近頃は私も仲達も、随分と忙しない。
顔を合わせようにも政務と執務に追われ私が引き止めれば留まりはすれどそれも僅かな一時である。
手を触れる事すらままならん。
仲達も避けているつもりはないのであろうが、互いに首が回らぬ忙しなさにすれ違っている。
もう七日だ。七日、手すら触れていない。
もはや堪えられん。
いっそ執務を投げ出してしまおうかとも思うものの、私が投げ出せば仲達が潰れる。
立場としても心持ちとしても、仲達は私の半身、片割れである。
思えば思うほど、離れれば離れるほど、恋仲である事を実感した。
本日も恙無くさても忙しなく、加えて随分と機嫌が悪い。
私はどうにかこの繁忙に区切りをつけて、執務室で一息を吐いていた。
眉間に皺を寄せている仲達にどうしたと話しかけてやれば、あと少しで終わるところだのに書簡が追加されたようだ。
といっても、たかが一巻である。
「仲達」
「は」
「これが終わったら、触れても良いか」
「…場所を弁えられませ」
「場所を弁えたら構わぬのだな?」
「時分を考えていただけますと」
「私は触れたいと言っただけだが、何処まで想像したのだか」
「っ」
「仲達」
そのような顔を見せられては触れずにいられない。
手首を引き、指を絡めて手を繋ぐ。
しっとりとした肌と細い指が私に絡んだ。
「未だ駄目だと申しました」
「触れるくらい許せ」
「あなたはそう言っていつも…」
「いつも、何だ」
「言いませんよ」
腰と首に手を回して抱き寄せる。
仲達の体温と匂いに落ち着き、首元で息を吸う。
嗅ぐなと仲達は眉間に皺を寄せたが、抵抗はされなかった。
心做しか、仲達が気を緩めたように思う。
「ほら、終わらせてしまえ。もうあとひとつだろう」
「は…」
「これが終わったら、父に進言してやる」
「何を仰るおつもりで」
「仲達といちゃつかせろと抗議してくる」
「お止め下さい。何を言われるか」
「なら、触れても良いのだな」
「…執務が滞りなく終わりましたら」
首に腕を回して抱き寄せる。
仲達は眉間にむっと皺を寄せていたが、振り払われはしない。
はぁと吐かれる溜息に随分と疲れているのだろうと一言労うと、小さく礼を取られた。
断られるかと思ったが、仲達にしては珍しい。
素直な物言いにどうしたのかと見下ろしていると、仲達もまた同じ思いを抱えていたのかと上がる体温で察した。
全くどうしてくれよう。私の仲達はこんなにも愛おしい。
「言ったな。言い逃れ出来ぬよう書き留めておくぞ」
「墨と書簡の無駄遣いです」
「では、此処に」
「…何てことを…」
書簡は駄目だと言われては仕方ない。
筆に墨を付け、仲達の右袖を捲り腕に名を書き留めた。
丕、と書いた。
「見えぬところに書いただろう」
「何故、名を書かれたのですか」
「字が良かったか」
「そういう問題ではありません」
「私のものだろう」
「…全く、もう」
そう言いながらも墨が乾いたのを見届けると、そっと袖を下ろしてほくそ笑んでいた事を見逃さなかった。
私は仲達が好きだと即答出来る。愛しているとも言葉にして伝える。
私は解りやすいと仲達が言うが、仲達とて解りやすい。
普段は素っ気ないが、私を好いて愛してくれているのだろうという事は一目見れば分かった。
二人で居ると、瞳が柔らかく微睡む。
きっと私も同じ瞳をしているだろう。
思わぬ微笑みに頬に口付けると、かっと頬を染められて執務室では止めて下さいと怒られた。
執務室でなければ良いのだなと言うと、直ぐにそうやって言葉尻を…と眉を顰める。
「誰に似たのだか」
「それはお前…、自覚がなさすぎるだろう」
「ほら、離れられませ。執務が終わりませぬ」
「む…」
手を解かれ、仲達は卓に戻り筆を取った。
程なくして終わるだろうが、正面に座り仲達の顔や仕草を見つめる。
肘を付き脚を組んで見つめていると、仲達が視線に気付いた。
これは口付けても良いと言いたげな瞳だ。
身を起こして唇に口付けると、仲達からは甘い香りがした。
無論、その後はきっちりと怒られた。
世が更けた頃に仲達は忍ぶように私の元を訪れた。
遅くなってしまった事を謝罪していたが、急いで来てくれた事は額や首筋を伝う汗で察する事が出来た。
「…仲達」
「約束は破らぬ方ですから」
「ふ…」
今宵は私も仲達も随分と疲れていた。
共に湯浴みをし、唇を唾んでいたが口付けだけで充分満たされていた。
湯に溶けて消えてしまった私の署名跡をなぞる。
相変わらず細い腕だ。手首など容易に掴めてしまう。
始終大人しく私に身を預けてくれる仲達を見れば不安も何もない。
皆の前では口にも態度にも出さぬが、今の仲達はただ、私の仲達であった。
仲達に髪を整えてもらい、仲達の髪は私が整えた。
短く切る度に私が怒っていたが、あなたが言えないでしょうと仲達も唇を尖らせていた。
薄着の寝間着で横になるだけで仲達は随分と妖艶なものだが、今宵は添い寝だけで精一杯だろう。
私も仲達も瞼が重い。
無論、抱きたいと言えば仲達は拒まぬだろう。
一応、仲達とて私を好いてくれた上で傍にいるのだから私を拒みはしない。
ただ、今日は二人とも溜息を吐くほどに疲労していた。
それでも傍に居たいと思うのは、互いに何の気遣いも必要としないからだ。
傍に居てくれるだけで落ち着く。
「…お疲れですね」
「ああ…」
「暫し休まれませ。執務は私が承りましょう」
「それは出来ん。お前に無理をさせてまで休もうとは思わない」
「…子桓様」
「…ああ、仲達」
ぽつりと字を呼ばれて、口元が緩む。
仲達が主従であるとの自覚を止めてくれた証だ。
寝台に二人きりで横になりながら、私の腕で仲達の頭を支えた。
頬を撫で、顎に手を添えて一度口付けると、私達はもう恋人だ。
肩を引き寄せて、空いた片手は頬を撫でる。
体温が移るほど密着して、互いの心音が響いている。
落ち着く。仲達とは元からひとつだったかのような安堵感がある。
仲達の温もりと安堵感にうつらうつらとしていたら、額に柔らかいものが触れる感覚に気付いて目を細めた。
仲達が額に口付けてくれた。
「…仲達」
「ほら、おやすみなさいませ」
「朝まで居てくれるのか」
「途中で抜け出してしまうやもしれませぬな」
「離さぬぞ」
「…どうせ、離してくれないでしょう」
「そうだな。諦めろ」
細い指が瞼に触れた。
そのまま腰に腕を回して引き寄せ胸に埋まる。
仲達の鼓動と体温と、良い香りに包まれた。
寝起きで頭が動いていないが、胸の中に感じる吐息と体温に身を抱き寄せて肩に埋まる。
言葉通り、仲達は居てくれた。
私の傍で気を抜いてくれるなら、その方が良い。
結局私は仲達に手は出さなかった。いつでも食ってやるとは言えど、仲達に拒まれたら立ち直る自信がない。
どうしてここまで愛してしまったのかと、寝顔すら美しい恋人を見下ろしながらほくそ笑む。
理由などない。ただ、仲達でなければ嫌だった。
最近は顰め面ばかり見てきた。
寝顔はそうでもない。健やかで綺麗で、相変わらず美人である。
睫毛が長くて、肌は白い。
見ていて飽きぬなと頬を撫でていたら、ふと仲達が笑った。起きているらしい。
互いに寝起きの挨拶をした後に、再び仲達を見つめ返した。
「飽きもせず、よくやるものです」
「好きだからな」
「…全く」
「お前は飽きたのか」
「まさか」
「ふ…」
寝起きだからか。仲達は特段に素直で、私への好意を隠しもしなかった。
たまにしか言葉にしてくれぬ為、この言葉は貴重だ。
仲達から自然に出た言葉だからこそ、深々と幸せが染みる。
「もう」
「否」
言葉が少なくとも仲達には通じる。
未だ身を起こすには早すぎる刻限だ。
もう起きるのかと仲達は問うたが、暫しこのままで良いと肩を引き寄せた。
我等には、長く連れ添った夫婦のような安堵感がある。
頬に唇を寄せると、拒まれず目を細めて受け入れてくれた。
仲達は眠いのか余り動かないが、拒む様子もなく私の腕を枕にして大人しく寝起きを楽しんでいた。
今は甘えてくれている。そして甘やかしてもくれる雰囲気だ。
仲達は私には解りやすい態度を見せてくれる。
「…そう言えば、昨夜は」
「刻限が来たら私は出ます。あなたも支度なされませ」
「仲達、少しだけ」
「その御言葉は信用出来ませぬ」
「む」
「…ただ、拒もうとも思いませぬ」
「何だ。私の事が好きなのか」
「いけませんか」
「ああ…、ふふ、愛している」
「…恥ずかしい人」
調子に乗るなと怒られたが、私の一言に呆れたように溜息を吐いて笑っていた。
私にしか見せぬ笑みだ。
これだから仲達には適わない。
ただでさえ美人であるのに、そのような微笑みは反則だろう。
むらっと情欲が沸いたが、さすがに今から手を出す訳にもいかない。
「…、次は別邸にせぬか」
「遠いです」
「ほう。ならばお前の家でも良いのだぞ」
「…執務が落ち着きましたら」
「では仲達を褒美として励むとしよう」
今度は唇に口付けて背を抱き寄せた。
細腰に腕を回すと、仲達が私の肩に頬を乗せてくれた。
今日は本当に、随分甘えたである。
「…淋しかったのか」
「毎日、顔を合わせております」
「触れてやれなんだ」
「…。」
「また、な。仲達」
魏の臣に戻る前に、今暫くは私の恋人で居て欲しい。
指を絡めて手を繋ぐと、仲達からも握り返してくれた。
時を惜しんでいるのは私だけではなかった。
軍議の最中、隣に足を組んで座った。
仲達の隣の席は私の席だ。
さっと私に書簡を手渡す仲達を横目に肘を付く。
今の仲達は、魏軍師である。
今の仲達に今朝のような名残はない。
軍議を淡々と進行する仲達の声音に耳をすませる。
よく通る良い声だ。色気すら感じる。
美人であるし、見ていても飽きない。
「…聞いておられますか」
「聞いている」
私が目を閉じたからか、仲達が咎めるような声色になった。
仲達も私をよく見てくれているのだろう。
さても愛しき私の片割れよ。
軍議が終わり、私と仲達は先に連れ立って席を立った。
回廊にて三歩後ろを歩く仲達に振り返り、辺りにめぼしい人影もいない事を確認し手を取る。
「…曹丕殿」
「手くらい触れさせろ」
「手くらい我慢なさいませ」
「淋しそうな目をしていた」
「そう見えただけです」
魏の臣に戻ってしまった仲達はおいそれと触れさせてはくれない。
何処の誰が見ているか解らないと警戒しての事だったが、見せ付けておけば良いのだと鼻で笑う。
流石に叩かれはしなかったが、今にも離れてしまいそうな手を惜しみ、肩を抱いた。
「…私は本気で」
「御気持ちは存じております。さればこそ」
「仲達?」
「…お待ちしておりますから、早々に片付けられませ」
「…ああ、解った。そう待たせぬ」
顰め面であったが、仲達の言葉は私を思うものであった。
言葉少なくとも、眼差しや仕草で解る。
無論、文学を嗜む身の上だ。言葉は欲しい。
だがそれは、後の楽しみにしておこう。
不意に仲達が私の手を取った。
何だと問う前に、私の掌に指で文字を書いた。
懿、と書かれている。
はっとして顔を見返すも、仲達は逃げるようにして執務室に去ってしまった。
これは早く執務を終わらせねばならない。
筆で書かれなかったにせよ、墨で残らなかったにせよ、仲達は私に名を書いてくれた。
その意味は、逢引の約束と所有の証だ。
逃げたところで仲達とは同じ執務室である。
私を見るなり顔を背けてしまったが、耳が赤い。
仲達の背に指で丕、と書いて隣に座った。