毎年この日が来る度に、父上は出掛けられる。
いつも一人、どんなに執務が多忙であろうと五月十七日のこの日だけは絶対に。
「毎年毎年、父上は何処に行っているんでしょうね兄上?」
「私も知らぬ。そういえば昨日、父上にしては珍しく花を買われていた」
「兄上が知らないなんてね。ちょっとつけてみますか?」
「さて父上に見つかったら何と言われるか」
「めんどくせ。ま、見つからないようにしなきゃ大丈夫ですよ」
護衛をつける訳でもなく不用意に何処かに向かわれる父上に、興味本位で兄上とこそこそとつけてみることにした。
予想以上に父上は遠出をして、山道を歩いていく。
「…護衛も付けずにこんな山道など、父上は御自分のお立場をわかっていらっしゃるのか?」
「しかし、わざわざ首陽山とは」
父上のこととなると兄上は口煩い。
歳を感じさせない風貌の父上だが、それなりに心配はしてる。
石段を上る。
父上が目的地に着いたらしく、中央にある石碑に触れて膝をついた。
「あ…」
「此処は…」
【高祖文帝碑】
父上はその碑に深々と頭を下げた。
「お久しぶりです…子桓様」
最近の父上は特に多忙で執務に戦にと休まることがなく。
いつも厳しく叱咤し、笑うことなどなかったそんな父上の、とても優しい笑顔を見た。
父上のあんなに優しい笑顔は、オレは知らない。
「…そうか、今日は」
「曹丕様の」
兄上と二人、皆までいわずに理解した。
父上が主だと認め、その生涯を父上が従った唯一の人。
父上は石碑のまわりを片したり、水をかけて研いたりして掃除をしている。
「おい、そこにいるなら手伝え」
師、昭と。
不意に我等の名を呼び、振り返る。どうやら最初から見つかっていたらしい。
「見つかっていましたか」
「最初からな」
「父上が毎年毎年何処に行くんだろうなぁって、気になりまして」
「…今日だけは外せなくてな」
石碑の掃除を父上から換わり、兄上と受け持つ。
石碑はそんなに汚れてはいなかった。
父上は少し離れたところに座り、花の茎を鋏で切っている。
「終わりましたよ」
「ふぅ、やれやれ…めんどくせ」
「昭」
「はいはい、すいません」
父上が冠を脱いで、綺麗になった石碑に花を手向けた。
あの人が好物だった葡萄を父上が供えて手を合わせた。その隣で兄上と手を合わせる。
「貴方の子、魏は…少しばかり荒れて参りました」
父上がまるで生前の曹丕様に話すかのように、報告する。
魏の内情、天下の行く末。まるで皇帝陛下に報告をするみたいに。
「今年は葡萄を持って参りました。お好きでしょう?」
石碑に向かい、父上は優しい瞳で話す。
そういえば父上は、生前のこの人の前でだけ優しく笑うのを思い出した。
「我が子たちもこのように立派に成長致しました。魏もそうであると…良いのですが」
「魏は衰退しましたね」
「全くどいつもこいつも凡愚ばかりでやれやれって感じです」
父上の報告に私たちが口を挟むと、父上は笑った。
「あなた様の国をみすみす見捨てたりはしません…再生が無理なら私が看取りましょう。あなた様がそうであったように」
膝をつく我らに、父上が立ち上がり私たちの頭を撫でた。
「私もいずれそちらに参りますので」
「…父上?」
「いずれ、な。まだ私にはやることがある」
一礼をして、父上と共にその場を去った。
『良い葡萄だ』
空耳だろうか。
そう聞こえた気がした。
その日の晩、一人立ちすくむ父上を中庭に見つけた。
薄着でこんな夜に、風邪でもひかれてはと父上の方に歩いていく。
ふと。
父上の後ろに誰か居る気がした。
目に見えて誰もいないが、誰かいるのだ。
その気配は優しく、父上を包むように消えていった。
「どうした、師」
父上が私に振り返ると完全に気配は消えた。
思わず手を沿えていた剣を下ろす。
「…父上、此処は冷えます。どうぞ中へ。寝台は温めておきましたので」
「ああ…すまぬな」
よく見れば父上の瞳が赤く腫れている。
泣いていらしたのだろうか。
通りすがる父上にやはり何かが纏わり付くような気配がする。
父上は気付いていないらしい。
寝台に入る父上を見守り、寝室を出た。
「…曹丕様?」
気のせいだろうか。
父上の寝室に私と入れ代わるようにあの人の気配がした。
曹丕様、いや今は文帝であったか。
「…父上はもう休まれましたよ」
『解っている』
その気配に話しかけるように呟くと、返事が返ってきたような気がした。
『窶れたな…仲達。無理をしていないか。お前はまだこちらに来るべきではない』
父上の寝室の扉を開けると、白い影がぼんやり見えた。
眠る父上の髪を撫でているようだった。
『彼岸にて待つ』
影は父上に手を合わせて、口付けを落とし消えて行った。
鬼、というものかもしれない。
父上に何か変わりがないか確認し、寝室の扉を閉めた。
「夢を見た」
父上が今朝、嬉しそうに笑っていた。
笑っていたが、何処か悲哀だ。
「ふっ…『あまり無理をするな』と言われたわ」
「曹丕様にですか」
「ああ」
兄上が何か知っているように話した。
オレには何のことだかちょっと解らない。
「…鬼に心を許すと、取り憑かれますよ。あの方は死してなお、父上に焦がれている」
「それは私も同じ」
「父上?」
「私の主は、今も昔もあの方だけだ。師よ、あの方は…見守っておられるよ」
何処からか曹丕様が笑うような気配がして、振り返った。
誰もいない。
「再見。またお逢い致しましょう」
『再見、私の仲達』
そう言われたような気がした。