なみだ

何となく、自分の残りの時間が少ないような気はしていた。
風邪だと思っていた咳は一向に良くはならず悪化する一方で、溜まる執務は仲達に任せきりだ。
寝るか書簡を読むか、くらいしかやる事がなくつまらない。

此処は任せてごゆっくりお休み下さい、と仲達に言われて寝台に横になるものの。
届く文や報せはろくでもない文官からだった。
容態を心配する文ばかりだったが、達筆で『早く死ね』と言われているようで何とも胸糞悪い。
または執務の意見を求める極めて実務的で簡潔とした仲達からの文くらいだ。

寝室には仲達にのみ、入室を許している。

その仲達にも私が病に伏してから会えていない。
私の執務を一手に引き受けたのだ。無理もない。
私よりあれが先に過労死しそうだ。

季節は初夏に近い。
窓辺の格子に程近い寝台から見る景色は相変わらずだったが、季節が変わるのは肌を持って感じられた。
どうやら最近は暑い日が続いているらしいのだが、私にはまだ肌寒い。

昼食を運ぶ給仕に話を聞いた。

仲達はこの数日間、執務室に隠りきりで姿を見せていないらしい。
食事を運ぶも手をつけていない事すらある、と言う。
帰宅を願う師や昭の言葉すら届かず、室から出ようとしないと聞いた。

止めてやらねば、本当にあれの方が先に死ぬ。




給仕が去った後、軽く食事をし上着を羽織って室を出た。
寝ていろ、とは言われたがたまに咳き込む程度でまだ体力に余裕がある。

回廊を歩き執務室の前に立った。
部屋の扉の前に膳が置かれていたが、やはり手はつけられていない。

敢えて名乗らず、扉を叩いた。

「何用か。急用でなければ其処で申せ」

声にはまだ覇気があるが、疲労の色は隠せていない。
何より苛立っているようだ。
私の声では仲達にバレてしまう為、近くに居た通りすがりの衛兵に急用だと伝えさせた。

「入れ」

どうやら私だとバレずに済んだようだ。
衛兵に礼を言い、部屋の扉を開けた。




書簡や書物が山のように積まれている。
書いたばかりの書簡が干されていたり地形図が広げられていたりと乱雑ではあったが、
きちんと整頓されているのが何とも仲達らしい。

正面の卓に座り、朝服を正して机に向かっていた。
仲達は此方を見ず、書簡に筆を走らせている。

「用件は」
「御報告申し上げる。そろそろ休めと皇帝陛下からのお達しです」
「…子桓様?」
「もう良い仲達。休め」

腕を組み、卓に座る仲達を見下ろすと漸く筆を止めた。
やはり声だけで仲達には解ってしまうようだ。
私を見上げた仲達の顔色は酷いもので、何日も眠れていないように見える。
これは執務室から離さねばならない。
私の部屋なら執務は来ないだろう。

「何故此処に、まだ貴方様は完治されていないのですよ」
「仲達」
「寝台にお戻り下さい。執務は引き続き私が引き受けますので」
「仲達」
「私は大丈夫です」
「黙れ」

顎を掴み、唇を合わせた。
驚いた仲達は手から筆を落としたが、其れを横目に見て私が拾った。
せっかくの書簡が駄目になる。
仲達が良しとせぬだろう。

思えば長く口付けを禁じていた事を思い出した。
病がうつる、と言う理由で私自身が仲達を突き放した。
その夜、うつして下さいと仲達に夜這いをかけられた時は流石に理性が揺らいだが何とか持ちこたえた。
肺炎をうつす訳にはいかない。

思えばそれ以来、仲達とは直に会えていなかった。

「…今更…何です…」
「休めと言っている」
「貴方様なんて…大嫌い…」
「…?」

今更、何のつもりだ。

仲達からの言葉に耳を疑い胸が痛んだが、今はそれどころではない。
口論をしに来た訳ではないのだ。
早く仲達を止めてやらねば。

「失礼します司馬懿殿。追加の書簡です」
「…解った。此方に」

仲達の部下であろう男が新たに書簡を携え室に入って来た。
私に気付き驚いたように深々と頭を下げる。
受け取ろうとした仲達の手を下げ、書簡を突き返した。

「待て。仲達は今から私と話がある。急務ゆえ、大事なければ其方で片をつけろ」
「陛下!」
「命令だ。とりあえず今日一日は仲達に書簡を回すな」
「陛下直々の御命令とあれば、承知致しました。皆に伝えます」
「頼む」
「……」

いくつか書簡を持ち帰り、かなり執務が減ったように思う。
よくよく書簡を見れば、わざわざ仲達がやらずとも良いであろう内容の案件もある。
部下はどうやら其れらを見て持ち帰った様だ。

「ずっと執務をしているつもりか」
「私は其れくらいしか役に立ちませんから」
「…来い」

仲達の言い草に多少なりとも不快に感じたが、今は聞き流してやった。
筆を置き、仲達の手を引くが仲達は頑なに拒み、席を立とうとしない。

こんなにも私を拒む仲達は初めて見る。
いつの間にか、本当に嫌われてしまったのかもしれない。
仲達に嫌われる事は胸が痛むが、今は私個人の感情よりも仲達を執務から遠ざけるのが先だ。

「命令と言えば従うのであろうな?」
「…御命令なれば」
「なれば命令だ。私と来い」
「…御意」

漸くついて来る気になったらしい。
命令で仲達の意思を無視するのは私が一番したくない事だ。
そんな風に扱いたくない。
其れは仲達が一番理解している筈だった。
敢えて、そう言わせているように思う。

立ち上がった際、仲達が前のめりに倒れそうになった。
咄嗟に支えたその体は軽い。
おそらく立ち眩みだろうが病の私よりも、お前の方が重症だ。
ほんの数日離れただけであるのに、これはどういう事だ。

「…見てられん」
「え…?」

仲達の返答は聞かない。
横に抱き上げ、私の寝室へ運んだ。
幾分か軽くなった体は本当に脆く、力を入れたら砕けそうだった。







朝服の首元を緩ませ、冠を取らせた。
仲達を卓に座らせる。その隣に座った。


無言。


仲達は俯いたままだ。
ただ座り、下を向いている。

先の言葉を聞く限り、仲達は執務をする事で何かから逃げているように思う。
もしや、と思い仲達の両肩を抱いて上を向かせた。

「全て聞いて、いるな?」
「……」
「私はもう長くない。正直に答えよ」
「存じています。私を貴方が離した理由も…病の進行も…」
「左様であったか」

私の病の進行状況は一部の者しか知らない。
仲達にはいつ話そうか迷い、直接話せずにいた。
いつの間にか、仲達の耳に入っていたらしい。

現実から目を逸らしたくて執務に忙殺されていたのだろう。
昔から仲達は、独りになるといろいろと考える奴だった。
仲達の先の態度や物言いも、全て理解した。

全ては裏返し。

「…子桓、様…」
「仲達、私からも全て話そう」

己の死期が近づいている事。
後事。後継の話。
遺書も用意していると話した。

ただ其れを、ずっとお前に話せなかったと謝罪した。

「…貴方様が私を引き離すなんて、考えられなかったのです」
「お前だけは病をうつしたくなかった。私より長く生きてほしい」
「…貴方様は私を置いていくのに、酷い人」
「故に先程、嫌いだと?」
「大嫌いです。貴方様なんか」
「そうか」

今はもう、仲達の思いが解る。
棘のある言葉の真意も解る。

仲達の瞳より止め処なく頬を伝う涙が、全てを語っていた。
卓に滲みる仲達の涙を掬うように、頬を包んだ。
まるで子供のように、仲達は私の胸で泣いた。
こんな姿はきっと他の誰にも見せる事はない。

今まで、ずっと独りで堪えてきた涙だ。
これからはもっと、独りにさせてしまう。
今後はこうして、涙を拭ってやる事も出来ない。

今、全てが大切な時間だと思う。

「仲達、私はお前が好きで良かったと思う」
「は、い…知っています」
「ふ、そうか。それは良かった」
「…酷い人」
「ごめん」

初めて、そう謝ったような気がした。
何故だろうな。『すまない』ではなく、『ごめん』だったのだ。

何かをした、或いはしなかったことについて後悔、
悲しみ、あるいは喪失感を感じること、あるいは表す様。
『すまない』とはそういう意味だ。

『ごめん』
思いが強過ぎて、逆に遠ざけたい心情。
私が居なくても、お前が生きていけるように。

お前が独りでもどうか立って居られる様に。



もう私は、あと少ししかお前の傍に居られない。








「これは命令ではない。私からのお願いだ」
「はい」
「…無茶をするな。もうお前一人の体ではない」
「はい…、気をつけます」
「何か食べろ。私の粥を少々残しておいた。食べていい」
「…はい」

長らく食べ物を口にしていないであろう仲達に、私が残した粥をやった。
大分、仲達は心を病んでいたように思う。
私の存在というのは、仲達にとって其れほどであるのか。
仲達に対しては、自惚れて構わない筈だ。

「子桓様は…」
「何だ」
「お薬は飲まれましたか?」
「ああ。滞りない」
「それを聞いて安堵致しました」
「…話せるか?聞いてやる。愚痴でもいい」
「はい…」

刺々しい言葉や態度はなりを潜めた。大人しい。
幾分か涙を流し、気が晴れたのだろうか。
思いを直接、素直に仲達は話した。

遠ざけた理由を察し、把握は出来ても安堵の出来ない日々の繰り返し。
迫り来る時間。私のいない明日への憂鬱。
国を左右する案件を任される重み。次代への布石。己の立ち位置。
孤独になった際に深く考えてしまう思考を止める為に執務に逃げた事。
いっそ共に死んでしまいたい、とまで考えた事。

仲達は全てを話したのだろう。
溜息を深く吐いた。表情は浮かないが幾分かすっきりしている様に見える。

私が小さく咳をすると、仲達は心配そうに私に寄り添った。
大丈夫だと伝えると、暗い表情で私の胸に埋まる。

仲達は私の病を知っている。
私の患った胸を擦る手に掌を重ねて握り締めた。

「…薬の副作用でな」
「はい」
「些か眠い」
「お眠り下さい」
「お前もだ」
「…左様では御座いますが」
「眠れていないのだろう」

瞼に触れた。熱く腫れている。眠れていないのだろう。
また怖い夢を見る気がして眠れないのだと言う。

「怖い夢とは?」

仲達の朝服を脱がせ、私の寝間着の予備を貸した。
少々大きかったようだ。袖から仲達の手が出ない。
肌寒く感じる私に取って、仲達の肌は温かく。
何より仲達が傍に居る事ほど、幸せな事はなかった。

幼少期はこうして仲達が添い寝をしてくれた事を思い出す。
いつの間にか追い抜いた背丈は立場を逆転してしまったが、
今までずっと仲達は私の傍に居たのだと思い返した。

いつでも、傍に居た。其れが普通だった。





























この温かさがもう失われてしまうと思うと、触れずにいられなかった。
私が自分で思っていた以上に、司馬仲達と言う男は曹子桓で出来ていて脆かった。

医師からたまたま聞いてしまった話。
声が出そうになって、思わず口を抑えて物陰に隠れた。
直接話して下さるまでは待とう、とは思っていた。

それがまさか、こんな形で。


後日、子桓様が私を引き離す。
その夜、私がお伺いしたからだ。
触れる事は許さん、と一方的に私を寝室から追い出した。

ひき始めの風邪である内に、私にうつして下されば良かったものを。
そうしていたら、今頃苦しんでいるのは私だっただろう。

私は子桓様の病を貰いに行ったのだ。
其れから数日間避けられ続けた私は、半ば自暴自棄になり執務を続けていたような気がする。

後継がどうだの、役職がどうだの。
貴方様が居ない世界の話なんて考えたくなかったのだ。



仮眠を取ると体は幾分か楽で、何よりも子桓様が傍に居る事に安堵した。
目を覚ましたら互いの心音が耳に響く程に抱き締められていた。

どうかこのままずっと。
そう願い胸に埋まるとふわりと髪を撫でられる。
小さく咳き込む貴方様を見上げた。

何故か、涙が止まらない。
涙の止め方が解らない。

「仲達」
「…ごめんなさい」
「良い。今はまだ拭ってやれる」

両頬を掌で包まれ、零れ落ちる涙を拭われる。
拭われども、私の涙は止まらなかった。
涙腺が壊れてしまったのだと思う。

布団の中で触れた子桓様の裸足が氷のように冷たくて、更に距離を無くすようにすり寄った。
体温を分けるように脚を絡ませると、腰に子桓様の手が伸びる。
そのまま前と後ろに直に触れられる手は止まらず、柔々とした快楽が体を少しだけ駆け巡った。




慰めて下さるつもりなのだろうか。
掛布を退けるつもりも服を脱がす事もしない。
ただ隙間から触れ、擦りあげられる快楽に子桓様の腕の中で口元を両手で抑えた。
私も抵抗はしない。

「…誰にも、渡さぬつもりだ」
「…?」

潤む視界の中、子桓様が私の体を反転させた。
私の背中に埋まるように体を密着させ、後ろから強く抱き締められる。

「師にも昭にも。我が子、叡とて許さぬ」
「何の、お話しですか?」
「お前は、永久に私のものだ」

首筋を吸われ、所有の痕をつけられる。
香油の匂いがして、後ろに指を入れられる。
滑りを借りた指は忽ち奥まで入り、私の体を震わせた。

「このような事」
「っ、…ぅ…」
「私以外に、触らせる事も見る事も許さぬ」
「ぁ…!」
「良いな、仲達?」
「は、ぃ…」

後ろに子桓様のが直に当たる。
既に其れは屹立していて私の太股の間に滑り込ませ私のに擦りつけられる。

この人とて、口惜しいのだろう。
先の物言いから、私の所有を強めて繰り返した。
この方とて…私と同じ。

擦りつけられる素股行為に口元を抑えて、羞恥心を堪えた。
首筋に子桓様が頬を寄せる。

擦りつけた子桓様のものは私の太股からずれ、後ろに当てがわれた。
子桓様の吐息を耳元に感じながら、ゆっくりと挿入され敷布を強く握り締めた。

「ぁ…!!」
「…っ仲達」

私のを擦りながら、子桓様の片腕は私の体を引き寄せた。
深く繋がり、無理な体勢で首だけ振り向く。
子桓様の顔が見たかった。もう口付けてはくれないのだろう。

「…仲達、私とてな…」
「?、っ…ふ」
「もっとお前の傍に居たかった…」
「…子桓、さ…」
「…動くぞ」

強請るような顔をしていたと思う。
また私は涙を流している。
子桓様は眉間に皺を寄せ、一度溜息を吐いてから私に深く口付けた。
口付けに合わせるように腰を打ち付けられ寝台が軋んだ。

一度抜かれ、私を押し倒すように体を組み敷いた後、再び奥へ打ち付けるように繋がる。
律動の激しさに声を堪え切れない。
お顔を見たくて、子桓様の前髪を手で避けた。

私の頬に落ちる雫。


「…子桓、さ…ま?」
「……」
「泣いて、いらっしゃるの…ですか」
「…そのようだ」
「子桓様…」
「口惜しい」

首に腕を回し子桓様を抱き締めた。
この方がこんな風に涙を流すのは初めて見た。
慰めるように背中と頭を撫でると、一度深く突き動かされ私の中に果てられた。
しどとに股を伝う子桓様の白濁に交じりながら、私も果てる。

何て悲しい情事だと、心の中で思った。








お前を独り置いて、死にたくない。

子桓様がぽつりと呟いた。
自分の死を悟り、終始冷静でいた貴方が唯一私にだけ明かした本音だろう。

体を交えたまま、子桓様は泣き顔の私の胸に埋まった。
涙を流す貴方様を抱き留め、私も涙を流した。

「…ずっと、お傍に居ます」
「ずっと…傍に居る」
「子桓様が?」
「お前の傍に居る。この身が朽ちてもお前の傍に居る」

約束しよう。
そう言い、子桓様が私に深く口付ける。
後々医師に診せろよ、と一言呟き子桓様が私から引き抜く。
股を子桓様の白濁が伝うのを名残惜しく見ていた。

敷布に包まれ、子桓様が私を横に抱く。
湯に入りたい、と子桓様が強請ったので大人しく従う事にした。

「…もっと」
「ん?」
「私に甘えて良いのですよ…」
「ああ…そうだな。どうしようか」

湯殿に着き、服を脱がされる。
全て子桓様の好きにさせるつもりで私は身を任せた。

「私は子桓様のお傍に居ますから」
「そうだな…お前と食事をしたり、茶を飲んだり、中庭で良いから散歩もしたい」
「何時も、していた事ではないですか」
「何時もしていた事が出来なくなる前に、何時もしていた事をしていたい」
「…御意」

湯に浸かり体を清められながら、辛辣な言葉を聞いた。
最期まで普段通りで居たい、と子桓様は笑う。

私を高台に座らせ、子桓様が脚に触れる。
爪先に口付けるその仕草に目を細めた。

「今までよくついてきてくれた」
「…」
「知っているか仲達。口付けをする場所に其々意味がある事を」
「意味?」
「ふ、知らぬか。してやろう」

子桓様が再び私の脚を擦り、爪先に口付けた。

「爪先は崇拝、だ」
「崇拝…?」
「仲達をそう思う」
「そのような事…」
「続けるぞ」

私を引き寄せ、子桓様が腰に口付ける。
そのまま続けて、胸、髪に口付けを続けた。

「腰は束縛、胸は所有、髪は恋慕だ」
「くすぐったいです…」
「頬は親愛」
「ん…」
「唇は」
「愛情、ですか?」
「よく解ったな」

頬に口付けられ、唇に口付けられる前に気付きそう言うと、
子桓様は満足げに笑みを浮かべ唇に口付けた。

「…もっと、唇に口付けても良いか」
「先日まで貴方様が禁じておりましたのに」
「私が耐えられん」
「我儘な方」

ふ、と笑い子桓様の口付けを受け入れた。




数え切れない程の口付けの意味を知る。
今まで、意味があって口付けていたのだろうか。

唇にばかり口付けるのは…。


「…私も、愛しています」
「それは嬉しい」
「ずっと…」
「ん」

唇へ口付けて、貴方に抱かれた。





























五月十七日まで。


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