あの日々がずっと続けばいいと思っていた。
だが現実は理想より幾分も厳しく儚い。
下らぬ反乱を制圧して半月。
師と昭に不信がられている事に気付く。
欺いていたつもりだが、そろそろ限界だろうか。
第一に元姫が気が付いた。
「司馬懿殿」
「元姫か。どうした」
「もうそろそろ執務は終いにして下さい。お体に障ります」
「うん?別段何もないが」
「…司馬懿殿は素直で在らせられない。どうか」
「ふ、解った。残りは明日にしよう」
元姫に釘をさされ、本日の執務は終いとした。
皆に見送られ、自宅に戻り部屋の寝台に伏せる。
横になりながら官服を脱いで床に落とし、髪紐を解いた。
肌着になり、寝台に深く沈む。
随分疲れやすくなった。
先日の討伐の疲れが取れない。
「年だな…」
腰も脚も胸も頭も痛い。
常日頃痛みを感じ、もはや痛みを感じる事が日常になってきた。
病にかかっている事は師や昭には言っていない。
「父上、もう帰ってます?今日は早いんですね」
「…昭か」
「あ、服散らかったままですよ。父上にしては珍しい」
「…。」
「…父上、あの…、具合悪いんですか?」
「少し、疲れた」
「あ、兄上に伝えます。ちょっと待ってて下さい。医者も呼びますからね!」
「大袈裟だ、昭」
「だけど」
「大丈夫だ。少し眠る」
慌てる昭の声を遠くに聞きながら目を閉じた。
図体はでかくなったが、まだまだ子供だなと苦笑し目を閉じた。
庭に出よう、と。
顔色が悪いと言う私の言葉も聞かず、子桓様は私の手を引く。
「もう寝台にお戻りを」
「平気だ」
「…あなた」
「それは狡いな、仲達」
早朝に二人きりで契った伉儷の約。
伴侶として子桓様は私を娶った。
女性ではないので、妻とは言い難い。かといってどちらが夫という訳でもない。
実に馬鹿らしい話だったが、私達のあやふやな関係を子桓様が結論付けた。
別にそんな事をしなくても良かったと思いもしたし、口にも出した。
責任を取りたかったと、子桓様は言う。
口では不平を言うも、実際は嬉しくて幸せで堪らなかった。
まさかそうなるとは思わなかった。そのような法はない。
同時に、ここ数日の子桓様の体調不良が気掛かりで心痛となっていた。
「どうか、子桓様」
「暫し、付き合ってくれぬか」
「ですが」
「お前に迷惑は掛けぬ」
本当に少しだけですと釘を刺し、子桓様の腕を取って庭を歩く。
ここ数日伏せっていたばかりで、色を見たいのだと言う。
私としては風邪を長引かせているのだから、気が気ではない。
感情がそのまま顔に出ていたのか、中庭の日よけ屋根の下に逃れて椅子に座らせる。
出歩いて欲しくはないのだが、主の命ならば仕方ない。
「そう顔を顰めるな」
「あなたに何かあってからでは、遅いのです」
「近ぅ、仲達」
「はい」
「名実共にお前はもう私のものなのだから、何処へ連れて行こうと良かろう?」
「それは、そう、なのですが…」
「だが、お前の意見も尊重せねばな」
子桓様に引き寄せられ、隣に座る。
少し気だるそうに私の肩に凭れ掛かる子桓様を支えて目を閉じる。
心配で堪らないのだ。
ふと頬に柔らかい感触を感じ、目を開けた。
頬に口付けられていると知り、再び目を閉じる。
唇にして欲しいと思い、正面を向いた。
顎に手を添えられ、子桓様に唇を指でなぞられる。
「そのような顔をしていたら襲ってしまうぞ」
「お好きになさったらいいでしょう」
「拗ねているのか、仲達」
「して、下さらないのですか」
「お前から誘われては断る術を持たない」
そのまま口付けられて深く舌を絡められる。
今朝の出来事を思い出して目を細め、私からも子桓様を求めた。
どうして、こんなにも私の事ばかりなのだ、この人は。
深く口付けられる程、自分がどれだけ子桓様にとっての存在なのかを伺い知ることが出来た。
「子桓様…」
「悪かった。そろそろ部屋に戻るか」
「いえ、もう少し、此処にいましょう」
「良いのか?」
「私がお傍に居ます」
「ふ、そうか。ではもう少し、このまま」
「…庭を見たい、のではなかったのですか?」
「今は仲達を見ていたい」
庭に行くのかと思い手を引いたが、腰を引き寄せられてまた口付けられる。
柱に肩を押し付けられて、深く口付けられる。
このまま食われるのかと思う程に深く口付けられて腰が立たず、唇を離されても動けない。
昨夜は半ば無理矢理だった事を思い出したが、それでもいいかと半ば諦めた。
「外は、いやです…」
「此処ではせぬ」
「此処では…?」
「昨夜の無体を忘れた訳ではないぞ仲達。ただ少し、止まらなかっただけだ」
「これが、少し…?」
「腰が立たぬか。そんなに追い詰めたつもりはなかったのだが」
腰を支えられ、肩を支えられる。
私が支えていた筈だったのだが、いつの間に支えられているのは私の方だ。
病み上がりの子桓様に結局抱きかかえられてしまい、庭を歩く。
誰が見ているか解らないというのに、このような事。
そう問い詰めても、子桓様は笑うだけだ。
「私は伴侶を連れて歩いているだけだが」
「っ」
「私が皇帝だと言う事を忘れたのか仲達。誰であろうとも、私のものをとやかく言われる筋合いはない」
「陛下」
「今は子桓と、仲達」
「子桓様…、恥ずかしいです…」
「っ、不意にそのような顔をするな」
「?」
腕の中で子桓様を見上げていただけなのだが、不意に顔を背けられてしまった。
額に触れられ、頬を撫でられる。
その掌には愛おしいという思いが詰まっていた。
子桓様は随分と解り易い。
抱き上げられたまま庭を一回り歩き、子桓様の気が済んだのか部屋に戻る。
横になる子桓様の傍で執務を続けながら、御用とあれば直ぐに駆けつけた。
子桓様が眠っても、ずっとお傍を離れなかった。
健やかな寝顔でも、眉間に皺が寄っている。
指で額をなぞり、短く切った髪を撫でた。
髪を伸ばしたり、切ったり。子桓様は気まぐれだ。
「今日は、楽しかったですか…?こんな風に、あなたと過ごせたのは久しぶりで」
執務も落ち着き、書簡は片付けた。
久しく会えていなかった師や昭に、先程少し見まえた。
書簡を取りに来てくれたのが師と昭だった。
私の様子を見て泣きそうな顔の師と、泣きそうな顔で笑う昭。
二人の頬を撫でて、少しだけ話をした。
「父上」
「父上っ」
「久しいな…。春華はさぞや、私を怒っているだろうな」
「いいえ。父上の好きなようにとの仰せです」
「ちゃんと食べてます?寝てますか?
帰ってきて、なんて今は言いません。けど、父上の帰るところはちゃんとありますからね」
「すまぬ。心配を」
「この書簡はお任せ下さい。さぁ、父上はお戻り下さい」
「あ」
昭がふと口を開ける。
背後から抱き締められているような気がして振り返ると、子桓様が私の腰を抱いていた。
「陛下」
「仲達を返せずにいたな。今宵は返そうか」
「っ」
「いいえ。司馬仲達は、陛下のものでしょう」
師が最敬礼をし、私達に頭を下げた。
弁え過ぎている師もどうなのかと心配になる。
くしゃと、師と昭の髪を撫でて子桓様は苦笑する。
また別の日の夜。
書簡を持たせた師と昭を見送り、扉を閉めれば二人の世界になる。
私の腰に抱きついたままの子桓様を寝台に戻すも、大人しくしてくれない。
「子桓様」
「恋しい」
「ずっと、お傍に居るでしょう?」
「触れていなければ、淋しい」
子供のように駄々を捏ねる子桓様に負け、そのまま寝台に入る。
寝台に横になるなり抱き締められて動けない。
「仲達」
「もう子供ではないのですから」
「…すまなかった」
「?」
「…。」
「どうされました」
随分と私に触れたがる様子に笑う。
今日は随分と調子が良いようだ。それだけでもう私は安心していた。
「お前がいないと、淋しいと思った」
「私も、そう思います」
「私の人生において、仲達との出会いは幸運であった。
もし、お前に出逢えていなかったら、きっと今の私はない」
「運というお話で片付けられてしまうのですか」
「何だ。お前の欲しい言葉が他にあるのか」
「あなたなら、もうお解りでしょう」
「運命だとか、そういう言葉を望むのか仲達」
「あなたの甘美な夢想にお付き合いしたまで」
「夢想ではなく、現実であろう?」
「…どうしました。今日は随分とお喋りですね」
「…もう少し色々と話したい事があったのだが。お前が疲れているだろうと思い、寝かせたかった」
「なれば今宵は存分にお話し下さい」
お前と話がしたいのだ。
子桓様はそう仰ると私の頭を腕に乗せて横になる。
胸に埋めては顔が見れないと思ったのだろうか。
事務的な報告から始まり、張コウや徐晃など、将軍達の話。
曹丕様の嫡子、曹叡殿のお話。
私の子供達の話。
その内容で少し、子桓様は話題を掘り下げた。
「仲達と婚約したという事は…、師や昭は私の子になるのか?」
「っ、それは、その」
「なれば叡は、仲達の子だな」
「絶対に、公でそのような事は仰らないで下さい」
「そう思えば、少し愛しさも増す」
「曹叡様に、ですか?」
「師も昭も歳が近い。仲達の子らは何れも才がある。
いずれは仲達のように、愚息を補佐してくれるだろうか」
「それは、つまり」
「叡を太子に立てる。今更、だろうか」
「あなたがそうお決めになったのなら、お言葉のままに」
「今まで冷遇していた。私はお前のように、良き父ではなかった」
「私とて、良い父だったとは思いません。家族を蔑ろにしているのは軍人の定め。
故に、私は子にはどうにも甘いようです」
暫し親と子の話をした後、一息ついて体を起こした。
今まで冷遇していた曹叡様を太子に立てるとは思いもよらなかった。
仲の良い親子とは言えなかったが、曹叡様はこの人によく似ている。
漸く後継に立った曹叡殿は、昔の子桓様を見るようだった。
突然の物言いに、どうした事かと首を捻る。
決めておかなくてはならない後継の話とは言え、後事を話すのは悲しい。
今仰った言葉を遺す為に、書簡に筆を走らせて後事の取り決めを書いた。
沈んだ表情をしていた事が知られてしまったのか、子桓様は私を胸に埋める。
「もし叡がお前に惚れてしまったら、赦すなよ仲達」
「何を仰います。このような老い耄れに」
「何処が老いたと言うのだ。よいか、誰にも赦してはならん」
「私が浮気者に見えますか?」
「見えぬが。お前はもう少し、人には魅力的に見えると自覚せよ」
「仰る意味が解りかねます」
「綺麗だと、言っている。口説いているのだぞ?」
「なっ」
手を取られ、指先に口付けられる。
背後から抱き締められて、今度は口付けを受けた。
体温が感じられてとても安堵し、目を閉じる。
その体温が少し高い事を感じて、額に掌を当てた。
「子桓様…、少し休まれませ」
「大事ない」
「これを書いたら寝台に行きましょう」
「…仲達も来てくれるか?」
「あなたがそうお望みなら、そうしましょう」
「うむ」
書簡を早めに片付けて子桓様を寝台に連れて行く。
またぶり返したのではないかと気が気でなく、濡れた布巾を額に乗せて寝かせた。
子桓様は私の袖を離さず、布巾で目元を隠して笑っていた。
「…仲達」
「はい」
「契りは、まだだったな」
「?」
「幾度も抱いているが、初夜は」
「っ、あ…、そういう、意味で、です、か…?」
「近ぅ」
「今宵は、駄目です…。あなたの体調が優れません」
「では、明日…」
「もう少し、体調が良くなったらにして下さいませ」
「…そうか。今は眠ろう」
「はい。おやすみなさいませ」
何を急いているのだろうか。
微笑を浮かべていらっしゃるが、どうにも子桓様のお言葉に余裕が感じられない。
傍に控えていると、子桓様に髪を撫でられた。
初夜とは言えど、初夜ではなく。
幾度も体を貫かれて、抱かれて、中に注がれる。
私はもうとっくに、身も心も子桓様のものだ。
それなのに、不安がる子桓様が愛おしい。
体に限界を感じるも、子桓様の為に好きにさせていた。
私の思いを察してか、子桓様も遠慮をする事はなかった。
「っ、も、…子桓さ、ま」
「目を閉じれば、思い出す」
「?」
「紅い衣装のお前も良い。だが、仲達は紫紺が似合う」
「ふ、ぁ、…!」
「もう、辛かろうな…。また無体をしてしまった」
「いいえ、いいえ…子桓様、もっと、あなたが欲しい…」
「っ、どうした…?」
「…解り、ませ…ん…」
ここ数日の体調不良といい、後事の話といい。
私との伉儷の約や急いた初夜など、色々と思い当たる事がある。
死期を悟ったかのような子桓様の行動に、胸が苦しくなる。
子桓様を求めて体を捧げ、快楽に溺れた。
だが、心はとても痛くて堪らなかった。
事後、体を清められて寝かせられる。
いつの間にか泣いていたようで、子桓様に涙を拭われた。
それだけでは涙が止まらず、子桓様は私に寄り添い口付けをして下さった。
「子桓様…」
「何だ」
「…私を、一人にしないで、下さい…」
「誰がお前を一人にすると言うのだ、仲達」
「ですが」
「もう休め。泣くなら私の胸で泣け」
「…ふ、っう…」
「人の上に立つ者、泣き顔を晒してはならぬ。
そう言ったのはお前だが…、仲達の泣き顔は私だけのものとしよう」
「…何、です…。もう…、全部、あなたに、差し上げました…」
「ふ…、泣くとお前は愛い。仲達」
「子桓様っ」
あなたのせいで泣いているのだ。そう言って軽く胸を叩く。
子桓様の指で涙を拭われ、幾度も落とされる口付けにやはり涙が止まらない。
「愛おしい…、仲達」
「…私とて」
「言葉で伝えよ、仲達」
「愛しています…。あなただけです…」
「ふ…、私は今、最高に幸福を感じるぞ仲達」
涼しい顔で愛を囁く子桓様とは裏腹に、私の心は痛むばかりだった。
私だってずっとこうしていたい。
あなた以上に幸福に思う事なんてない。
時間がない事なんて、互いに解っていた。
「父上、気がつきましたか?」
ふと、昭の声が聞こえて目を覚ました。
どうやらずっと、あの頃の夢を見ていたらしい。
薄ぼんやりとした視界の中に、師と昭が見えた。
随分と長く眠っていたらしい。
「…、何だ。結局、私は…」
「父上?」
「否、何でもない…」
子桓様は亡くなり、後事を継がれた曹叡様も私より先に亡くなった。
何とも短命な曹家に振り回された私の人生も、あと少し。
枕元に駆け寄る師と昭の頬を撫でて、指で目尻をなぞる。
「お前達は…、私より先に…、いなくなってくれるなよ…」
「何を仰っているのですか」
「遺されるというのは、淋しいものだ…」
「まだ起き上がっては」
「少し、行きたいところがある」
まだ歩ける。
懐かしく愛おしい日々の夢を見て、玉座を見たくなった。
あの御方の思い出に浸りたくなった。
師や昭が私を止めようとしたが、命令だと言えば二人とも大人しくなった。
「その命令は…きついです、父上」
「…、少し一人になりたくてな」
「今、お一人に?馬鹿な事を仰らないで下さい…」
「大丈夫だ師。遠くには行かぬ」
行きたい場所を告げると、その直ぐ近くまでは供をしたいと言う。
白い寝間着に紫紺の官服を羽織って、靴を履いた。
久しく歩くので、幾分慣れるのに時間がかかった。
通りすがる庭も、歩く回廊にも。手摺ひとつにさえ、思い入れがある。
どの景色にもあの御方の姿があった。
思い出に生きた訳ではないが、この景色を愛おしいと思う。
故に、この曹魏を脅かすものは赦さなかった。
玉座の間の門前で師と昭は傍を離れ、私を一人にしてくれた。
今は誰も座っていない玉座の間。
一度はくれてやってもいいと言われた皇帝の椅子。
「何を馬鹿な事を…」
玉座には座らず、その手前に膝を付く。
きっと玉座には、私の唯一の主のあの御方が座っている。
胸の痛みに口元を覆うも、覆い隠す事が出来ない程に血を吐いた。
今までの胸の痛みを全て吐き出してしまったかのような吐血が、服を紅に染めた。
思えば私が紅い服を着たのは、伉儷の約のあの日以来だ。
「私は今でも、綺麗、ですか…、子桓様」
伉儷の約は口頭で行われ、賜れた物は何もない。
だが子桓様から託されたものは、私が背負うには重い。
今一度血を吐き、地に伏した。
玉座に手を伸ばせば、あの御方が手を取ってくれる気がして手を伸ばした。
手に触れられている事に気付いて目を開ける。
玉座に腰掛けているのは私ではない。ふわりと体が浮いて、腰を支えられた。
「無理をしすぎだ、仲達」
「あ…」
「大丈夫だと言う奴ほど、そうでない場合が殆どだからな」
視界に入った子桓様の姿に、ただ無言で胸に埋まる。
またあの日々の頃のように、子桓様は私を横に抱き上げていた。
いつもの様に眉間に皺を寄せたまま、微笑をなさる。
玉座から離れて、奥の間に進む。
子桓様に連れられて扉を閉めれば、二人の世界になる。
「どうした?」
「…いえ、何でもありません」
「未だ蜜月。私に存分に甘えたらいい。次は仲達の番だ」
「甘え方が…解りません…」
「なれば甘えさせてやる。覚悟しておれ」
「はい…、未だ蜜月…ですものね?」
「ずっと蜜月で止まっていた、な」
「ええ。蜜月の私を一人にして…酷い人です」
「…伉儷の約は違えぬ。辛くさせたな」
「嘘つき」
子桓様の頬を抓り、漸く笑えた。