遠征地での一年。
正月であろうとも、戦に区切りなどはなく相変わらず忙しない日々が続いている。
張コウや徐晃などは前線に出ている為、城内はとても静かだ。
この拠点の城の留守を預かっている指揮官は私。
私が護るこの城は重要な補給拠点だ。
特にこれといって陥落に陥る事もなく、寧ろ片手間程度に敵を退けていた。
彼方の総大将は諸葛亮だが、私自身が前線に赴く事は止められていた。
諸葛亮は私が相手をすると言って一年。
気が気ではなかったが、私が此処に居ると言うことはそういう事だ。
深々とした雪が降る中、城門の前に立つ。
前線に立たれるあの御方が、皆を連れて此処に帰ってくる。
私は一人、その時を待っていた。
遠征が終わる。
私達は魏に帰るのだ。
外気はとても冷たいが、私自身がお迎えをしたかった。
戦況は上々、後方に控える私が前に出るまでもなく前線は落ち着いた。
文のやり取りが互いの距離を感じさせなかったが、思えば実に丸一年お会いしていない。
実際、ずっと離れていた。
遠くから騎馬隊が見える。
私の主が来てくれた。
大した負傷もなく五体満足である事に心から安堵し、溜息を吐いた。
馬から下りる曹丕殿に深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ。前線での采配、お見事でございました」
「それは嫌味か仲達。…寒かろうに、城内に居れば良かろうものを」
「皆の手前、かのような真似は致しかねます。
前線の皆に対し、後続の私が敬意を忘れては礼儀に反します」
「…相変わらずのようだな。いやしかし、実に長い一年であった」
「…曹丕殿、兵達の前です。後程お構い致します」
「…そうか」
私に触れようとした曹丕殿の手をすり抜けて、後続に続く徐晃殿と張コウにも頭を下げた。
曹丕殿の気持ちも私の胸の内も同じ考えであろうが、まだ口にも行動にも出せない。
一年以来の再会で、どうしたらいいのか。
よくぞ私の主を護ってくれた。
口には出さないが、そんな思いを込めて深く将軍達に頭を下げる。
私の代わりに曹丕殿を護ってくれた。
私は武将ではない。
故に武力では大切な人達を護れない。
だが私とて臣下。
腕力がなかろうとも、盾にくらいならなれると考えている。
その考えを、先日護りたい当人に文で一蹴にされたのは苦い思い出。
私が思う以上に、あの御方は私に甘い。
私が手渡した上着を徐晃も張コウも受け取らず、私の肩にかけた。
これでは意味がないではないかと口を尖らせるも、結局上着は肩に掛けられたままだ。
「だって司馬懿殿の方が寒そうですもの」
「左様。我等は武人ゆえ、これしきの寒さ無問題にござる」
「…ふん。悪かったな。要らぬ世話を焼いた」
「あ、いや、司馬懿殿のお気遣い傷み入る。しかしこれは司馬懿殿が着ていて下され」
「私達を待っていて下さってありがとうございます。
ですが、私達の司馬懿殿が風邪をひいたら大変ですもの!」
「…ふん」
二人には一月ぶりに出会う。
何だかんだとこの将軍達は私に優しい、というより誰に似たのか甘い。
結局私が気を使ったのに、倍以上に気を使われてしまった。
慣れぬ事はするなと言う事であろう。
徐晃殿と張コウに渡すつもりだった上着を肩に掛けられ溜息を吐く。
「仲達の取扱いに気を付けろ。扱いを誤れば、あれは直ぐに臍を曲げる」
「曹丕殿!」
「お前にしては珍しい気遣いだ。遠慮なく受け取るとしよう」
「…、はい」
私を笑う曹丕殿だけは上着を羽織る。
それを横目に見て笑い、皆の身を案じて城門を閉めた。
「盃は洛陽にて。今暫くはお寛ぎ下さい」
「ああ」
「休養も務めの内と心得られよ」
武装を解いた曹丕殿を部屋まで見送り、再び大広間に戻る。
未だに武装を解かない徐晃と張コウに声をかけた。
「徐晃殿、張コウ殿。遠路ご苦労であった。そなたらも兵達と共に休まれよ」
「忝ない、司馬懿殿」
「司馬懿殿もきちんと休まれて下さいね。
司馬懿殿が後方に控えておられるからこそ、私達は今まで戦えたのですから」
「私は武力に乏しいのでな」
「何を仰る。貴方様の知略に適うものなど、この国におりますまい」
背後からのいつも通りの声に振り向き笑う。
やはり郭淮であった。
「曹丕殿を始め、徐晃殿、張コウ殿。御武運長久にて誠に祝着。此度の長期戦、お疲れでしょう」
「お久しぶりでござる。否、郭淮殿こそ休まれよ」
「此処は思い出の地に至る街道。
再び魏軍として戦地に赴けるだけで私は幸せでございます。しかも勝利を掴めるとは何たる幸せ」
「いいから休め」
「ふふ」
話が長くなりそうだと思い、郭淮の袖を引き部屋に戻った。
格子から徐晃と張コウが我等に頭を下げるのが見えた。
書類を片付けたら、食事も出来るだろう。
皆と顔を合わせて食事を共にする約束をした。
先ずは前線組の報告を聞き、書簡に筆を走らせる。
洛陽に帰る為の支度が終われば、帰路につける。
皆と同等、私も妻と子供達には此処暫く会えていない。
戦は勝利に終わったのだ。
遠征地での一年など、長いようであっという間だった。
…ように思う。
「司馬懿殿」
「うん?張コウか」
「張コウか、だなんて。もう少し反応して下さいよ」
「健勝で何より」
「そうではなくて。もう!意地悪ですね!」
「五大将軍の御二人に対し、心配などせぬ」
「此方は司馬懿殿達を心配してましたよ。
其方に敵が向かわぬようにと、策を出来るだけ看破して、沢山走りました。
曹丕殿の采配は、曹操殿を見るようでした」
「そうか。あの方も成長なされたようだ」
「ふふ。私は曹丕殿の初陣をこの目に見ております。何だか感慨深いですね」
「私も歳を取る訳だ」
「何を仰います。司馬懿殿は美しいです!」
卓に座る私に対し、張コウはでかい図体で猫か子供のように私の横に腰を掛ける。
久しぶりに感じた人肌は温かいものだと目を閉じ、張コウとの他愛のない会話に笑む。
此奴も相変わらずのようだ。
私よりも戦が下手な総大将に心配をされる言われはないが、そう言えばまだ二人で話しをしていない。
触れられてもいない。
正直、想い人に此処まであからさまな心配をされるのは嬉しかった。
口には出してやらんが。
「…心配をされる言われはないわ。私を誰だと思っている」
「ふふ、司馬懿殿は素直であらせられない」
「噂をすればなんとやらですぞ、司馬懿殿」
郭淮が扉を開けると、其処には曹丕殿が立っていた。
書簡を一つ私に手渡し、向かいの椅子を引いて座る。
張コウがにっこり笑って、郭淮を連れ出し頭を下げた。
「何処へ行く」
「郭淮殿と兵達の元に。皆に声をかけて参ります」
「おお!皆に激励せねばなりますまいな」
「うん?」
「然らば司馬懿殿、曹丕殿。私達は少々席を外します」
「…ああ」
「ごゆるりと、曹丕殿」
「恩に着る」
私達を見て気を使ってくれたのだろう。
張コウの振る舞いに郭淮も気付いたか。
二人は深く頭を下げて部屋を退室した。
曹丕殿と二人。
一年ぶりの事だった
書簡には戦の戦況、敵の策や行動、此方の行動などが記されていた。
周りに置いていた書簡を引き寄せて、曹丕殿は靴を脱ぎ私の背後に腰を下ろす。
「…?」
「過ぎた事だが、お前から助言を聞きたい。
記憶の新しい内にと思い駆けつけたのだが、邪魔をしたか」
「ふ…、いいえ」
「戦には勝利した。だが、本来であれば私はどうするべきだったのか。
師である仲達に模範解答を聞こう」
「戦に正解など在りますまい」
「私の道を正すのはお前の役目だ」
「私を買いかぶり過ぎですよ」
私の事を、未だ師と仰るのか。
色恋に浮かれた娘々ならば、一年ぶりの再会ならば恋人の胸に飛び込むものなのだろう。
まぁ、私の柄ではないのでそんな事はしない。
何時までも背を向けているのは無礼だ。
書簡を読むのを止めて筆を置き振り返ると、曹丕殿は私を胸に引き寄せて肩口に埋まった。
少し力の込められた包容に目を閉じて、私も曹丕殿の背中に腕を回す。
曹丕殿になら、私の考えが言わずとも通じるのだろうか。
ずっとこうされたかったとは言葉にせず、目を瞑って笑う。
「と言うのは、口実だ」
「ふ、どうなさいました」
「ずっと、触れたくて堪らなかった」
「…少し、窶れましたか?」
「仲達に会えぬ。故に窶れた」
「御冗談を」
「…、上を向け」
「…はい」
曹丕殿の嘘に笑う。
頬に手を添えられ上を向けられた後、唇を合わせられる。
初めは触れるだけの口付けをされ、直ぐに離された。
懐かしい感触に再び目を閉じると、また曹丕殿から唇を合わせられる。
今度は深い口付けに舌を絡め取られた。
腰を引き寄せられ逃げられない。
「そ、う…丕、どの」
「いつまで、そう…呼ぶつもりだ仲達?」
「…っ、子桓、さま」
「漸くか、この」
「…私が居なくて、清々したでしょう?」
一年。一年触れられなかった。
子桓様にこうも近距離で見つめられ、触れられては心臓が煩い。
きっと気付かれている。
逃げ場がないと、口八丁で何とかしようとするのが私の悪い癖だ。
心にもない言葉を子桓様にぶつけてしまった。
機嫌を損ねたと思い顔を直視出来かねていると、子桓様は笑っていた。
「寂しかったぞ」
「っ…!」
「暫く、このままで居させてはくれぬか」
「…このまま?」
「私に仲達を抱かせて欲しい」
「だ…っ…」
「褥を共にせよとまでは言わぬ。勿論お前の考えるような厭らしい意味で、ではない」
「っ…!」
「相変わらずだな。お前の反応は変わらん」
「あ、相変わらず相変わらずと、他に言う事はないのですか」
「相変わらず可愛い、相変わらず愛らしいという言葉が続くのだが、其れを言ったらお前は」
「お、男に!」
「可愛いと言うなと、怒るだろう?」
「…っく…!」
「お前の事なら、手に取るように解る」
何もかも見透かされている。
私が唇を噛んでいると、子桓様が指で唇を撫でた。
噛むな、と仰った後に唇を指でなぞられる。
「お前こそ、随分と窶れた」
「私自身は何とも」
「いや、腰回りがな…。正しく食事は食べているのであろうな?」
このように好き勝手私の体に触れる事を許しているのは、子桓様以外にはない。
先程からやたら腰を触るのはそのせいか。
大丈夫ですと言葉にする前にまた、子桓様に唇を奪われてしまった。
どうやら子桓様は私の腰から下には、故意に触れようとはしていない。
「…仲達が恋しい余り、死んでしまうかと思った」
「大袈裟な。文のやり取りはしていたでしょう?」
「…帰国したら、私が如何にお前に飢えていたか思い知らせてやる」
「えっ」
そのままずるずると子桓様は私の膝に横になり、目を閉じてしまった。
私にこのように甘えるお姿を見るのも幾久しい。
要するにこの人は、私に甘えに来ただけなのだ。
「膝を借りる」
「返すつもり、ないでしょう」
「ああ。仲達は私のものだからな」
「…私も一年、今日をお待ち申し上げておりました」
「しおらしい事を言う」
「…一人寝はもう、寒くて堪えられませぬ」
「…これ、風邪をひいたのではあるまいな」
背筋が寒い。
やはり外気に長く当たっていたのは不味かったか。
子桓様に上着を肩に掛けられて引き寄せられるが、首を横に振る。
私の言葉にはもうひとつの意味も込められていたが、気付かれただろうか。
「お眠りになるのでしたら、私は横にはなりません」
「仮眠をしておいた方が良いと思うがな」
「何故?」
「今宵は寝かせぬ」
「っ…、なれば、私も少し、眠ります…」
「構わぬ、と言う事か」
「お好きに解釈なさればよろしいでしょう」
「一人寝は、寒い」
結局私は腕を引っ張られて、横にされてしまった。
子桓様から体温を分け与えられるように胸に埋まる。
「随分と冷たい」
「寒いです…。温めて下さい」
「…、そのような言葉、誰にでも言うものではないぞ」
「私が誰にでも言うように見えますか」
少し睨み付けると、子桓様は嬉しそうに笑った。