広間に子桓様と郭嘉殿がいる。
随分珍しい組み合わせで酒を飲んでいるなと回廊を素通りして書庫に入った。
あの二人に捕まると色々と長い。
執務が終わらないので、今日は泊まり込みで仕事を片付ける。
幸いにも寝床はあるし、湯浴みも済ませた。
湯上がりであるのに再び筆を持つのが忍びないが仕方ない。
書庫から出る際、子桓様と郭嘉殿と目が合ったので深く会釈をしてその場を立ち去った。
交ざる?と郭嘉殿に声をかけられたが、元々酒は強くない。
まだ執務がある事を理由に丁重にお断りして、再び執務室に戻った。
交遊関係に口出しをする気はないが、利用しようとする者は見極めなければならない。
後事を継ぐと言うのなら、有能な者が必要だ。
誰彼構わず受け入れる訳にもいかない。
子桓様は人によって態度を変えられる程、器用な方ではない。
素直なのは良い事なのだが、時と場合による。
私は自分への利以上に、傍で仕えていたいと言う思いが強い。
目が離せないのは、私らしくもないが忠誠心の表れであろうか。
無理矢理乞われた出仕だったが、今は自分の意思で子桓様に仕えている。
幼かったあの子が随分と立派になったものだと感慨深い。
見届けるなら最後までお仕えしたい。
人前で口には出さぬが、内心は字でお呼びしている。
私達は主従であり、恋仲でもあった。
清く正しいお付き合いではないにせよ、他の誰でもない私を頼ってくれるのは嬉しかった。
子桓様に天下を見た。
私はあの御方に命を預けたのだ。
私とて、好きでもない男には仕えたくない。
私は確かに、子桓様をお慕いしている。
何刻か経ち、執務が終わった。
一人静かに湯浴みも終えて、執務室の奥の寝床に向かう。
髪を整えた後、広間に顔を出したが既にお二人は居なくなっていた。
どうやら終わったらしい。
部屋に戻ると人の気配がした。
誰かいる。
城内なので敵ではないと思うが、恐る恐る扉を開ける。
床に放り投げられた外套と靴を見て、誰がいるのか理解した。
外套や上着を拾って畳む。
緊張を解いて少し笑い、寝台のある部屋の扉を開けた。
「子桓様」
「…執務は終わったのか」
「御自分のお部屋に帰られませ」
「飲み過ぎた」
随分と飲まれているようで、私の脱いだ上着に顔を埋めて寝台に凭れていた。
寝台に座った私を見るなり、頬を赤く染めた顔で私の膝に埋まる。
ずっとこうしたかったと言い、子桓様は私に甘えている。
「御部屋の寝台までお送りしましょうか」
「否、此処で良い」
「此処で貴方様を寝かせるのは偲びない」
「仲達が居るではないか」
「ですが」
「同衾をしたい」
「此処は狭いです」
「何もせぬ」
「っ、お水を」
「…仲達」
「随分と飲まれた御様子」
水を飲むと少し落ち着いたのか、くらくらとした頭を抑えて私の膝に横になる。
酔いに任せて私をどうこうしたい訳ではないようだ。
このままだと私の膝で眠ってしまう。
せめてもう少し首元を緩めようと、釦を外して靴を脱がせ寝台を譲る。
私は何処か寝台の外に、椅子を並べてでも寝ようか。
子桓様に布団を掛けて立ち去ろうとすると、手首を掴まれ引き留められた。
「仲達」
「どうしました?」
「ちゅうたつ」
「はい」
ただ首を横に振り、離そうとしない。
傍にいろと言う事なのだろう。
舌っ足らずに私の字を呼ぶ主に笑っていたら、結局私も狭い寝台に招かれてしまった。
子供が親に甘えるように、子桓様は私の胸に埋まる。
この体勢が良いのか、子桓様は漸く大人しくなった。
今宵の主は、子の師や昭と余り変わらない。
それにしても随分と強引に甘えられる。
「郭嘉殿に何ぞ言われましたか」
「否」
「どうされました」
「…お前はいつも…。そうだな…何でもない」
「仰って下さい。今は私しかおりません」
「何、少々郭嘉に愚痴っていただけだ」
「愚痴?」
「最近、仲達を独り占め出来ぬ故」
「…何を仰るかと思えば」
此処最近は本当に忙しない。
郭嘉殿に愚痴ったところで何も解決せぬだろうに、語らずにいられなかったのだろうか。
確かに最近は子桓様の元を離れ、郭嘉殿の元で書簡の整理をしている事が多い。
まさか妬いているのかと思いもしたが、それはさすがに考え過ぎかと思い子桓様の髪を撫でた。
早く寝なさい。
そう言うも、子桓様は少し私と話していたいらしい。
「郭嘉は、仲達を褒めていた」
「左様で」
「有能でよく気が付く、私より優れた軍師になるかもしれない、と」
「恐れ多い御言葉です」
「だが」
「はい」
「仲達は私のものだ。誰にもやらん」
「ふ…。郭嘉殿と何のお話しをしていたのですか?」
「仲達の話をしていた。最近は郭嘉といるな。郭嘉が仲達はよく気が付くと言うが、仲達は鈍い」
「?」
「私は妬いているのだぞ」
「あ、ああ、そうなのですか?」
「そうだ」
私に甘える子桓様が拗ねてしまった。
そんな事で妬いてしまうのかこの人は。
束縛はされたくないが、その独占欲は嫌いじゃない。
酔って赤くなった頬は熱く、眠気を堪えている瞳は潤んでいる。
目線を合わせると、眉間に皺を寄せながらも子桓様は嬉しそうに笑っている。
こんなに頬を赤くするまで飲むなんて、と叱ったつもりだったが子桓様は笑っていた。
「もう寝て下さい。明日はきっと二日酔いですよ。休んで下さい」
「うむ…」
「私は貴方のお傍にいますから」
「ああ、漸く仲達が私だけを見てくれた」
「…いつも見ているでしょうに」
「そうだったのか?」
「何分、目が離せませぬ故」
「その割には構ってはくれぬな」
「構って欲しかったのですか?」
「ああ。なかなか気付いてくれぬ」
随分と子供らしい事を仰る。
相当酔っているのだろう。
私に甘える子桓様が随分と幼く見えた。
「私以外でも良いのならいくらでも居るでしょうに」
「お前以外は選択肢にすら入らない」
「左様ですか」
「仲達が良いのだ。仲達でなければ嫌なのだ」
「ふ…、はい。この上ない御言葉です」
ここまではっきりと言われては、子桓様に慕われているのだと思わざるをえない。
不安に思う事など何もない。
私と子桓様の関係に疑いの余地はなく、またその関係が心地良かった。
普段口数が少なく私を傍に置きたがる子桓様だったが、泥酔したせいか普段以上に素直に思いを吐露してくれる。
泥酔するなど珍しい事だが、その言葉のひとつひとつが嬉しくて堪らなかった。
今はただ、子桓様を甘やかせて差し上げたい。
心から愛しいと、素直にそう思った。
私の胸に埋まる子桓様の額に唇を寄せて、頬にも唇を寄せた。
少し驚いた様子を見せたが、子桓様に引き寄せられて唇に口付けられる。
やはりまだ少し酒臭い。
「…手を出さないのではなかったのですか?」
「手は出してない」
「ふ…、おやすみなさい」
「もう少し、口付けていたい」
「お酒臭いので嫌です」
「む…」
「おやすみなさいませ」
寂しそうな顔をした子桓様に口付けると、漸く目を閉じてくれた。
抱きつかれて体温がすっかり移ってしまい、私もとても眠い。
子桓様を胸に埋めたまま、ひとつ欠伸をして私も目を閉じた。
昨夜は随分と泥酔してしまった。
殆ど何をしていたのか覚えていないが、 仲達に迷惑を掛けたであろう事は覚えている。
気が付けば私は仲達の腕の中にいて、離さないようにと強く抱き締めていた。
次に目を覚ました時は自室に戻っていた。
頭痛と吐き気に起き上がれず、執務も程々にして今日は一日部屋にこもっていた。
郭嘉も私と同様に二日酔いらしく、今日は私と郭嘉は執務をしていない。
代わりに仲達が我等の執務までこなしていると聞く。
昨夜ただでさえ帰れていないのだろうに、また仲達に執務を投げる訳にはいかない。
今朝方少しだけ仲達と顔を合わせただけで、まだ仲達と話をしていない。
悪かったとか、ありがとうだとか、そういう話をしていないのだ。
この氷の枕を用意してくれたのも仲達だろう。
恋人をほおっておけない。
頭痛も少しはましになった。
せめて仲達を少しでも休ませて、昨日の礼がしたい。
それに謝りたい。
髪を適当に整えて、服を着替えた。
眉間をおさえながら、仲達の居る執務室に向かう。まだ頭は痛い。
執務室から郭嘉の声が聞こえる。
どうやら奴も仲達の元にいるらしい。
「仲達」
「!」
「やぁ、昨晩はどうも」
「すまなかった」
仲達に構いに来ているのかと思えば、郭嘉にしては珍しく執務をこなしていた。
昨晩は私の自棄酒に郭嘉を巻き込んだ。
仲達が構ってくれないだとか、お前の所にばかり仲達が行くとか。
大人気ない八つ当たりを酒に任せて郭嘉に話していたような気がする。
「まだお休みになって下さい」
「それは此方の台詞だ」
「本当だよもう。私が来たんだから君は少し休むといい」
「しかし」
「曹丕殿。貴方の事ばかり話す司馬懿殿を持って帰ってくれないかな?」
「なっ、そんな事」
「そのつもりで此処にきた。だが、お前にしては珍しい。どういうつもりだ」
「別に。たまには後輩を休ませてあげないと、私が安心して楽を出来ないからね」
郭嘉は仲達を追い返すように立たせて、私の胸に仲達を押し付けた。
私諸とも仲達と扉の前まで背中を押された。
にこやかに笑っているが目が早く行け、と言っている。
「二日続けて惚気話に当てられるのは御免だからね」
「惚気てなどいない」
「惚気てません」
「…そういうところがだよ、全く。二人ともお互い様だ。
いいから曹丕殿は司馬懿殿を連れて行って。
君も上司なら、司馬懿殿から目を離さない事」
「この借りは返す」
「申し訳ありません、郭嘉殿」
「いいよ。いつもごめんね。今日は君の皇子様に沢山甘えておいで」
「なっ…」
「来い。お前は働き過ぎだ」
「誰のせいだと思っているのですか?」
「っ、すまぬ」
「ふふ、じゃあね」
私ももう少し仕事を片付けたら休むよ、と郭嘉は言い残して扉を閉めた。
仲達の手首を掴み、私の部屋に向かう。
大人しく従っているかと思えば、仲達から手を繋ぐように指を絡まれた。
手が温かい。
そのまま指を絡めるようにして手を繋ぐと、私と腕を組むようにして仲達が肩に凭れた。
どうやら相当、眠気を堪えているらしい。
部屋に着くなり冠を外し、肩当てを外してやると仲達は眠そうな眼を擦る。
「昨晩はすまなかったな」
「いえ」
「休め。眠いのだろう」
「はい」
「私の寝台を」
「疲れました。疲れました…、とても」
「…ああ、すまなかった」
「…今度は、仲達に構って下さいませ」
「っ、どうした…?」
「ふ、何でもありませんよ」
寝台に寝かせようとしたら、仲達に腕を取られてしまい押し倒してしまった。
私の頬に触れて仲達は笑う。
「昨晩の事は覚えておりませんか?」
「っ、私はお前に手を出したのか?」
「いいえ、貴方様はよく眠っておいででした」
「そうか…。酔いに任せて無体を強いたのかと思った」
「貴方様が人一倍、私に甘い事は存じております」
今度は私が貴方に甘えさせて下さい。
仲達はそう言うと、髪紐を解いて私の胸に埋まった。
私は昨晩何かしたか?と聞くと、仲達は首を横に振った。
「いつも以上に素直な貴方が見れました」
「素直?」
「私に構って欲しいと、仰っていましたよ」
「なっ、確かにそれは、そうなのだが…、私はそんな事をお前に言ったのか」
「仲達仲達と、幼少期の頃を思い出すような心地でございました」
「漸く自分を見てくれた、とも」
「すまぬ。執務に追われるお前が私を見てくれぬものかと、拗ねていたようだ」
「ふ、今日は、私の番です」
仲達の髪を撫でながら、筆ばかり持っていた手を握る。
少しは私の手も握って欲しい。
私より少し小さい手を握ると眠いのだろうか、とても温かかった。
やがて目を閉じた仲達の瞼に口付け、長い睫毛を見下ろしながら私も氷枕に頭を乗せた。
頭だけでなく、今は胸も痛い。
「…すまなかったな。お前をほおっておいてしまったのは私の方だ」
「いいえ。私も少し、自覚が足りなかったみたいです」
「自覚とは?」
「私は、子桓様に…とても、慕われているようで」
「酷い話だ。今更自覚したのか?」
「そのようなお姿が見れて、嬉しかったのです。
ただ、最近はなかなかお顔が見れない事もあって…」
「…休め、仲達。今度は私がお前の傍に居よう」
「貴方様も。まだ二日酔いでしょう」
「…もう酒臭くはない筈なのだが」
「…しっかり、覚えているではないですか」
唇を合わせた後、仲達は眉を寄せて少し頬を染めた。
相当疲れてやけになっているのか、仲達らしからぬ甘え方で私の胸に埋まる。
胸が動悸で煩いが、仲達に気付かれないように平静を装った。
だが、珍しく仲達の方から口付けをされて、平静でいられる筈もなかった。
これ以上は手を出さない自信がなく、今度は私が仲達を胸に埋めた。