『どうか、生きてください』
嫌だ。
『私がいなくとも』
嫌だ。
『その剣を振り下ろし、そして次代の世をお治めください』
『さようなら、子桓様』
待て、行くな。何処に行く。
仲達、私の声が聞こえぬのか。
やめろ、やめてくれ!
はっ、として目が覚めた。
上体を起こし顔をおさえる。
ここは私の部屋だ。
夢?夢にしてもあんまりではないか。
目を閉じれば、鮮明な赤が。
私は剣を振り下ろし鮮血に染まる。
周りはよくやったというように讃え、歓声をあげる。
目の前には、私の…
顔をおさえると、頬が濡れていた。
まだ朝も明けていない。
朝日がそろそろ差し込もうという時だろう。
国はまだ起きていない。
出仕の時間まで、まだ時間がある。
仲達は今日、遠征から帰ってこよう。
将軍も何名か率いているはず。
『近日、何もなければ帰還します』
そう手紙に書いてあったはずだ。
何も、なければ。
何も、ないといい。
はやく会いたい。会ってお前と話して、お前に触れたい。
廊下を誰かが走っている音がする。
この足音は伝令であろう。
何も、ない。
何も、ないといい。
「伝令ーー!漢中遠征軍、何者かの伏兵により足止めされているとのこと!」
ああ、はやく会いたいというのに邪魔をするな。
寝台を下りて、着替える。
甲冑を着て、剣を番え部屋を出た。
私から迎えに行ってやろうではないか。
「状況を報告せよ」
「はっ、苦戦してるとの報告を受けております!」
「場所はどこだ」
「洛陽の間道付近と思われます!」
洛陽、古都だ。
もう、すぐ近くではないか。
「数は」
「遠征軍の大半は帰還しております。襲撃されているのは司馬懿将軍率いる殿軍です」
「そうか。御苦労」
伝令を通り過ぎ、父の元へ向かった。
父も既に起床し、夏侯惇が傍にいた。
「おはようございます」
「早いな子桓。伝令を聞いたのか?」
「ええ、苦戦しているようですな」
「まぁ、司馬懿のことだ。上手くやるだろうがな」
「私に行かせていただきたい」
「ほぅ、わざわざ迎えに行ってやるのか」
「私の臣下ですから」
「張コウか徐晃でも向かわせようとしていたが、よかろう。
子桓、行ってやれ。
先ほど新たに伝令がきた。おおかた片付いてるようだ」
「左様か」
「はやく、司馬懿に会いたいか?」
一礼し、立ち去ろうとしたところ背中に声をかけられる。
当たり前だ。
「会いたいですよ、とても。昼には帰ります」
「そうか。よい臣下を持ったな」
「はい。では、行って参ります」
手勢の軍を連れて、走らせた。
駆ける。
すれ違い様に遠征軍の中軍を見つけた。
報告を受けると、先に行けと仲達に促されているらしい。
「許昌には近づけさせない、ということか」
これくらい自分で何とかすると。
おそらくは苛立っている。
前方に交戦中の軍を見つけた。
魏の旗、殿軍だ。
弓をつがえて、矢を射る。
殿軍が私の援軍に気付いた。
まだ仲達の姿は見えない。
敵将がこちらに気付き、向かってくる。
「逃げも隠れもせん。来るがいい」
軍を下がらせ、剣を抜いた。
知らぬ旗色、賊の類いに見えた。
一閃の元に斬り捨てる。
「お前なんかに構っている暇はない」
血をはらい、剣を収めた。
「殿下わざわざの御出向き、誠に恐縮です」
「よい。負傷者に手を貸してやれ。共に帰還する」
「はっ」
「あと、仲達はいるか?」
「はい、後方に控えていらっしゃいます」
「そうか」
軍の後方に馬を駆けさせた。
通る度、兵達が私に頭を下げた。
怪我人のみで、どうやら死者はいない様子だった。
「…子桓様?」
聞き覚えのある声が聞こえた。
直に聞くのは幾月ぶりか。
「ああ、ようやく見つけたぞ仲達。遠征御苦労だったな」
馬から下りて、傍に歩んだ。
仲達も馬から下りる。
あと十歩。
「お久しぶりでございます。
子桓様直々の援軍と伝令から聞いた時は我が耳を疑いました…。
わざわざお出でいただき誠に恐縮です」
手で合図をし、軍を先に行かせて下がらせた。
仲達と二人だけになる。
あと五歩。
「怪我などはなかったか?」
「はい」
「…本当に久しいな。此れほど離れたのは初めてだ」
「後程帰還後、また報告致します」
「…すまぬ、もう耐えられぬのだ」
あと一歩。
粛々と軍礼をし、行儀で接する仲達を引寄せ抱き締めた。
もう距離はない。
「この心地が恋しかったぞ」
「子桓様たら…怖い夢でも見たのですか?」
頬に触れられ撫でられる。
その手に触れ、頬を寄せた。
仲達の手は少し冷たかったが、ちゃんと生きていた。
「ああ、怖い夢だ」
お前を失う夢。
仲達がいなくなったら私は私でいられない。
「まさかわざわざ駆け付けて下さるとは思いもしませんでした…」
「伝令を聞いてな。父に直々に進言して駆け付けた」
「何と恐れ多いことを…」
「お前にはやく会いたかったのだ」
「私も、お会いしとうございました」
「ああ、迎えに来たぞ仲達」
仲達の頬に触れた。
閉じた瞳を見て、口付ける。
甘くとろけるような優しい口付けを。
「無事で良かった」
もう一度、口付けまた強く抱き締めた。
今まで離れた距離を埋めるように。
「ただいま、仲達はあなたの元に帰りましたよ」
私に抱き締められた仲達が、私の背中に手をまわす。
ああ、私の傍にようやく帰ってきたのだな。
「おかえり」
お前の帰る場所。
其々の馬に乗り駆けた。
またお前がいる日々が帰ってくる。