相愛 後編そうあい こうへん

前線に出る。



仲達の策と諸葛亮の策は互いに一歩も譲らない。
しばらくの交戦後、蜀軍が隊列を成した。仲達が軍を制し、こちらも隊列を組む。

我が軍と蜀軍が対立し、屹立する。
我が軍の中央には仲達、蜀軍の中央には諸葛亮がいた。

私は少し後ろから様子を見ている。
直ぐにでも弓が届く距離なのが気になった。

真正面からの対峙。
長年、策を競いあった二人の軍師が対立する。

諸葛亮の策により、仲達の体は深手を負っている。
それを感じさせぬよう仲達は騎乗し、正面を見つめた。



私は今、それを見守ることしか出来ない。





「久しぶりですね、司馬懿」
「いい加減に諦めたらどうだ、諸葛亮」

お互いに冷めた瞳で語る。
その間には殺気が渦巻いている。

「流石は司馬懿。よく私の策を見破りましたね」

諸葛亮は羽扇を扇ぎ、口元に当てた。

「…一つだけ、見抜けなかったようですね」
「あれしきの策ごときで勝ったつもりか。片腹痛いわ」

仲達の口調は強気だが、実際は立っているだけでも辛いはず。
馬を進めて仲達の隣に侍る。

「!、まさか…あなたまで前線にいらっしゃるとは…これは計算外ですね」
「それ程に父が本気だと言う事だ、諸葛亮」
「逆にあなたさえ討てば我が軍にとっては非常に有益なのですが」
「貴様にそれが」
「私がそれを許すと思うてか」

前線に出ることで諸葛亮に私の存在を示した。
諸葛亮と対話する間に、仲達が割って入る。
私の発言を遮ってまで発言する。
その顔には聞き捨てならない、と書いてある。

「あなたが一人の人を慕うなんて珍しいですね」
「お前も劉備を想うなら退いたらどうだ」
「そうですね。それもいいでしょう」
「何?」

諸葛亮がさらりと言った発言に仲達が不快感をあらわにする。

「こちらは遠征の身。我が軍もあなたの策で相当痛手を被りました。それに」

諸葛亮が私を見てから背中を向けた。

「曹丕殿を想うあなたの気持ちに応えましょう」
「…何を考えている」
「何も」

そのまま蜀軍は踵を返し退いて行く。
背中を向けた諸葛亮が一人残った。




「今なら私を殺せますよ、司馬懿」

諸葛亮が挑発する。
仲達は追撃に逸る我が軍を手で制した。

「お前の主君を想う気持ちに応えてやる」

仲達は追わない意思を示した。
何より漢中は蜀軍を撤退させることが目的の戦だ。
深追いは無用の戦。諸葛亮の背中には、この先に策があると確信させた。

「あなたのそういうところ、嫌いじゃありませんよ」

諸葛亮が横顔だけで振り返る。

「今度会う時は、私があなたの瞳を閉じて差し上げましょう」

諸葛亮が退き、前方の蜀軍に合流せんと馬で駆けていく。
蜀軍は遠く、小さく景色に消えた。









「…追わぬのか、仲達」

隣に馬を寄せた。
仲達は前を見つめていた。




馬の足元を見ると血だまりが出来ていた。



刹那、仲達の姿勢がふっ、と前にふらつく。
それに気付き腕で支えた。

そのまま昏倒する体を支える。
体は熱く、熱を持っていた。見れば腹部が紅く染まっている。

「…よく、堪えた」

気力ひとつで堪えていたのだろう。
仲達の冠を脱がし、頭を撫でてやった。
そのまま馬から下ろし、体を引き寄せ、私の前に座らせた。
仲達の意識は混濁していて手綱を握る力もない。虚ろな瞳で私を見上げた。




「…この戦はお前の、そして我が軍の勝利だ」

勝鬨が上がる。
仲達は満足したように笑い、疲れたように瞳を閉じた。

全軍を動かす。追撃には向かわせない。幾つかの部隊を配置し、本陣に撤退する。
軍を動揺させぬよう仲達を私の外套で包む。白い外套は直ぐに紅く染まった。

「…私の前で本当に、無茶をしおって」
「申し訳…ありま、せん…」
「喋るな。後で叱ってやる」

本陣に到着する。
馬から下り、仲達を横に抱き上げた。

歩く度に、血が流れて落ちた。
直ぐに処置をしなければ間に合わないと判断し、軍医を呼んだ。

幕舎に入り、仲達の服を斬り落とした。丁寧に脱がしている時間はない。
直ぐに処置に取り掛からせた。

仲達は一言も発することなく、唇を噛み苦痛に堪えている。
見るに見兼ねてその手を握ると仲達は瞳を開けず、私に話した。

「全軍を、子桓様にお任せします…漢中軍はこの地に駐屯、遠征軍は許昌への帰還準備を」
「わかった。直ぐに戻る」

紅く染まったその手を握りしめ、額に口づけてから幕舎を後にした。





「曹丕殿、司馬懿殿は…」
「思わしくない」

張コウが幕舎の前にいた。その他の将軍も揃っていた。

「仲達に代わり私が指揮を取る。負傷者の手当をし、漢中部隊は引き続き漢中に陣を張り敵軍に備えよ」
「御意!」
「遠征軍は帰還する。漢中部隊の負傷者も連れ帰る。支度をせよ」
「はっ!」

各将軍が指示通りに動き散会した。
ただ一人張コウを除いて。

「お前も行かぬか」
「大丈夫ですか?」
「仲達なら任せてある。私も直ぐに戻るが」
「司馬懿殿もですが…曹丕殿が、です」
「私は大丈夫だ」
「そのように泣いておられるのに、ですか?」
「何?」

自分の顔に触れた。
いつの間にか頬が濡れていたことに張コウに言われて気付いた。

「…まだ私も、こんなものが出るのだな」
「私よりお願いがございます」
「何だ」

顔を拭いて、向き直る。

「余り無理をされませぬよう」
「気持ちだけ貰っておく」
「司馬懿殿なら大丈夫ですよ。あの方はいつだって強い方ですから。余り御自分を攻めないで下さいね」
「ああ…すまん」
「いいえ。では帰る支度をしましょう。司馬懿殿の分もやっておきますね」
「張コウ」
「はい」
「礼を言う」
「お安い御用です。では」

一礼をして張コウは軽やかに持ち場に走って行った。
変わり者だがよく気が付くいい将だ。



人が駆ける音が聞こえた。
後ろから伝令兵に話し掛けられる。

「曹丕殿、司馬懿殿の処置が終わりました」

振り返り、仲達のいる幕舎を見た。

「そうか。あれは何か言っていたか?」
「処置中は一言も発さず堪えておられました。処置が終わりました際に、一言申されておりました」
「申せ」
「『どうか曹丕殿を』と。故に、お呼び致した次第でございます」
「そうか。御苦労であった」

伝令兵は去って行く。
踵を返し幕舎に向かって歩いていたが、気付けば走っていた。




入口の前に立つ。

「私だ。入ってもよいか」
「お待ちしておりました」

軍医が幕舎の入口を開けた。
中に入ると、服を軽装に着替えさせられて横になっている仲達が見えた。

「あれの具合はどうだ」
「縫合は無事に終えました。今は多少熱があります。出血が酷かったので暫くの静養が必要かと。
なるべく馬にも乗られませぬよう。傷口に響きます」
「そうか。命の危険はないのだな…」
「水が飲めるようになれば一先ず安心出来ます」

とりあえず、安堵する。

仲達の横に椅子を立てて座った。
血の気のない白い顔をして、瞳は閉じられている。

「曹丕殿、どうかそのまま鎧をお外し下さい」
「何故だ」
「あなた様も傷を負っておられるのでしょう。意識が混濁しておられる中、司馬懿殿がおっしゃっておりました」
「全く、仲達…」


お前はそれどころではないだろうに。

『どうか曹丕殿を』の言葉の意味を理解した。
仲達は自分より私を優先する性格だ。故に危うい。

鎧を脱ぎ、肩を出した。軍医が処置を施していく。
仲達の手を握りしめると、熱が通っていて生きていることを実感した。

「暫く、残らねばならぬか」
「2~3日はまず無理です。後は司馬懿殿次第ですが、余り無理をされますと傷口が開きます」
「しかと私が見張っていよう」
「司馬懿殿を押し止められるのはあなた様以外におりますまい。
処置が終わりました。曹丕殿も余り腕に負担をかけぬようにして下さい」
「わかった」

服を着直し、更に鎧を外した。

「すまぬが、暫し二人にしてくれぬか」
「御意」

軍医が器具を片付けて幕舎を出て行った。
礼を言い、椅子に座った。








「…お前をひとり置いては行けぬな」

仲達の額に触れると、薄くぼんやりと瞳を開けた。

「気がついたか?」
「…指揮は…」
「私が既に采配済みだ。張コウがお前の分も上手くやってくれている。
後程、張コウに礼を言うがいい。お前を気にかけていた」
「そうですか…。子桓様のお怪我は…?」
「処置は終わった。大事ない」
「それは良うございました…本当に申し訳ありません。私がほんの一時油断したばかりに子桓様に」
「もう良い。この傷ひとつでお前を救えたのなら安いものだ」
「…申し訳ありません」

謝罪の言葉を繰り返す仲達に叱る気持ちが少し失せた。
もっと自分を大切にしろ、とか色々言いたかったのだが恐らくは聞くまい。

なので釘を刺すことにした。

「2~3日ほど静養し、馬に乗れるようになれば帰還出来よう」
「左様で…では子桓様はお先に御帰還なされるのですね」
「そのことだが、私も残る事にした」
「え…?一体何故です」
「軍師が負傷したままでは全軍の指揮にも影響が出よう。足手まといだ」

『足手まとい』はわざと言った。
案の定、落ち込んだ顔をして目をつむり顔を私から背けた。

「申し訳ありません…私が至らぬばかりに…」

視線を逸らした瞳が濡れている。
ああ、泣かせるつもりはなかったのだが。本気でとらえおって。

「最後まで聞かぬか」
「まだ、何か」
「だから、私がお前を支えてやる。私がお前を護ってやると言うのだ」
「なりませぬ」

顔を背けたまま、仲達は即答した。
訝しく顔を覗けば、まだ眉間にしわを寄せていた。

「あなた様は魏の公子、私はあなたの軍師。
私達は主従です。主を護るのは従者の勤め。それを逆転させては…示しが付きませぬ…」
「まだそんなことを気にしているのか。ならばこうしよう。命令だ仲達」
「…っ、少しは私の意見もお聞き下さいっ」

咄嗟に振り返り体を起こした仲達だったが、直ぐにその場にうずくまった。

「馬鹿者。まだ起き上がれる体では」

直ぐ傍に座り、背中を撫でた。
声を絞るように、仲達が俯いたまま言った。

「…ほんの少しでも、私はあなた様のお役に立ちたいのです。
…私を軍師として侍られるのでしたら左様に。
いくら傷を負ったとて子桓様の軍師は私なのだと、…あなた様の横に立ちたいのです。
私はあなた様の従者として、武器として盾としてお護りしたい」



仲達の訴えに心が揺れた。
同時に愛しくも思った。そして悲しくも思った。



「安心しろ仲達。お前の帰る場所はいつでもここだ。そしてお前を護るのは私の務めだ」

背中から包むように腕をまわし抱きしめた。
その腕に縋るように仲達は頬を寄せた。

「私の軍師はお前だけだ。私はお前がいるからわざわざ漢中まで迎えに来たのだぞ」
「はい…」
「…お前が私の主であれば、良かったのだ」
「そのようなこと…」
「そうだとしたら、私は身分を気にせずお前を護れると言うのに」

仲達が顔を上げた。
私の腕の中で振り返り肩を寄せた。



「畏れながら…今回は子桓様に護っていただきました」

仲達が私の肩口の傷に触れた。
そこを摩るようにして、私の顔に触れた。




「御礼をしとうございます」
「何だ」
「目を」

瞼に触れられ、閉じられる。
頬を両手で包みこまれ、唇が合わさる。
その腰を引き寄せ、首を捕まえて離れる唇を更に引き寄せ深いものにした。

「…このままお前を抱けぬのが口惜しいが、これで我慢してやる」

余韻にひたる間もなく、仲達を床に寝かせた。
手に触れればまだ熱い。

「お前からの礼は受け取った」

まだ全軍への指示が残っている。
口惜しいが本陣にまた戻らねばならない。

「…続きは、子桓様のお部屋で…して下さいませ」
「…今のは故意に誘ったな?」
「もう言いませんからね」
「ふっ、覚悟しておけ。ではな」

幕舎を出て口に手をやる。








私も顔が熱い。


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