きらきら

凄く淋しいんだ。




そう私が呟いたのが聞こえている筈なのに、司馬懿殿は黙々と書簡に筆を走らせるのを止めない。

殿がいない。
夏侯惇殿もいない。賈ク殿もいないし、曹丕殿もいない。
私達は留守を任されていた。

主将は張遼殿になるだろうか。
殿が主だった各々方を連れて戦地に向かって早ひと月。
もう戦は終わったらしいけど、なかなか帰ってこない。


長雨で川が氾濫して、道が無くなったとの報を聞いたのが先日。
ついでに周辺の村々の土地の整備もしてくるとの事だったから、帰りはもう少し遅くなりそうだ。
殿は相変わらず徹底的にやらなきゃ気がすまない人だから仕方ない。

暇を持て余した私の話し相手になってくれる人を探してうろうろと城内を歩いていた。
誰だっていい訳じゃあない。



そんな折に雨を見つめて溜息を吐く司馬懿殿を見つけた。

「構ってくれないと死んでしまうよ」
「っ、それは困ります」
「やぁ、漸く私と話してくれたね。嬉しいよ」
「何ですわざわざ。私でなくとも良いでしょうに」
「嫌だった?」
「大人しく寝ていなさいと言っているのです」
「はは、ありがとう。私は大丈夫だよ」

司馬懿殿がまさか私の病の心配をしてくれているとは思わなかった。
しとしと降る雨を見上げて司馬懿殿はまた溜息を吐く。

「君も淋しいんだね」
「っ、誰が」
「そんなに暗い顔をしているからさ。大丈夫。これは直ぐに止む雨だからね」
「通り雨でしたか」

司馬懿殿の胸中の中に居る人が透けて見える。
その姿はいじらしく、随分と解りやすい反応だった。

「ねぇ、司馬懿殿。今宵…私と一緒に寝てくれないかな」
「っ、な、何を馬鹿な事を。子供でもあるまいし」
「先日天蓋を新しく変えたんだ。天井に穴を空けて、空が見えるようにしたんだ。
 網を張ったから虫も入らないよ。夜空が凄く綺麗だから君に見せたいと思ったんだけど、駄目かな?」
「…貴方はそうやって、いつも女性を口説いていらっしゃるのか」
「まぁ、色男だからね」
「…左様で」

よく言うわ、と司馬懿殿の顔に書いてあるのがおかしくて笑った。
司馬懿殿は話していて本当に面白い。それに綺麗だから見ていて飽きない。
お高く澄ましているのかと思ったけれど、そうでもないみたいだ。
司馬懿殿は厳しい顔をするけれど、いつも何処か優しい。

余り気付かれていないみたいだけれど、司馬懿殿が優しい人だって言うのは見抜いている。
この人はお願いされたら断れない口だ。

それに司馬懿殿が天文学に通じ、星が読めるのも知っていた。
残業中の司馬懿殿はきっと、今日は執務室に泊まるつもりなんだろうって事も解っている。



司馬懿殿にも待ち人がいる。きっと会いたくて淋しくて堪らないんだろう。
雨が憎くて仕方ない筈だ。司馬懿殿はそういう顔をしていた。

だから、声をかけた。

「否と言えば、貴方はどうなさる」
「そうだね。じゃあ、次の策は…攫っちゃおうかな」
「それは策ではありますまい」
「はは。そうだね。でもきちんと寝台で寝た方がいいよ?」
「…お言葉に甘えても、宜しいでしょうか」
「おや、珍しいね」
「どうせ断っても無駄だと、思ったもので」
「うん。よく解っているね。褒めてあげよう」
「…少々お待ち下さい。もう直ぐ終わります」

卓に肘を付いて司馬懿殿の執務を見ながら、執務の収束を待った。
よく見ればこれは曹丕殿の書簡だ。
司馬懿殿はどうやら、曹丕殿のたまった書簡の整頓をしているらしい。
書簡が山積みになっていないのも司馬懿殿のお陰なんだろう。

「…優しいんだね」
「別に私は、供として働いているだけです」
「では私も、私の朋友にもう少し気を使ってあげるべきかな」
「朋友?」
「曹操殿だよ。彼の部屋は書簡が山積みになっていたなぁ」
「…ああ」
「友として、手伝ってあげようかな」
「どうか余りご無理なさらずに」

司馬懿殿が書簡を包むのを見て部屋を移動し、寝間着を貸した。
私に一言断りを入れて、司馬懿殿は冠を取り官服を脱ぐ。
細い色白の肌は傷ひとつなく、髪紐が解かれた長い黒髪はとても美しかった。

曹丕殿が惚れ込むのも、よく解る。




背後に回り司馬懿殿の肩に上着を掛けて、腰を引き寄せた。
見た目以上に、やっぱり細い。

「郭嘉殿?」
「ちゃんと食べてる?君の上司としてちょっと不安になるんだけど」
「食べてます」
「あ、雨が止んだみたいだよ。ちょっと待ってて」

天蓋の戸を外して、網を張った。
やっぱり先程のは通り雨だったみたいだ。

私が手招きして司馬懿殿を呼び、寝台に横になって隣を叩いた。
明らかに警戒している様子に笑う。

「手を出す気はないよ。曹丕殿じゃないんだから」
「曹丕様とは、そんな」
「友でも供でもないんだろう?知ってるよ。今更な話さ」
「そんなこと」
「おいで。君と星が見たいんだ。私に教えてくれるかな」
「はい…」

少しは警戒を解いてくれたのか、司馬懿殿はしずしずと私の横になって天蓋を見上げた。
雨上がりの綺麗な星空がきらきらと輝いていた。
司馬懿殿は私に布団を掛けた後に天に指をさして、星々の名を教えてくれた。

その横顔を肘を立てて見ながら、夜風に目を閉じた。

星を語る司馬懿殿の声が耳に心地良い。
司馬懿殿は、何かを人に教えるのが上手いみたいだ。

曹丕殿もそうやって育ったんだろう。


「綺麗な先生だしね」
「??」
「何でもないよ。さて、明日は晴れるかな」
「長雨はもう終わったと思います。今は気候が不安定なので何とも」
「そうだね。晴れて、曹丕殿が早く帰って来たらいいね」
「はい…」
「はは。やっぱり淋しかったんだね」
「あ、違っ、違います。私は仕事がたまっていくのが嫌なだけで」
「はは。では星を見ながら恋の話をしようか。双七の日だったしね。
今は私が曹丕殿の代わりになるよ」
「結構です…。もう寝ます」
「話してると淋しくなるよね。ごめんね」

曹丕殿の名前を出す度に司馬懿殿の瞳が揺らいでいた。
ああ、本当に会いたくて堪らないんだね。
名前を思い浮かべるだけで色々思い出してしまうのだろう。
司馬懿殿は深く溜息を吐いて私に背を向けてしまった。

背を向けたままの司馬懿殿の髪を撫でて謝罪の言葉を述べると司馬懿殿はすんなりと許してくれた。
というか、私の事など眼中にないのだろう。

本当につれない。
きっと私が司馬懿殿に向けている好意も気付いていないのだろう。

「曹丕殿は無事だよ。殿の文にそう書いてあった。
 どうやら戦で活躍したみたいだ。雨が止んだから、もう直ぐ帰って来るよ」
「郭嘉殿」
「うん、なに?」
「貴方、一応病床の身なのですから私に構わずもう寝て下さい」
「嫌だよー。せっかく二人きりなんだから」
「そういう言い回しは止めていただきたい」
「はは。司馬懿殿、好きだよ」
「…?」
「いや、何でもない。私も早く殿や賈ク殿に会いたいな」

司馬懿殿が呆れた顔をして溜息を吐き、私に振り向いて布団を更に重ねて掛けた。
ぎゅう、と押し潰されるような気がして顔を上げた。
どうやら話してばかりでなかなか眠る気のない私を叱りに起き上がったらしい。

「潰れちゃうよ」
「大人しく寝なさい!」
「はは。何だか司馬懿殿が母親のようだね」
「誰が母親ですか!」
「…、あ、ちょっと待って」
「?」

夜空を背にして、さらさらと流れる司馬懿殿の黒髪がとても綺麗だった。
その光景に気付いて髪に触れ、身を起こして空を見上げた。

司馬懿殿はころころ表情が変わる。


「君の黒髪、夜空のように綺麗だね。私は好きだな」
「…女のよう、とは言われませぬか」
「私は美しい人が好きだな。生き様が美しい人は特に好きだね」
「郭嘉殿は」
「うん。何かな」
「郭嘉殿の金色の御髪はよくお似合いで、星の輝きのようで好きです」
「え…?」
「おやすみなさい」

司馬懿殿が私の頭を撫でて、また布団に丸まり目を閉じた。
私の事をそんな風に言ってくれるなんて嬉しくて、思わず司馬懿殿の肩に身を寄せた。
むすっとした顔をしながらも、隣に横になる事を許してくれた。
そんな司馬懿殿の頬を指で突いて振り向かせつつ笑う。

「ねぇ、もう一回言って」
「子供ですか…、もう。貴方は私よりも年上でしょうに」
「いいじゃない。もう子供達も少しは大きくなったでしょ」
「まだ手が掛かります。何かと大変で」
「でも、可愛いでしょ」
「ええ。可愛いです」
「はは。親馬鹿だね。じゃあ今度は家に帰らないとね」
「そうします」

子供の事をとても嬉しそうに話す。でもその顔にはどこか影があった。
少し気になりつつも、眠くなってきたので司馬懿殿の横で目を閉じた。






真夜中だと思う。
すすり泣くような声が聞こえて目を開いた。
その声の主は、やはり私の隣の人だった。

声を殺したように泣いている、ように見えたが司馬懿殿は眠っていた。
何か怖い夢でも見ているのかもしれない。

「…子桓、さま」
「はは。敵わないな…。可愛い人だ」

寝言で呟いた言葉は曹丕殿の字だった。
司馬懿殿はきっと曹丕殿の夢を見ているんだろう。

夢でもこの人は曹丕殿のものらしい。


その背中を引き寄せて胸に埋めると、司馬懿殿は擦り寄るように私の胸に埋まった。
私を曹丕殿と思っているみたいだ。

「私は彼ではないよ。でもいいよ。私の胸を貸してあげる。
私も泣いている君を抱き締めてみたかったんだ」

きっと聞こえていないだろう。
司馬懿殿を胸に埋めて背中を撫でると、静かになった。
どうやら落ち着いてくれたみたいだ。


「…早く帰ってきなよ、もう」

司馬懿殿を抱き締める腕に力を込めて、目を閉じた。


































本当に直ぐ翌日だった。


慌しく伝令の声が聞こえたかと思うと、帰還の報せが聞こえた。
何事もなかったかのように司馬懿殿を起こして、二人で着替えて階段を駆け下りた。

城下の門前には既に張遼殿が立っていて、その先には軍勢が見えた。

「おはようございます、郭嘉殿。司馬懿殿も御一緒か」
「やぁ、張遼殿。御勤め御苦労様」
「おはようございます。まさかこんなに早く」
「殿が、いち早く治水を終えられたそうだ」

暫くすると私の朋友達は肉眼でも確認出来るようになった。
手を振ると、手を振り返してくれた。あれはきっと殿だろう。

彼らが帰ってきた。



形式的な挨拶を済ませ、彼らを出迎える傍ら。
門の隅で、曹丕様に手を引かれて物陰に連れられる司馬懿殿の袖が見えた。

気になって後を尾けてみると、門の影に隠れて曹丕殿と司馬懿殿の影が重なっていた。
曹丕殿が何度も何度も司馬懿殿に口付けて。
司馬懿殿が曹丕殿の頬に触れたり首に腕を回したり、とにかく曹丕殿に触れたがっていた。

二人が恋人同士に戻った瞬間を見てしまった。
羨ましいとは思えども、邪魔をしようとは思えなかった。



曹丕殿と目が合い、ふ…と笑って手を振った。

「良かったね」

そう一言告げて司馬懿殿に気付かれる前にその場を立ち去った。
曹丕殿を見つめる瞳はきらきらしていて、恋をしている人の瞳で星のように眩しかった。







「でも、好きって言ってくれたから。私はそれだけで嬉しかったよ」

私の想い人が好きだと言ってくれた髪を指でくるくると絡めながら、朋友達の元に戻るべく踵を返す。
晴れた夏の太陽がきらきらと眩しく、蒼天に輝いていた。


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