漢中に着いた。
肝心要の漢中の守りは仲達に全軍を任されている。
私がわざわざ漢中に来たのは、勝利を確実にするためだ。
蜀軍を撤退させる。
仲達と許都で別れて久しい。
私は宮中に居て、漢中にいる仲達の動向を把握していたが。
文のやり取りより、何より直接会って話がしたかった。
「遠路はるばるお越しいただき恐縮です。曹丕殿」
「持ち応えているようだな」
漢中の城塞の前。
仲達がひとり待ち構えていた。
馬から下りて現在の状況、敵軍の情報、布陣の配置などを話しながら幕舎に招かれる。
本当は今すぐにでも抱きしめてやりたいと思う。
「父よりこの戦を早々に終わらせよ、とのことだ。私は本陣の守りにつく。お前の策を直に見てみたいものだ」
「なれば本陣はお任せ致します。私は前線に参ります」
「…お前も本陣から出なくとも良いのではないのか?」
「全軍の指揮を取るのは私です。戦場を把握せねばなりますまい」
「しかし」
「子桓様、ここでは私に従って頂きます」
軍議上、今まで『曹丕殿』と他人行儀で接していたくせにこういう時だけ字を呼ぶのは狡い。
仲達の言う事は正論だ。
思わず舌打ちするが従う他はない。ここは仲達の持ち場だ。
「お前の背中は私が護ろう」
「あなたの前は私が護ります」
地形図を見ながら、お互いに同じ口ぶりで言うので思わず笑みがこぼれた。
「お前を見ていてやる。存分に策を振る舞うがいい」
「御意」
剣を置き、幕舎の椅子に座った。
出陣は今か明朝か。
何にせよ蜀軍が進軍してくれば叩く他はない。
それまでにありとあらゆる策を仕込み、勝利を描くのは仲達の役目だ。
私は後方でそれを見守るのが役目。
横で何やら駒を動かし、地形を見ながら考え事をしている仲達を見る。
心なしか、愉しそうに見えた。
「…愉しそうだな」
「ええ。ですが私の策が必ずしも成功するとは限りません」
「何だ。自信家のお前にしては珍しい事を言う」
「相手はあの、諸葛亮ゆえ」
諸葛亮。蜀軍の軍師。
仲達が目の敵にしている人物だ。
天才、鬼才と呼ばれる臥龍。仲達が意識しているのがわかる。
それが無性に気に食わない。
「子桓様、ひとつあなたに忠告致します」
「何だ」
仲達が筆を置き、椅子に座る私の前に傅く。
「…万一、私に何かあったとて子桓様は本陣から出られませぬよう」
「それは約束できんな」
「此処は戦場、嫌でも約束して頂きます」
「お前を殺させる訳にはいかない」
「その言葉、そっくりそのままお返し致します」
「全く…口の減らない」
渋々承諾する。
立ち上がる仲達の手には武器が装備されたままだった。
腕を取り、武器を外し直に手に触れる。
「…久しぶりだな」
その手に口づけた。
仲達は頬をかあっと赤く染めて、手をひいた。
「こ、此処は戦場です」
「久しく触れておらぬ」
立ち上がりそのまま引き寄せ、胸に埋めた。
顎に手をかけ、唇を合わせた。
この感触も久しい。
「私がわざわざ漢中に赴いた一番の理由は、お前の身を想ってだ。
…続きは帰ってからだ、仲達」
「っ…御意」
口づけよりそれ以上はお預けに。
仲達を離してやると、また手に武器を装備し幕舎を後にした。
明朝。
斥候の報告により蜀軍の進軍を確認する。
我が軍師は粛々と、軍を動かして行く。
「本陣はお任せ致します」
「ああ、後ろで見ていよう」
「では」
仲達も軍を伴い、出陣した。
私を含めた本隊は仲達から指示が出るまで本陣で待機だ。
「戦況を随時報告せよ」
本陣の高台の上からは、仲達が率いる魏軍が見えた。
それより奥に蜀軍が見える。
剣を携え、帷子を装着し、高台よりこの戦を見た。
前線が退いている。
東の砦が陥落したとの知らせ。
前線は更に後退する。
蜀軍は追撃に夢中になってか、奥に奥に深入りする。
「成る程」
よくよく全体の陣地を見れば、蜀軍は袋の鼠だ。
東砦はくれてやり、退路を策で断っている。
仲達が手を上げた。
下ろした手の先には落石。蜀軍が次々に潰されていく。
仲達が高みに立った。こちらの高台からも見える。
また手を挙げる。下ろした先は矢の雨。
深く誘い、退いて一気に叩く。
「何とも仲達らしい戦だ」
我が軍師の策が煌めく。
仲達の策は確実で、したたかだ。
「曹丕殿、蜀軍に怪しい動きありとのこと」
下段より斥候が私に報告する。
「その報せ、仲達にも届いているか?」
「間もなく司馬懿殿の元にも斥候が到着するかと」
ただの直感だが、嫌な予感がする。
「間もなくでは遅い。直ぐに行け」
「はっ!」
刹那。
場の空気が変わった。
胸騒ぎがして高台より、前線を見た。
「…っ後ろだ、仲達!」
我が軍の格好をして、我が軍のふりをした敵軍が紛れている。
我が軍のなりをしているが、その者は高台から軍を指揮している仲達を背後から斬りかかろうとしていた。
「くっ…気付かぬか。馬を引け!
私が出る。200はついて来い。残りは待機せよ」
高台からそのまま飛び降り、兵に連れられた白馬に乗った。
走れ。
間に合え。
弓を番えた。
ただ目の前の光景を否定するために。
敵となったその兵の頭を撃ち抜く。
通りすがりに肩を斬られた気がするが気にも留めなかった。
鮮血が散った。
間に合わない。
仲達の体は背後から腹部を槍で貫かれている。
腹部を紅く染め高台から崩れる体を、馬を合わせて拾い抱き留めた。
「すまぬ…間に合わなかったか」
「っ…何故、此処に…本陣から、出る、なとあれ程…」
「喋るな」
「いいえ、ま…だ役目が残って、います。子桓様は、本陣にお戻り、を」
喋る度に吐き出される血に、此処が戦場なのだと改めて思い知らされた。
「西方より敵の増援!」
声高々に伝令が背後で報告するのを聞いた。
早々に仲達を連れこのまま本陣に退きたいのだが、仲達の目はそれを許してはいない。
『まだ戦える』
そう言っていた。
此処は戦場。
私情を挟むのは禁物。
此処は私が堪えるべきと心得る。
仲達の血で染まった手を握り、目を閉じ覚悟した。
「…私は今からお前の声、お前の手足となろう。指示を出せ」
「なれ、ば、暫しお付き合い願います」
馬で駆け、自軍の陣地まで後退した。
自分の服を破り、仲達の傷口を抑える。私の服にも仲達の血が滲む。
「剣をお挙げ下さ、い」
仲達の指示で私が高台まで馬を走らせる。
全軍に見えるように片手で剣を挙げた。
西方からの敵の増援に、潜ませていた我が軍の伏兵が現れる。
「流石だな…」
仲達は私の腕の中でか細く息をしているが、まだここも安全ではない。
まだ敵の弓が届く範囲だ。
「先程の先兵。あれはお前の軍に紛れていた蜀軍の兵士だ」
「…成る程、諸葛亮…やってくれ、る」
「後の始末は私に任せよ」
仲達を片腕で支える。
その片腕も斬りつけられていたが、痛みはなかった。
痛みよりも怒りが込み上げる。
「前線に赴く我が軍の将兵に告げる」
声を上げて、叫んだ。
「曹子桓より命ずる。我が軍に紛れて敵が潜んでいる。捜索し殲滅せよ」
信の厚い者達が真っ先に動いた。
私の言葉に動揺し、我先に逃げる者がある。
「見つけた」
弓を番えた。
今更になってか、肩口の傷が痛み上手く力が入らず照準がぶれる。
「…っ」
力を入れれば血が噴き出す。その腕を仲達が支えた。
「…あの者ですね」
矢を番える指に仲達が手を重ねた。
「あなたは、私が…支えます」
仲達の手を借りて、矢を放つ。矢は逃げる蜀兵を射抜いた。
伏兵が敵の増援を殲滅していく。蜀軍の挟撃の構えは崩れた。
「…傷をお見せ下さい」
「お前の方が重傷であろうが」
「痛みは過ぎました…少しなら、話せます」
本陣まで退いて、ようやく幕舎に入った。
「後の指揮は私が取る」
「いいえ、直ぐに戻ります」
「仲達」
「子桓様の傷をお見せ下さい」
仲達は応急処置もそこそこに、私の元へ駆け寄った。
咎めるように字を呼ぶ私に見向きもしない。
目の前の戦のことしか見えていないのだろう。
帷子を外し、斬られた腕を見せた。
仲達が流れた血を口に含む。傷口を吸い、血を吐き出す。
「…申し訳ありません。私が至らぬばかりにあなた様に傷を」
「いや、お前の背中は守ると言っておきながら…お前を傷つけてしまったのは私の責任だ。
この傷は約束を違え本陣を出た私の不始末。お前が気にすることではない」
肩口の傷の止血が終わり、他の傷にも手際よく包帯が巻かれていく。
「私は前線に戻ります」
「待て」
「何です」
「その傷で指揮を取るつもりか」
「この程度の傷、堪えられます」
応急処置はしてあるが、背後から腹部を貫かれている体だ。
個人的な感情が過ぎった。
「軍師とは、腕がちぎれようとも脚がもげようとも…最期まで知略を奮い口がまわればそれで良いのです」
「…この戦の主はお前だ。総大将としてそれは認めよう」
仲達の淡々とした物言いが私の心を痛めつける。
「…戦とは自軍に勢いがあれば勢いに乗り、勝てる見込みあれば勝つ。勝てないと見込むならば退く。それが戦。お前に習ったものだ」
「はい。この戦はこちらに分があります」
「…総大将としてのお前の行動は正しい。だがな」
訝しく聞く仲達を、背中から抱き留めた。
「だが、な…」
私の心情はざわつくばかりだ。
もう行くな、と言う意味合いをこめて強く抱きしめた。
「…前線にてあなた様が見えた時、私は既に斬られておりました。あのまま戦場に墜ちれば、私は殺されていたでしょう。
それを救って下さったのは子桓様。
…ですが、結果としてあなた様にも傷を負わせてしまったのは私の不始末。
私は総大将として、主君であるあなた様の御命も預かっております。故に、軍令には従っていただきたく…」
肩にまわす腕に触れて、目を閉じ仲達は言った。
確かに私は本陣を出るなという約束を違えた。心情を察しろと言うのが我が儘だと自分でも解っている。
「…正論だ。すまなかったな…」
肩にまわす腕を外した。
そのまま離れるかと思ったのだが、仲達は振り返り私の腕の中に自ら収まった。
「…仲達?」
「…ごめんなさい。私とて子桓様の心情を察していない訳ではないのです」
仲達が私の肩口の傷を手で摩った。
下から私を見上げて眉を寄せている。
「私が傷つけば、あなた様が私以上に傷ついてしまう」
私の傷ついた腕を摩りながら呟いた。
「…正論を論ずることで自分を抑えていました…私も子桓様と同じなのです。
あなた様が傷ついてからの私は、些か平静を欠いています…」
私を見上げて話す。
仲達も私の身を案じていた事が解り、少し心が落ち着いた。
「もう行かなければ」
「ひとつ頼みたい」
帷子を装備し直し、剣を取る。
「私を使え、仲達」
傷口を抑えながら、軍装を整える仲達に言う。
ほおっておけない。それが本心だ。
「子桓様を使う、などと」
「私の傷は大したことはない。良いか。お前の身を私に守らせろ」
「それは…」
「命令だ、と言えば従うか?」
「…狡いです…それでは私は断れませぬ…」
「良いのだな?」
「我が儘な方」
幕舎を出た。
馬に跨がる仲達の隣に、馬に乗り並走する。
「私から離れませぬように」
「願ってもない」
高台に上り、戦場を見た。
敵陣地に諸葛亮が見える。
「…私の知略を、御覧いただく」
「ああ、お前は私が守ってやる」
「では、私はあなた様に勝利を差し上げましょう」
仲達が指揮を再開した。
軍の雰囲気が変わる。
仲達を案じながら、私は戦場を見下した。