夢と解る夢をみていた。
夢の中でしか逢えないあの御方に逢って、束の間の幸せを夢にみる。
先立たれたあの御方と会う唯一の方法だった。
夢の中で抱かれて、残酷な現実に戻される日々。
己が天命を自覚してから、そのような夢ばかりを見ていた。
「…子桓様」
『どうした』
あの頃のまま時が止まってしまった子桓様に声をかけて手を繋ぐ。
手を繋いだ事に気を良くされたのか、子桓様は温かく優しく私を抱き締めた。
仮初だとて、夢だとて、私は子桓様を愛していた。
『お前から甘えてくれるなど、珍しい』
「…そうでしたか」
『顔色が優れないが』
「大丈夫です…」
私が死んだら、夢でなくとも子桓様に逢える。
夢は自分自身にとって都合の良い世界だ。どうとでもなる。
「私が、あなたをどれだけ想っていたのか…今更ながらに思い知りました」
『知っている』
「嘘です。私はあなたにそのような事、一度も」
『言わずとも解っていた』
欲しい言葉をくれる。
私の理想の夢なのだから当然だが、そうと解っていても嬉しかった。
夢から覚めると、誰もいない。
見慣れた天蓋に、見慣れた私の部屋。
一人で眠る事に随分と慣れてしまった。
「御目覚めでしたか」
「ああ…」
「…そのまま、寝ていても宜しいのですが」
「ふ、そうしたいのは山々だが、未だやるべき事が残っている」
「御無理を」
師が身支度の手伝いに、私の部屋を訪れた。
私の傍をつかず離れず世話を焼いて、まるであの人のようだと苦笑して髪を撫でた。
私もあの人が息を引き取るその時まで、つかず離れず傍を離れなかった。
後継は師に任せたのだが、師は後継云々よりも私の傍に居る事を選んだ。
「…誰に似たのだか」
「?」
「…いや、何でもない」
どちらにも似たように思う。
師の手を引いて、頭を撫でた。
相変わらず親離れの出来ない師から、ひしひしと私を案じる思いが伝わる。
私がやたら頭を撫でるからか、師は嬉しそうに笑っていた。
「今日は、どうなされたのですか」
「触れておこうと思った」
「…、どうぞ、御存分に」
「えーっと、兄上ばかりは狡いと思います」
「昭」
「俺も俺も」
寝台に腰掛け、師の髪を撫でていたら、私の部屋を訪れた昭が私の膝に駆け寄る。
空いた片手を手に取り、撫でてと私に強請る昭は幼少期と何ら変わりがない。
「父上、本日の御予定は?」
「執務室にある書簡に書き残した事がある。それと…出来れば執務室の整理がしたいところだが」
「書簡なれば、取ってきますが」
「整理とか別に父上がやらなくても。誰かにやらせとく訳にはいかないんですか?」
「そうもいかぬ。あの部屋は国の大事に関わるものばかりだ」
「そうですけど…」
私を案じてくれている事はよく解っている。
師と昭の頭を撫でた後、朝食もそこそこに冠を被り上着を着て執務室へ向かう。
どうやら師と昭は私の後を付いてくるようだ。
なだらかな階段を上り、夏の陽射しに目を細める。
師は無言で私の傍を歩き、昭は暑い暑いと小言を呟きながら私の後に続く。
昭に歩調を合わせて歩いていたら、師が気付いたのか昭を窘めた。
私はどうも昭を甘やかせてしまうらしい。
師に少々小言を言われながら、今度は私の歩調で階段を上る。
家族でずっと、こうしていられたら良かったのだが。
仮初の帝に対し、どうこうしようという意思は私にはない。
執務室に向かい、件の書簡を片付ける。
冠を脱いで髪をまとめ、部屋を整理すべく上着を置いた。
いつ、私がいなくなってもいいように。
「父上、暑いんですからちゃんと休み休み作業して下さいよ」
「…昭、先程見た光景から何ら変わっていないようだが」
「昭」
「痛い痛い兄上、ごめんなさい」
私と師はせっせと書簡を片付けていたのだが、昭は片付けの為に出した書簡を読み始めてしまったようだ。
私も昔はやらかして、春華によく叱られていたのを思い出す。
怒った師が昭の頬を抓って叱っていた。
ふ…、と笑っていると何処から視線を感じて振り返る。
其処には誰もいなかったが、気配を感じた場所は、あの人がよく座っていた椅子だった。
怖いという感情はない。今も見守ってくれているのだろうかと、其処を見つめて書簡を置いた。
「どうなさいました」
「いや、何でもない」
「?」
「?」
「ああ、その椅子には座ってくれるなよ」
「はい」
「はーい。でも何でですか?」
「何となく、な」
あの人が居る気がする、などと言ったら師と昭に余計な心配を掛けてしまいそうだ。
崩御されたあの日、私の感情は空回りしてばかりで、あの人の寝台で幾日か過ごしたのを覚えている。
あの日から、あの人の名や字を人前で呼ぶのはやめた。
その名を口にしてしまったらきっと、逢いたくなってしまう。
「曹丕様が此処によく座ってましたね」
「!」
昭が唐突に言うものだから、息が詰まってしまった。
私の反応を見て師が顔を顰めている。
そうだな、と一言伝えてまた書簡の整理に戻った。
懐かしいあの人の持ち物。
私がいなくなったら、捨てられてしまうだろうか。
随分と女々しく遺しておいたものだが、どうにも私には捨てられない。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると今度は師が立っていた。
書簡の山を持ってきてくれたようだ。
「父上、此処に置きますよ」
「ああ、すまぬ」
「…父上、少しはお休み下さいますよう」
「時間がないのでな」
「…何の時間でしょうか」
師が寂しそうに私を見つめた。
不意に死期を感じさせてしまったのは私の罪だ。
師が私の袖を摘んだのをみて振り返り、肩に埋めるように師を抱き寄せた。
「…、すまぬ」
「私は、父上から離れるつもりはございません」
「親離れせぬな、師も」
「父上から離れるつもりは毛頭ございません」
甘えるようにして私の肩口に埋まる。
ふと、師があの人と同じ身丈なのだと思い出したが、口には出さなかった。
師は師だ。私の息子だ。
あの人の代わりには誰にもなれない。
肩口に埋まる師の涙は見なかった事にして背中を撫でた。
「父上は小さくなられました」
「そうだろうか」
「手が冷たいです。寒いのですか?」
「少し寒い」
「では、温めてあげますね」
「!」
「?」
不意に後ろから昭に抱き締められて温かい。
昭の行動はわざとやっているのかと思うほど不意をつかれる事ばかりで、毎度驚かされる。
昭は私の頭に顎を乗せた。
私と昭の身丈は頭一つほど違う。
「…流石に、暑い」
「えー」
「もうよいわ馬鹿め、暑い」
「俺ももっと父上を抱いてかったんですけど」
「帰る」
「はい」
「はいはい、父上、忘れ物はないですか」
「ああ」
師と昭の肩を叩いて離れ、羽扇で扇ぎつつ執務室を立ち去る。
持ち帰る書簡を師と昭が持ってくれた。
ふと、懐かしい香の香りが私を横切る。
来ていらしたのですか、と横目で見つつ、直ぐに目を閉じた。
疲労を感じ、帰宅してから直ぐに寝台に横になる。
師と昭が忙しなく私を案じていたが、少し眠るだけだと伝えて目を閉じた。
「父上」
「少し眠い」
「大丈夫ですか。暑い?寒い?」
「夏なのだから、暑い」
本当は少し寒い。
血の巡りが悪いのだ。これはもう治らない。
夏だというのに、寒くて堪らない。
師と昭を見送った後、目を閉じた。
『寒いのか』
「あ…」
夢を見ている。
子桓様が私を腕に抱いてくれていた。
懐かしい香の香りがして、胸に埋まる。
「子桓様…」
『仲達』
「子桓様、ずっとそうお呼びしたかった」
『もう、身支度は終えたのか』
「はい…」
『子供達が心配だな』
「何を仰る…。私の子供達ですよ」
『ふ…、そうか。もういいのだな…』
「はい」
この夢は永遠に目覚めない。
最期なのだと、何となく解った。
駆け付けた子供達の表情に胸を痛めたが、私は私自身を見下ろしながら子桓様の胸の中に居た。
「…いいのか、仲達」
「はい…、もう充分生きましたから…」
「もう寒くはないか」
「あなたが居ますから」
半身を失い、切なく虚しい余生だった。
夢でしか逢えない偽りの子桓様ではなく、漸く本当に出逢えた。
師や昭らが居たからか、淋しさは感じなかった。
だが、子桓様お一人が居らっしゃるというだけで私の心は安らいでいた。
「もう夢では、ありませんね」
「夢?何を言っている。いつも傍にいたではないか」
「あれは夢だったのでしょう?」
「否」
唇に優しく口付けられた後、いつも傍に居たのだと告げられ、夢の中でだけお前に触れられたのだと子桓様は仰る。
故にあの夢は、本当にあなただったのか。
「夢でもいい。私はお前から片時も離れなかった」
「…子桓様は、相変わらず」
「何だ」
「私の事が好きなのですね…」
「随分待ったぞ、仲達」
「ごめんなさい…、子供達が可愛くて」
「む…」
拗ねてしまった子桓様の頬に私から口付けると、子桓様は私の腰を引き寄せて深く口付けられた。
「魏から、仲達を返してもらおうか」
「私は魏のもの、というつもりはなかったのですが…」
「魏の司馬懿と言われていただろう」
「それは、そうなのですが」
「私の仲達だ」
「…ふ」
子桓様は子桓様とて、私の傍に居ながら思うところがあったのだろう。
私はずっとあなたのものですよ、と伝えると子桓様は嬉しそうに笑った。