「是れを知るを是れを知るとなし」
「知らざるを知らずと為せ」
「お見事。流石ですね」
「論語は得意だ」
仲達の言葉に己の言葉を重ね、二人で居る事を愉しむ。
良い声で書簡の文字を読み上げる。
仲達が手にしているのは論語であろう。
私は私とて、仲達の膝の上に横になり書簡を読んでいた。
「何故に今更、論語など」
「貴方様の事を、もっと知ろうかと」
「私の事?どういう意味だ?」
仲達の膝の上に甘え、顔を見上げた。
私が見つめると仲達が書簡を置き、私の前髪を払う。
「まだ、私の知らぬ事ばかりでございます」
「私はお前の全てを知っていたつもりだが」
「未だ、全ては見せておりませぬ」
「ほぅ?閨でのあれは全てではなかったと言うのか」
「っ、馬鹿、め…がっ!何を仰って…!」
仲達は頬を染め、顔を背けた。
私は仲達のそのような、素直でない仕草が好きだった。
眉を寄せ、横顔に指を添えて体を起こした。
此処は私の室。仲達にだけ入室を許した部屋だ。
「お前の全て、私に見せてはくれぬのか」
「私は未だ、戸惑っているのです」
「未だ、とは?」
「主従としての月日が長すぎました…。未だ私は貴方様の事が解らない」
「私の何が知りたい」
「…恋愛の知識が足りませぬ」
「何だ。私に愛を囁けと?お前相手であればいくらでも」
「恋詩など詠まれても、私には解りません」
「これだ。ままならぬものよ」
案に仲達が恋詩をねだっているのかと思ったのだが、そんな筈はなかった。
いくら恋詩を贈ったところで、仲達は首を傾げるだけだ。
以前は私の恋詩の腕はやはり父にも弟にも及ばぬのかと肩を落としていたのだが、そうではない。
そもそも仲達は詩を嗜む事がなかった。
「貴方様の好きな論語でも読み解けば、少しは貴方様が解るものかと思ったのです」
「論語は好きだ。だが…、私の前で書簡を読むな」
「何を今更…。私が書簡を持たぬ日など」
「書簡に集中するな。私に構えと言っている」
「ふ…、何です。書簡に妬くのですか?」
「妬くとも。私はお前が思うよりも独占欲が強い」
「ひとつ、貴方様の事が解りました」
「なれば、一つずつ仲達に私を教えるとしよう」
御意に、と仲達は応えてゆるりと笑う。私だけに見せる笑みだ。
その頬に唇を寄せ、仲達の手を私の胸に置かせた。
仲達は小首を傾げて私を見つめる。
「お前と共にあらば私の心は安らいでいる。だが同時に緊張もしている」
「緊張…?何故?」
「…誰ぞに見られたら、お前が困るのであろう?」
「っ…、そう、ですね」
方便だ。
我らの関係などとうに皆には知られている。
仲達だけが、未だ皆に知られていないと思っているのだろう。
私は別に皆に知られても良いと思っているが、仲達が許してくれない。
あくまでも我らは主従であると主張する。
表立って仲達に触れられない。
故に私が仲達に触れる時は、私の室だと決まっていた。
「もう少し恋愛論語を続けるか」
「恋愛論語…?」
仲達と色々な話をしたい。
いつになったら素直になるのやら、と少し溜息を吐いて仲達の顎に触れた。
「主従である時と、恋人である時の境目は紙一重だ。今はどちらだと思う?」
「主従…、でしょうか」
「お前は本当に鈍感だな仲達。…恋人、だ」
そう言い、仲達に口付け背中に腕を回すようにして抱き締めた。
直ぐに離してしまった唇に、仲達から口付けを強請られ首と腰を掴む。
逃げられぬよう、私しか見えぬように深く深く口付けた。
「…っ、は…」
「主従の主として命じれば、お前は従うのか」
「…それが、お望みであれば」
「ふ、だが今は主従ではない。この意味が解るか?」
荒々しく口付けられて、仲達は少し息を上げていた。
目尻に滲んだ涙に口付けるように舌を這わせ、そのまま座っていた長椅子に押し倒す。
仲達の被っていた冠が床に落ちて、黒髪が流れた。
はっ、と仲達が目を見開き私を見上げて胸を押す。
「だ、駄目です。そのような事」
「そのような事とは、どのような事か」
「っ…!」
「私はまだ何もしていないが?」
顎を指でなぞり、少し意地悪をして笑うと仲達は悔しそうに眉を寄せて頬を染めた。
相変わらずこの手の行為には慣れぬようで、いつもながら初々しい。
幾度となく仲達を抱けど、情事に慣れず仲達から誘われる事もない。
そのような事をされたらおそらく私は自重出来ない。
押し倒した衝撃で仲達の胸元の釦の紐が緩んでいる。
この私に押し倒されておきながら、頑なに体を強ばらせて仲達は目を瞑る。
女であったなら、私の首に腕を伸ばし自ずと股を開く。公子である私に女どもは股を開くのだ。
仲達に其れは通用しない。
仲達は公子である事を敬いこそすれ、利用するつもりはないのだろう。
そもそも出世に興味がないと仲達は言っていた。
頑なな肩を叩き、髪を撫でると仲達は漸く目を開いてくれた。
「…何も、しないのですか?」
「何か、されたいのか?」
「そっ、そういう意味ではございませぬ!」
「ふ、お前は変わらぬな…仲達」
私が公子となってから、周囲の人間の態度が変わった。
誰が父を継ぐか、後継を巡って水面下で争いが起きていた。
この私とて殺されるかもしれなかった話だ。
過ぎた話であれ、今も昔も私の前で態度が変わらぬのは教育係であった仲達だけだ。
否、変わった事もあった。
二人きりの時だけ、仲達は私の字を呼ぶ。
それが私と出会ってからの一番大きな変化で、一番嬉しい事だ。
「仲達」
「はい。子桓様」
「ふ…。したいと言えば…、私の願いを叶えてくれるだろうか」
「…何を?」
「お前の鈍感ぶりは天下無双であるな…」
この状況下で気付かぬ仲達に少々呆れつつ、緩んでいる胸元の釦を外した。
どうやら漸く解ってくれたのか、仲達は頬を染めてまた顔を逸らす。
顔は逸らしたままだが、仲達は眉を寄せて私を見つめた。
「これを愛して…」
「?」
「続きは何です。子桓様」
「能く労すること勿からんや。それがどうした」
「…私が子桓様に思う事はそれ、です」
「それは主従として、であろう」
「……私とて、愛して、います」
「!!」
論語の後の余りの不意打ちに、笑みがこぼれる。
私の反応を見て仲達は不安そうに見上げて、私の頬に口付けた。
「…私とて…、私とて…色々考えているのです…」
「解っている。お前の歩幅で良い。私が合わせよう」
「申し訳ありません…。子桓様に…、嫌われぬようにとは思うのですが」
「寧ろ、更に好きになった…。全く何処まで私を惚れさせるつもりだ」
「そ…そのような事…」
「今宵はもう帰せぬな…、仲達」
「…初めから、帰す気などない癖に…」
「ふ、よく己を弁えているではないか」
仲達とて、勿論色々考えてはいるのだろう。
不安にさせているとも思う。仲達なりに悩み選んでの言葉に思えた。
此奴は深謀遠慮という言葉が打って付けの軍師だ。
良く言えば慎重で、悪く言えば臆病なのだ。
恋など、きっと怖くて仕方ないのだろう。
怖がらせるつもりはない。
力や位で虐げるつもりもない。
主従であれ、恋人として私は仲達と平等でありたかった。
「…しても、構わぬか」
「私の主は、子桓様でしょう?」
「命令したい訳ではない…。仲達の言葉が聞きたい」
「…お好きになさい。子桓様」
「ふ。君と在らば…、何も…」
「?恋詩は解りませぬ」
「…何も要らぬ。願わくば只一向、君の隣に」
「??」
「お前が居ればお前以外何も要らぬ、と言ったのだ。この鈍感め」
「っ…、そう…でしたか」
「全く…情緒のない奴め」
申し訳なさそうに眉を寄せたと思えば、頬を染めて赤らめたりと忙しい。
仲達のころころ変わる表情に笑み、今一度深く深く口付けた。