真夜中。
何だかとても怖い夢を見て自分の部屋を出た。
父上が戦に行ったきり、ずっと帰ってこない夢だった。
真っ暗な廊下を走って、父上の部屋に向かった。
寝台に横になる父上の腕の中にもぞもぞと潜り、腕の中に収まる。
母上は別室で昭と眠っている為、この部屋には居なかった。
まだ浅い眠りだったのか、父上は直ぐに目を覚まして何事かと私を抱き寄せる。
「…師?」
「こわいゆめを見ました…」
「兄になったから一人で寝れる、のではなかったのか?」
「いやです、今日はもうこわいです」
「…だから私はまだ早いと言ったのだ。春華は昭と隣の部屋にいるが、私だけで良いのか」
「父上がいい…」
「おいで、師」
兄になったのだからもう一人で寝れる、そう言い出したのは私だ。
一週間と経たなかったが、父上と母上と寝ていたあの頃が恋しくて父上を頼った。
何より父上の傍に居たかった。
まだ早いのではないか、という父上の仰った通りだった。
まだひとりで寝るのは怖い。
父上は私に腕枕をして胸に埋める。
今思えば、お勤めでお疲れの父上に酷い事をしてしまったと思い泣けてきた。
なのに父上の胸の中が温かくて、私の背中を撫でる手が優しくて眠くなる。
「ちちうえ…ごめんなさい…」
「もうおやすみ」
「…ちちうえ、ちちうえ」
「此処に居るぞ」
父上に暫く頭を撫でられて落ち着き、目を閉じた。
翌朝、目を開けると父上が居なかった。
代わりに母上が私を抱き寄せていた。
「母上?」
「あら、起きたの?」
「あにうえ!」
「昭、おはよう。母上、おはようございます」
直ぐ横に昭が居た。
実は先日まで風邪を引いていて、母上が付きっきりで面倒を見ていたのだ。
私と父上は風邪をうつされないようにと離されていたのだが、今日の昭は元気にはしゃいでいた。
「母上、昭はもう平気なのですか?」
「ええ。もう大丈夫よ。ただの風邪。でも念の為、お昼にお医者様の所に行くわ」
「解りました。よかったな昭」
「はい、あにうえ」
小さな昭を撫でた後、周りを見渡した。
やはり父上が居ない。
きっともうお勤めに行ってしまったのだろう。
お勤めが決まってからと言うものの、父上がゆるりと家で寛いでいる姿をここ数年見た事がない。
本当にお忙しいのだろう。
昨日見た怖い夢が現実になってしまわないか不安になった。
着替えと朝食が終わった後、昭と一緒に台所にいる母上の足元にしがみついた。
「どうしたの?」
「父上は、いつ帰ってきますか」
「ちちうえは?」
「そうね。今夜もお戻りが遅いんじゃないかしら。お忙しい方なの。子元は解っているわね」
「はい…」
「子上も大人しくしていてね。走り回っちゃ駄目よ」
「はぁい」
「…そして子元は、もう少し子供らしくするべきね」
「?」
母上は私と昭の頭を撫でた後、昭に大熊猫をあしらった上着を着せた。
上着を着せられた昭が可愛らしい。
付属している帽子をかぶせて昭を撫でていると、後ろから母上に捕まえられた。
「!」
「子元のもあるのよ。ふふ、子上可愛いわね。子元もお医者様のところへ行きましょうね」
「はい」
同じ大熊猫をあしらった首巻きと上着を着せられた。昭とお揃いだ。
昭だけの特別という訳ではなくて、私のも揃えて下さったのが嬉しい。
昭は母上に抱き上げられて外に出る。
まだ長い距離を歩くのは危なっかしいからだ。
私は母上の背を追い掛けて、扉の開け閉めをしたり、荷物を持つ事に務めた。
母上が困っていたら、師が助けてやってくれ。
父上が常々そう言っていたのを思い出す。
お医者様の訪問が無事終わり、母上の荷物を持って先を歩いた。
昭の風邪はきちんと治っているらしい。
父上のお勤め先が見えて足を止めた。
父上は彼処に居るのだろうか。
足を止めて父上が出て来ないか暫く立ち尽くして見上げていると、母上と昭が追い付いた。
「母上、彼処に父上は居ますか?」
「さぁ、どうかしら。でもお勤めをしているだろうから静かにね」
「はい」
「ちちうえ!ちちうえ!」
「何だ何だ?」
「子供の声?」
「なっ、お前達、来ていたのか?」
「静かにね、って言ったのに子上ったら」
「仲達、行ってやるといい」
子上が騒いだ為、賈ク殿が格子を上げて見下ろし、郭嘉殿も窓辺で肘を付いた。
慌てふためく父上の横に曹丕様も見えた。
曹丕様の計らいなのか、今日はもう終いにしろと言われたらしい父上が階段を走って下りてきた。
母上の元に歩み寄り、昭を抱き上げる。
「ちちうえ!」
「何事なのかと心配した…」
「ごめんなさいね。子上が旦那様を呼んでしまったから」
「ちちうえとあそびたい」
「しかし、その」
「いいよ。今日は早くおかえり。此方の皇子様が泣く前にね」
「誰が泣くか!」
「あははぁ、可愛らしいお子さん達だね司馬懿殿」
「それより、綺麗な奥方だね司馬懿殿。奥さん、良かったら今度お茶でも」
「郭嘉殿!」
「素敵な軍師様からのお誘いはとても魅力的だけど、嫌よ。私は旦那様を愛しているの」
「ほぉう?」
「なっ、おまっ…」
「見せつけてくれるね…、うん。好きだよそういう女性」
「駄目です。これは私のです」
「あら」
「仲達、早く行け」
私達を見下ろす賈ク殿と郭嘉殿にそう言って、曹丕様に頭を下げる父上を見上げた。
昭をまた母上に預けると、荷物を持つ私ごと抱いて頭を下げて門を出た。
父上と母上がお三方に頭を下げるのを見て、私も頭を下げた。昭は手を振っていた。
父上に抱き上げられてとても嬉しい。
私から荷物を奪って腕に掛けて、母上と何やら難しい話をしていた。
父上の肩に埋まってお話を聞く。
「子供の内に病気は済ませてしまった方が良い。
大人になってからだと、取り返しの付かない事になる」
「そうね。でも大したことがなくて何よりだわ」
「そうだな…。師よ。春華や昭の面倒を見てくれて礼を言うぞ」
「はい」
「でも旦那様、子元は少しいいこすぎるわ。
もっと子供らしくてもいいと思うの」
「そうだな…。我慢をしすぎだと思う」
「あと、先程の旦那様の言葉は嬉しかったわ」
「…っ、そ、そうか。ところで春華よ」
「なぁに」
「師と昭の服はいつ買ったのだ…」
「可愛いでしょう?」
「うむ…」
父上が私を撫でて、これ以上ない程に見つめていた。
小首を傾げると頬に擦りつかれてくすぐったい。
父上が居るのでせっかくだからと、真っ直ぐ帰路にはつかず少し食べ物屋に立ち寄る事になった。
長居をするつもりはないようで、母上が足早に必要なものだけを買いに行った。
私と昭と、父上は木陰の椅子で留守番となった。
はしゃぐ昭を捕まえて、父上は昭の心配をしていた。あと頬ずりもしていた。
「…可愛いなお前達」
「?」
「師もおいで」
父上の隣に座らせられて、昭と手を繋いで三人で母上の帰りを待った。
ふわりとよい香りがして見上げると、父上が私の肩に凭れている。
とても驚いて父上を起こすと、どうやらうつらうつらと転寝をしていたらしい。
寝不足の父上が心配になって、椅子の上に正座をした。
「父上、父上」
「うん?」
「師の膝を貸しますので、おねむりください!」
「…ふ、いやいや」
昭と共に私も抱き上げて父上は蹲る。
ぎゅうと抱き締められた。父上の体温が移ってとても温かい頬。
父上は美しくて、優しくて、私はずっと父上が愛しい。大好きだった。
だから、あの夢のような事になってほしくない。
「…師も昭も大きくなったな。本当にいつの間にか」
「父上?」
「ちちうえ、どこかいたいの」
「否。こうしてお前達を抱き締められるのも少なくなるかと思ってな」
「父上、何処か行ってしまうのですか」
「…戦に行くやもしれぬな。さて、どうなる事やら」
他人事のように父上は笑う。
先程、賈ク殿や郭嘉殿、曹丕様が集まっていたのはそのせいかもしれない。
母上が戻ってきた。
父上は母上にもその事を話したが、母上は平静に、そう、とだけ言った。
「…お前がそのような反応で助かる」
「あら、薄情な女と言いたいのかしら」
「しっかりと家を任せられると思うてな。
まぁ、私も死ぬつもりはないし、何せ魏軍だ。負ける気はしない」
「では、曹丕様の教育係の任は外されるのかしら?」
「否、あの方も危うい子。あの方の兄君が亡くなられた事もある…。
師に似て、無理をしてばかりだ。痛くても泣けない子になってしまった。
此度の戦、曹丕様の供として行くが…戦の混乱に乗じて殺されはしないかと危惧している」
「でも、黙って殺される旦那様ではないでしょう?」
「ああ、寧ろ…そのような輩は締め上げて、返り討ちにしてくれるわ。
私はあの御方の傍に居るが、今は…お前と師と昭の傍に居たいと思う」
「そうなさって。旦那様の帰る場所はいつでも此処よ」
父上と母上のお話は何だか難しい。
でも父上が戦に行くという事は解った。
母上に手渡された肉まんを父上の肩口で食べながら、何となく話を理解した。
大好きな肉まんが美味しくないと思ったのはこれが初めてだった。
父上は一日中家に居て、私や昭とずっと遊んでくれた。
いつもの日常に父上のいる景色。
幸せで堪らなくて。きっと私はずっと笑っていた。
昭に負けず私も一日中父上の傍を離れなかった。
楽しい時はあっという間に終わり、もう眠る時刻となった。
おやすみなさい、と夜のご挨拶をして居間を出る。
父上と母上がお話しをしているのを見て、父上はきっと母上と沢山お話をしたいのだろうと思い私は部屋に篭った。
母上とて、父上とお話しをしたいに違いない。
書簡を寝台に広げて、月明かりで文字を追った。まだ難しい字は読めない。
早く大人にならなければ。早く父上よりも大人にならなければ。
沢山書簡を読んだら知力がつくだろうか。
誰かに教えを請えば武力もつくだろうか。
私は余りにも小さくて、弱くて、非力だった。
だからもっと強くならなければ、父上を護れない。
怖い夢を見たから尚更怖くて、ああなってしまわないか泣きそうになる。
「これ、師」
「!!」
「目を悪くする。それにこれはお前には未だ早い」
「でも、少しならよめます」
「いつの間に…。さすがは私の息子だな」
「はい…」
後ろから父上の声がして振り返ると、卓から私を抱き上げて寝台へ移動させられてしまった。
額や髪を撫でられて目を瞑る。
父上はそのまま私の寝台の布団を引き寄せて横になった。
首を傾げて見上げていると、父上が私の頬を撫でる。その手はとても温かかった。
「今宵は私が師の部屋に泊まっても良いか」
「えっ?」
「師が良ければ、だが。少しお前と話しがしたい」
「はい!」
「眠くなったら、眠るといい」
「…父上、いなくなっちゃいやです…」
「…そうだな。その話をお前にもしなくてはならんな…」
少し寒い、と父上は私に腕枕をして引き寄せた。
この時代のお話、父上のお仕事の話、父上のお考え、戦の話。
家族の事。
父上なりの優しい言葉で私に色々なお話しをしてくれた。
私は私なりに色々と考えて、素直な考えを父上に伝えた。
本当は行ってほしくない事も、怖い夢を見た事も父上に伝えた。
父上は私の言葉をひとつも否定せずに、ひとつひとつ丁寧に聞いてくれた。
私の心の叫びだったのかもしれない。
父上が好きで好きで、仕方なかった。
気が付けばぽろぽろと涙が零れて止まらない。
父上の白く細い指が私の涙を拭うも、涙はぽろぽろと零れた。
父上は戦に行かされるのではなく、行かなければならない、らしい。
それに私を誰だと思っている?と父上は自信たっぷりにそう仰った。
「父上は、私の父上です…っ!」
「ああ。勿論だとも。私が居ない時は師が家を護ってくれようか」
「は、いっ…!父上をずっとおまちしていますっ…!
大きくなったら、私が父上をまもりますから…、だから、ちちうえぇ…」
「…よかった。師はきちんと泣ける子で居たようだ…」
「?」
「ふ、いや何でもない。困った皇子様がいるものでな。
師が似てしまわないかと、とても心配をしていた。
師よ。私の子なのだから、もう少し私に我儘を言ってみてはどうだ?」
「わがまま…」
「無茶なものでなければ、叶えてやろう」
私の涙を拭いながら、父上は私を抱き締めてくれた。
小さな手で父上の着物を掴み、ぎゅうと抱き締める。
「帰ってきて、ください」
「そうだな。まず目前の問題はそれだ。約束しよう」
「きっとです。あと…父上…」
「うん?」
「…まだ、父上といっしょにねていたい、です…」
父上に本当の気持ちを言う事がこんなに恐ろしい事だと思わなかった。
困らせてしまわないだろうかとか、ご迷惑にならないだろうかとか。
昭は寂しがらないだろうかとか。
そういう事ばかり考えて父上を見上げた。
私の頬を撫でて父上は苦笑する。別に怒られもしなかった。
それどころか父上はとても嬉しそうに笑う。
「…全く。大人びて無理ばかりしおってからに。初めから無理だと思っていたわ」
「だって、私は…兄、です…。兄であるなら、弟に…ゆずらなければ…」
「師は、師だ。この際、兄だとかはどうでもよいわ」
「っ、…」
「お前はお前だ、師。子供である時間は短いぞ」
「私は、ずうっと父上の子どもですよ…!」
「ふ…、私を言い負かすとは」
父上は嬉しそうに笑い、私を腕に抱いた。
そのお顔を見て私は嬉しくて、父上に手を伸ばして抱きついた。
「師よ…、離れん、か…」
「嫌です」
「何してんですか、父上」
「師が…、離れてくれぬのだ…」
「何してんですか、兄上」
昭の声でふと我に返り、寝台にて抱き枕のように父上を背後から抱き締めている事を思い出した。
暫くこうしていたらしく、父上が疲れ切っている。昭が笑いながら父上を起こした。
ふと、昔を思い出して再び父上の腰を引き寄せて埋まる。
昭ごと父上は寝台に引き戻されて、父上を胸に埋めて正面の昭を見据えた。
当時幼子だった昭は、私と父上の二人きりでした約束を知らない筈だ。
子供らしくもう少し甘えろ、と。私と父上の約束。
「怖い夢を見たのです、父上」
「っ、以前も聞いたような台詞だ」
「台詞じゃないです父上」
「兄上、またですか?」
父上が遠征に行かれると言う。しかも曹丕様とだ。
だから私は駄々をこねて父上を捕まえて寝台に蹲っていた。
甘えてもいい。過去、私にそう言ったのは父上だ。
「寂しいのです。父上」
「こ、れ…、お前、いくつになったと」
「歳など関係なく、私は貴方の子供です父上。甘えていいと言ったのは父上でしょう」
「っ、く…、いや待て。時と場合を考えろ」
「あーあ。父上、ふ…俺は兄上に敵いませんよ」
「何を笑っている昭」
「ははは、いえいえ。兄上って本当に父上が好きですよね」
「大好きです父上」
「だから、時と場合を」
「あらあら、皆仲良しね」
ふと背後に聞こえた母上の声に背筋が張り詰めて、振り向いたら頬を抓られていた。
でも私はやはり離れたくなくて、頬を父上に撫でて貰いながら再び父上を抱き締めた。
父上も何処か、嬉しそうに笑ってくれていた。