、私にあと何が出来るのだろう。




頬にぽろぽろと何かが落ちてきていた。
師の涙が私の頬を伝っていた。

「患って、いたのですか?…どうして、言って下さらなかったのですか…」
「うん?余計な事だろう」
「もっと早く仰っていただけたのならば、手の…施しようも…」
「ない。血を吐いてしまった…あと十日も生きられぬ」
「そんな…」
「先ずはこの下らぬ戦を終わらせねばなるまいな」

師の手を借り、口元を拭い立ち上がった。
師が後ろから私を抱き締める。
あんなに小さかった師も、随分と大きくなったものだ。

「…父上はもうお下がり下さい」
「総大将は私だ」
「お願いです…このままでは、お体が」
「大事ない。もう落ち着いた」

師を離して頭を撫でた。
昭らはどうやら無事らしい。
トウ艾がやってくれたようだ。
昭が前に出たせいか、敵は怯み予想以上に有利に事が動いている。
機を見て、郭淮と鐘会も前に出させた。

「殲滅せよ。謀叛し下らぬ戦を起こした此奴らに、明日の日を見る資格はない」
「はっ」
「御意」

目を瞑っていても勝てる戦だったが、退く訳にはいかなかった。
この戦の目的は謀叛人の殲滅にある。

粗方の指示を出し終わり目を瞑る。
戦の音が耳に響いていた。

「父上、お下がり下さい…。お願いです。お願いですから…」
「しかし未だ」
「あなた様は総大将であり、この国を束ねるお方。ですが私にとっては…たった一人の父上なのです」
「……。」
「私の一度きりの我が儘です…。お願いですから、もう、お下がり下さい…」
「…仕方あるまい」

気丈な師にこうまで泣きつかれては断る事も出来ない。

指示を出し終えた事もあり、師に付き添われ本陣の幕舎に入った。
椅子に促され漸く腰を下ろすと、師が私の膝にしがみつくようにして頬を私の腿に乗せた。

「師?」
「…どうして、言って下さらなかったのですか」
「言ったら、お前が一番心配するだろう」
「言わなければもっと心配になります…あと七日だなんて突然過ぎます。
 …どうしたら良いのか私には解りません…」
「すまぬ」

ぽろぽろと私の膝上で泣く師の頭を撫でながら、幕舎の外にいる伝令の報告を聞いた。
昭が敵将の首を討ち取ったらしい。戦は間もなく終わるだろう。

「さぁ、立て師。皆が帰ってくる」
「もう少しこのままで居させて下さい…」
「…少しだけだぞ」
「父上…」

師の涙を拭おうとも、涙が止まらない。
膝上から顔を起こさせ、胸に埋めた。
師が胸をさする。

「此処が、痛むのですか…」
「お前が余りにも泣くから、お前が幼い頃の真似をしただけだ」
「父上が温かいので…落ち着くのです」
「昭が帰ってくるまで、だぞ」
「はい…」
「すいません。もう帰ってきましたけど」

昭の声が聞こえて見上げると、幕舎の入口に昭が血糊に濡れて立っていた。
他の者達は外に控えているらしい。
師の肩を叩いて立ち上がり、昭を手招く。
師が幕舎の入口の帷を下ろした。

「その血は」
「あ、これは俺の血じゃないです。元姫も無事です」
「そうか。それを聞いて安堵した」
「突出してすいません。トウ艾の援軍、ありがとうございました」
「奴は」
「討ち取りました。首級は本陣に」
「よくやった。だが」

昭を頬を撫でた後に思い切り抓った。
昭が痛い痛いごめんなさい!と喚くので、離してやり再び頬をさすった。

「もう家族を失いたくはない。己の手腕を買い被るな。自重せよ」
「はい…ごめんなさい父上」
「解れば良い」

苦笑し手を離そうとするも、昭は手を離さなかった。
何だと問おうとしたが、昭は私の掌に付いた血を見ていた。

「ねぇ、父上」
「何だ」
「これは返り血じゃない…。父上、何処か怪我でも?」
「…いや、何でもない」
「父上?」

昭くらいには、教えなくとも良かろう。
吐血を拭った手で昭に触れてしまった事に今更ながら後悔した。
察しのいい昭にはいつか解ってしまうだろう。
そう思っていた矢先にずっと黙っていた師が口を開いた。

「昭、父上にはもう時間がない」
「え…?」
「師」
「もう秘密にするのはやめて下さい。
 家族でしょう。あなたも今そう仰ったではありませんか…」
「じゃあ、兄上が泣いていたのも関係あるんですか?」
「…全く、仕方あるまいな」

師がまた泣きそうだ。
昭がおろおろと狼狽していたがそれを抑えるように頬に触れ、師の頬にも触れた。

「父上?」
「私はあと十日も生きられぬ。全権は師に託そう。
 昭は師を補佐せよ。後は…そうだな。好きにするといい」
「…え?ま、待って下さい!突然、そんなのって…」
「兄弟仲良く、な」
「はい…」
「父上…そんな」
「おいで」

涙を流す師と狼狽する昭を肩に抱き締め、頭を撫でた。
私よりも大きい我が子達はまだまだ頼りないが、きっとこの腐りきった時代を何とかしてくれるだろう。




「大きくなったな」

それだけ言って幕舎を出て、帰陣した全軍に勝ち鬨を上げさせた。
師と昭は暫く幕舎から出て来なかった。





戦後の後始末も終え、久しく留守にしていた我が家に漸く帰る事が出来た。
居間に落ち着き腰を下ろすと、いつも春華が茶を煎れてくれた事を思い出す。

『お帰りなさいませ。仲達様も子供達も皆が無事で何よりですわ』

そんな春華の声が聞こえた気がした。


「お帰りなさいませ」
「!…ふ、ただいま」

師が茶を煎れてくれた。
私によく似た容姿で、何処か春華の面影を残した師。
春華を真似て、茶を煎れてくれたのだろう。

「お前もお上がり」
「はい」
「兄上、俺のも」
「ほら」

遅れて居間に入ってきた昭に師が茶を渡した。

遅れた理由を聞くと、どうやら武器の手入れをしていたらしい。
最近めんどくせ、はなりを潜めたようだ。
春華によく似て育った昭は、性格は何処か私に近いところがある。
やり残した事をほおっておけない性格なのは私にそっくりだ。

何を言おうとも、二人とも私達の愛しい息子達である事に変わりはなかった。
兄弟の仲が良い事に安堵する。

茶を飲んだ後、発作が起き息を詰まらせた。
咳き込み続けて卓に滲むほど血を吐いてしまい、師と昭が即座に駆け寄ったのが見えて目を閉じた。





気付けば寝台の上に寝かせられていた。
軍装は解かれ、服は寝間着に着替えさせられている。

温かい手元を見ると、師と昭が揃って私の枕元で膝を床に付けて眠っていた。

「…風邪をひくぞ」

月が煌々と輝いている。
夜中なのだろう。

眠っている師と昭の頭を撫でると、昭がゆっくりと目を開いた。

「父上!」
「しっ。師が起きる」
「…っ、すいません。もう、大丈夫なんですか?」
「少しは落ち着いた」

師にも昭にも、目尻に泣いた跡があった。
いつまでも親離れ出来ぬ子供達の頭を撫でる。
肩を起こし、師と昭の方へ体を向けた。

「ずっと、傍に居てくれたのか?」
「はい…兄上と一緒に。医者も呼びました」
「そうか」
「肺を患われていると…」
「そうだ。末期らしくてな。血を吐いたらもう死ぬらしい」
「そんな、他人事みたいに言わないで下さい…」

怒ったように昭は言い、敷布に顔を埋めた。
ふわふわした茶色い髪を撫でてやると昭は安堵して目を閉じる。

「昭、師に何かかけてやれ」
「…それより」
「うん?」
「今夜は、父上と一緒に寝たいです…兄上も一緒に」
「寝台が狭くなるわ」
「じゃあ、このままで居させて下さい」
「…やれ、仕方ない。言ったら聞かぬからな、お前は」
「!」
「早く師も入れてやれ。布団が足りぬわ。もっと持って来い。風邪をひく」
「っ…はい!」
「静かにしろ」
「あ、すいません」

全く幾つになったのだか。
眠っている師を抱いて私の隣に寝かせ、布団を何枚か持ってきた昭は師とは逆側に寝転んだ。
子供達に挟まれるようにして、横になり布団に埋まる。

「…俺、何かにつけて…父上に反発してたと思います」
「そうだな」

昭がぽつりぽつりと話しはじめた。
師は無意識なのか、私にしがみつくように寄り添ってくる。

「父上が兄上ばっかり褒めるから、俺を見て欲しかったんです」
「……。」
「俺は兄上みたいにはなれないけど、父上に認められたかった」
「構って欲しかったのか」
「簡単に言うとそうです」
「…私はそんなお前を知っていたから、お前に父上を譲っていた時もあったのだぞ」
「師?」

声に気付き振り向けば、少し前から師は起きていたらしい。
私に擦り寄り、昭の額をつつく。

「兄なのだから我慢しようと、何度自分に言い聞かせた事か」
「そうだったんですか?」

師と昭のちょっとした蟠りは解けたようだ。
二人は笑いあい、私に擦り寄る。
これからはきっと、もっと仲良くやってくれるだろう。

「ねぇ、兄上。実はずっと思っていた事があるんですけど」
「何だ」
「父上と肉まんとどっちが好きなんです?」

食べ物と比べるな、と昭を小突いたが師は至極真剣な顔をして悩んでいた。

「じゃあ、父上が苦戦しています。
 その目の前に肉まんが落ちています。
 このままだと潰されちゃいます。さて、どうします?」
「その肉まんを食べながら父上をお助けする」
「いや、その、どっちかじゃなきゃ駄目なんですけど」
「ははは」

師と昭のやり取りに声を出して笑った。
結局師の答えは重大な問題なので返答出来ない、らしい。

笑ったらまた息が苦しくなった。
私が少し咳き込むと、師と昭がこの世が滅んだかのような絶望した顔を見せる。
直ぐに発作は収まり、師と昭の頭を撫でた。

「…父上」
「大丈夫だ。まだ死なぬ」
「でも」
「疲れているだろう。二人とももう、おやすみ」

私は大丈夫だから。
そう言うと二人とも頷いて目を閉じた。
それぞれの頬を撫でて目を閉じると、師も昭も私に擦り寄るように眠りについた。


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