恋人こいびとになるまでの定義ていぎ 01

軍師の端くれとなったは良いものの、如何せん書簡の処理が多くなかなか軍師らしい事はしていない。
何方かを師と仰ぎ御教授いただく事が最善の策であろうが、私の性格上それは不可能に近い。

そもそも嫌々応じた出仕だったのだ。
誰彼にも心を開くつもりはない。





朝礼後、足早に書庫に走り書簡をまとめる為の資料を探す。
正午までに書簡を書き終えたら、午後からは私が目付役である公子の曹丕様の元に呼ばれている。
約束の刻限に遅れる訳にはいかない。

此方の執務は大した事はない。
直ぐに終わるものだ。
ただあの曹操殿の軍師となったからには色々と準備をしておきたい。

曹操殿の無茶ぶりの数々は、曹丕様の傍で静観していた。
他人事であれ、あのような無茶な投げられ方をされれば嫌でも己の裁量が身に付くだろう。
やるしかないのだから。
曹操殿の命令の返事に、『御意』以外の返事を知らない。

上司としては良いのかもしれないが、私は出来れば関わりたくなかった。
正直、軍師の任とて面倒くさい。


曹操殿が改編したという孫子。その他にも兵法書を多々執筆されたと聞く。
執筆の合間にその兵法書を読んでおきたい。
軍師として、と言うよりは個人的に興味深い。
その為に時間を作りたかった。



三曹と称される程、文学も嗜まれる曹魏ではあれど詩だけは私はよく解らない。
曹丕様とてその三曹の一人であるが、私は詩に興味がない。

幾らあの方が愛やら恋心を詠んだ詩を認めたとて、私は首を傾げるだけだ。


先日の話だ。
曹丕様が私を慕っていると直接言葉を投げかけられた。
側近として嬉しい御言葉です、と返礼を述べたのだが…そうではないと言う。
私を恋愛対象として見て、想いを寄せていると曹丕様は話された。

幼い頃から過ごしていた長い時間せいだと、気の迷いだと考える事にしている。
お戯れを…、と言葉を返しその場を後にした。
逃げ出した、と言った方が正しい。
曹丕様の真っ直ぐな想いは目を見るだけで伝わった。

戯れで話されていない。
本気なのだと解って、尚更怖くなった。




今は考えないでおこう。
そう思うのに少しでも気にしたら、曹丕様の事しか考えられなくなった。

書簡を棚に戻し筆を走らせるも、曹丕様の事が頭を過ぎる。

立派な青年に育ってくれたと思う。
私の目付役もそろそろ頃合いであろう。
曹操殿の軍師となったからには、いずれ公子となった曹丕様からは離されよう。

軍師として戦場にて討ち果てるか、或いは病か。
何となく、決められた運命と私の命の終わりが見えた。

私は曹丕様と立場も生き方も違う。



「……?」

書簡にぽたぽたと水滴が落ちて、字が滲む。
首を傾げて頬を撫でると、いつの間にか私は涙を流していた。

「何故…」
「どうしたの?」
「?!」
「おや…?」

ずっと背後に居たのだろうか。
突然両肩に手を置かれて驚き、振り向いたその人に抱き締められた。

「か、郭嘉殿っ」
「殿の書いた兵法書を読んで感動のあまり…と言う訳じゃなさそうだね」
「何でも、ありません」
「何でもないの?本当に?」
「は、離して下さいっ」

乱暴に涙を拭い、郭嘉殿の胸を押した。



郭嘉殿は曹魏随一の軍師。

曹操殿と同じく、酒好きで女好きで…。
へらへらとした色男ではあるが、軍師としての腕は並外れている。

郭嘉殿のような軍師になりたい、とは思わなかった。
日常の素行が悪すぎる。
基本的にこの御方は不真面目なのだ。

どちらかと言えば曹丕様は真面目だ。
曹丕様に軽い冗談など通じない。冷たい眼差しで一瞥するだけだ。
故に、曹丕様と郭嘉殿は仲が悪い。


軍師としての手腕は尊敬の念を抱かずにいられない、とは言え…。

新任の私を何かと気遣って下さるのは良いものの、私への接し方が女を口説く際のそれだ。
まるで私を女のように扱う。
正直話をするのは苦手だった。

そんな御方に己の泣き顔を見られるなど、不覚だった。
しかも抱きすくめられてしまうなど…。

「何で泣いていたの?」
「泣いてません」
「相変わらず素直じゃないね…。ほら、墨の手で顔を触るから汚れてるよ」
「…あ」
「じっとしてて」

紳士的な態度に少し緊張を緩めた。
手巾で頬を拭われるも、郭嘉殿は私を離してくれない。
結局胸に埋められたまま、郭嘉殿に慰められるかのように背中を撫でられる。

「何を読んでたの?殿の兵法書?」
「はい…。曹操殿が改編されたとお聞きして…」

嘘は吐いていない。
曹操殿の書いた兵法書を読んで気になった箇所を書き出していた。

曹丕様の事を考えるあまり、頭に入らず。
書簡に纏めて後で復習するつもりだった。




郭嘉殿が少し笑って私の顎を掴む。

「君、殿の事を曹操殿って言うんだね?」
「!も…申し訳ありません…。お気に障りましたら直します…」
「いや、君にとっての殿は…もしかしたら違う人なのかなって」
「…はい」
「そこは素直に答えるんだね。因みに誰?」
「そ、曹…」
「何?曹家の方々は沢山いるからね。それだけじゃ解らないよ」

私にとって主とは、曹丕様の事だ。
所有物というつもりはないが、私の主は曹丕様に他ならない。

曹丕様が何か要らぬ詮索を受けないか心配になったが、郭嘉殿の手前、口車では勝てない。
いつの間にか肩と腰に回されている手を払って、距離を取り離れた。

「…曹丕様、です」
「ああ。あの人か。司馬懿殿は教育係だものね」
「はい…」

曹丕様と幼き頃に約束をした。
お前は私のものだと曹丕様は言い、私はあなたのものですと応えた。
それは今でも継続されている筈。
曹丕様は私にだけ心を開き、己あるがままの姿を私に見せてくれた。

だがまさか、恋愛対象として見られているとは思いもしなかった…。
曹丕様の事を考えると、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

まだ私は、あの返事を返していない。


「書簡の整理中だったのかな。手伝うよ」
「いえ…、郭嘉殿のお手を煩わせる事は…。と言うよりも…」
「ん?」
「何故、此処に?」
「綺麗な人が書庫に入って行くのが見えたから、声をかけにね」
「はぁ…」

どうせ女官の尻でも追い掛けて居たのだろう。
相変わらず軽い人だと呆れながら、書簡を持ち棚に戻した。



背後から気配を感じて振り向くと、郭嘉殿が私の棚に押し付けるようにして立つ。
朗らかな笑みは消え、鋭い眼光で私を見つめた。

「君の事なんだけど」
「はい?」
「綺麗なのに鈍感な人だね」
「…っ?!」

にこやかに笑い郭嘉殿はそのまま私に唇を合わせた。
突然の出来事に反応も抵抗も出来ず、持っていた書簡を落とす。

動揺して体が固まって動かない。
合わせられた唇の隙間から舌を入れられて更に深く口付けられる。

「もう、や、め…っ」
「少しじっとしてて、ね?」

震える手首を郭嘉殿が棚に片腕でまとめて押さえつけ、そのまま首元の釦を外され手を入れられて胸に触れられた。

「…強かな君の事だから、慣れているものかと思ったのだけれど、そうではないみたいだね」
「何の、話…っん」
「こんなに綺麗に澄ました顔で…、初なんだね?」
「曹丕、さ…まっ…」

何故咄嗟に曹丕様の名が出るのだろう。
自分自身でもよく解らなかった。

郭嘉殿が小首を傾げ、私の顎を掴み上を向かせた。
眉を寄せ、少し怖い顔をして私を見下ろす。


「この状況下で彼の名を呼ぶなんてね。付き合ってるの?」
「違っ…、私と曹丕様はそんなんじゃ…っ」
「ふぅん…。君は気付いていないみたいだけれど、君はね、何時だって彼の隣に居るんだよ?」
「…?」
「君はずっと曹丕殿と一緒にいるからなかなか話しかけられなくてね。
 君を一人にさせないんだよ、彼が。私はずっと君に触れてみたいと思ってた。
 綺麗だな、って。美しいものは愛でなくてはね。君は私に全く気付いてくれなかったけれど…」

息を吐くように語る甘い言葉で私に触れながら、股の間に膝を入れられ動けない。

普段ちゃらんぽらんな男が何故今になって、このような真剣な眼差しで私に口付けるのだろう
腕を押さえつけられて、また深く口付けられる。

怖い。


目を深く瞑り、流れる涙が止まらなかった。
己が何故泣いているのかも解らない。

私の涙を見た郭嘉殿が唇を離し、私を慰めるかのように両頬を掌で包む。


「少し強引にしたのは、こうでもしないと解ってくれないと思ってね。ごめんね。怖がらせたね」
「……。」
「君の事が好き。私じゃ駄目?」
「…っ、ふ…」
「離れろ」

私が答える間もなく聞こえた声は、私の腕を強引に掴み郭嘉殿から引き剥がした。


しちゅーさんから挿絵01

まるで郭嘉殿から私を守るかのように胸に埋め、肩を引き寄せる。
見られてはいけない、と強引に涙を拭った。

曹丕様だった。
私のはだけた胸元に気付いて曹丕様が正しながら、片腕で私の肩を抱いた。

「仲達に無礼を働く事は、私への無礼と心得よ」
「やぁ、曹丕殿。不躾だなぁ…、良いところだったのに」
「これは私のものだ。父の軍師とて許さぬ」
「何処に書いてあるの?そんな事」

青筋を立てて睨み付ける曹丕殿とにこやかな笑みを湛えつつも、
目が笑っていない郭嘉殿の間に冷たい殺気が感じられた。

普段冷静な曹丕様がこんなに感情を面に出して怒るところを初めて見たような気がする。
不安げに曹丕様を見上げると私の肩を掴む手には力がこもっていた。

痛い、けれど言えない。

「貴様の戯れに仲達を巻き込むな。これは私のものだ。気安く触れる事は許さん」
「そう、司馬懿殿が言ったの?」
「何?」
「貴方の一方的な片思いなんじゃないかな?」
「貴様」
「…肩の手、司馬懿殿が痛がってるよ?」
「…っ、すまぬ仲達」
「いえ…」

郭嘉殿が私に気付き、曹丕様が手の力を緩めて私の肩を抱いた。

曹丕様を見てひどく何処か安堵した自分がいて、肩の力が抜けた。
膝の力も抜けてしまいそうで、曹丕様の胸元によろめく。

「…っ…」
「…仲達、大事ないか」
「はい…」

両肩を曹丕様が支え、私を胸元に埋めて立たせてくれた。
曹丕様は私を郭嘉殿に触れさせようとしない。

私を守ろうと、必死だった。




「郭嘉殿、何処におられるか!殿がお呼びである!」

書庫の外から張遼殿の声が聞こえた。
私が郭嘉殿に振り向くと、郭嘉殿は指を唇の前に立てて片目を閉じる。
静かにして、という意味なのだろう。

だが曹丕様は郭嘉殿を一瞥し、声を張り上げた。

「張遼!」
「曹丕殿か。見つけましたぞ郭嘉殿。おや司馬懿殿まで」
「ど、どうも…」
「父の命であろう、郭嘉」
「ああもぅ~、殿がお呼びなら仕方ないか」
「参られよ。殿がお待ちである」
「はいはい。じゃあまたね」

生真面目な張遼殿には適わないのか、郭嘉殿は大人しく連れて行かれた。
曹丕様の胸元に埋まる私を張遼殿は見ただけで、何も言わなかった。

書庫には私と曹丕様だけが残された。




まだ怒っていらっしゃるのだろうか。
曹丕様の無表情の中に沸々とした怒りが感じられた。

曹丕様を見上げ、頭を下げた。

「どうして此処へ…?」
「…約束の刻限が過ぎてもお前が現れぬ故、探しに来た」
「っ…、申し訳、ありません…」
「…部屋に参れ」
「はい…」

足を動かそうとするも、体が動かなかった。
咄嗟の出来事に体の力が抜け、また郭嘉殿のせいで腰の力も抜けている。

先を歩く曹丕様に着いて行けず、その場に凭れた。
まだ何か、胸が痛い。


胸をおさえて目を閉じていると、人の気配がした。

「…、手を」
「え?っ、ぅ、わ…」
「…軽いな。父や軍師らに無理をさせられているのではあるまいな」
「お、下ろして下さい…」
「そのままで良い」

曹丕様が戻ってきて、私の手を掴むなり横に抱き上げる。
突然の事に抵抗も出来ず、また体も動かなかった。




曹丕様の室に入る。
ゆっくりと椅子に座らせられ、茶をいただいた。
曹丕様は私から少し距離を取り、向かいの椅子に座る。



曹丕様は何処まで見ていたのだろうか。
見ていたのだとしたら、どのような気持ちで私を見ていたのだろう。

咄嗟に抵抗出来なかったとはいえ、私は郭嘉殿のなすがままだった。
思い返せば男として情けないし、何よりも怖かった。

「……。」
「……。」

二人とも暫く何も話さなかった。
居心地が悪い。空気も悪い。
私は茶を飲むことに徹していたが、ふと目線をあげると曹丕様が直ぐ目の前に立っていた。

「…郭嘉には私からきつく咎めよう。戯れとはいえ、許せぬ」
「…はい。分かりました」
「…仲達、此方を向け」
「はい」

私が故意に目線を逸らした事を曹丕様が気付いた。
頬に手を添え、眉間に皺を寄せたまま私を見つめる。

「…少しは抵抗せぬか、仲達」
「私は身分が違います…。曹丕様や郭嘉殿とは…とても」
「…なればお前は、命じられればその身すら捧げるとでも言うのか?」
「そ、そのような事」
「郭嘉に、口付けられていたな」
「っ!」

やはり曹丕様は見られていたのだ。






別に私と曹丕様とてそのような関係ではない。
私とて既婚者だ。子供もいる。
口付けくらいした事もあるし、それ以上の事も。

ただ同性にあのように扱われた事はなかった。
曹丕様に見つけられなかったら、恐らくはそのまま…。
私は郭嘉殿に意見出来る立場ではないし、位もない。



仕方のない事だと、諦めるしかない。
公子であられる曹丕様には何の関係もない事。
私の事でお手を煩わせる事もない。

曹丕様は公子。
私は軍師。生きている世界が違う。
私のせいで御迷惑をかける訳にはいかないのだ。


一度目を瞑り、曹丕様の手を払った。

「…貴方様には関係のない事です」
「何?」
「たかが口付け…、ではないですか…」

何でもないふりをしなければと、強がった。
貴方様には関係のない事だと曹丕様に言うと、腕を強く引っ張られ壁に押し付けられた。

私より幾分も身丈のある曹丕様に力任せに抑え付けられたら、抵抗は出来ない。
壁に手首を抑え付けられる痛みに顔をしかめた。



この御方も郭嘉殿のように、無理矢理私を抱くつもりなのだろうか。
そう思うと、また胸が痛くて視界がぼやけた。


「…な、んです」
「私は関係ない、だと?」
「っ…痛…、っ」
「私の思いは、お前に伝えた筈だ」

曹丕様はそう言うと私の手首から手を離した。
私の手首を撫で、顎に手を添える。

曹丕様はとても淋しそうな瞳で私を見つめていた。

「…曹丕様…?」
「たかが口付け、なものか…。私がどれだけ傷付いたと思う…」
「何故、曹丕様が?」
「相変わらず鈍感だな仲達…。暫し目を瞑れ」
「目…?」
「良いから」

曹丕様が少しだけ笑い、私に目を瞑らせた。
曹丕様の手が私の後頭部を支えた後、唇の柔らかい感触に思わず目を開けた。






曹丕様が私に口付けていた。


「っ…」
「目を閉じろと、言ったであろうに」
「ぁ、…ふ…」

再び曹丕様は私に口付け、今度は舌が入ってきた。
だが不思議と私に不快感はなく、寧ろ何処か安堵していた。
自然に目を閉じ、吐息を吐く。

郭嘉殿の口付けとは違い、曹丕様の口付けに無理強いはない。
首筋に寄せられた曹丕様の唇を感じ、与えられた小さな痛みに目を閉じた。

曹丕様は優しく何度も何度も私に口付けた。



気付けば私は曹丕様の胸を掴んでいて、体も曹丕様に寄せていた。
口付けに応える事は出来なかったが、抵抗もしなかった。

私が抗えば、曹丕様を精神的に傷付けてしまう。
それに何よりも、私自身が嫌ではなかった。



郭嘉殿も手慣れていたが、曹丕様の口付けもお上手で私の腰が立たない。
曹丕様が後頭部と腰を掴み、私を支えて胸に埋めた。

私の動悸は元より、曹丕様の動悸も酷い。
まるで恋人のように曹丕様は私を胸に抱き締めた。


私の頬を伝う涙は、与えられた快楽のせいだけではないのだろう。
私もきっと…曹丕様の事が好きなのかもしれない。

曹丕様は唐突に口付けた事に一言謝罪をすると、また淋しそうな瞳で私を見つめた。

「たかが口付けと言ってくれるな…」
「はい…」
「私はお前を愛している…。一方的な片思いだ。だがそれだけ、伝えたかった…」
「片思い、なんかじゃ…」
「…何?」

埋められた胸から顔を上げて、曹丕様を見上げた。
私の頬を伝う涙を拭いながら、曹丕様は私を見下ろす。

「未だ、自分の気持ちがよく解りません…。
 ですが、貴方様からの口付けは…嫌ではなかった。
 こうして、抱き締められる事も」
「っ、なれば」
「…気の迷いかもしれません…。ですが私は、曹丕様でないと嫌みたいです…」

私もきっと、曹丕様を愛しているのだろう。
抱き締められる事も、触れられる事も、曹丕様であれば嫌ではなかった。

愛している、とまでは伝えられなかったけれど…これが私の精一杯の返答だった。





曹丕様は暫しの沈黙の後、私の首筋に埋まり目を閉じた。
曹丕様の動悸が煩い位に聞こえる。
私の胸の動悸も曹丕様に聞かれている事だろう。

「曹丕様…?」
「…、子桓と」
「?字、ですか?」
「子桓と、呼んでくれぬか」
「…公子で在られる貴方様の字を一軍師である私が呼ぶなど…許される事ではありません」

生きる世界が違うのだと、再び思い知らされる事になる。
私の字を呼ぶ事は良いとして、私が曹丕様の字を呼ぶ事など恐れ多くて出来なかった。

「建前などどうでもいい。私が仲達にそう呼ばれたい」

まるで子供のような瞳で曹丕様はそう言った。
私の涙痕を拭い、再び優しく私の頬に口付ける。

「二人きりの時で良い。お願いだ…仲達」
「…なれば、二人きりの時、でだけ…」
「ああ」
「子桓、さま…」

ぎこちなくそう呼ぶと笑みを綻ばせて、曹丕様は笑い私を強く強く抱き締めた。

「痛い…、子桓様」
「…仲達、この時をどれだけ待ちわびた事か」
「子桓様…?」
「…愛している仲達」
「はい…、きっと私も…子桓様」

自信なく曹丕様にそう言うと、曹丕様は笑って私の頭を撫でた。
まるで私を子供のように撫でる。

「良い…。少しでもお前が私を見てくれたのなら、私はそれが嬉しい」
「…私、ずっと貴方様を見てきたつもりなのですけれど…」
「それは教育係として、目付役として、であろう?」
「…はい」
「仲達個人として、私を見てほしい。お前が私に惚れてくれるように努めよう」
「善処します…」

私がそう言うと、曹丕様は私から離れた。
それが淋しいと、思ってしまう私はやはり曹丕様の事が好きなのだろう。




少し駆け足で子桓様に駆け寄り、袖を摘んだ。
小首を傾げる子桓様に対し、少し濡れた瞳で見上げた後に目を閉じる。

ふ、と子桓様は笑い、私に甘く優しく触れるだけの口付けをして私を胸に埋めた。

「…可愛らしい事を」
「……。」
「書庫のあれは、やはり、怖かったのか」
「…はい」

先程の書庫での行為を思い出して、私の体が少し震えていた。
子桓様は私を案じ、背を撫でながら私を抱き締める。

「暫し、こうしていよう。お前も暇ではあるまい」
「はい…」
「私がお前を護る。誰にも触れさせぬ」
「…子桓様」
「ん?」
「それでは私の従者としての意味が…」
「ふ、構わぬ。お前は私の特別、だろう?」
「特別…?」
「形容するなら、恋人、と…言う」

そう形容詞された私達の関係は、改めて考え直すとやはり早まったのではないかと思ってしまう。
子桓様と恋人となどと、思いもよらなかった。




その日を境に、子桓様と私は恋人同士となった。

この関係を子桓様は、まだ仮だ、と言う。
まだ私から子桓様への想いを言葉にしていないからだ。
子桓様が以前よりも私の傍に居る事が増えたお陰で、郭嘉殿のからかいも減った。
子桓様が牽制しているらしい。

まだ子桓様とは口付けだけの関係。
たまに私を抱き締めたり、手を繋ぐ事をねだったり、子桓様はまるで子供のように私に甘えた。



郭嘉殿が私の隣に座っている。
だが賈ク殿も一緒なので、私に手出しはすまい。
軍議に呼ばれ、私は席に着いてお二人の話を聞いていた。

「そろそろ司馬懿殿も戦場に行ってみるかい?」
「曹操殿の御命令なれば」
「あははぁ、司馬懿殿はやっぱり戦が嫌いかい?」

賈ク殿が地形図に肘を立てながら、私を見て笑う。
戦が嫌い、と言う訳ではない。
ただ、誰かに心配をかけるのは嫌だった。

「私ではお二人の足下にも及びません」
「謙遜なさんな。殿が認めた才だろうに」
「でも曹丕殿が戦場に立つなら、傍に居たいんでしょう?」
「っ…」
「司馬懿殿は解りやすいね」

ぷに、と郭嘉殿が私の頬を指で押した。
賈ク殿がそうなんです?とにやけた顔で髭をなぞる。

「最近、司馬懿殿はよく笑うね」
「そう、でしょうか」
「恋でもしているの?そんな顔してる」
「はは、司馬懿殿が恋ねぇ。俺にはつんつんしているところは変わらないと思うがね」
「う…、止めて下さいお二人とも」
「曹丕殿に恋してるの?」
「か、郭嘉殿、軍議には関係ないでしょう」
「ああ、解りやすいね司馬懿殿」
「っ…?!」
「はは、真っ赤だよ?可愛いね」

お二人に指摘され、頬を両手で隠して下を向いた。
頭を撫でられている感覚に顔を上げると、郭嘉殿が片肘をついて私を見ていた。

「好きな人が出来たら強くなれるよ、司馬懿殿」
「強く…?」
「そうそう。あの人に会うまで死ねない!みたいな覚悟がつくと言うか」

何となくそれには同意した。
私とて護るものがある。


賈ク殿は筆を持って、私に次の策の案を聞いた。
私なりの策を書簡に書いて賈ク殿に渡すと、賈ク殿は納得したかのように頷いた。
郭嘉殿も私が書いた書簡を見て頷く。
どうやらお二人ともお気に召したらしい。

郭嘉殿が軍議は終わり、と一言声を掛けると賈ク殿が伸びをして足を組み直して座った。
私も少し気を緩めて肩の力を抜いた。

「宴に美人の顔!美人を見ながら飲む勝利の酒は美味い」
「次の戦に勝ったら、司馬懿殿も宴においでなすったらどうだい」
「私、お酒は…」
「次は司馬懿殿の顔を見ながらお酒が飲みたいなぁ…」
「?」
「君が美人だって言ってるのさ」
「郭嘉殿は本当に見境ないね」
「美しいものは愛でるべきだよ?」
「し、失礼しますっ」
「あ、逃げた」

郭嘉殿の顔が余りにも近かったので、立ち上がり頭を下げて部屋を退室した。
やはり郭嘉殿の甘い言葉は苦手で、扉に背を凭れてため息を吐いた。





「でも本当に、綺麗になったよね」
「?!」
「恋人として上手くいってるの?」

扉が開いて、郭嘉殿に捕まってしまった。
またおさえ付けられるのかと思い、目を閉じたが郭嘉殿は扉に手をつけるだけだ。

「曹丕殿と何処までしたの?」
「ど、何処までって…私と子桓様はそんな…」
「あ、字で呼んでるんだ?」
「っ…!」
「曹丕殿の事になると司馬懿殿は可愛いね。嘘が下手」

両頬を包むように郭嘉殿が私に触れた。
その雰囲気からまた口付けられるような気がして手を払い退け、郭嘉殿の傍から逃げた。



郭嘉殿が笑って腕を組む。

「あ、解っちゃった?口付けられる雰囲気は曹丕殿で慣れたのかな?」
「曹丕様をそんな風に言わないで下さい…」

確かに曹丕殿が私に口付けるので、口付ける雰囲気は慣れたかもしれない。
郭嘉殿は恐らく私達の関係を知っているのだろう。
全てを知った上できっと私をからかっている。

「曹丕殿以外とは口付けしたくない感じ?」
「…まだ、よく解りません…」
「よく解らない?恋人なのに?」
「こいびと…」
「仲達」

背後から突然子桓様の声がしたかと思うと、強く腕を引っ張られて深く深く唇を合わせられた。
余りの出来事に体が動かない。



子桓様は私に深く口付けた後、胸に深く私を埋めて抱き締めた。

「っ…、子桓さ」
「それ、見せつけているつもり?」
「仲達に構うな」
「と言っても、私は彼の上司なんだよね」
「…来い、仲達」

郭嘉殿に一瞥をした後、子桓様は私の手を引いて歩く。

「初めての人なんだから、優しくしなきゃ壊れちゃうよ?」
「初めての人…?」
「構うな、仲達」
「君の初めては彼に?口付けは私が貰っちゃったけど」
「残念だが、仲達の唇は…私が既に貰い受けている」
「?!」
「へぇ…子供の頃から先生に手を出してたの?」
「なっ…」
「来い」

子桓様の思いがけない突然の告白に驚くも、強く腕を引かれて廊下を後にした。
子桓様は私を見ずに、廊下を歩き通りがかりの部屋に私を押し込めた。


「…何もされなかったか?」
「はい…。あの、子桓様…先程のお話は」
「ああ…、いつか言おうとは思っていたのだが」
「曹丕殿に、司馬懿殿?如何なさいましたか?」
「!!」
「?!」

郭嘉殿から逃れる為に咄嗟に入った部屋だったので、私も子桓様も此処がどのような部屋か把握していなかった。
思えば会議をする為の部屋が密集している回廊なのだから、誰か居るに決まっている。

張コウの声が聞こえて振り返ると、其処には張コウの他に夏侯淵殿と郭淮が居た。
面子から察するに漢中遠征組であろう。
此方側の非礼に深々と頭を下げるが、夏侯淵殿は軽く笑って直ぐに許してくれた。

「司馬懿殿、お久しぶりです。良かったら曹丕殿と共に御一服など如何でしょうか?」
「郭淮、厚意は有り難いのだが会議中では…宜しいのか夏侯淵殿」
「あー、別に身内に秘密にするような話し合いじゃねぇし。
 曹丕殿が良いってんなら、どうです?俺も休憩にしたかったし」
「なれば厚意に甘えよう。馳走になる」

親族である夏侯淵殿に子桓様は気を許し、少し首元を緩めた。
張コウが私に駆け寄る。

「ふふ、美しい方々が増えて目の保養ですね」
「やめんか張コウ」

何故かやたら張コウに好かれている。
変わった奴ではあるが紳士的で武力知略共に申し分なく、またよく気が付く良い男だと思っていた。
常日頃所作が女性らしいので勘違いしがちだが、張コウは男だ。
寧ろこんなにでかい女が居てたまるか。

張コウは魏に出仕直後で刺々しい言動や態度を取る私にも変わらず、優しく接してくれた。
張コウからの好意は素直で小気味良い。


私よりもかなり身丈のある張コウに抱き締められると、私の方がまるで女子のように胸に埋まってしまう。
郭嘉殿のように抱き締めたらまた子桓様に睨まれるのでは、と危惧したがどうやらその様子はなかった。
張コウは良いのだろうか。




子桓様が夏侯淵殿の隣に座り、私はその隣を張コウに勧められて席につく。

「いやしかし随分、お気に入りなんですねぇ曹丕殿」
「何がだ」
「いやいや、曹丕殿なれば御自覚なさっている筈」
「?」
「司馬懿殿の事ですよー?」
「無論。これは私のだからな」

夏侯淵と郭淮の物言いに私が首を傾げていると、張コウが私の頬に指を指した。
子桓様のさも当然と言った態度に苦笑いしつつ、茶を貰う。

「実は曹丕殿に相談、が」
「何だ」
「漢中遠征軍、なかなか難儀しそうなんですわ。殿も行くとか言ってますし」
「ふむ」

夏侯淵殿が頭をかきながら子桓様に話す。
私は机上に置かれた地形図を何となく見つめていたのだが、横から郭淮が私の手を握り締めた。

「?」
「もし宜しければ、曹丕殿と司馬懿殿の意見もお伺いしたい。
 げっほ、ごほ!特に、司馬懿殿の知略を」
「お前も行くのか…。しかし、私で良いのか」
「魏の軍師、でしょう?
 私は貴方様を信頼しております。どうか私に知略をお授け下さい」
「ああ…。なれば…」

また咳き込んだ郭淮の背中に触れ、地形図を見ながら私が思い付いた策を話した。
話半分に聞いてくれるだけで良いと伝えるも、策は取捨選択でいくつでも思い付く。






夏侯淵殿が感嘆したような声を上げて髭を弄り、郭淮が私の策を書簡に書いていく。
張コウが両手の指を組んで顎を乗せ、にこにことした表情で笑っていた。
子桓様は私の声に耳を澄ませ、目を閉じていた。

「以上。話半分でお聞き下さい」
「いやすげぇわ。大したもんだ。よく短時間で思い付くよな」
「さすが司馬懿殿。私、感動致しました!」
「そんな事は…。私はまだまだ郭嘉殿や賈ク殿の足元にも及びませぬ」
「司馬懿殿」
「うん?」

夏侯淵殿と郭淮が書簡を見ながら話し始めたのを横目に見ながら、張コウが笑って私に話し掛けた。

「司馬懿殿はもうとっくに、魏の軍師ですね」
「…そうだろうか」
「皆、貸すのは知略のみぞ。仲達は貸さぬ」
「!」
「はいはい、解ってますって」
「…ふ」

ずっと沈黙をしていた子桓様が口にした言葉は何処か子供っぽくて思わず笑ってしまった。
まさかずっとそのような事を考えていたのだろうか。




「お似合いだと思いますよ?」
「何がだ」
「さぁ?」

首を傾げる私に張コウがまた笑った。


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