貴方が忘れてしまったならば、私も忘れてしまおうか。
なんて。
出来ない独り言。
戦場。本陣。
圧されている。劣勢。
相手は蜀軍。
率いるは諸葛亮。
こちらの総大将は子桓様。
要所を敵軍に取られ、防戦一方なのが現状。
私がいながら、この有様。
諸葛亮に先手を読まれ、こちらの用意した策は看破されている。
別動隊が本陣に帰還すれば戦局を押し返せるのだが。
「しばし耐えよ、援軍を待て!」
伝令は出している。
別動隊は張コウが率いている。
「…仲達っ!」
背後から字を叫ばれた。
振り返れば子桓様が、向かってきた矢を斬り捨てた後だった。
「大事ないか」
「申し訳ありません…子桓様、此処は危のうございます。お引き下さい」
「お前も下がれ。狙われている」
頬を矢が掠めていった。
どうやら狙われているのは私のようだ。
「なればこそ私からお離れ下さい」
「お前も来い」
「子桓様、お早く」
私の体力もそんなに持たない。
私がどうなろうと、子桓様だけはお護りしなくては。
背後で爆発。
敵味方諸とも吹き飛ばされる。
巻き込まれた。
「っ…!」
敵の投爆兵。
吹き飛ばされた衝撃で全身に激痛が走る。
周囲に目をこらした。
近くには子桓様も居たはず。
「子桓様…!」
同じく爆発に巻き込まれたのか、子桓様が倒れている。
意識がない。
「っ…おのれ」
痛む体を抑えて立ち上がり、傍に駆け寄る。
頭から流血。
意識はないが、息はある。
援軍が来るまで、私が護らなければ。
子桓様が落とした長剣を手に取った。
「力をお貸し下さい」
一閃。
「子桓様」
無双乱舞。
周囲の敵を吹き飛ばす。
冷気が辺りを凍らせた。
技を繰り出す度に体が悲鳴を上げる。
「っ…援軍はまだか」
剣を地面に刺す。
また次の敵軍が見える。
霞む視界で剣を構えた。
無双が使えるのはあと一回くらいか。
「遅くなりました司馬懿殿!」
遠くで張コウの声が聞こえる。
剣を地面に刺した。これで戦局は押し返せる。
「ゲホッ…がはっ…」
胸にたまった血を吐いた。
両手と剣が自分の血に染まる。
「………仲達…」
小さく私を呼ぶ声が聞こえて、脚を引きずり駆け寄った。
地に座り、子桓様の頭を膝に乗せた。
「…もう大丈夫です。援軍が来ました」
「何て…無茶を」
「子桓様は…私がお護り致します」
子桓様の意識は混濁している。
頭の打ち所が悪いようだ。手当せねば危うい。
「司馬懿殿!お待たせ致した!」
「徐晃、殿」
別動隊とは別の、援軍。
殿が近くまで来ている。
「司馬懿殿、お乗り下され」
「否、子桓様を先に」
「畏まった」
子桓様を馬に乗せ後退した。
撤退する。
負け戦だ。
負けた。
気がついたら見慣れた天蓋が目に入った。
どうやら許昌に帰還しているらしい。
意識の混濁している子桓様を典医に預けてから記憶がない。
暫く眠っていたようだ。
「…子桓様、は…」
体を起きあげようと手をついたら、包帯が巻かれていた。
よく見れば首にも胸にも。どうやら肋骨をやられているらしい。
「よかった。目が覚めたんですね」
「…張コウ、か?」
「七日も眠ってらしたので…とても心配しましたよ」
「子桓様は…」
「御無事です。司馬懿殿より軽傷で軽い脳震盪でした。ただ…あ、いえ後で話しますね」
「何だ」
「まずは戦後の御報告を」
戦後。
子桓様と共に徐晃に救出され、その後で私は昏倒したらしい。
取り急ぎ許昌に引き上げ、処置をし今日まで眠っていたようだ。
戦は負けた。
だがこちらの犠牲は最小限に抑えての撤退とのことだった。
「傷は痛みますか?」
「私はまた諸葛亮にしてやられた訳か」
「次があります。また私もお供致しますから」
「ああ…ところで先程言いかけた話は何だ」
「あ…えと、とても言いにくいんですが」
扉を叩く音がする。
「入っても?」
「どうぞ」
子桓様の声がする。
扉が開いた。
包帯を巻かれてはいるが御無事であることに心から安堵した。
「…その、司馬懿はお前か?」
言われた言葉に違和感を覚える。
体を起こし、目を見開いた。
「記憶が混濁しているんです」
張コウが言った。
あの戦の際の頭への打撲。
「覚えていることと覚えていないことが曖昧で…部分記憶喪失のようです」
「すまぬな…私を護ってくれたと聞く」
「御自身の事や魏の事など探り探りですが覚えてらっしゃいました。残念ながら…司馬懿殿の事は…」
部分記憶喪失。
私の事は覚えていないらしい。
聞いた時はかなり動揺したが、少し冷静に聞けば御自身のことは覚えていらっしゃるようだ。
いつもの尊大な態度が少し丸いのはそのせいか。
「…少し、二人にして貰っても良いか」
「では、私が席を外します」
子桓様が椅子に座る。
体を起こして、手を組んだ。
「…お初にお目にかかります。姓を司馬、名を懿、字を仲達と申します。軍師として貴方様の側近としてお仕えさせていただいております」
この挨拶も二度目だろうか。
初めてお会いした日が懐かしい。
「…司馬懿、先の戦で私を庇い傷を負ったと聞いた」
「私は曹丕殿の配下です。至極当前の事かと」
さらりと我ながら冷たく言った。
この方は曹丕殿であって子桓様でない。
「…お前が目を覚ますのを待っていた」
「お傍に居て下さったのですか?」
「ああ。何故かお前を見ていると胸が痛い」
私の事など忘れているくせに。期待してしまうではないですか。
「お前が傷つくと、私の心が痛むのだ…何故だろうな」
「まだお体が十分でないのでしたら、どうか休まれませ」
「司馬懿、お前もゆっくり休むといい」
「御意」
軍礼をして応えた。
曹丕殿は背中を向けて部屋を出て行った。
ああ。
手も握って下さらない。口づけも。
本当に"忘れて"しまったのですね。
体も起き上がれるくらいには回復し、執務に復帰した。
未だ肋骨が痛むが泣き言を言う暇はない。
静かに、横で曹丕殿が執務をしている。
執務については覚えていらっしゃった。
あれから一ヶ月。
記憶はほとんど戻り、包帯も取れて曹丕殿は健在だ。問題なく執務もこなす。
ただ一つだけ。
「司馬懿、次は」
「こちらです」
私の事は覚えていない。
小休憩。
回廊の踊り場に座り溜息をついた。
忘れたままの方がいいのかもしれない。
最近はそう考えるようになった。
子桓様が私を忘れても、私が子桓様を覚えている。
それでいいと思っていた。
「…私も忘れてしまおうかな」
胸に開いた穴はなかなか塞がりそうにない。
想えば想うほど辛いだけ。ならいっそこんな気持ちを忘れてしまえたらいいのに。
「出来る訳…ないくせに」
あの方の温もりを体が覚えている。
尚更に淋しい。今なら素直にそう言える。
「お辛そうですね」
「張コウ」
顔を見上げれば張コウが立っていた。
隣を指さしたので座るよう促した。
「曹丕殿がお呼びでしたよ」
「そうか…すぐ行く」
「司馬懿殿、私正直に言いますね」
「何だ?」
張コウがぎこちなく笑い、話しはじめた。
「曹丕殿の記憶がない今なら、私、司馬懿殿に告白しようと思っていたのです」
「告白?」
「司馬懿殿が好きです」
手を握られ、見つめられた。
突然の告白に動揺する。
「私は…」
「でも、私気付いたんです。私が好きなのは『曹丕殿と一緒にいる司馬懿殿』だと」
にこやかに笑い、張コウは続けた。
「それに抜け駆けは美しくありませんからね」
私の手を取り、紳士的に口づけを落とした。
「曹丕殿はきっと思い出して下さいますよ」
「…どうかな」
「曹丕殿を信じて下さいな。それと司馬懿殿、まだ本調子ではないのですからあまり無理せず」
「すまない」
「司馬懿はいるか」
遠くで曹丕殿の声がする。
「ほら、行ってらっしゃいませ」
「…すまぬ、張コウ」
張コウに促され、声のする方へ急いだ。
「お呼びですか」
「ああ、探した」
「申し訳ありません」
「…どうした」
「何がですか?」
曹丕殿と回廊で出会い、礼をする。
私を見るなり頬に触れられる。
「…泣いている」
「え…」
曹丕殿に涙を拭われて初めて自分が泣いているのだと気付く。
「お見苦しい所をお見せしました…顔を洗って参ります」
何を泣いているのだ私は。
立ち去ろうと背中を向けたら、ぐいっと肩を引っ張られる。
そのまま背中から抱きしめられた。
「…曹丕、殿…?」
「ほとんど記憶は戻っていると私も思っていた。ただどうしても一つ、思い出せない事がある」
「…余り無理をせず」
「無理をしているのは、お前ではないのか司馬懿」
私の事がわからないまま、以前のように私に触れる貴方の手が、温もりが懐かしい。
「…司馬懿、お前が男でもこの気持ちは止められそうにない」
背中から強く抱きしめ、首元に顔を埋められた。
「お前を好きになってもいいか」
私の事がわからぬまま、また貴方は私に恋をする。
結ばれていると勘違いしてしまうではないですか。
二度目の告白。
「お好きになさいませ」
今の私にはそう返すのが精一杯だった。
私はかの人の腕の中にいる。
「…お前はどうなのだ、司馬懿」
「どう、とは」
「初めてではないのか」
「初めて…」
初めての口づけも、初めての夜も全部全部覚えています。
「初めての相手は、貴方様ですよ」
「…司馬懿、話せ。私とお前はどういう関係だった?」
「主従です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「ならば何故…そんなに苦しそうな顔をする」
頬に触れる手。
温かくて優しいのは変わらない。
ただあなたの中に私がいない。
それだけなのに。
「私の事、覚えていますか?」
「…すまない」
「私を思い出して下さい…私はずっとお待ちしています」
目を閉じて、手の温かさを感じた。
暫くそうしていると強く引き寄せられて、唇が合わさった。
「…曹丕、殿…」
「きっと思い出す。お前に悲しい思いをさせてすまない…もう少し待っていてくれないか。記憶が無くとも私はお前が…」
言い終わる前に私から唇を合わせた。
舌を絡めて、吸う。頬に手を合わせて撫でた。
「司馬懿…」
「貴方はまた、懲りずに私に恋をして…」
広い胸に埋まった。
淋しくてどうにかなってしまいそうだった。
「また私を困らせて…貴方が想うより、ずっと…私の方が貴方の事が好きでしたよ」
「…司馬懿」
「私を想い出したら…『仲達』と呼んで下さい。私もそれまでは貴方様を『曹丕殿』とお呼びしましょう」
「子桓と、呼んでくれないのか」
「私の『子桓様』は一人だけですから」
「…辛い思いをさせてすまない」
強くきつく抱きしめられた。
「お前を想うほど、苦しい」
曹丕殿の頬が濡れていた。
その頬を両手で包んだ。
蜀が攻めて来る。伝令からの書簡を貰った。
先の戦で要所を取られている。
早急に軍議を開く。
「私が行きます」
単刀直入に申し出た。
先の戦の敗因は私にある。
「しかし司馬懿殿、まだ先の戦の傷が癒えていないのでしょう?」
張コウがすかさず話題に入る。
「私は前線には立たぬ。披露するのは策だ。相手が諸葛亮であるなら私しかあるまい」
「司馬懿」
「はい」
曹丕殿が口を挟む。
先の戦の記憶はなかったはずだ。
「私も行く」
「しかし」
「命令だ」
「…御意」
また危険な目に合わせるよりは、と思ったのだが命令ならば私には抗う術がない。
「此度の策。本陣を囮とする」
周囲がざわめく。
曹丕殿が腕を組み、眉間に皺を寄せている。
「本陣には私が布陣する」
「待て、ならば私が」
「曹丕殿には本陣布陣のち西の砦へ移動していただく」
「何故お前なのだ」
「蜀軍が今一番殺したいのは私だからです」
「なれば尚更…!」
曹丕殿は不服、と抗議するが聞かない。
この方が私と一緒に危険な目に合う必要はないのだ。
「張コウ将軍、徐晃将軍、先鋒を願いたい」
「はっ」
「御意」
「各将、奪われた拠点を奪い返せ。あちらは遠征の身だ。補給が尽きれば長くは持たぬ」
「畏まった」
散会する。
諸将が戦の仕度をする為に散った。
曹丕殿だけが残った。
「司馬懿」
「はい」
「近ぅ」
近くへ、と呼ばれて歩み寄った。
向き合うと曹丕殿に胸に手を置かれる。
訝しく顔を見ていると、突如胸を強く押された。
激痛が走り、思わず曹丕殿の腕を掴んだ。
「っう…止めて、下さ…」
「このような体で囮だと?死にたいのか貴様は」
手を離され、強く抱きしめられる。
「私が行かねば…多くの仲間が死にます。私はそれを許したくはない」
「私はお前を行かせたくない」
「痛み止めもありますから…大丈夫です」
「…先の戦で何があったのだ。何故軍師のお前がそこまでの傷を負った」
今のこの方に、先の戦の記憶はない。
自分がどんな目にあったか覚えていないのだ。
「貴方を、護る為に」
曹丕殿の前にひざまづき、手に口づけた。
直ぐに立ち上がり、曹丕殿の顔も見ず部屋を出た。
見たら、心が揺らぐ。
戦場。
戦局はこちらに有利に動いている。
奪われた拠点も徐々に奪い返せている。不服と言う曹丕殿は西の砦に移動させた。
後は要所を奪い返すまで、私が囮となるだけ。
「司馬懿殿、お怪我は」
「大事ない。だが長くは持たぬ」
「急ぎます」
「疾きこと風の如く…古い兵法だがな」
「心得ました」
張コウ、徐晃が走る。
あの二人が要所を奪い返せばこちらの勝ちは見えた。
「動かざること、山の如し…か」
弓矢の斉射。
雨のように本陣に降り注ぐ。
肩に、脚に刺さる。
痛くはない。私はこれくらいでは倒れない。
体から弓矢を引き抜いた。その矢を折り、叩き捨てる。
「弩兵」
冷たく言い捨て、武器を掲げた。
こちらも斉射。敵兵が倒れていく。
歩兵が迫る。
目を閉じて、一閃。
凍らせた大地を踏み締め、斬り捨てる。
敵の血を浴び、自分も血を流した。
囲まれる。
矢を受けた脚がぐらつく。
ゆっくりと、剣の切っ先が目の前に見えた。
ああ、私はここまでか。
心残りがあるとすれば最期まで『子桓様』に再会出来なかったこと。
…また、何処かで御逢いしましょう。
「仲達」
聞きたかった声がする。
字で呼ぶ、聞き慣れた声。
咄嗟に背中を支えられる。
同じ氷の技。
敵兵が散って行く。
「曹丕…さ…」
「随分とつれないな、仲達」
片腕に私を、片手に剣を持って。
『仲達』と貴方は呼ぶ。
「今度は私が、お前を護る。片腕だけで十分だ」
「曹丕殿…まさか記憶が」
「ああ、全て思い出した。お前が傷つき戦う様を見て、な」
迫る歩兵を片手にした剣で斬り捨てていく。
片手では私を護るようにしっかり抱きしめて。
子桓様。
子桓様。ずっとお会いしたかった。
心から安堵し、子桓様に身を委ねた。
「拠点を奪取!蜀軍は撤退しました!我が方の勝利です!」
伝令が叫ぶ。
我が軍が勝ったのだ。張コウと徐晃がやってくれた。
「仲達、傷を見せよ」
肩と脚の矢傷を見て剣を地面に刺し、私を横に抱き上げる。
その胸に頬を寄せて目を閉じた。
「…子桓様…」
「今まですまなかった。お前には辛い思いばかりさせてしまったな」
「…暫く、胸をお貸し下さい…」
「ああ。手当をしてやる」
本陣はボロボロだが何とか持ちこたえた。
幕舎に運ばれ、鎧を脱ぎ服を脱いだ。子桓様が人払いをする。
肌着姿になり、肩と脚の傷を子桓様に手当してもらう。
矢傷は深かったが、命に別状はなく治る傷だった。
包帯を綺麗に巻かれて、処置が終わる。
「淋しかったか?」
私の肩に口づけ、隣に座った子桓様が言う。
距離を縮め、子桓様に寄り添う。
「とても」
子桓様の首に腕を回し、口づけた。
深く甘く。
子桓様からも舌を絡められた。ゆっくり押し倒される。
頭を支えられて、負傷した体を気遣う仕草。
優しい。
「まだ、諸将が帰るまで時間があるな?」
「…はい」
「離れていた時間を埋めたい」
「でも…」
「嫌なら…」
「困った方」
「…?」
「二度も告白をされた子桓様を、私が断れる訳がないでしょう…」
笑ったつもりだったのに、涙が流れた。
子桓様に優しく抱きしめられる。
短い僅かな時間、子桓様と体を重ねた。
「っは…子桓様…」
「仲達…少しでもお前を忘れてしまったこと、悔やんでも悔やみ切れぬ」
ぐっ、と奥に繋がる。
声をあげて泣いた。感情を抑えることが出来なかった。
涙を流す私に、子桓様がすり寄る。
額に口付けを落とし、髪を手のひらで撫でられる。
その手が心地よく、安堵して。
この方の腕の中、胸の内に居ることが落ち着いて。
この人がいないと、私は駄目なのだと思い知らされた。
「…許してくれるか?」
「っぁ…もっと、子桓様を私に下さるならば」
「全く仲達」
中に注がれる。
子桓様の想いが流れ込んで来る。
もっと子桓様と過ごしていたい、でもそんな時間はなくて。
ゆっくりと体から引き抜かれると、戦疲れもあり力が入らない。
これ以上は、と子桓様も無理に強いることはしなかった。
子桓様に体を清めて貰いながら、その顔を見つめる。
「今宵は共に寝たい」
「はい…」
「戦の後始末は私に任せよ」
子桓様の外套に包まれて、目を閉じた。
かの人の香りが私を安堵させた。
幕舎を出ていく子桓様の背中に、声をかける。
「子桓様」
「ん?」
振り返る子桓様に言葉を続けた。
「お帰りなさい…」
「ただいま、仲達」