あの方は、皇帝。
もはや私の胸におさまっていた小さな王子ではないのだ。
あの方は皇帝になられた。
遠い。
「邪魔だな、この冠は」
じゃら、と御顔の前に並んだ珠を手で払われながら玉座に座る。
いくつもの粛清の後、手に入れた玉座。
先君、曹操が座らなかった玉座。
「皇帝、と言えど私は変わらぬ」
邪魔になられたのか、冕冠を脱いでしまわれた。
「陛下、せめて玉座におられる際は我慢下され」
「子桓と」
「…陛下、恐れながらもうお呼びすることが出来ません」
そのようなこと出来ようがなかった。
天子とは人の形をした天、と人は言う。
しかし子桓様は、人である。
人であることを辞めたわけではない。
確かに、ここにおられるのはあの自信家で嫉妬深い我が主君だ。
「仲達、近ぅ」
「恐れ多い…もはや私はその段に上がることはなりません」
「良い。お前だから言っているのだ。ならば私が下りよう」
「なっ…お、お待ちを!」
下りようとする子桓様を止め、恐悦しながら玉座の前に跪いた。
顔の前に、子桓様の手が下ろされる。
「録尚書事、司馬懿」
「…はっ」
もう仲達と、お呼ばれすることも叶わないのだろうか。
そう思うと少し淋しかった。
「来い」
「えっ、ちょっ…陛下っ」
子桓様に急に腕を取られ、玉座に引き寄せられる。
気付けば子桓様の膝に座らせられていた。
「お、お離しください!誰かに見られたら」
「仲達」
「あ…」
仲達と呼ばれて、胸が締め付けられた。
いつも呼ばれていたはずなのに。
「…もう仲達とお呼び下さいますな、司馬懿と」
「仲達」
「陛下、司馬懿と」
「仲達…」
「…子桓様…」
そのような淋しそうな瞳で見つめられては。
負けた気がして、子桓様の胸に埋まった。
自分の冠を脱がされ、髪を撫でられる。
少し顔を見上げれば子桓様の顔が近かった。
「それでよい。お前はそのままでいてくれ」
「皆に示しがつきませぬ…」
「気にするな。お前も含めてこの魏国は私のものだ」
顎を掴まれ、唇を塞がれる。
ああ、ここは玉座だというのに。
目を瞑った。
「…このまま、続きをここでしても?」
「そ、それは本当に駄目ですっ」
「いつもの調子が出てきたな」
「なっ!からかいなさるなっ」
子桓様が笑ったので、つられて笑った。
ああこの方は天子になられても、人であった。
変わらぬ、私の子桓様。
「玉座の座り心地はどうだ」
「子桓様しか見えませぬ」
「いずれお前に与えてやってもいいのだがな」
「馬鹿なことを仰いますな」
玉座など、いらぬ。
私の居場所はあなたの傍であれ玉座ではない。
「あなたは、私の主君。私があなたの傍におります」
「ほぅ、可愛いことを言ってくれる」
「子桓様」
「何だ」
「…淋しゅうございました」
「ほぅ」
伏せ目がちに瞳をとじれば、子桓様に引き寄せられ胸に埋められる。
ああ、私は何を言っているのだ。
淋しい、などと。
「私が皇帝になったとて、私の帰る場所は変わらぬ」
「帰る場所とは…」
「私の帰る場所は、仲達の傍に」
そう言われ、額に口付けられる。
幸せが込み上げた。
「魏皇帝、曹子桓様」
「何だ、司馬懿?」
尤もらしくお互いに業とらしく呼び合えば、瞳にお互いの顔が映る。
「お慕いしております」
「ああ、いつまでもそうありたい」
「いつまでも、そう致しましょう」
「私の夢を聞いてくれるか、仲達」
「何なりと」
天下を治めたら、変わらぬお前と共に生きたい。
それが子桓様の夢だった。
玉座、国、天下、全てを手に入れても私を選んでくださるのか。
「その夢をお叶えするため、私はこれからも智略をお見せしなくては」
「ああ、そして戦が終わったら私の元に戻るのだぞ」
「御意に、我が君」
玉座の上で、子桓様に口付けを。
私だけの子桓様。