私があの人と過ごした十余年。
五月十七日で止まってしまった時間。
貴方が居なくても、私は少しでも前に進めているだろうか。
貴方の遺志を護れているだろうか。
私は貴方の居ない時代を、精一杯生きてきた。
きっかけは、下らぬ事だった。
流れ矢が肩を掠り身を傾けた後に、首に迫る刃に気付く。
背後からの伏兵を看破出来なかった。
ああ此処で死ぬのも悪くないのかもしれない、と目を閉じた。
『伏せろ』
そう言われた気がした此処は戦場。
咄嗟に伏せると直ぐに金属音が耳に響き、抱き留められているのが解った。
再び瞼を開くと、昭が私を抱き留め、師が敵将を斬り払っていた。
「伏兵の報せを聞いて飛んできました!大丈夫ですか、父上」
「…すまぬ」
「お退き下さい。此処は師にお任せを」
「…ああ」
「父上?」
今のは誰だったのか。
私の前に立つ師の背中と、肩を抱き留める昭の腕があの人に似て、何処か懐かしかった。
激戦区を離れ、自軍の幕舎まで下がる。
「…すまぬ、昭。私も老いたな」
「いえいえ。父上は相も変わらず」
矢傷の手当てを終え、一息つくと幕舎を出た。
私が退いたとあっては自軍の士気に関わる。
策を全軍に伝えた後、昭が私を引き留めた。
「父上、何なら俺が出ましょうか」
「…珍しいな。めんどくせ、ではないのか」
「父上は手負いですし、あんま無理しないで下さい」
「そうか、なればあともう一つ」
「前線の兄上の援護ですね。解ってますって」
「ふ、後は昭に任せるとしようか」
どうせ勝てる戦。
下らぬ理由の反旗、つまらぬ敵将ども。
何奴も此奴も、凡愚ばかり。
前線に向かう昭を見送り、幕舎に戻り地形図を広げた。
脚を組み、負傷した肩をさする。
『大事ないか』
先程から、誰かの声が耳に聞こえている。
姿は見えない。
何処か懐かしいその声は、私の身を案じて声をかけた。
「…まさか、な」
第一に脳裏に過ぎった大切な人を思い浮かべたが、苦笑し否定した。
そんな事は有り得ない。
きっと連戦で疲れているのだろう。
あの人はもう死んだ。
皆、もう居ない。
あの頃の魏の生き残りは、もう私くらいしかいない。
案の定、戦には大勝し、謀反人は処断した。
思えば虚しい戦だった。
内乱と言うのはどうにも胸糞悪い。
今の若者達は、この国が出来た当時の物語を知らない。
“何代も前の皇帝の遺志に縋っては何も変わらぬ!”
“魏は滅びるべきなのだ!”
捕らえた謀反人は私の前でそう吠えた。
師が諫めたが、次の瞬間、私自らが剣を取り首をはねていた。
返り血を浴び、暫し立ち尽くす私を師が案じて上着をかけたが込み上げる怒りが抑えられない。
下らぬ理由で反旗を翻した事自体はどうでもいい。
私に勝てると思い込み、国を新たに興そうと自惚れた凡愚に腹が立つのだ。
謀反人の一族、謀反に関わったもの全てを粛清し見せしめとして京観を築いた。
怨恨を我が身一身に受け入れたが、私としては貴様等の方こそ恨みたい。
下らぬ戦など起こしてくれるな。
私は忙しい。
現代の曹家の皇帝は権力に乏しく、何となく終わりも予想出来た。
終わり方は既にいくつか用意されているのだろう。
私が実権を握っている、と言うのは仕方のない話だった。
この国を滅ぼしたい訳でも、簒奪する気もない。
ただ、国と家族を護りたいだけだった。
蜀も呉も同じように人材に乏しい。
端から見てもそう思える。
諸葛亮が死んでから、私は才を持て余した。
終わりが既に見えているのなら、成る可く最善の策を。
其れが私に遺された最期の道であろう。
その道ですら、終わりが見えている。
こびり付いた返り血の匂いが酷い。
血に濡れた私を見て昭が人払いをし、師が幕舎の裏手にある泉へ私の手を引いた。
「全て水で流しましょう」
「…少々、感情的になってしまったようだ。頭を冷やそう」
「御自ら、手を下す事など…どうか、我等にお任せ下さいますよう」
「そうか」
「昭と裏手におります。何かありましたらお申し付け下さい」
「解った」
師が下がるのを見届けて、血濡れた官服を脱いだ。
下穿きのみになり、泉で顔を洗う。
腰から下を水に浸し、泉に映った月をぼんやりと見ていた。
ああ、私は、あの言葉に傷付いていたのかもしれない。
故に私自ら殺したのだ。
泣けば少しは楽なのかもしれないが、ここ数年は涙を流した事がない。
故に、私が感情的になる事など珍しかった。
髪を水に浸すと赤黒く水が濁った。
髪にまで返り血を浴びていたのだろう。
面倒なので切ってしまいたいと思ってはいるが、あの方を思い出してどうしても切る事が出来なかった。
私とした事が、今日は何時になく調子が悪いようだ。
口を塞がれ、手の自由を奪われる。
夜盗かどうかは定かではないが、背後から近付く気配に気付かなかった。
水辺から引きあげられ、地に後頭部から叩き付けられる。
打ち所が悪かったのか、視界がぼやけた。
私の頭の上で両腕を抑えつける者が一人、私の首元に刃を当てる者が一人。
「っ、女ではなかったか」
「…馬鹿め、残念だったな」
「その声…そうか、貴様が司馬懿か」
どうやら私を女と見間違えたようだが、私の声を聞くなり二人は顔色を変えた。
刃を首に当て付けられる。
「お前の声が戦場に響いていた。貴様が司馬懿で間違いないな?」
「一族の仇…!」
その一言で、理解した。
私が築いた京観を見たのだろう。
おそらく、此奴らは殺し逃した生き残りだ。
逃げ延びて野党にまで成り下がったのだろう。
「…抜かったか。全員捕らえたつもりだったが」
「貴様が浴びているのは、我が一族の血か!」
「そうだな…そういう事になるか」
「貴様、殺し…っ」
「待て。殺すよりも良い方法がある」
激昂し私を押し倒している男が首を斬らんばかりに剣を振り上げたが、手を抑えつけている男が不敵に笑い、男を止めた。
「おい、曹丕という初代皇帝を覚えているか?」
「……。」
「司馬懿は先代曹操から仕え、曹丕に寵愛されていたと聞く」
「ああ、成る程…」
「…なぁに、見目は上等ではないか」
「下衆め…」
男達の浅はかな考えが透けて見えた。
冗談ではない。
自由な脚で男の腹に膝を食らわせる。
直ぐに男はたじろいだが、もう一人の男に顔を殴られ体を水辺に投げられた。
肌着しか身に付けていないこの装備で、相手が二人は分が悪すぎる。
俯せに倒れ声をあげようとしたが、態勢を整えた男に直ぐさま水中に頭を沈められた。
「どうせ、体は曹丕に慣らされているのだろう?」
「初代皇帝に愛された体だ。犯し尽くして殺してやる」
「何なら、仲達と呼びながら犯すか?」
前髪を掴まれ、顔を上げさせられると意識が遠退いた。
奴等の発する言葉ひとつひとつに殺意が沸いた。
後ろから脚を持ち上げられ、一物を秘部に当てられている感覚。
死ぬよりも、何よりも怖い。
死ぬよりも、恐ろしいと思ったのは初めてだった。
嫌だ。怖い。
「子桓、さ…」
掠れた声で呼んだ人の名前は、もういないあの人の字だった。
ぼんやりとした視界。
師と昭の声がして、体を水の中に沈めた。
『触れさせぬ』
聞こえるあの人の声。
暗い水の中、あの人に抱き締められるように体が沈んだ。
「父上っ!」
「御無事ですか!!?」
体を起こされた。
水の中であの人が笑っている。
「…っ…彼奴等は」
「私の判断で殺しました」
「…そうか」
息を整え、目を擦ると首のない死体が二つ転がっていた。
師に抱き起こされ、昭に上着を肩にかけられた。
師、昭、それぞれに返り血が見受けられる。
二人の剣の刃が紅く濡れていた。
「気付くのが遅れて申し訳ありません…少しでも遅れていたら父上が」
「…いや、寧ろお前達どうして…」
「お呼びになったでしょう」
「…?いや…出来なかった」
「師、昭、と呼ぶ声が聞こえましたけど」
「…そうか」
師の手を借り、立ち上がり水面に立った。
あの人の影は水面にない。
「……。」
「後始末は俺に任せて下さい。父上は兄上の傍を離れないで下さいよ。まだ何か居るかもしれませんから見回ります」
「…解った」
「父上、此方へ。休んで下さい」
師に肩を抱かれ、昭が頭を下げた。
幕舎に下がり、体を拭い袖を通す。
「父上」
「うん?」
「…泣いていらっしゃるのですか」
「…いや?」
濡れているだけだ、と師に伝えた。
師もそれ以上は問わず、そうですか、と言い口を噤んだ。
師に背を向け、布巾で顔を拭う。
背から抱き締められている感覚に後ろを振り返った。
眉間に皺を寄せた師だった。
「…何だ?」
「つい先日、身丈を計りました」
「?…うん?」
「いつの間にか、あの方と同じになったようです」
「あの方、とは?」
「…忘れたとは言わせませんよ」
振り返り苦笑すると、師が私の背中に腕を回し抱き締めた。
身丈が、あの方と同じになったと師は私に伝えたいらしい。
そうか大きくなったな、と頭を撫でた。
その手を掴み、師が頬を寄せる。
「…父上」
「何だ」
「今だけで構いません。あの方の代わりになれるとも…思っていません」
「何の話だ」
「どうか、私の胸の中で泣いて下さいませぬか」
「…別に何もなかっただろう。大事ない」
「いいえ…あれは…」
「…ふ、子供に泣き顔など晒せぬわ」
「昭も同じだと…それに曹丕様が御心配なされますよ」
胸から離れ、さも生存しているかのようにあの方の名前を出す師に苦笑し、大事ないと笑った。
その夜は、師と見回りから帰ってきた昭に警護されて眠る事にした。
明くる日、許都に戻り戦の後処理をこなす。
いつかの夜。
周囲に隠していた病が表立ってきた。
安静に、と言われどもまだやることがあると医師を下がらせ戦場に立った。
またも下らぬ内乱の戦。
顔色が優れませんね、と元姫に戦場で話し掛けられたがと大事ないと答えた。
戦には無論勝利した。
帰還した空の玉座の間。
呼ばれた気がして、ひとりで訪れた。
戦場で血濡れた私を抱き締めるように、風が触れた。
「…貴方様なのですか?」
玉座の前にいる気配。
何も見えないが、歩み寄った。
『御苦労』
はっきりと聞こえたその声に目を見開き、玉座に向かって走った。
其処にいる貴方様を抱き締めようと身を乗り出しても、やはり其処には何もなく玉座の手前で床に倒れた。
発作的に噎せる咳に、背中を撫でられる感覚。
ああ、この方はずっと傍に居てくれたのだ。
床に伏したまま言葉を続けた。
「…ずっと、私を護って下さったのですか?」
思わず問う。
いつも声が聞こえる時は、私の身に危険が迫った時だった。
「あの日も…貴方様が子供達を呼んでくれたのですね…」
『そうだ』
言葉が聞こえた。
目をこらしてもやはり誰も居なかった。
「師に、泣いているのかと聞かれ私は嘘をつきました。本当はずっと…私は泣いていたのです」
あの日の出来事。
殺されるよりも恐ろしいのは、子桓様以外に触れられる事。
体を暴かれる事。
口付けすら、私は誰にも赦しはしなかった。
子桓様が亡くなっても、私はずっと子桓様のものなのだと頑なに拒んだ。
師と昭も其れを承知なのか、子桓様の事を忘れた事はなかった。
「貴方以外に触れられる事が怖かった…嫌だった」
「ずっと、ずっと貴方が好きです」
「今も、これからもずっと」
「この国は子桓様…だからこそ、私は」
「私はずっと」
貴方と一緒に死んでしまいたかった。
『仲達』
『ずっと、ずっと私はお前の傍に居た』
『お前に触れられぬこの身が口惜しい』
『その涙を拭ってやる事も、抱き締めてやる事も出来ぬ』
『ずっと、傍に居た』
『ずっと、お前を護りたかった』
『漸く、気付いてくれたな』
『もう、良い』
『仲達』
子桓様。
一言だけ発して、また噎せた。
病がもう末期なのだろう。
血を吐き、噎せる私に貴方の姿が見えた。
差し出された手を握り、仲達と呼ばれた私は目を閉じた。
漸く抱きしめて貰った子桓様の腕の中に甘え、口付けた。