随分と遠く、しかも辺鄙な所にその館はあった。
滝が見たいとは仰っていたが、まさか本当にこのような所に館を構えられるとは思わなかった。
迎えが途中までは来たが、その先は一人で来るようにとの仰せで護衛は退いた。
途上、雨が降ってきた。急がねば濡れてしまう。
裾を上げて足元を捲っていたら、唐突に雨が体に当たらなくなった。
上を見上げて、口元を緩める。
「曹丕殿」
「濡れるぞ、仲達」
「あなたが濡れてしまいます」
「大事ない」
「あっ」
視認出来る距離に館が見えるというのに、横抱きに私を抱えて曹丕殿が館の軒先まで走った。
軒先で下ろしてもらい、曹丕殿の頬を伝う雨粒を手巾で拭う。
そうしていると、腰に腕を回されて室内へ案内された。
曹丕殿程の立場であれば、広く荘厳な館も建てられるだろうに、館は簡素で一間のみだった。
必要最低限の物だけが取り揃えてあり、ひと品ひと品はとても良いものだろう。
侍女すら見当たらない。この部屋には曹丕殿と私だけしか居ない。
見れば湯殿すら設えていない簡素な部屋だ。
鼻を啜ると、部屋に招かれるなり手際よく着ていたものを脱がされた。
「子桓様…」
「漸く呼んでくれたか」
「まさか、本当にあなたしか居られぬとは思いませんでした」
「二人きりで会いたいと言っただろう」
「些か、不用心ではございませんか」
「館の周囲に兵を控えさせているが、この館に足を踏み入れる事はない」
「…それならば、安堵致しました」
「体を冷やす。着替えておけ」
「あなたこそ」
用意された衣に袖を通し、子桓様のお召し物も着替えさせた。
大した事はないと言うものの、私を庇い濡れてしまったせいで風邪など召されては困る。
あなたが濡れる必要などなかったのにとお手伝いしていると、頬を撫でられて上を向かせられた。
口付けられるのだと気付き目を閉じると、予想通り口付けられた。
子桓様と恋仲となってもう随分と経つ。
宮殿内でも顔を合わせているし、常日頃傍に控えているのだが、二人きりになると言うことはなかった。
子桓様は尊い身分で在られる。一人にしておいてよい方ではない。
その扱いを嫌っているのも存じている。
「とりあえず飲んでおけ。適当に作る」
「作る?あなたが?」
「簡単なものなら作れる」
「あなたが、料理など」
「少しくらい出来る。私とて食べ物が好きだ」
「お手伝い致します」
「ああ、火の傍に来い」
煎れてくれた茶を受け取り、手招かれて傍に歩み寄る。
離れ難いと私の腰に腕を回される。
今更どう触れられようが怒りはしない。
何もかも許している仲だ。今更拒みはしない。
鍋に包子が見えた。どうやら水餃子を作っていたらしい。
あとは温めるだけと見える。
簡単なものと言いつつ、随分手が込んでいる。
料理が出来ただろうかと花山椒を砕いていると、その御手は傷だらけであった。
「料理が不得手でしたら、そう無理なさらずとも」
「男子厨房に立つべからず、と申すか」
「厨房は妻に任せておりますが、家事は協力するものと思っております」
「お前は良い夫のようだ」
「私の妻がどんな者か知っているでしょう」
「まあ、春華は恐妻だな」
「傷をお見せ下さい。滲みるでしょう」
「大事ない。今日は仲達の為にと、私が用意をしたかった。それだけだ」
「それは望外の幸せでございます。ですが、痛むでしょう。御手を」
「ああ、痛いな」
味付けだけ手伝い、おざなりになっていた手傷の手当を行う。
剣は扱えるのに、包丁を扱うのは苦手らしい。
四苦八苦しながら私の為に作って下さった料理だ。有難く頂くこととしよう。
見た目とは裏腹に、子桓様はいじらしくて可愛らしい事をする。
言葉に出せば機嫌を損なわれるので、口に出しはしない。
不意に手を摩られて、指を絡められる。
幾久しく触れられなかった事を思い出し、私からも指を絡めて手を握る。
「…相変わらず、細い」
「武器を持たぬ手でございますれば」
「お前の武器は腕力ではあるまい」
「は…。我が武器は智力ゆえ」
「…久しぶりだな。二人きりになるのは」
「はい…。幾久しく…」
「ああ。此処で会えるのを楽しみにしていた」
「…同感でございます。他ならぬ私を呼んで頂けたこと、恐悦至極にございますれば」
「堅苦しいぞ、仲達」
「…子桓様、お会いしとうございました」
「ああ、それでいい」
互いに目を細めて、子桓様から唇を重ねられる。
私は口付けをお受けして、目を閉じた。
雨に冷えた体が温まるような心地がした。
小さな角卓に料理を並べて、椅子に二人並んで座る。
向かいに座ろうとしたら怒られてしまった。
腰に手を回されつつ、胸元に顔を寄せる。
「そう抱き寄せられては、食べられませぬ」
「触れたくて堪らなかった」
「後程、存分に触れられませ」
「…存分で良いのだな?」
「…はい」
「…っ、先ずは此方を食べるか。仲達は後程」
「お楽しみでございます」
今更恥ずかしがるほど初な関係でもない。
此処に呼ばれた時から、そのつもりであった。
ただ、私から誘いの言葉を投げ掛けるのは極めて珍しく、言った私とて少し恥ずかしい。
椅子に二人で肩を寄せて座る。
たまには、そのような日があってもいいだろう。
二人合わせて匙を取り、子桓様の料理を口にした。
子桓様が口にしたのを見てから口を付ける。
味を気にされた御様子だったので美味しいとお伝えすると、安堵されたようで私の肩に凭れられた。
私の為にわざわざ作って下さったのだ。歪に切られた食材とて可愛らしいものだ。
ただでさえ忙しない執務の日々の僅かな余暇だ。
その余暇を私の為に割いてくれた。
不得手な料理までして出迎えて下さった。
主でもあり恋人でもあるこの御方を愛おしいと思わぬ時などない。
口にしないだけで、私はとてもこの御方を愛している。
洗い物を終えて、食後の茶は私が煎れた。
一時でも離れていたくないと、私が一歩離れる度に子桓様も着いて来る。
口元を隠して笑っていると、背後から首筋に甘えられる。
私も後ろ手に手を滑らせて子桓様の頬に触れた。
茶が溢れると言うと、私の手から茶器を取り上げ運んでくれた。
手を広げられたので大人しく求められるがままに傍に座る。
腰を抱き寄せられて肩に頬を乗せられた。
「甘えたですこと」
「離れたくない」
「一歩二歩のお話でしょう」
「されど、その一歩二歩が遠い」
今日は遠く狭い館でのひと時。
私達二人以外は誰も居ない。
普段よりも距離が近いと思っていたが、子桓様はそうでもないらしい。
「距離が憎い」
「普段、目にする距離に居りましょうに」
「触れられぬではないか」
「人目がございます。見せびらすものではないでしょう」
「人目があっても、触れたい」
「触れられましたら、また十日は口を利きませぬ」
「…本当に口を利かなかったからな。あれは堪えた」
「あれは、あなたが悪い」
「何を言う。仲達とて」
以前、皆の前で触れられ、十日は口を利かなかった。
子桓様は皆の公認で在りたいと言えど、私は其れを望んでいない。
皆の前で触れられた手を避けて、私も思わず口が滑った。
私の一番はあなたと言うだけで、あなたの一番が私である必要はないと言ったのだ。
そうしたら、子桓様も口を利かなかった。
十日後、子桓様から悪かったと一言告げられた。
皆の前では触れぬと約束して下さったものの、その後暫く頗る機嫌を損ねられており、今度は私が謝罪をする事になった。
何故あのような事を言った、私の古今無双はとっくにお前だと言うのに。
子桓様はそう言って、私を抱き留めて怒っていた。
私の言葉は子桓様を傷付けていた。
それも最近の話。
互いを想い合っているからこそ触れられないのがもどかしい。
故にこそお誘いをされたのだろうし、私も二つ返事で了承した。
互いに忙しない身の上、執務は滞りなく終わらせて共に過ごせるこの時を楽しみにしていた。
「…止めましょう。口喧嘩をしに来たのではないのです。申し訳ございませんでした」
「ああ、止めよう。寒くないか仲達」
「もう充分、温かいです」
「病など貰うものではないからな…」
「…そのまま、お連れ下さいませ」
「あれより狭いぞ」
「その方が触れ合えます…」
子桓様の寝室の天蓋付きの寝台で褥を何度も共にしている。
共に妻子ある身である。
されど、されど、私達は互いに依存するほど互いを愛している。
それは今更隠せるようなものでもなく、今更堪えられるようなものでもない。
息をするように、水を飲むように、至極当然のように私は子桓様を愛している。
お前がいないと生きていけないと子桓様はよく言うが、私もその通りだと思っている。
言葉に出してなかなか伝えられないけれど、此処でなら世界の片隅で二人きりだ。
私が愛した大好きなあなたと二人きりだ。
頬を染めて、私から口付けて寝台に誘う。
言葉にしないのはいつも狡いと思うが、それだけで通じてしまう仲だ。
言葉にしなくても、私の想いは伝わっている。
子桓様に口付けられながら、二人並んだら床に落ちてしまいそうな狭い寝台に横抱きにされて運ばれる。
狭い方が心音が聞こえる程に密着出来る。
流れるように押し倒されて、伸し掛かる子桓様の頬を撫でた。
髪紐をとかれて髪を下ろされると、私もと手を伸ばして子桓様の髪紐をといた。
腰まで伸びた私よりも長い長髪がさらさらと流れる。
寝台が窓際に置かれているからか、視界には子桓様の他に星々が煌めく夜空も目に入った。
だが直ぐに興味は薄れて、目の前の御方の首に腕を回した。
唇を指で撫でられてから、幾度も触れるだけの口付けを繰り返して蕩かされていく。
前を肌蹴られて、首筋や胸を吸われて目を細める。
すっかり躾られてしまった躰は性感帯にされてしまって、触れられる度に小さく声を漏らして身を震わせていた。
今更、男なのにとかそういう事は気にしていない。
同性である事の壁など、この御方があっという間に取り払ってしまったのだ。
瑣末なことだと私も子桓様も遠慮なく、互いを愛している。
胸を吸われて肌蹴た生脚を跳ねさせた。
その脚にすら唇を寄せられて、足首や脹脛、太腿に至るまで痕を付けたがる子桓様に微笑む。
もうと溜息を吐くと、好きだろうとしたり顔で私を見下ろされる。
「っ、ふ、ゃ…」
「嫌ではなかろう?」
「そこ、ばかり…」
私が子桓様にのみ甘えるように、この御方も私だけに甘えて下さって居るのだろう。
いい加減、胸ばかり弄られるのももどかしい。
袖を摘んで引っ張ると、その手を取られて口付けを落とされた。
何処までもこの御方は公子様だ。
女子達であれば一撃必殺であろう。私にも効果覿面である。
「焦らしが過ぎたか」
「分かっていらっしゃるのなら…」
「仲達は、此処ばかり触れると濡れる」
「っ…!」
「今宵は随分感度が良いな」
下穿きを除けられて、直に下に下にと手を滑らせられる。
初夜はとうの昔。過度に指で慣らされずとももはや随分と具合が良い。
私が己で思う以上に、体の方が欲情のままに素直だ。
指を中に入れられて目を細めるも、痛くはない。
どうすれば苦痛を感じないのかとか、どうすれば子桓様がお好きだろうかとか、もう解ってしまった。
指を二本中に入れられて、ぐちゅぐちゅとした音が耳に届いた。
少し上体を起こし、私から子桓様の頬に唇を寄せる。
私からの口付けに微笑み、頬を撫でられて口付けを返された。
「もう、いいのか」
「はい…」
「…とろとろだな。体も随分熱っている。随分、過敏ではないか」
「…久しく触れられておりませぬ故」
「寂しがらせたか」
「…はい…」
「っ、今宵は素直過ぎないか」
「…今宵は、あなたと二人きりですから」
唇を啄むように口付けを繰り返しながら、髪や首筋を撫でられる。
子桓様とて随分と溜めていらしたのか、他で発散もされなかったのか、随分と息が上がっている。
少し股を開くと、その脚に触れられて柔柔と撫でられる。
今もずっと私を愛してくれている。そんな触れ方に頬を染めた。
「ぁ、っぁ、ひ、ぅ…っ!」
「っ…!仲達…、随分…」
「言わな、…、で…下さ、ぁ、っ…」
そのまま当てがわれ、ゆっくりと中に奥にと挿れられる感覚に足の指先が丸まる。
今更苦痛は感じない。ただただ快楽が全身をぞくぞくと巡って感じてしまう。
久方の情事ともあって、随分と感じやすくなっている。
私も随分、期待していたのだろうか。
「…ふ、したかったのか…」
「そう、だと…したら…?」
「私はずっと、仲達としたかった」
「っ…!」
本当にこの御方は、私への思いを全く隠さない。
今の言葉で子桓様自身を締め付け過ぎてしまい、いつもの寝台であれば敷布や枕で顔や体を隠せるものの、今宵の狭い寝台では何も隠せない。
ありのままの私が見られてしまう。
私の思惑が察せられたのか、奥に突き上げられて御顔が近付き顎を掴まれて顔を上げさせられた。
抽迭は止められず、したりと子桓様が笑っている。
「今宵は何も隠せぬぞ、仲達」
「…っ、困り、ました…、は、ぁ…」
「お前の心音が伝わる。顔も体も…左様に蕩けて愛い…」
「あっ…!子桓、さま…っ」
腰を撫でられて深く抉るように突き上げられる。
私を果てさせようと追い詰められて、その思惑のままに果てさせられた。
果てたばかりの私を苛めるのがお好きなのは解っている。
敢えて止められぬ抽迭に声が抑えられず眉を寄せて抗議の視線を送るも、私の眼差しはこの方を煽るだけだ。
ならばときつく締め付けると、子桓様も程なくして私の中に果てられた。
これで終わりだなんて物足らない。
「っ、仲達」
「未だ…、まだ、足りません…」
「無論。これで終わらせるものか。存分にと言ったであろう。覚悟せよ」
「はい…。今宵はお好きに…、子桓様」
「…もう一声欲しい、仲達」
「…もっと、子桓様…。存分に、抱いて下さいませ…」
「堪らんな、仲達」
その言葉が合図となった。
体位を変えて、衣服も剥ぎ取られて、幾度も幾度も体を繋げた。
全て中に果てられて指で広げれば溢れるほど、子桓様の子種をその身に受けた。
事後の余韻に身を震わせて寝台に横になる。
何も隠せなくて、何もかも子桓様に見られてしまった。
漸く体の繋がりを解き、上着を肩に掛けられても、未だ動悸が収まらない。
ひとつひとつの仕草に私への思いを感じて目を閉じる。
どうしたって、私はこの人を愛している。
何をされたって嬉しくて、愛おしくて堪らない。
ずっと、こうしていられたら。
そう思っていた事が口に出ていたのか、子桓様が私を背後から抱き締めて口付けられた。
「…そうしようか、仲達」
「駄目です…。あなたも、私も、国を蔑ろに出来る身分ではございません」
「暫し休暇を貰う。それならば良かろう」
「…子桓様、私は」
「伴侶と暫し隠ると伝えよう」
「はんりょ…」
「今更、否とは言わせぬぞ」
む、と眉を寄せられる子桓様に思わず笑ってしまった。
私の心音は相変わらず収まりそうにない。
この歳下の公子に、ずっと翻弄されている。
背後から脚も絡められて、身も体温も共有しているような心地を感じる。
私とて、少しは仕返しをさせていただきたい。
「…あなたを、愛しています」
「っ、突然、どうした」
「私を体を好き勝手にした仕返しです。あなたの心を翻弄したって良いでしょう」
「…とうに、毎日、翻弄しているだろう」
何もかも隠せないのは子桓様も同じだ。
私と同様か私以上の動悸が体に伝わる。
私からひとつ口付けると、みっつもよっつも口付けを返される。
こうしてひとつになるような感覚が幸せで堪らない。
指を握れば手を握られて、袖を引けば腰を引き寄せられる。
見上げればとても優しい口付けが降ってきた。
愛している。愛している。
そう何度も伝えると、子桓様は勘弁してくれと言いながら笑っていた。
私達はとうに、世界で二人きりだった。