そば

『兄上、出陣されるのか』
『お久しぶりでございます、曹昂様』
『ああ、子桓。それに司馬懿先生。
 そうだ父上の供としてな。戦になる。私に何かあったらお前が』
『そのようなこと、発たれる前から言わないでいただきたい』
『そうか、いやすまん子桓。
 私がいなくとも教育係の司馬懿先生の言うことをよく聞くのだぞ』
『こ、子供扱いしないでいただきたい』
『子桓様のことはお任せくださいませ。何卒、御武運を』
『ははは。では行って来る。
 子桓をよろしく頼む司馬懿先生。達者でな、子桓』
『御武運を、兄上』







ぼんやりと、目を開けた。
見慣れた自分の部屋の天蓋。

久しぶりに見た兄上の夢。
あれから兄上は二度と帰っては来なかった。
もう何年経つだろうか。

横を見れば、私の腕の中で眠る仲達がいる。
あの『司馬懿先生』だ。
昨夜はいろいろ無理をさせてしまった。
額に手を当てれば、少し体温が高い。微熱気味だ。
まだ眠っている。

兄上に『司馬懿先生』なんて言われていた頃から、仲達は私と供にいた。
幼い頃から、戦場まで。振り向けば、お前がいた。

昨夜も、あのような体で休めばいいものを…供に酒宴に来てくれた。
顔色が悪いとは気付いていたが、回廊で倒れる仲達を見つけた時は肝を冷やした。
全く…無理をするなと言ったのに聞かないやつだ。

後継を巡って、周りが騒がしい。
その争いに仲達を巻き込んでしまった。一番傷つけたくない者だ。
嫡子は私と決まっているが、私は父に愛されていない。

「…父に愛されなくてもよい。お前に愛されるのなら」

額に口付けると、切れ長の瞳が私を捉えた。
まだ瞳は虚ろだ。

「子桓、さま」
「ああ、起こしてしまったか。すまぬ」
「いいえ、そろそろ起きなくては…」
「いや。お前は今日は休め」
「ですが、執務がありますゆえ」
「熱がある。それにそのような体で私は執務に行って欲しくないのだが」
「ぅ…、承知しました」

腰が立たぬ体でまた無理をしようとする仲達を無理矢理寝かせる。
昨夜のことを思い出したのか、少し顔が赤い。
寝台から下りて、服を着替えた。

「お前の家には連絡してある。
 だが、せっかくだ。今日は私の部屋で寝ているがいい。
 今から帰るのも辛かろう。私は隣の執務室にいよう」
「…何から何まで頭が上がりませぬ。申し訳ありません」
「良い。お前だからな」
「御髪を」
「ああ、頼もう」

寝台に座り、仲達に櫛を渡す。細い手が私の髪をといていく。
心地よい時間だ。

「先ほどのお言葉」
「ん…何だ」
「お父君に愛されなくてもよい、と」
「ああ、独り言だ。」

どうやら聞かれていたらしい。
髪をとかしながら、肩ごしに話す。

「子桓様は、ちゃんとお父君に愛されておいでですよ」
「何故、そう言える。私には」
「…不器用な親子ですね。私にはそう見えます」
「私はお前に愛されているなら、それで良い」
「昨夜、あなたの話をしていた殿の目はとても嬉しそうな父親の目でした」
「…そうか」
「あなたはちゃんと愛されておいでです」
「そうか。なら少しはそう思うことにしよう」
「あと、私も」
「それは知っている」

髪を結ってもらい、仲達に振り向く。
熱に浮かされた顔は少しほてっていて赤かったが、私に向けられる瞳はいつも優しかった。
頬を寄せ、摺り寄せた。やはり熱い。

「お前の傍にいよう。安心して眠れ」
「はい…子桓様」
「何かあれば、呼べ」

寝台に寝かせて、額に口付けを落とした。
仲達が眠るのを見届けてから、隣の執務室へ移動する。

適当に朝食を食べて、執務に取り掛かる。
判を押すものから、意見を求めるものまで書簡が詰まれている。
今もまた新しく書簡が文官によって届けられた。

「書簡をお持ちしました」
「ああ、そこに。あと本日、仲達は休みだ。仲達の仕事も私の部屋に運ぶように」
「はっ、しかしよろしいので…」
「構わぬ。頼んだぞ」
「承知しました」
「御苦労だった」

書簡に筆を走らせながら、文官に言い放つ。
間も無く書簡が運ばれてきた。これは仲達のだ。

「曹丕、いるか。入るぞ」
「どうぞ」

叔父上の声がしたので、筆を止めて扉を開けた。
夏侯惇だ。特に書簡を持っている訳でもない。通りすがりだろう。

「何か用か、叔父上」
「いや。昨夜はいい宴だったな曹丕。
孟徳がお前のことを褒めていたぞ。それとな、司馬懿のこともだ」
「はぁ。…仲達が何か?」

扉に体を預け、手持ち無沙汰に話す。
懸念していると聞く仲達を父が褒めるとは意外だ。

「今日は休みだと聞いたが。それを聞いて孟徳がやはりと言っていてな。
 配下の動きは手に取るようにわかるらしい。
 …子建の側近のことは、孟徳が咎めたそうだ。」
「…父にそこまで見透かされていたとは、恐れ入る」

先を越された。
しかし父の慧眼には恐れ入る。
まさか子建の側近の行動まで見透かされているとは恐ろしいものだ。

「ああ、全くだ。で、司馬懿は無事か?」
「昨夜そのまま連れ帰った。私の部屋で安静にしている。
 少し熱があるようなので、大事をとって休ませた」
「そうか。お前もたいがい司馬懿には甘いな」
「あなたもたいがい、父に甘い」
「まぁ、そう言うな」

仲達は、私にとってこの叔父上のようなもので。
お互いに良き主従を持ったと思う。

「一つ頼んでいいか、叔父上」
「おう、何だ珍しい」
「…父に、子桓から御礼の言伝を…『ありがとうございます』と」
「そうか、しっかり伝えておいてやろう。じゃあな」
「はい、では」

自分らしくない。
そう思いながら叔父上を見送り、扉を閉めた。
振り返ると仲達がいた。

「聞いていたのか」
「ええ、失礼ながら。さすがお父君ですね」
「全く。油断ならぬ」

仲達の額に手をやる。少し熱がひいているようだ。
髪を撫でてやると気持ちよさそうに目をつむった。

「次は、ちゃんと御自分の口で仰られたらいいのですけど」
「…今更、言えるものか」
「素直になられたら宜しいのに」
「お前の前でだけ、そうしていよう」
「ええ。私にだけ甘えてくださいませ」

仲達の肩を持って歩いた。
私の大切な、軍師で側近で。

「…あれは私の仕事では」
「今日はお前は休みだからな」

あとで何か食事を持ってこさせよう、と言って仲達を横に抱いた。
自分でも姫扱いしてる気がしないでもないが仲達ならば良い。

「傍にいよう」



大切な仲達の傍に。


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