ただ一言、私は疲れたと呟いただけなのに。
獣のような殺気を向けられたと思えば、頭を撫でられ気付けば姿を変えられていた。
「何なの。じゃあ、やる気がないなら辞めればいいじゃない?」
「やめる?」
「戦うのを辞めるの。消えちゃえばいいわ。
でも残念ねぇ。司馬懿さんはもっと使えると思っていたのに」
「な、にをした」
「寿命が長いくせに働き過ぎなんじゃない?
司馬懿さん、少し休んでいたらいいわ。
そして消えちゃってね。その間に私は逃げるから」
「ちょっ、ま、待て!」
九尾の狐の妲己。
妖術の類かは解らぬが、私の体は幼児のように縮んでしまって、服を引きずり座り込んでいた。
冠の大きさが合わず、床に落ちる。
「そんなに怒らないでよ。ちょっとした悪戯じゃない?」
「元に戻せ!」
「本陣を預かっていたのは、司馬懿さんだったわよね。
私が居なくなったら独りになるわねぇ?」
「!」
「誰か来たらいいわねぇ。でも、敵だったりして。じゃあねん」
妲己はそそくさとその場から逃げてしまった。
妲己に行動を見張られ、また妲己の行動を見張っていた私だったがその任は果たせない。
本陣の危機、並びに私は今ひとりで援軍を呼べるような状態でもない。
こんな訳の解らぬ世界で死にたくない。
物陰に隠れるようにして裾を引きずり、箱の中に身を潜めた。
転んで膝を擦りむいてしまい血が出ていたが…今はこのような姿、誰にも見られたくなかった。
前線での一報に進軍を止め、仲達のいる本陣を見上げる。
本陣は下から容易に攻め込まれない崖の上だ。
「妲己が逃げただと?」
「先程、裏道にて奴の姿を見ましたよ。司馬懿さんが逃がす筈が…、否、まさかね…」
「私は本陣に戻る。三成、左近はそのまま進め。
師と昭が前線にいるのなら容易かろう」
「妲己はどうする」
「捨て置け、仲達の安否が先だ」
「お前ひとりで大事ないか、曹丕」
「私を誰だと思っている」
三成と左近を先に進ませ、仲達のいる高台へ馬を駆けた。
女一人ごときに仲達が負ける筈もないが、相手は妖狐。
妖術を使われたのなら、私でも対処出来ない。
最悪の結果を恐れて、裏道から本陣に戻った。
本陣自体に何ら変化はない。
馬を下りて幕舎に入る。仲達の冠が床に落ちていたが、仲達本人が見当たらない。
冠を拾い上げ、幕舎の中を見渡した。
「仲達、仲達、何処か!」
「しかんさま…?」
仲達にしては随分と声色の高い声が聞こえた。
まるで幼子のような声は幕舎の中から聞こえる。
「ここです…!」
「?」
空箱であった筈の蓋が開いて、小さな手が手招きをしていた。
箱を空けると胸元がはだけた服の女児が入っていた。
否、先程私を子桓と呼んだのならば、この女児はまさか。
「…仲達なのか?」
「はい…。妲己に、姿を変えられてしまいました」
「無事であったか…」
「無事なものですか!」
「…女児に、見える…」
「し、失礼な…」
「…小さくなったな、だが仲達だ」
物言いや態度から仲達である事は間違いない。
仲達が着ていた衣装は身丈が合わなくなり、上着だけ羽織っていた。
見かけは幼い女児に見えたが、仲達はやはり仲達だった。
小さな手を私に伸ばして出して欲しいと懇願するので、
その手を握り締め抱き上げるようにして引っ張り出すと生脚の膝から血が出ていた。
よく見れば下を履いていない。勿論女児になった訳じゃない。
身丈が合わず脱げてしまったにしても、色々と目に毒だと眉間を押さえて首を横に振った。
私の幼少期を仲達は知っているとはいえ、私は仲達の幼少期を知らない。
手も腕も腰も、何もかもが頼りなく小さい。
妲己の仕業だと解り、簡易的に膝を手当てしながら頭を抱えた。どうしてこうなったのか。
殺されなかっただけましだが、私の従者でいて恋人であった人は小さな子供になってしまった。
口付けをする事すら躊躇う子供になってしまった。
膝を手当てする内も仲達の頬にはぽろぽろと涙が零れていて、
仲達だと解っているとはいえ背中を支えずには居られない。
これが子供というものか。
私の腕の中に埋まる小さな頭を撫でる。
どうやら私の手当ての仕方が子供相手に遠慮がなく、
ずっと堪えていたのだろうが耐えきれず泣いてしまったのだろう。
申し訳ない事をしてしまった。
仲達は痛くても、痛いと言えない子供なのか。
記憶はあるのだろうが、仕草や態度が幼くて子供にしか見えない。
どんな姿になっても、仲達は仲達だった。
「すまぬ。痛かったか」
「へいきです…」
「頭では解っていようと、体や感情が追い付いていないのだろう」
「そう、でしょうか」
「そう見える。まるで子供だ」
「こども…」
慰めるように頭や頬を撫でると、仲達は目を閉じて私の手に甘えた。
髪の毛は細く柔らかく、頬もふにふにと柔らかい。
撫でられるのが嬉しいらしく、心地良さそうに目を閉じていた。
仲達を腕に抱き、とりあえず見た目を整えた。
せめてもう少し安全なところへ移動せねば、小さな仲達を護りながらの進軍は好ましくない。
三成らに伝令を飛ばし、春華やガラシャのいる陣へ小さな仲達を抱いて移動した。
騎乗時の振動が心地良かったのか、移動している内に仲達は私の腕の中で眠ってしまった。
子供らしい幼い顔は安心しているのか、愛らしい寝顔を晒していた。
「…調子が狂うぞ、仲達」
額に口付けるのが精一杯だ。
自覚のない仕草が愛らしくて堪らない。
起こさぬよう、速度を落として馬を進めると前方に春華が見えた。
「話は聞いたわ。旦那様は何処?」
「此処に」
「…、随分と可愛らしいお姿になってしまったのね」
私の腕に埋まる仲達を見て春華は笑う。
身丈に合わない服を見て苦笑し、春華が作るといい出した。
眠る仲達を腕に抱いて、見慣れた建物の中に入る。
仲達を寝台に寝かせようとしたが、仲達が私の上着を全く離そうとしないので離れられない。
「…きっと怖かったのよ」
「怖かった?」
「旦那様は、陣地に取り残されて独りだったのでしょう?
もし見つけたのが貴方様じゃなかったらと思うと…ぞっとするわ」
「…そうだな。私が見つけられて良かった」
「ふふ。旦那様が起きるまで貴方様が傍にいらして。
服がそれじゃ可哀想ですから、私が作って差し上げるわ」
「頼む」
「ずっと、私の可愛らしい旦那様を護って下さいね」
「解った。約束しよう」
春華と指切りをして、仲達の額に口付けた。
気のせいか、仲達がまた少し小さくなっている気がする。
「…仲達?」
「どうしたの?」
「これは…、何か…呪いでも掛けられているのやもしれぬな」
「呪い?呪術だと言うの?」
「女狐の呪い…か」
このままこの世界から消えてしまうような気さえした。
多少ではあるが、私が結んだ腰帯が緩んでいる。やはり少し体が小さくなっているように思えた。
話声で起こしてしまう事を懸念し、仲達を胸に抱き直して奥の部屋に横になった。
春華は仲達の身丈を簡単に計り、布を探しに出掛けた。
仲達の幼い寝顔を見つめながら髪を撫でていると、何処からか仲達を呼ぶ声がする。
その声に聞き覚えがあった。
「司馬懿どの?司馬懿どのー」
「ガラシャか」
「ほむ。曹丕殿。司馬懿殿がいるとお聞きして会いに来たのじゃ」
「しっ…、静かに。起きてしまう」
「ほむ?」
春華とは入れ違いに、ガラシャが現れた。
此処は比較的に辺境にあり、戦とは縁遠い地。
ガラシャのようなか弱き者達が集まっていた。
春華がか弱いかどうかは別にしても、戦に疲れた者達が集まる土地であった。
訳を話して小さくなった仲達を見てガラシャは目を輝かせ、抱き締めたいと言って聞かない。
だが仲達がやはり私から手を離してくれぬので、引き剥がすのは止めた。
仲達の隣に両肘をついてガラシャはにこにこと笑っていた。
「可愛いのぅ。めごいのぅ。可愛いのぅ」
「静かにな」
「愛らしいのぅ。司馬懿殿は何とも愛らしい子じゃな」
「それは認める」
「司馬懿殿の父上は、きっと司馬懿殿をとても大切にしていた筈じゃ」
「…厳しい父親だったと聞いている」
「わらわの父上みたいなものかのぅ?」
「そうかもしれぬ」
「…?」
いつの間にか仲達が瞳を開いていた。
小さく欠伸をしてガラシャを一瞥した後、見られたくないのか私の腕の中に埋まり背を向けてしまった。
先程からずっとこうして、小さな仲達に頼られているのは嬉しい。
「ここはどこですか…?」
「春華のいる陣地だ。敵中にはない」
「しゅんか…」
「司馬懿殿、どうして背中を向けるのじゃ?わらわはもっと見ていたいのじゃ」
「い、いやだ」
「ほむ…。司馬懿殿はわらわが嫌いなの…か…」
「っ…ち、違う。そうではない。ええい、泣くな」
まだ身形の整わぬ姿は見られたくないのだろう。
仲達は私用と公用をしっかりと分ける性分故に、私の袖に隠れたがる。
随分大人びたお子様のようだ。
ただの照れ隠しだろうが、ガラシャは本気に捉えてしまったらしい。
ガラシャよりも小さくなった仲達が慌てて頬に触れて慰める。
不釣り合いで違和感のある光景に笑い、衣服を整え寝台に腰を預けた。
ガラシャは仲達を抱き締めて、めごいめごいと頬を擦り合わせていた。
間もなく春華が部屋にやってきた。
久しい再会を素直に喜べず、私は春華に連れられて別室で服を着替えた。
身丈は合っていた筈らしいが、手が出ない。
先程よりも身丈が縮んでいるような気がする。
膝をつく春華の顔を見上げて首を傾げた。
私の身丈を計った春華すら首を傾げるのだから、やはり身丈が縮んでいるのだろう。
「このまま、小さくなって、消えてしまうのかしら…」
「女狐は私に消えろと言っていた。案外…言葉のままなのかもしれぬ」
「そんな他人事みたいに仰って…。
この世界で旦那様が消えてしまう意味、お分かりかしら。
旦那様だけ時が退行しているなんて、恐ろしい事になるわ」
「いずれ私の存在すら消えてしまう、という事か」
「存在だけじゃないわ。私は解らないけれど…子元や子上、貴方が助けた人達。
貴方が導いた人達。もしかしたら曹丕様も消えてしまうかもしれないわ」
「っ…!」
「大丈夫よ。私がさせないから」
「…そういう事か」
春華の胸に埋められて背中を撫でられていると、子桓様のお姿が見えた。
私達の話を聞いていたらしく、子桓様は少し顔を俯いていらした。
「似合うではないか」
「しかんさま…」
子桓様は私の服を見て膝を付いた。
咄嗟に春華の胸から、子桓様の腕に埋まる。
今は子供のように泣いてしまいたい。
春華も師も昭も、子桓様も。私は皆を護りたいのに、その私が消えてしまうのか。
死ぬよりも恐ろしい呪いを受けてしまった。
どうして私なのか解らず、気付けば頬にぽろぽろと涙が溢れていた。
縮む体は情緒不安定で扱い難い。
せっかく春華が作ってくれた服を汚したくなくて、目を擦っていると春華が私の涙を拭った。
「…少しでも止められないかしら。時間稼ぎが出来るのなら、あの女狐を捕まえに行くわ」
「…っふ」
「あら?」
春華が私を後ろから抱き締めて口付ける。
背の届かない私に屈んで、頬や唇に春華は口付けた。
口付けられるととても安堵して、涙もおさまった。
「…止まったわね」
「そのようだ」
「?」
「貴方も試してみて」
「良いのか」
「??」
「はい」
春華の膝に座らせられて、子桓様に口付けられる。
頬や唇に受ける口付けが不思議と落ち着いて目を閉じた。
「…良く解らぬ」
「旦那様と縁のある人達と触れ合えば、時間が止まるのかしら。それとも戻るのかしら。
つまり、旦那様が消えたら運命を共にしてしまうのね」
「何にせよ、女狐を捕まえなくては」
「旦那様をお任せしても?」
「願ってもない」
子桓様に手を握られて部屋を出た。
私の身の上を何とかしようと、妲己を捕らえる為に話し合いの場を設けるらしい。
「何じゃ、その娘は」
「やぁ、お嬢ちゃん。どうしたんですその娘さんは」
「誰が娘だ…」
領内を訪れていた伊達政宗と雑賀孫市が私の姿を見てそう言った。
娘と言われるのが不満で、子桓様の背中に隠れた。
「やぁ、どうしたの?貴方と幼女なんて犯罪の匂いがするけど」
「お前が言うな」
「っ、や」
急に抱き上げられるのが嫌で頬を摘む。
痛いよと言いながらも顔を近付けてくる郭嘉殿の顔をまじまじと見れば、
この人も綺麗な顔立ちをしているのだと思って手を離した。
郭嘉殿が暫く私を見つめた後に、私を地に下ろして手を取った。
「まさかとは思うけど、いや、やっぱり司馬懿殿…なのかな」
「何ぃ?!馬鹿め、そんな事があるか!」
「何だと馬鹿め!黙っていれば人を娘だのなんだの…不愉快だ」
「あ、司馬懿殿だね。暫く見ない内に随分可愛くなっちゃって」
「本当にあんただったのか…、いや、驚いた。どうしてまたこんな姿に」
「話せば長くなる」
政宗を睨み付けた後に、やはり見下ろされるという行為が嫌で目を反らした。
郭嘉殿に完全に子供扱いをされ、頬を膨らませて子桓様の背後に逃げた。
「でも、可愛らしいのは本当だよ?」
「っ、郭嘉殿っ」
「今の仲達に手を出したら容赦せぬぞ」
「解ってるよ。今の司馬懿殿はね」
「元に戻っても、だ」
「相変わらず司馬懿殿にべったりだね、曹丕殿。成る程、司馬懿殿に記憶はあるんだね」
頭や頬を郭嘉殿に撫でられるも、子桓様が私を引き寄せて手を繋ぐ。
子桓様は私がこの姿が気に入らないのだと解っているらしい。
首を傾げる郭嘉殿の手から逃げて顔を反らした。
「っ…、余り、この姿を見られたくないのです…」
「そっか、ごめんね。でもその服はよく似合っているよ」
「そう、ですか」
「私も力になるよ。君の為に私は何が出来るかな?」
郭嘉殿に服を褒められ、頭を撫でられて少し気を良くした。
目を閉じて頭を撫でられていると、今度は郭嘉殿よりも大きな人が私に触れた。
「お話しは聞きましたよ。しかし、どんなお姿になろうとも貴方はお美しいです」
「張コウ…?」
子桓様の腰くらいの身丈で見上げると張コウはかなり大きい。
暫く見上げていると、張コウはわざわざ膝をついてくれた。
「…事態は思ったよりも深刻なのですよ司馬懿殿。
悪戯にしては質が悪い。急ぎましょう」
「…そうか」
「ええ。私にも貴方を護らせて下さいませ」
張コウが私の手の甲に口付けた。
相変わらずのようで気恥ずかしい。
だが、私の目線より下に屈んでくれる心遣いに気を許して張コウには好きにさせた。
郭嘉殿もどうやら私の接し方を理解したらしく、私の前に膝をついて話してくれるようになった。
解ればよいのだ。
今後の行動について郭嘉殿や張コウ、政宗や孫市と話をする子桓様を見上げながら、
私は春華とガラシャの傍の窓淵に座っていた。
ガラシャが持っていたおはじきで手持ち無沙汰に遊ぶ。
この姿では私は何も出来ず、何の役にも立てない。
一方的に護られてしまう事が何とも不甲斐ない。
少し不機嫌になりつつ外の景色を見下ろしていると、遠くに砂塵が見えた。
師に昭、三成と左近だった。戦が終わったのだろう。
春華が皆を出迎え、何度も聞いた説明を皆にしているのを見ていた。
師が膝をつき、私を胸に埋めて強く抱き締める。
「師、いたい」
「…っ、申し訳ありません。父上が心配でたまらなくて…」
「む…、すまなかった」
「父上、お可愛らしい…」
「っ、離せ」
「!」
「父上は可愛いと言われるのが嫌なんですって兄上。
しかしまぁ、見つけていただいたのが曹丕様で安心しました。
貴方がたが味方だと心強いです」
「また随分と面倒な事になったな、曹丕」
「俺達も力になりますよ」
子桓様は私から離れて、三成達の所へ行ってしまった。
咄嗟に手を伸ばしたが、今の体では届く筈もなく気付かれる事もなかった。
子供の姿だからなのか、寂しいという感情が溢れて止まらない。
師の胸に埋まりながら、気付けば頬にぽろぽろと涙を零していた。
「ど、どうされたのです?」
「…解らぬ」
「もしかして、曹丕様?」
「知らぬ!」
「…うーん、やっぱ曹丕様か。父上、素直になりましたね」
「違う」
「あらら、相変わらず言葉は素直じゃないんですね」
子桓様は話し合いに夢中で私の事に気付いていない。
寂しくて悲しくて涙が止まらない私を、師の腕から昭が私を抱き上げ肩に座らせた。
円卓の前に子桓様が見える。
「大丈夫ですよ。曹丕様を取られた訳じゃないんですから。
終わったら父上のところに戻ってきますよ」
「む…」
「あと、可愛いってのは、皆褒めてるんですよ父上」
「私は嫌だ」
「はは、すいません。でもやっぱ、可愛いですよ」
「うるさい」
「ごめんなさい。痛い痛い、髪引っ張らないで!」
師は私を子供扱いはしない。
昭は私の矜持に触れるか触れないか、ぎりぎりの距離で私に接した。
子供扱いも大人扱いもしない。
話は長引きそうですと師が私に報告した。
昭の肩の上で退屈そうにしている私を見かねて、散歩に行こうという話になった。
「ほむ!わらわも行く!」
「おっ、いいよ。おいでおいで」
「ほむ!司馬懿殿、高い高いなのじゃ」
昭の肩の上は確かに高い。
私達の散歩にガラシャも付き添うと言い、四人で城内を見て回った。
気付けば仲達の姿がない。
仲達の身を案じて春華に聞けば、どうやら師や昭らと散歩に出掛けたらしい。
急にいなくなってしまったのかと思ったが、師と昭が居るのであれば大事ないだろう。
「…恋人としてはどう?」
「恋人?」
「今更とぼけるなよ。俺はお前と司馬懿をただの主従とは思っていない」
「小さな司馬懿殿が貴方の事を覚えていて良かったですね」
「…そうでもない」
「というと?」
「どんな姿になろうとも私は仲達が好きだ。愛してもいる。だが、少し寂しい」
「口付けも満足に出来ないものね」
「…抱き締めるには、物足りない」
私の知らぬ幼い姿の仲達。それはとても愛らしくて愛おしい。
目に入れても痛くない程に可愛らしい。
だが私の知る仲達はそうではないのだ。
「あんな小さな子に手を出しちゃ駄目だよ?」
「貴様と一緒にするな」
「はは。でももし、司馬懿殿が了承したら貴方はどうするのかな」
「…私がそこまで節操がないとでも」
「司馬懿殿の為と言えば、貴方は危ういよ」
郭嘉に言われれば確かに、私は危ういのかもしれない。
仲達の事となると、躊躇いがない。溺愛していると言えば、それが正しいだろう。
故に、仲達の居ない世界など考えられなかった。
「曹丕よ。解っているとは思うが、あれは呪いを受けている。
必要以上に関われば、呪いを貰うぞ」
「構わぬ。どうせ私はあれが居ないと生きている価値すら見いだせん」
「おい」
「盲目的だと笑うがいい。私にとって、司馬仲達とはそういう人間だ」
「ふふ。旦那様に直接そう言って差し上げて。
きっと旦那様も貴方と同じお気持ちでしょうから」
だが対等にはなれず平等にもなれず、口付けすらままならない。
この世界では気持ちがすれ違い、刃すら交えた。
故に、本当はもっと沢山愛してやりたいのだ。
刃を交えた際の瞳は今もずっと忘れた事がない。
あのような傷付いた瞳をもう二度とさせるものか。
三成が呆れたように溜息を吐くのを横目に笑う。
私と仲達とはそういうものなのだ。
「いやしかし曹丕さん、奥方の前でよくまぁ堂々と語りますね」
「構わないわ。旦那様が好きな方は私も好きよ」
「なんとまぁ、涼しい顔をして熱い御方だ」
「…妲己の話じゃが」
政宗がひとつ咳払いをして地形図を指差した。
どうやら妲己の行動範囲が解るらしい。
地形図を見て郭嘉が策を示し、三成らが捕まえに行くと言う。
策は決まり、今後の動きも決まった。
「…仲達を独りにはさせぬ。彼奴が消えるなら、私も仲達と運命を共にしよう」
「愛だね。貴方には適わない」
独りにはなっていないだろうが、私から離れてしまった仲達を思うと心配になる。
仲達は素直でないだけで、本当はとても感情豊かだ。
子供達の前であるなら、小さな体で高い矜持を持って接している事だろう。
話し合いを締め、仲達の帰りを待って門前に立つ。
師と昭の姿が見えた。
仲達は昭の腕の中に、師はガラシャを背中に背負っていた。
仲達とガラシャはどうやら眠っているらしい。
「おかえり。また眠ってしまったか」
「よく遊んでました。でも泣き疲れてしまったみたいです」
「泣いて、いたのか…」
「御機嫌斜めだったみたいです。父上をお返ししますよ。
彼女もちゃんと寝かせなきゃなぁ」
「孫市に任せろ」
「俺は子守じゃねぇ。まあ、でも仕方ないか。おいでお嬢ちゃん」
「…ほむ、まごー!」
寝起きのガラシャは孫市に任せて、眠る仲達を胸に抱いた。
眠る子供の体はとても温かい。
また少し、身丈が小さくなっているような気がして眉間に皺を寄せた。
私と接する手が、また小さくなっている。
師と昭に明朝出立する旨を伝えて、仲達を与えられた部屋に引き取った。
師が不満そうな顔をしていたが、春華が宥めて私に仲達を引き渡した。
「目を覚まして貴方が居なかったら、きっとまた拗ねてしまうわ。子元や子上では駄目なの」
「はい。悔しいですがその通りです。小さな父上は…とても素直で感情豊かですが起伏が激しい。
ふとした事で傷付いてしまいます」
「そうか。変わっていないな」
「え…?」
「そうね。旦那様をよく見て下さっているのね」
師が驚いた様子を見せたが、それが司馬仲達というものだ。
春華も仲達をよく解っていて、私と同様に頷き笑う。
「貴方が思っているよりも、旦那様は貴方の事が大好きよ。
だから忘れないで。旦那様は強がりなの」
「ああ、解っている。故に危うい事もな」
「ええ。独りにしないで」
「ふ。お前達も休め」
「はい。ではまた」
「父上を頼みます」
仲達を引き取り、春華と師と昭と別れた。
胸に抱いた仲達は更に軽くなっているように思えた。
仲達を寝台に寝かせ、身丈を計る。
やはり今朝よりも随分縮んでいる。
この速度で時間が退行するのなら何日も保たない。少しずつ仲達が消えているような気がした。
止める事が出来ないのなら、分ける事は出来ないのだろうか。
呪いを仲達が一身に受けるなど、私は見ていられない。
禁忌だ、危ういと人は言えど、体と共に私の事すら仲達が忘れてしまいそうな気がした。
仲達が世界から少しずつ消えていく。
私はきっとそれに堪えられない。
横になる仲達の耳の後ろに、印のような物が見えた。赤い文字が描かれていたが読める文字ではない。
肌に描かれているように見えたが、肌に染み込んでいるようで、いくら拭っても落ちない。
「…?」
「起こしたか」
「しかんさま…」
未だ夢見心地らしい。
私だと解ると、小さく欠伸をして私の手に甘えた。甘えると本当に可愛らしい。
私も仲達の傍に横になった。仲達の身丈はやはり小さく、胸に抱き締めると埋まってしまう。
印が全ての元凶らしく、仲達が大人しくなると時間を奪っているように見えた。
その印に口付け、耳を甘く噛む。私の恋人を奪ってくれるなと、印を噛み千切りたいくらいだ。
ふわふわとした肌に痕を付けるのは忍びない。幾度か首筋に口付けた後に、唇に口付けた。
口内に小さな舌が入ってくる感触に目を見開き、口付けを止めた。
そういうつもりはないのだ。
「ちょっ、と…、待て」
「…私は子供ではありませ…、ん…?」
仲達から誘われ、頬に口付けられる。
ふと私の袖を見れば、私の手が袖から出ていなかった。私の体も縮んでいるのか。
「子桓様…?」
「ふむ」
仲達への口付けか、印への口付けか。
何れかが原因なのだろうが、それならば都合が良い。
今一度、小さな仲達に口付けて舌を絡めた。
仲達の小さな舌が一生懸命私に応えようとして動く。
苦しそうな吐息に一度唇を離すと、仲達は頬を染めて涙を流していた。
胸に手を当てれば、仲達の動悸はひどいものだ。
いつものように優しく首筋に口付けるも、体に違和感を感じる。
「こんな、子供に何して…」
「誘ったのはお前だ。子供だろうと、大人だろうと…、私の恋人は一人だけだ。
仲達は仲達だろう。私はお前の扱いを変えるつもりはない」
「…貴方、身丈が」
「子供のお前に触れた罰、だろうか」
仲達よりは少し大きいが、私も気付けば子供のように身丈が小さくなっていた。
その代わり、仲達の体は縮んでいない。
仲達に見て貰うと、私にも仲達同様の印が移っていた。
「何故、子桓様まで」
「移る呪術など有り得ない…とは言い切れないが、近くにいるのではないか?」
「…まさか」
「何にせよ、仲達は私が護る故」
「っ…、もう、それは私の役目です…」
「春華に言葉は素直に伝えるべきだ、と言われたのでな」
服の身丈が合わないので、上衣を紐で縛り剣を持った。
そのまま狐を狩りに行こうとしたのだが、仲達に引き留められてしまった。
「止めて下さい…」
「狐に逃げられてしまう」
「嫌です。貴方に行って欲しくない…」
「仲達?」
「…嫌」
眉を下げ首を横に振る仲達を見て、私の方が折れた。
このままでは仲達を泣かせてしまうように思えて、私は仲達の傍に戻った。
子桓様が行かぬ代わりに師と昭を呼び出し、三成と左近も呼んだ。
他の者にも静かに行動するように促し、指示を出す。
春華が私を抱き締め膝に乗せた。服を作っているらしい。
子桓様も私の傍に座る。
郭嘉殿が笑いながら子桓様の頬をつつく。
「ねぇ、何で貴方も小さくなっているの?」
「さぁな」
「小さな司馬懿殿に破廉恥な事でもしたの?」
「っ、そこまでしていない」
「子桓様は、そんな」
「手は出したんだね。悪い子だ」
司馬懿殿も駄目だよ、と郭嘉殿は言い、私の頬をつつく。
春華は笑いながら私の頬を抓る。
「いひゃいいひゃい!」
「もう、何してるの?貴方もよ」
「いひゃい」
春華は子桓様の頬すら抓る。
赤くなった子桓様の頬をさすると、子桓様も私の頬をさする。
子桓様も小さくなられた。頬が柔らかい。
「可愛い。ね、こうしてごらん?」
「?」
「??」
「あらあら、うふふ」
「うん、可愛いね」
「か、可愛らしい…。此処は天でしょうか」
「張コウ?」
郭嘉殿に言われて、子桓様と頬をくっつけられた。
頬がふにふにと柔らかく温かい。
そうしていると張コウが駆け付け、私の前に膝を付いた。
「妲己を見つけましたよ。私達より先に捕まえられてました」
「?」
「私達より先に太公望殿が捕らえました」
「そうだったのか」
「ご苦労だった」
張コウに駆け寄る。
礼を言うと共に膝を付く張コウの頭を背伸びをして撫でると、張コウは嬉しそうに笑って私を抱き締めた。
「ああもう、司馬懿殿可愛らしい!持って帰りたいです!」
「だ、だめだ!」
「ふふ、曹丕殿のものですものね。取りませんよ」
張コウの言葉を真に受けて子桓様が張コウの腕を引っ張る。
張コウは笑って私を床に下ろすと、子桓様が私を抱き締めた。
小さくなっても、子桓様は変わらない。
妲己の元に案内されると、太公望が腕を組んで立っていた。
「お前が悪戯に退行させた人の子らは、あの二人だけだろうな?」
「そうよ。あの二人だけ」
「何故、曹丕も退行させた?」
「何か、幸せそうだったからムカつくの。
司馬懿さんったら曹丕さんの事を話すと、とても嬉しそうなのよ。
それに、司馬懿さんが消えちゃうかもしれないのに、曹丕さんたら冷静で何も変わらないの。
殺し合いもしたくせに、ばっかみたい」
「貴様」
太公望と妲己のやり取りを見ながら、子桓様に手を引かれて太公望を見上げた。
太公望が私の頭をぽんぽんと叩く。
「…本当に小さくなったな。お前に消えられては歴史が狂う。危ないところだった」
「??」
「元に戻せ。仲達からだ」
「良かろう。ただ、そのままだと服がな」
「あ…」
「なれば、部屋を移す」
「ちょっとぉー?私はー?」
「大人しくしていろ」
三成と左近が妲己の見張り役を買って出た。
別室に移り、私と子桓様は服を着替えて太公望に時間を戻して貰った。
身丈は戻り、安堵をして溜息を吐く。
子桓様の身丈も元に戻り、太公望に深く頭を下げた。
「…これで仲達は消えぬ、か」
「ああ、女狐はきっちり懲らしめる故」
「よろしく頼む。逃がすなよ」
太公望は要件だけを済ませて、さっさと妲己の元へ戻った。
肌着だけ身に着けている私に子桓様は上着を着せて、背中から抱き締める。
「…仲達」
「お騒がせ致しました…。もう大丈夫ですから」
「元に戻ったのか」
「…確認しますか?」
「印は消えているようだ」
「貴方様も」
お互いに印が消えている事を確認して安堵した。子桓様に背中を預けていると、私の耳の後ろと首筋を吸う。
子桓様がしきりに私に触れて、私と肌を合わせたがった。
子桓様もきちんと戻られているのか。
確認という言い訳をして、子桓様を誘い口付けを深く交わす。
「…もう、子供に手を出してはいけませんよ?」
「あれは、仲達だろうが…」
「小さな私は、如何でしたか?」
「可愛らしい」
「…もう」
「良いものが見れた」
熱く吐息を吐きながら、子桓様の律動を体の中に感じて涙を流した。
子桓様の肌に触れ、押し倒されて目を閉じる。
本当は、自分が消えてしまうかもしれない事が怖くて堪らなかったのだ。
「ねぇ、何してるの」
「す、すまぬ」
「旦那様もよ?」
「いひゃいいひゃい!」
春華に頬を抓られる。
翌朝、春華に子桓様との事がばれて、酷く叱られた。
春華は妲己を捕らえた事を知らなかったようだ。
子桓様に着せる筈の服を作ったが無駄になり、春華は機嫌を損ねてしまった。
かくして数奇な騒動は幕を閉じ、体も時も元に戻った。
皆に礼を言って回り、再び春華の元に戻る。師も昭も私を案じて駆け寄る。
子桓様が腕を組んで、私達の様子を見ていた。
「すまなかった。お前にも心配をさせてしまって…」
「まぁ、いいわ。だって私の可愛い旦那様は戻ったのだから」
「…私のだ」
「なぁに?」
「何でもない」
小さな声で呟いた子桓様の一言が耳に聞こえて笑うと、子桓様と春華は笑った。