わたし大切たいせつ人達ひとたちはなし 02

後任は師に、補佐役は昭に。
皆にそう伝え、口伝だけでは後々争いの火種にもなろうと書簡にも書き下ろした。
司馬家は、曹家のように兄弟で争ってほしくはない。

師は我が子ながら分別を弁え、優れた将器に恵まれている。
昭は面倒くさがりなところが少し心配ではあるが、元姫も賈充も居る事であるし大丈夫だろう。

きっと私が居なくなっても。





「…司馬懿殿」
「元姫か。皆はどうしている?」
「はい…。子元殿が良くやってくれています」
「そうか。昭は?」
「少しひとりになりたい、と」
「そうか」

普段通りに執務室で書簡を整理していたら、元姫がやってきた。
珍しく昭を伴ってはいない。
思えば、私の体調の変化にいち早く気付いたのも元姫だった。
私が認めた通り、元姫は繊細で何かと気が付く子だ。
幼い頃からまるで娘のように目をかけてきた彼女だが、今は昭の傍に居てもらっている。

「書簡の整理なら私が致しますから、どうか」
「直ぐに済む」
「司馬懿殿」
「うん?」
「…皆、あなた様を案じております。どうか御無理は」
「…なれば、少し休むとしようか」
「はい。何か飲まれますか?」
「茶を貰えるか」
「はい」

私の身丈よりも大分小さい身丈の元姫は私を見上げ、ぱたぱたと走って茶器を取りに行ったようだ。

元姫は何処か、雰囲気が春華に似ている。
私が昭の目付役として選んだ彼女は良くやってくれているようだ。

元姫が帰ってきた。
長椅子に座るよう、半ば強引に背中を押される。

「元姫」
「はい」
「昭は、大丈夫か」
「…司馬懿殿は、子上殿に甘いですね」
「うん?」
「あの厳格な子元殿があなた様には弱いのも解る気がします」

春華もよくそう言っていたと、茶を煎れながら元姫は言う。
確かに私は子供に甘くて、春華は子供にも私にも厳しかった。
今や私は独り身だが、春華の事を忘れた事はない。

厳しい妻だったが、私は春華を愛していた。




元姫に茶を貰い、ゆっくりと飲む。
食欲がない私に温い茶は丁度良い。

「良い茶を煎れるようになったな元姫」
「そんな事…、ありがとうございます。恐縮です」
「春華が、元姫のような娘が欲しかったとよく言っていた」
「はい」
「…昭をよろしく頼む」
「司馬懿殿」

きっと昭と元姫は夫婦になるだろう。
夫婦にならずとも、お互いを信頼出来る間柄になれれば良い。

私もあの方の教育係になった時はそうだった。

「…昭と元姫を見ていると昔を思い出す」
「昔?」
「遠い遠い昔の魏の話だ」
「もし良かったら、私にもお話しして下さいませんか?」
「うん?つまらぬ話だ」
「いいえ。あなた様のお話しはいつだって素敵なお話しですから」

私を子上殿と引き会わせていただきありがとうございます。
元姫はそう言うと、私の前で背筋を伸ばして姿勢を正した。



話してくれるまでこのままでいるとでも言いたげで、苦笑し肩を叩いて楽にするよう促した。

「…私が居たあの時代はもう見る影もない。天下に相応しい男は既に居なくなってしまった…」
「あなた様が天下を、とは考えないのですか?」
「…あの方の為、なのかもしれない」
「あの方とは?」
「先代曹操殿、初代皇帝、曹丕様…。皆、私を置いて逝ってしまった。
 私は曹丕様の教育係だったのだが…随分と長い階段を上ったように思う」

幾久しくあの方の名前を人前で呼んだ。
もう何十年前に亡くなったのか解らないくらいに孤独を感じて生きて、生きた。

「…っ、昭と元姫を見ていると…、あの方が居た頃を思い出す。
 あの方は私にだけ甘えて…、私もあの方の前ではまるで女子のようだった…」
「曹丕様を慕っていらしたのですね」
「ああ…。大切な人が居るのなら素直に接するが良い。
 もっと素直で居れば良かったと…。無くしてしまってからではもう…何もかも遅いのだ」

やっとまた傍に居れる。
そう思うとまた胸が苦しい。
早く連れて行って下さったら良いのに。

「…司馬懿殿?顔色が…」
「すまぬが、師か昭を…」
「っ、はい」

胸がまた苦しくなってきて椅子に凭れ、肘掛けに凭れる。
元姫が慌てて部屋を出て行った。



少し咽せてまたうずくまる。
口を抑えた手はまた赤く染まっていた。
誰かが背中を撫でてくれているような気がして目を閉じる。

「子桓様…」

思い出してしまった。
背中を撫でてくれた手があの方のような気がして目を閉じた。
本当に久しく声に出して字を呼んだ。


「…子桓様…、漸くまたお傍に」

目を閉じると思い出す。
私は三歩後ろを歩いて、いつもあの方の傍に居た。
私を私で居させてくれた唯一の人。

春華にすら呼ばせなかった字を、私は唯一子桓様にだけ呼ぶ事を許した。
私よりも幾分も若い子桓様が病に倒れて、先に亡くなったのも最早幾久しい話。

独りは慣れた筈なのに、思い出してしまい淋しくて仕方なかった。




ふわりと横に抱き上げられている気がして目を開けた。
見れば、昭だった。
少し下の目線に元姫も見えた。

「昭…?」
「…父上、今日はもう出歩かないで下さいね。お体に障りますから」
「…ひとりになりたかった…のではないのか?」
「俺とて優先すべき状況くらい解りますよ」
「そうか…。心配をかけた」
「元姫、知らせてくれてありがとうな。父上を連れて帰るわ」
「ええ。子上殿も大丈夫?」
「何が?」
「…大丈夫なら良いのだけれど」

元姫は我等に頭を下げて離れていった。




昭に抱き寄せられ、自宅に戻る。
どうやら師はいないようだ。
私からの引き継ぎで忙しいのだろう。

「何か、食べますか?薬飲まないと」
「いや…食欲がない」
「駄目ですよ。何か食べて、薬飲んで…少しでも良くなって下さい」
「…昭、私はもう」
「聞きたくありません。粥でも作りますから待ってて下さいね」
「…解った」

私はもう回復する見込みのない病状だ。
どうする事も出来ないだろうに、昭は少しでも良くなって欲しいと私を寝台に寝かせて台所に向かった。

師は私の死を認めて先を見つめ、次代の為に動いている。
その点、昭はまだ現実を認めていないようだ。
認められないのだろう。

皆に心配を掛けぬよう普段通りに接してきたし、昭には私が吐血した事が突然のように思えた事だろう。
私の思惑通りだった。

昭は未だ、私がもう直ぐ死ぬ事なんて信じたくないのだ。



普段からやる気のない昭がめんどくせ、とも言わず、
私の為に動いているのは少々喜ばしい事だった。
普段からそうであれば良かったのに、と思えど口には出さず目を閉じた。

私は昭を甘やかせ過ぎただろうか。


「…父上、起きれますか?」
「ああ…」
「胸は?お体は痛みますか?」
「…今日は調子が良い」

嘘だ。
死は確実に私に歩み寄っていた。
息をする度に胸が締め付けられるように痛い。
薬など今更効きもしないのだ。

昭には悟られぬよう体を起こし、作ってくれた粥を何とか口に運んだ。
本当は食べる事すら辛いのだが、せっかく昭が作ってくれたのだから無駄にはしたくなかった。

時間を掛けて何とか全て食べ終える。
昭は少し安堵したような顔をして私の傍に座っていた。

「…昭」
「はい」
「ありがとう」
「っ、いいえ。そんな事…」
「ひとりになって…、考えはまとまったか?」
「あ、ああ…元姫から聞いたんですね」

白湯を貰い、薬を飲み少し落ち着いた。
寝台に背中を凭れ、昭の話を聞いた。

私に余り時間もない。
親子で居れる内に昭の悩みを聞いてやりたかった。
いずれはきっと師や元姫や賈充が聞いてやってくれるだろうが、今はただひとりのこの子の父親で居たかった。
今の私に役職は関係ない。

「…何を悩んでいる?私には話せない事か?」
「あ、いや…その…。俺はどうしたらいいんでしょうね…」
「どうしたら、とは」
「…まだ信じられないです…」
「ああ…。だがな、昭。残念ながら本当の話だ。こうして話せる時間も余りない」
「父上の事だから…策、とかじゃないんですか?」
「…ふ、もうそんな気力もないわ。今更…何を出し抜くと言うのだ」

師が居ると、師に恐縮して昭はなかなか私に話をしてくれなかった。
その代わり、元姫や賈充に話すのだろう。

私は執務政務と忙しかったし、子供達ひとりひとりとゆっくり話す時間がなかった。
小さかった筈の子供達はいつの間にか私の背丈を越して、いつの間にか大きくなっていた。

私が小さくなったのだろうか。


「父上…」
「うん?」
「ちょっと、甘えさせて下さい」
「ふ…、どうした?」
「甘えたい気分なんです」

昭が私の胸に埋まるように身を寄せた。
その腕には力がこもっていたので、楽にするように肩を叩く。
春華譲りのふわふわした短い髪を撫でると、昭は私を見上げた。
図体は大きくなったとはいえ、私を見つめる瞳はまだ子供のままだった。

「父上…」
「うん?」
「俺はまだ…子供で居たかったんですよ。急に大人になれって言われたみたいだ」
「昭、幾つになったと」

きっと心の整理がついていないのだろう。
昭は考え方がまだまだ子供のままで甘い。


その時はいずれ来るだろう。
焦らなくて良い。
己あるがまま、ゆっくりで良い。
皆と一緒に進めば良い。

お前はやれば出来る子なのだから。


そう言って昭の頭を撫でると、昭は身を起こして私の頬に擦り寄る。

「俺はどうせ兄上みたいに優秀じゃありませんよ」
「そんな風には言ってないだろう?」
「…俺が甘えられる人なんて、そう何人もいませんから…今は父上に甘えていたいです」
「それは師とて同じだろう」
「今は、俺の話だけして下さい」
「お前の兄だろうに」
「…兄上は兄上で父上が大好きですから。
 俺だって父上に甘えたかったんですよ。今は俺が独り占めするんです」
「…ふ」
「父上…大好きです…。だから、どうかまだ…もう少しだけ…甘えさせて下さい…」
「…仕方のない子だ」

昭の頬が濡れている事に気付いて、頬を撫でた。
小さく咳払いをすると、昭はびくっと肩を震わせて私の胸を撫でた。

「…大事ない」
「嘘、でしょう?胸に触れたら解ります…」
「おや、見抜かれてしまったか」
「俺の前だから、ずっと我慢してたんですね…父上」

また気を病ませてしまっただろうか。
昭は思い悩んでも、直ぐに素直に言葉にするので解りやすかった。
心配させまいと、頭を撫でてやると昭は私の胸に埋まった。

問題は、内に溜め込んで誰にも話さない師だ。



「…っ、ごほっ、っは…」
「父上っ」
「…今日はもう休む。昭と話せて良かった」
「…傍にいます」
「ん…。私が居なくなって、師が困っていたら支えてやってくれ。兄弟で喧嘩などせぬようにな」
「はい」

血混じりの咳をして、寝台に横になり目を閉じた。
口を抑えた際に血が付いた手を昭が拭い、包み込むように握り締める。




その手の温かさに微笑み、目を細めた。

「…元姫に、子桓様との話をした」
「曹丕様の話?」
「お前にも…心から信頼出来る人が出来ると良いな」
「そうですね。父上と母上と、兄上に、元姫に賈充に…」
「そうか…。昭にはもう沢山居るのだな…。安心した」

やはり私は過保護だったのだろうか。
昭はいつの間にか成長していたようで、私が心配するまでもない。

私よりも沢山友がいるようだ。
昭は未だ悩んでいるようだが、きっともう大丈夫だろう。

お前はもう一人ではないのだな。





昭の頬を撫でていると、昭が眉を寄せて私を見つめた。

「…淋しいんですか、父上」
「うん?…そうだな、淋しいの…かもしれぬ」
「未だ曹丕様の所に行っちゃ嫌です」
「…ふ」
「父上、駄目ですからね…。父上が淋しいなら俺がずっと傍にいますから」
「ありがとう。昭」

昭の頬を撫でてやると、私の手に甘えるように擦り寄った。
図体は大きくなっても、私の息子だ。
可愛くない訳がない。



「また明日、目覚めたら話しをしよう」

そう言って昭の額に口付けた


TOP