帰依きえ

父上が倒れたのは内乱の戦が収束したそのすぐ後だった。









軍議室。


いろいろな物が落ちる音がして、気になり駆け出した。
確か父上が一人で作業をしていた筈だ。

入室すると先に駆けつけたのか、屈んだ兄上の背中が見えた。


「兄上、何の音です?」
「…直ぐに帰館するぞ、昭。馬ではなく、馬車を用意せよ」

兄上の腕の中には、意識のない父上が見えた。
吐血したのか、口元を拭った痕跡がある。

「父上…?」
「馬ではこの方の体が持たない」

事態を把握し、走って室を出た。


















さっきまであんなに元気だったのに。

兄上や元姫に笑いかけて、俺には叱咤激励する姿を見慣れてた。
他の将軍や、軍師達にも差し障りなく接していた。

いつもの父上、だった。






あんなに肌は白かっただろうか。
あんなに、体は窶れていただろうか。

兄上も気付かなかった。

























「私はもう長くない」


包み隠さず、事実を述べられたのだろう。
そう見えた。

邸に帰館してから、父上の病状を知った。
御自分の病を知りながら、戦場に立っていた事も知った。
寝台から起き上がり、自嘲気味に父上は笑う。

「策士であったろう?」
「何時からです」
「そうだな…何時からだったか」
「はぐらかしているのですか」
「思い出せないな…。何せ、独りでいる事の方が長かった」

父上が話す“独り”とは、あの頃の後のお話。
大殿の曹操様が居て、夏侯惇将軍が居て、物心がついた頃から父上の隣はいつも曹丕様のものだった。
蜀の諸葛亮と歴戦を繰り返し、傍に付き従った。









とうに居ない。
父上が見送ってきた人達。

「最近はよく夢を見る」
「夢?」
「あの頃の夢。所詮夢だが…子桓様に逢えた」

父上が曹丕様の話をする時は決まって、何か大事があった時と記憶している。
父上の中で曹丕様の存在は“絶対”だった。

「夢枕にあの方を見た時は…流石に疲れていると思ったが」
「見たのですか?」
「…ふ、迎えに来て下さったのかも知れぬ」




数年前から、父上の傍にはいつも誰かがいる気がしていた。
先帝の命日、雨の日。

父上は私たちの前では決して弱い姿は見せなかった。
だがあの日、見た涙は気のせいではなかった。

誰もあの方の代わりにはなれない。
私でも、昭でも無理だった。






「逢いたいな…」
「誰に、です」
「子桓様に…もう一度」

何処か嬉しそうに曹丕様の事を話す父上を見て、胸が痛んだ。


























八月。
残暑の残る、秋の日。































何年か経って、久しぶりに墓参りをしようと父上の眠る首陽山に向かう。

「母上もお喜びになろうか…」
「父上と母上、喧嘩してなきゃいいですけど」
「ふ、そうだな」


墓前。
手を合わせて目を閉じた。

「これから誰かに会いに行く、みたいに…父上は笑ってましたね。
兄上は、父上が一番初めに誰に逢いに行くか聞きましたか?なんせ俺には教えてくれなくて」



花を生ける兄上に話しかけながら、水を蒔く。

「ふ、父上はお前の心配ばかりしていたがな」
「へ?俺と話していた時は兄上の心配ばかりしていましたけど…」
「…ふむ、どうやら」
「素直でないようで」

兄上と顔を合わせて笑い、一礼をして立ち去った。










「曹丕様、だ」
「はい?」
「子桓様、と父上は言っていた」



馬を駆けさせながら兄上は正面を見据えたまま話した。

「私が絶対に勝てないと思っている人が二人いる。
一人は父上、一人は曹丕様だ。誰もあの方には勝てぬよ」
「どうしてです?」
「私は曹丕様の代わりにはなれなかった。それだけだ。いつだか誰かが言っていたな
『死せる孔明、生ける仲達を走らす』…父上が生前鼻で笑っていたが、今なら私もそう思う」



亡き者には誰にも勝てぬ、と兄上は苦笑した。

「俺はその孔明にも勝てる気もしませんけどね」
「…ちなみにお前にだけは負けるつもりはない」
「はい?何ですかそれ」
「ふ、易々と弟に負ける訳にはいかぬからな」



兄上と笑いながら、首陽山を立ち去った。



























墓前に、花と。
もうひとつの墓前に葡萄を供えて。


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