前線に出る。
仲達の策と諸葛亮の策は互いに一歩も譲らない。
しばらくの交戦後、蜀軍が隊列を成した。仲達が軍を制し、こちらも隊列を組む。
我が軍と蜀軍が対立し、屹立する。
我が軍の中央には仲達、蜀軍の中央には諸葛亮がいた。
私は少し後ろから様子を見ている。
直ぐにでも弓が届く距離なのが気になった。
真正面からの対峙。
長年、策を競いあった二人の軍師が対立する。
諸葛亮の策により、仲達の体は深手を負っている。
それを感じさせぬよう仲達は騎乗し、正面を見つめた。
私は今、それを見守ることしか出来ない。
「久しぶりですね、司馬懿」
「いい加減に諦めたらどうだ、諸葛亮」
お互いに冷めた瞳で語る。
その間には殺気が渦巻いている。
「流石は司馬懿。よく私の策を見破りましたね」
諸葛亮は羽扇を扇ぎ、口元に当てた。
「…一つだけ、見抜けなかったようですね」
「あれしきの策ごときで勝ったつもりか。片腹痛いわ」
仲達の口調は強気だが、実際は立っているだけでも辛いはず。
馬を進めて仲達の隣に侍る。
「!、まさか…あなたまで前線にいらっしゃるとは…これは計算外ですね」
「それ程に父が本気だと言う事だ、諸葛亮」
「逆にあなたさえ討てば我が軍にとっては非常に有益なのですが」
「貴様にそれが」
「私がそれを許すと思うてか」
前線に出ることで諸葛亮に私の存在を示した。
諸葛亮と対話する間に、仲達が割って入る。
私の発言を遮ってまで発言する。
その顔には聞き捨てならない、と書いてある。
「あなたが一人の人を慕うなんて珍しいですね」
「お前も劉備を想うなら退いたらどうだ」
「そうですね。それもいいでしょう」
「何?」
諸葛亮がさらりと言った発言に仲達が不快感をあらわにする。
「こちらは遠征の身。我が軍もあなたの策で相当痛手を被りました。それに」
諸葛亮が私を見てから背中を向けた。
「曹丕殿を想うあなたの気持ちに応えましょう」
「…何を考えている」
「何も」
そのまま蜀軍は踵を返し退いて行く。
背中を向けた諸葛亮が一人残った。
「今なら私を殺せますよ、司馬懿」
諸葛亮が挑発する。
仲達は追撃に逸る我が軍を手で制した。
「お前の主君を想う気持ちに応えてやる」
仲達は追わない意思を示した。
何より漢中は蜀軍を撤退させることが目的の戦だ。
深追いは無用の戦。諸葛亮の背中には、この先に策があると確信させた。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃありませんよ」
諸葛亮が横顔だけで振り返る。
「今度会う時は、私があなたの瞳を閉じて差し上げましょう」
諸葛亮が退き、前方の蜀軍に合流せんと馬で駆けていく。
蜀軍は遠く、小さく景色に消えた。
「…追わぬのか、仲達」
隣に馬を寄せた。
仲達は前を見つめていた。
馬の足元を見ると血だまりが出来ていた。
刹那、仲達の姿勢がふっ、と前にふらつく。
それに気付き腕で支えた。
そのまま昏倒する体を支える。
体は熱く、熱を持っていた。見れば腹部が紅く染まっている。
「…よく、堪えた」
気力ひとつで堪えていたのだろう。
仲達の冠を脱がし、頭を撫でてやった。
そのまま馬から下ろし、体を引き寄せ、私の前に座らせた。
仲達の意識は混濁していて手綱を握る力もない。虚ろな瞳で私を見上げた。
「…この戦はお前の、そして我が軍の勝利だ」
勝鬨が上がる。
仲達は満足したように笑い、疲れたように瞳を閉じた。
全軍を動かす。追撃には向かわせない。幾つかの部隊を配置し、本陣に撤退する。
軍を動揺させぬよう仲達を私の外套で包む。白い外套は直ぐに紅く染まった。
「…私の前で本当に、無茶をしおって」
「申し訳…ありま、せん…」
「喋るな。後で叱ってやる」
本陣に到着する。
馬から下り、仲達を横に抱き上げた。
歩く度に、血が流れて落ちた。
直ぐに処置をしなければ間に合わないと判断し、軍医を呼んだ。
幕舎に入り、仲達の服を斬り落とした。丁寧に脱がしている時間はない。
直ぐに処置に取り掛からせた。
仲達は一言も発することなく、唇を噛み苦痛に堪えている。
見るに見兼ねてその手を握ると仲達は瞳を開けず、私に話した。
「全軍を、子桓様にお任せします…漢中軍はこの地に駐屯、遠征軍は許昌への帰還準備を」
「わかった。直ぐに戻る」
紅く染まったその手を握りしめ、額に口づけてから幕舎を後にした。
「曹丕殿、司馬懿殿は…」
「思わしくない」
張コウが幕舎の前にいた。その他の将軍も揃っていた。
「仲達に代わり私が指揮を取る。負傷者の手当をし、漢中部隊は引き続き漢中に陣を張り敵軍に備えよ」
「御意!」
「遠征軍は帰還する。漢中部隊の負傷者も連れ帰る。支度をせよ」
「はっ!」
各将軍が指示通りに動き散会した。
ただ一人張コウを除いて。
「お前も行かぬか」
「大丈夫ですか?」
「仲達なら任せてある。私も直ぐに戻るが」
「司馬懿殿もですが…曹丕殿が、です」
「私は大丈夫だ」
「そのように泣いておられるのに、ですか?」
「何?」
自分の顔に触れた。
いつの間にか頬が濡れていたことに張コウに言われて気付いた。
「…まだ私も、こんなものが出るのだな」
「私よりお願いがございます」
「何だ」
顔を拭いて、向き直る。
「余り無理をされませぬよう」
「気持ちだけ貰っておく」
「司馬懿殿なら大丈夫ですよ。あの方はいつだって強い方ですから。余り御自分を攻めないで下さいね」
「ああ…すまん」
「いいえ。では帰る支度をしましょう。司馬懿殿の分もやっておきますね」
「張コウ」
「はい」
「礼を言う」
「お安い御用です。では」
一礼をして張コウは軽やかに持ち場に走って行った。
変わり者だがよく気が付くいい将だ。
人が駆ける音が聞こえた。
後ろから伝令兵に話し掛けられる。
「曹丕殿、司馬懿殿の処置が終わりました」
振り返り、仲達のいる幕舎を見た。
「そうか。あれは何か言っていたか?」
「処置中は一言も発さず堪えておられました。処置が終わりました際に、一言申されておりました」
「申せ」
「『どうか曹丕殿を』と。故に、お呼び致した次第でございます」
「そうか。御苦労であった」
伝令兵は去って行く。
踵を返し幕舎に向かって歩いていたが、気付けば走っていた。
入口の前に立つ。
「私だ。入ってもよいか」
「お待ちしておりました」
軍医が幕舎の入口を開けた。
中に入ると、服を軽装に着替えさせられて横になっている仲達が見えた。
「あれの具合はどうだ」
「縫合は無事に終えました。今は多少熱があります。出血が酷かったので暫くの静養が必要かと。
なるべく馬にも乗られませぬよう。傷口に響きます」
「そうか。命の危険はないのだな…」
「水が飲めるようになれば一先ず安心出来ます」
とりあえず、安堵する。
仲達の横に椅子を立てて座った。
血の気のない白い顔をして、瞳は閉じられている。
「曹丕殿、どうかそのまま鎧をお外し下さい」
「何故だ」
「あなた様も傷を負っておられるのでしょう。意識が混濁しておられる中、司馬懿殿がおっしゃっておりました」
「全く、仲達…」
お前はそれどころではないだろうに。
『どうか曹丕殿を』の言葉の意味を理解した。
仲達は自分より私を優先する性格だ。故に危うい。
鎧を脱ぎ、肩を出した。軍医が処置を施していく。
仲達の手を握りしめると、熱が通っていて生きていることを実感した。
「暫く、残らねばならぬか」
「2~3日はまず無理です。後は司馬懿殿次第ですが、余り無理をされますと傷口が開きます」
「しかと私が見張っていよう」
「司馬懿殿を押し止められるのはあなた様以外におりますまい。
処置が終わりました。曹丕殿も余り腕に負担をかけぬようにして下さい」
「わかった」
服を着直し、更に鎧を外した。
「すまぬが、暫し二人にしてくれぬか」
「御意」
軍医が器具を片付けて幕舎を出て行った。
礼を言い、椅子に座った。
「…お前をひとり置いては行けぬな」
仲達の額に触れると、薄くぼんやりと瞳を開けた。
「気がついたか?」
「…指揮は…」
「私が既に采配済みだ。張コウがお前の分も上手くやってくれている。
後程、張コウに礼を言うがいい。お前を気にかけていた」
「そうですか…。子桓様のお怪我は…?」
「処置は終わった。大事ない」
「それは良うございました…本当に申し訳ありません。私がほんの一時油断したばかりに子桓様に」
「もう良い。この傷ひとつでお前を救えたのなら安いものだ」
「…申し訳ありません」
謝罪の言葉を繰り返す仲達に叱る気持ちが少し失せた。
もっと自分を大切にしろ、とか色々言いたかったのだが恐らくは聞くまい。
なので釘を刺すことにした。
「2~3日ほど静養し、馬に乗れるようになれば帰還出来よう」
「左様で…では子桓様はお先に御帰還なされるのですね」
「そのことだが、私も残る事にした」
「え…?一体何故です」
「軍師が負傷したままでは全軍の指揮にも影響が出よう。足手まといだ」
『足手まとい』はわざと言った。
案の定、落ち込んだ顔をして目をつむり顔を私から背けた。
「申し訳ありません…私が至らぬばかりに…」
視線を逸らした瞳が濡れている。
ああ、泣かせるつもりはなかったのだが。本気でとらえおって。
「最後まで聞かぬか」
「まだ、何か」
「だから、私がお前を支えてやる。私がお前を護ってやると言うのだ」
「なりませぬ」
顔を背けたまま、仲達は即答した。
訝しく顔を覗けば、まだ眉間にしわを寄せていた。
「あなた様は魏の公子、私はあなたの軍師。
私達は主従です。主を護るのは従者の勤め。それを逆転させては…示しが付きませぬ…」
「まだそんなことを気にしているのか。ならばこうしよう。命令だ仲達」
「…っ、少しは私の意見もお聞き下さいっ」
咄嗟に振り返り体を起こした仲達だったが、直ぐにその場にうずくまった。
「馬鹿者。まだ起き上がれる体では」
直ぐ傍に座り、背中を撫でた。
声を絞るように、仲達が俯いたまま言った。
「…ほんの少しでも、私はあなた様のお役に立ちたいのです。
…私を軍師として侍られるのでしたら左様に。
いくら傷を負ったとて子桓様の軍師は私なのだと、…あなた様の横に立ちたいのです。
私はあなた様の従者として、武器として盾としてお護りしたい」
仲達の訴えに心が揺れた。
同時に愛しくも思った。そして悲しくも思った。
「安心しろ仲達。お前の帰る場所はいつでもここだ。そしてお前を護るのは私の務めだ」
背中から包むように腕をまわし抱きしめた。
その腕に縋るように仲達は頬を寄せた。
「私の軍師はお前だけだ。私はお前がいるからわざわざ漢中まで迎えに来たのだぞ」
「はい…」
「…お前が私の主であれば、良かったのだ」
「そのようなこと…」
「そうだとしたら、私は身分を気にせずお前を護れると言うのに」
仲達が顔を上げた。
私の腕の中で振り返り肩を寄せた。
「畏れながら…今回は子桓様に護っていただきました」
仲達が私の肩口の傷に触れた。
そこを摩るようにして、私の顔に触れた。
「御礼をしとうございます」
「何だ」
「目を」
瞼に触れられ、閉じられる。
頬を両手で包みこまれ、唇が合わさる。
その腰を引き寄せ、首を捕まえて離れる唇を更に引き寄せ深いものにした。
「…このままお前を抱けぬのが口惜しいが、これで我慢してやる」
余韻にひたる間もなく、仲達を床に寝かせた。
手に触れればまだ熱い。
「お前からの礼は受け取った」
まだ全軍への指示が残っている。
口惜しいが本陣にまた戻らねばならない。
「…続きは、子桓様のお部屋で…して下さいませ」
「…今のは故意に誘ったな?」
「もう言いませんからね」
「ふっ、覚悟しておけ。ではな」
幕舎を出て口に手をやる。
私も顔が熱い。