執務に追われる曹丕の声色は、鋭い氷柱そのものである。
特別苛立っている訳でも無い、と彼は言うのだが、
視線も合わせず一言一言に何の温度も感じさせないその振る舞いは、たまたま入室した使者を震い付かせた。
「…あの方は怒っている訳ではない。気にせず退出せよ」
怯えきった使者に、司馬懿は小さく声をかけた。
司馬懿の声色もさほど柔らかくは無いのだが、氷柱が突き刺さり動けなかった使者にとってはありがたい合図となる。
一礼してそそくさと室を出る使者を見、司馬懿は軽く溜息をついた。
「曹丕様、あまり集中され過ぎぬよう」
「早く終わらせたい」
「お気持ちは分かりますが、この程度の執務、余裕を持って取り組まねば…その態度は部下に悪影響を及ぼしますぞ」
「お前一人がいれば良い」
筆をサラサラと止める事なく、曹丕は司馬懿へと告げる。
雰囲気がそれなりであれば甘い言葉になり得るのだが、曹丕が纏う冷え切った声調とピリピリした空気。
司馬懿は呆れた。
「そんな事を申されても、私は手伝いませぬ」
「何故だ」
「貴方様の義務だからです」
司馬懿は曹丕が処理した書簡を束ねるだけであり、中身に関与しようとはしない。
読んで署名を記すだけとは言え、甘やかす事は出来ないのだ。
仕事が無いのに司馬懿がここに居るのも、曹丕が投げ出さないよう監視するためだった。
「…ふん」
曹丕にも仕事を溜め込んだ罪の意識はあるようで、反論は返ってこない。
そこから曹丕は何も喋らず、黙々と筆を走らせる。
拗ねながらも素直に執務をこなす姿に、司馬懿は少し頬を緩めた。
自分にしか見せない弱さ。
誰よりもこの人に信頼されている。その自負感は心地良く、そして優越感を生む。
それにしても…暇だ。
司馬懿は気付かれないように小さく欠伸をし、壁際の椅子に腰掛け、作業に励む曹丕を眺め続けた。
「仲達、おい、」
「……んぅ?」
「…ふっ、良い度胸だ」
机に頬杖をつきながら、曹丕は薄く笑った。
不敵と形容できる笑顔が視界に入り、司馬懿は目が覚める。
「!!わ、私は」
「寝ていたな」
曹丕は怒っている様子はなく、むしろ司馬懿の焦る姿を楽しんでいる。
「私の目の前で盛大に居眠りとは…仕置きが必要だな」
「もっ申し訳ございませ…あ、署名は全て終わりましたでしょうか、早く書簡を提出しに行かなくては」
司馬懿は理由を託けて、その場から逃げようとした。
椅子から立ち上がる。
瞬間。
「うああっ!?」
ガタガタンッ!という音と共に司馬懿は前方へ倒れ込んだ。手を突く間もなく、顔面が床に激突する。冠が転がる。
「な、なにが」
状況が読み込めず、顔を上げて瞬きを繰り返す司馬懿を曹丕は嘲笑う。
「フッ、良い眺めだな仲達」
「な」
「まだ寝ぼけているのか、愛い奴め。足元を見ろ」
曹丕に言われて体を捻り、自らの足を見――
「…~~っ!!」
司馬懿は怒りと羞恥に握りこぶしを作った。
「貴方という人は…っ」
見れば、両足首が椅子の脚に縛り付けられていた。立ち上がろうとした弾みで体が椅子ごと倒れたのである。
そうと認知すれば、体はだんだんと椅子の重みと縄の締め付けを感じ始める。
司馬懿は顔をしかめた。
起き上がろうとしても、椅子の背もたれが背中に当たって身動きが取れない。
「…いい大人が何をしているのですかっ…」
「私が必死に執務をしている側で眠る方が悪いであろう。このような悪戯くらい、可愛いものよ」
「ほう、自らの口で可愛いとおっしゃるとは」
司馬懿は笑顔を作ったが、ピクピクと引きつっている。
それでも曹丕はニヤリと口角を上げ、席を立って司馬懿へ近付く。
「書簡はとうに持って行かせた。安心せよ、使いは室に入れてはおらぬ。仲達の寝顔は他の誰にも見せたくないからな」
曹丕はしゃがみ、未だ床に這いつくばる司馬懿の顎をクイと持ち上げた。
う、と苦しそうな音が、司馬懿の喉から漏れる。
「悪ふざけは…お止めください…」
「居眠り顔さえも美しいとはな、仲達よ。もう少し豪快な寝相であれば、私も気を使わずに罰を与えられたというに」
(これで気を使っているだと…)
椅子は司馬懿の足へ、想像以上の負担をかける。
徐々に痺れ始め、血液が滞る感覚が襲った。どれだけきつく縛っているのだ。
「曹丕様…もう良いでしょう、縄を解いてくださいませ…」
顎を掴まれたまま、司馬懿は声を捻り出した。
「まだ遊び足りぬ」
「私の体が持ちませぬ!」
椅子がのしかかる司馬懿の脚がふるふると震え始めた。
ピンと張った首は息を苦しくさせる。
曹丕はそれに気付き、ほんの少しだけ焦った表情を見せた。
「痛いか」
司馬懿は答えず、その代わり片手を床から離して曹丕の腕を掴んだ。
眉間に皺を寄せ、懇願するような形相に曹丕は罪悪感をなぞられる。
そこまでするつもりは無かったのだが。
「…この程度で音をあげるとは、それでも私の軍師か」
そう厭味を告げ、曹丕は持ち上げた司馬懿の顔に自分の顔を近付け、
口付ける。
「!?」
ちゅっ、と音を立てて離された。
恥ずかしがる間もなく司馬懿が呆気に取られている内に、曹丕は椅子と司馬懿の体を抱え込む。
そして軽々と起こし、司馬懿は居眠り前のように、ちょこんと椅子に座る形になった。
「あの…」
「今解く」
接吻の感覚残る唇と、まだ違和感の拭えない喉元。司馬懿は指先を自分の口元に添えた。
曹丕は司馬懿の足元に跪き、縄を掴んで解き始める。
司馬懿は驚き焦った。
「自分で解きます、」
「私のやりたいようにやらせろ」
「……」
無言の時が僅かに流れた後、司馬懿は目の前にある主の肩にそっと手をかけた。
曹丕が特に反応を示す事は無かったが、シュルシュルと縄を扱う音が少し速くなった。
わかっている、この人の真意など。
私に仕置きするつもりは端から無いのだ。
司馬懿は背中を曲げ、ゆっくりと曹丕の頭頂に頬を寄せた。
司馬懿よりも少しだけ色の明るい曹丕の黒髪が、クシャ、と音を立てる。
曹丕は笑った。
曹丕の体が纏う香りが好きだった。
それはいつも室で焚く香であったり、曹丕そのものの匂いであったり、どちらでも良い。
それが曹丕だとわかる香りを脳にまで染み渡らせる。
司馬懿の最大限の甘えであった。
「仲達、放せ。解き終わった」
下を向いたままの、楽しそうな曹丕の声。
役目を終えた短めの縄が床に二本。
司馬懿はゆっくりと体を起こした。
同時に曹丕も顔を上げる。
司馬懿よりも目線が下にくる曹丕は珍しい。
上目遣いという慣れない光景に司馬懿はむず痒くなる。
視線を逸らした司馬懿に曹丕はフ、と笑った。
立ち膝の格好となり、腕を伸ばして司馬懿の腰へと回す。
「構え」
曹丕は脚を割って入り、司馬懿の胸へ顔を埋めた。
やはりか。
ただ私で遊びたいだけ。
こうしてあからさまに甘えられる事は初めてではないが、どう反応すべきか戸惑ってしまう。
司馬懿は曹丕の頭をぎゅ、と抱きしめた。
「仲達、先程の仕置きは許せ。執務が終わっているのにお前が目覚めないから、つまらなかったのだ」
「存じております」
「疲れていたのだろう?居眠りなど、仲達らしからぬ」
「確かに寝不足ではありましたが…」
「では何故、休まずにここに居た」
「それは、曹丕様を見張るため」
「真意を言え」
曹丕は頭の位置を少し下げ、司馬懿の膝に頬をすりすりと寄せた。
まったく、何の誘導尋問なのか。
甘える仕草を止めない曹丕を見つめながら、司馬懿は答える。
「…執務が終われば、貴方はすぐ私を求めるでしょう?それならば初めからここに居た方が、移動の手間が省けるというもの」
瞳を閉じ、曹丕の柔らかな髪を撫でる。
その表情は曹丕からは見えないはずなのだが、彼には頬を染め恥ずかしがる司馬懿の顔が、手に取るようにわかる。
ククク、と肩を揺らしながら笑った。
「逆であろう?私の執務が終わり次第、すぐ私に触れるために側に居たのだろう、仲達」
「そのような事!」
司馬懿はバッと手を放した。
曹丕は顔を上げ、まるで子供のような悪戯な笑顔を作る。
「そら、気が済むまで私を愛でるがいい」
「帰りますっ」
「強がるな。このような事は滅多に無いぞ、私を好きにしろ」
「いい加減に…っ!」
司馬懿が本格的に怒りだす前に、曹丕は腕を外して立ち上がる。
そして床に転がったままの冠を広い上げ、司馬懿の頭にポス、と乗せた。
う、と司馬懿は目をつぶる。
「わかった、からかうのはもう止す」
満足げに笑みを浮かべ、曹丕は司馬懿の手首を掴んで立ち上がらせた。
「ちょっ…先程から私の扱いが乱暴ではございませんか」
「気のせいだ」
まだ痛む足首。
ふらつく司馬懿をそのまま抱き寄せ、司馬懿の細い腰に手を回した。
顔を近付け囁く。
「仲達への仕置きではなく、私への褒美という形にしよう」
低めだが濁りの無い声。
その響きに司馬懿はゾクリとし、直後に唇を押し付けられた。
声を出す間もなく舌で舐められ、曹丕の腕の中で体が強張る。
「口を開け、仲達」
言われるがまま、司馬懿は恐る恐る口を開いた。
その僅かな隙間を縫って、曹丕は舌を差し込む。
ヌルリと粘膜が擦れ合う感触に司馬懿は怯み、舌を奥へ引っ込めるが曹丕はそれを追ってさらに深く口付ける。
息苦しいが、あまりの近さに鼻でも息ができない。
曹丕の背中を掴みがっしりと力を入れると、一度唇を離してくれた。
唾液が糸を引き、司馬懿は顔をしかめる。
「不快か」
曹丕は真面目な顔で問い掛けた。
笑われながら言われたのならまだ抵抗のしようがあるが、至近距離からの真っ直ぐな視線を前に司馬懿は口をつぐんでしまう。
「言わねば分からぬ」
「不快と答えたらどうなさるおつもりですか」
司馬懿はフイ、と目を逸らし、精一杯の返答をした。
「接吻を止める」
それさえも直球で返され、司馬懿はフン、と僅かに頬を染める。
曹丕はそれを確認すると、気分を良くして瞳を閉じ、司馬懿の頬に口付けを落とした。
「…っ」
耳の付近まで曹丕の唇が動く。
愛撫と言うには優しすぎる感触に、司馬懿の頬はますます赤くなった。
このままだと埒があかない。そう感じた司馬懿は軽く溜め息をつき、小さな声で呟く。
「不快であれば、このように黙ってされるがままになど…」
高鳴る鼓動を抑えつつ、チラリと横目で曹丕を窺う。
「そうだな。それが仲達だ」
耳から唇を離し、曹丕はニコリと微笑む。
(!?)
ずるい。
この笑顔は、ずるい。
氷の一片も感じさせない微笑に、司馬懿は一瞬にして火照りかえった。
元々麗しい顔なのだ。しかめっ面で丁度良いくらいなのに。
身動きできずにいる司馬懿の頬を、曹丕は両手で包み込んだ。
「今日はやけに気が抜けているな、仲達よ」
「…誰のせいだとお思いで」
「真っ赤な顔では威厳の何も感じられぬぞ」
「だから…」
「良い。たまにはそんな仲達も愛でていたい」
曹丕は角度を付け、ゆっくりと、もう一度、司馬懿に口付けた。
司馬懿はそれを、無抵抗に受け入れる。
そっと唇が離れた。
「…何ですか」
「足りぬ。仲達から私に接吻しろ」
真剣な顔で司馬懿に囁く。
「いつまで遊ぶおつもりですか…」
「仕事は終わったのだ、今日という一日が終わるまで離さぬ」
司馬懿の絹のような黒髪を指で梳く。
そんな曹丕から逃げられるはずもなく、司馬懿は目を細めながら曹丕を見つめた。
ああ何故私はほだされているのだ。
「…今日だけですよ、今日のような簡単な執務で褒美など」
「では重要な執務を終えた時は、更なる褒美をくれると言うのだな」
「知りませぬ!!」
司馬懿は軽く背伸びをし、曹丕へ顔を寄せた。
曹丕は軽く微笑んだまま瞳を閉じ、唇を差し出す。
唇と唇が触れ合った。
一旦離れ、再度唇を寄せる。舌は入れず、ただ吸い付くように重ね合う。
恥ずかしい。
恥ずかしいが、決して嫌ではない。
自分の体が内側から熱くなっていくのを、司馬懿は感じざるを得なかった。
曹丕が司馬懿の肩をガッシリと掴み、顔の角度を変える。
司馬懿もそれに合わせ、口を塞いだ。ゆっくりと唇を動かし、味わうように口付けを続ける。
不意に離れた。
「舌は入れてくれぬのか」
「もう良いでしょう、」
眉間に皺を寄せ頬を染め、司馬懿は俯いた。
そのいじらしい姿に曹丕は、何度目か分からない笑みを浮かべる。
「仲達の口付けが欲しい」
司馬懿の顎を持ち上げ、上を向かせた。
「もっとだ」
目を細め、愛おしむように囁く。
「……御意」
それは本心からなのか、ただの諦めなのか、曹丕には読み切れなかった。
ただ司馬懿は何かを決心したかのように、一息つき、薄く口を開きながら再度顔を近づける。
遊ばれているのは私の方だ、仲達。
今お前がどれだけの色気を放っているか、わかっているのか。
司馬懿に気付かれぬよう静かに、曹丕は息を呑んだ。
年上の腹心の顔の赤さを散々馬鹿にしておきながら、自分も正に赤らんでいるのではないかと、今更になって気にかける。
口付けられた。
滑らかな舌がそっと進入してくる。
二人揃って顔を染めるのも悪くはないだろう。
曹丕は想像し、自らの惚気に苦笑しそうになる。
司馬懿は懸命に舌を動かし、曹丕を探る。
それに応え、同じく舌を触れさせる。司馬懿がブルッと震えた。
舌を司馬懿の口の中へ押し戻し、裏側を舐め上げる。
「んぅ…」
苦しそうな息が漏れ、僅かに離す。は、と呼吸をさせてからすぐに口を塞ぐ。
覆いかぶさるように、唇に喰らいついた。
足元から崩れないよう、司馬懿は曹丕の背中にがっしりとしがみ付く。
唾液がクチュ、と混ざり合う音。舌と舌が擦れ合い、微かに快感となった。どちらともなく、体がビクンと跳ねる。
いつしか汗を掻いていた。白いうなじに滴が一筋流れ、司馬懿は軽く首を振る。
「気になるか」
曹丕は口を離した。後を引く糸を舌で切る。
そのまま司馬懿の首元へ顔を埋め、汗を舐め取った。
「ひゃっ…」
「うむ、塩の味だ」
少しずつ下方へと移動し、襟元を指で開いて鎖骨を吸い上げた。
「当たり前でっ…ちょっと、まだ夕方…」
「ん?何を期待しているのだ、淫らな軍師め」
火照った体は中々戻らない。
曹丕の行動を止めようとする自分が微塵も居ないことに、司馬懿は諦めを持つしかなかった。
「仲達、夕食前の遊戯だ」
腰を掴まれたまま、床へと崩される。押し倒され、長い髪が広がった。
「誘ったのはお前だぞ」
「私は誘ってなど…」
「そのように紅上した体で何を言うか」
乱された襟元へ手が差し込まれる。ひんやりとした感触に心臓が高鳴り、熱い息が漏れた。
胸の突起へ触れられる事を想像しただけで、体が跳ね上がる気がした。
「続けて良いということだな、仲達よ」
司馬懿は首を傾け、視線を逸らす。曹丕は口角を上げ、ゆっくりと覆いかぶさった。
「先程の接吻、実に美味だった。上手くなったな、仲達」
「お止めください…」
「さらに甘美な時間を味わうぞ、互いにな」
始まりの口付けを交わす。司馬懿は瞳を閉じた。
コンコン。
「っっ!!!!」
室の扉を叩く音に、司馬懿は恐ろしいほどの瞬発力で飛び起きた。
弾き飛ばされた曹丕は呆気に取られ、尻餅をつきながら半開きの口で司馬懿を見つめる。
「待て、入るな!外で待っていろ!」
今までのか弱い声が嘘のような、よく通る声で司馬懿は叫ぶ。
「私としたことが…こんな場所で情事など…」
ブツブツと呟きながら司馬懿は乱された服をサッと直し、パン!と顔を両手で叩いて真面目な顔を作った。
そしてズカズカと扉へ歩き、訪問者を確認して外で話をする。
バタンと閉められた扉を見、曹丕はチッと舌打ちをした。
扉が開き、司馬懿が戻ってくる。
「用事は何であった」
苛々を隠せない曹丕が低い声で尋ねる。だが司馬懿を見て一転、表情が焦り一色になった。
「お仕事ですぞ、曹丕様」
司馬懿は両手いっぱいに書簡を持っていた。カラン、と一つが落ちる。
「仲達…それは」
「いくつか返ってきましたなあ。一体何が原因かわかりますかな」
司馬懿の濁りのない笑顔が直視できなかった。目が笑っていない。
司馬懿は床へ座り込んだままの曹丕の前へ、書簡をばらまいた。その一つを開き、曹丕は落胆する。
覗き込み、司馬懿は冷ややかに笑った。
「署名の場所が違いますね。そして必要なことを一切記されてない」
「い…急いでいたのだ」
「こんな雑に仕事をする貴方は初めて見ましたね。残念でなりません。さっさと書き直してください」
司馬懿は掌を払い、フウ、と一息つく。
「私は帰ります。どうやら居れば気が散るようですし」
「待て!!こんなものすぐに終わらす!!」
「いいえ、時間をかけてじっくり取り組んでください」
「仲達だって、まだ体が戻っていないだろう」
「とっくに冷めましたよ」
その一言が曹丕に突き刺さる。無言になった主に視線をやり、司馬懿は告げた。
「縄や私で遊ぶ暇があるのなら、点検くらいなさったらいかがです?居眠りは私が悪かった、それは謝りますが」
ツカツカと扉まで歩き、少し開けて後ろを振り返る。
「褒美など、とんでもない話でしたな。では」
曹丕が引き止める間もなく、司馬懿は退出した。
「―――ッ!」
曹丕は握っていた書簡を投げ飛ばそうとし、これではただの八つ当たりだと気付いて思い留まる。
「あと少しであったというに…」
独り言も虚しくなり、ハァと溜め息をついて曹丕は立ち上がった。
手を抜こうと思ったわけではない。仲達の寝顔を前に、ほんの少し乱されただけだ。
生殺し状態にされた私の心情、もう少し汲み取れぬものか。
フン、と鼻を鳴らし、曹丕は冷静さを取り戻す。
次は逃さぬ。
書簡を拾い集め、曹丕はまた机へと向かった。