淋しくさせていないだろうか。
無理をさせていないだろうか。
私はただ其れだけが心配で仲達の傍から離れられない。
私の執務室で仲達は夜遅くまでひとり静かに執務を片付け、酒も呑まずに簡単な食事をして去っていく。
時たまに訪れる師や昭、郭淮やトウ艾らと話をする仲達は最早諸将のひとりに数えるのは無礼であろう。
仲達を始めとした者達が遺るこの国を支えてくれていた。
最早仲達を一介の軍師と呼ぶ者はおらぬだろう。
私の仲達は実際よくやってくれている。
諸葛亮のような倒れ方をしないか心配でならない。
五月のある日。
仲達は人払いをして、一人執務室の掃除を始めた。
「たまの休みなんですから、ゆっくりしたらどうです?」
「私と昭でよろしければ手伝いますが」
「いや、この部屋には…あの御方の物が数多く遺っているのでな」
「…なら俺達が部屋をいじるのは無粋ですかね」
師と昭が手伝いを申し出たが、仲達は一人でやりたいと言って髪を結う。
黒髪の長髪を以前より短く切ってしまった事が口惜しい。
「すまぬ。師と昭の気持ちだけ受け取っておく」
「本当に手が必要でしたら仰って下さい。最近、父上は働き過ぎです」
「父上一人じゃ腰を痛めそうなもんですけど。本当に手伝いが欲しかったら言って下さいね?」
「ああ、有り難う」
名残惜しく師と昭が仲達から離れる。
仲達の背など易々と抜かしてしまった子供達は、仲達に愛されて育ち立派になった。
私でもそう思う。
時が過ぎるのは早い。
「また正午頃に伺います。
私は視察に向かいます。父上に何かあれば直ぐに其方を優先致します」
「賈充と元姫に呼ばれてるんで行って来ます。お昼を持ってきますね。後で一緒に食べましょう」
「解った」
身丈が大きくなったとて、師と昭はいつまでも仲達の子供だ。
官職に就いた師と昭とて仲達は唯一、心から甘えられる存在なのだろう。
綺麗な父親で良かったではないか、と何時だったか幼い二人に言った事がある。
師は素直に、はいと答えた。
昭は少し拗ねながら、武将の父親が良いと答えた。
凛と澄ました顔をして、実は仲達が深く傷付いていたのを知っている。
仲達は感情を隠し、そうかと一言語るだけだったが。
後に仲達の思いを察して師が傍を離れず、昭も仲達の思いを知って泣いて仲達に謝っていた。
本当に二人とも仲達が大好きなのだ。
師と昭は軽く頭を下げて執務室を去った。
仲達は格子を上げて、窓を開ける。
紐に収まらなかった一房の髪が風に流れた。
その髪を手に取り、仲達の隣に立つ。
「お前ひとりで片付けられるのか?」
「どうか、私の傍に居て下さいませんか」
「そうか」
仲達が一人で片付けるにしては、少々広過ぎるのではないか。
そう案じたが仲達は私の横を通り過ぎて官服を脱いだ。
「幾久しく時間が取れなかったもので…。手入れを怠ってしまった事をお許し下さい」
「別に良い。お前が忙しいのは解っている」
「申し訳ありません」
高い棚から書簡を整理し、埃を払う。
ぱたぱたと羽箒で払った埃は何年物なのだろう。
仲達は静かに書簡を整頓し続けている。
仲達の官服に埃が付かぬように、そっと布を掛けて棚から遠ざけた。
地形図や書簡を抱えて仲達は執務室をきびきびと歩く。
だがやはり、少し窶れたのではないか。
邪魔にならぬよう窓際に腰を下ろし、仲達を見つめていた。
「相変わらず、だね」
「ああ。少し窶れた」
「少し、休ませてあげたらどうです?」
「私では止められん」
「まぁ、確かに」
執務室に郭嘉と賈クの姿が見えた。
仲達が忙しなく動くので、邪魔にならぬよう我等は窓際に腰を下ろした。
通りかかった張コウや徐晃らが外から窓際に肘を付き、室内を見にやってきた。
いつの間にか、皆が集まって着ていた。
「あぁ、司馬懿殿!あんなに高い所に登って!危ないですよ。私が取って差し上げるのに」
「なれば、拙者がお助けしよう」
「待て、我等は手を出す事まかりならん」
「何だお前達、そんな所に集まって」
夏侯惇の声が聞こえて振り返ると、父や夏侯淵や曹仁、典韋や許チョの姿も見えた。
李典や楽進も集まる。
懐かしい顔ぶれと話していると、仲達が我等を見つめていた。
「何だか、騒がしいな…」
「す、すいません」
「ごめんね」
仲達は我等の居る窓辺に一瞥をした後に溜め息を吐いた。
どうやら掃除の大半を終えたらしい。
「漸く片付きました」
「大儀であった、司馬懿よ」
「おっ、随分綺麗になりましたね」
「行くのか、孟徳」
「色々見て回りたいではないか」
「あ、殿が行くなら私も行こうかな」
「曹丕殿はどうなさる?」
「私は残ろう。仲達の傍に居ると約束した」
「あははぁ、相変わらずのようで」
「ではまた。今日を楽しまれよ」
父を筆頭に庭に向かう皆を見送り、私は一人仲達の隣に座った。
小休憩といったところであろうか。
少し茶を飲んだ後、仲達は窓際の椅子に座る。
整理した書簡の内、紐が解けているものや竹が割れているものなどを集めて宅に積んだ。
仲達はそれを直すべくして、茶を飲みながら書簡に目を通す。
書簡は兵法書や地形図、経理書など事務的なものが殆どだった。
幾つかの手入れが終わり、次に手に取った書簡には詩が遺されていた。
仲達は目を細めて書簡の紐を解く。
「この筆跡は…」
「それは私のものだな」
「何が書いてあるのでしょうか」
「どれ」
仲達の傍に侍り、文字を読むと私が仲達に宛てた恋文だと言う事が解った。
余りにも拙い文章で、駄作も駄作。言い回しが幼すぎる。
よく見れば仲達が戸棚の奥から出してきたそれらの書簡は全て、私が書いた詩の数々だった。
人に見せびらかすものではないと、執務室に幼い頃から隠していた事をすっかり忘れていた。
仲達は少し笑って文字を目で追い、読み始めた。
「おい、別に読まずとも」
「…君の背を見て」
「読むな」
「小さき我が身を嘆き、君の背に届かんと手を伸ばす…」
「昔の話だ」
「…君が為と、あの人は戦場を駆ける。己の非力さを呪う。私は待つ事しか出来ない」
「願わくば、私の思いを伝えるまで無事であれ。それで終わりだ」
「……。」
「仲達?」
仲達は書簡を閉じると目元を拭う素振りを見せた。
幾つもの恋詩を読み終わった後、静かに書簡を元の場所に戻し布を掛けた。
一番最後の書簡にはただ一言、我愛仲達とだけ書いてあった。
恐らく仲達に一目惚れをした時に悶々として書いたものだろう。
自分の感情に素直であった時期に書いたであろう文字の数々は、ただひたすらに仲達に恋い焦がれていた。
私も随分と恥ずかしいものを残したものだ。
「これは私達の秘密に致しましょう」
「そうしてくれ」
「…私に恋詩の良し悪しは解りません。解り兼ねますが…、あなたが書いた言葉なのでしょう」
「ああ」
「大切にします…。私はあなたを護れなかった。なればせめて、思い出くらいは私に護らせて下さい」
「…思い出、か」
「私の、大好きな人…ですから」
仲達は何も言わなかったが、ふ…と笑い一つの書簡を手に取り卓に置いた。
今の作業で掃除を終えたのだろう。
私の座っていた席に仲達は茶を置いて、少し部屋を空けると何かを抱えて戻ってきた。
どうやら葡萄のようだ。
葡萄の皿を卓に置くと、仲達は横にある長椅子に座り眉間を指で抑える。
体調が優れないのだろうかと、仲達を案じて頬に手を伸ばす。
「私も歳を取りました。以前よりも体が思うように動かなくなったと思います…」
「具合が悪いのか?」
「…きっと、少し疲れただけでしょう。それよりも、掃除が終わって何よりでした」
「ああ、大儀であった」
「良い葡萄が手に入ったので、戴いてきました。お好きでしょう」
「ふ、礼を言う」
「後で分けて下さいね」
「有り難う、仲達」
「…子桓様」
仲達は前掛けを取ってそのまま長椅子に横になった。
そのままうとうとと仲達は目を閉じる。
手摺りに座り、仲達の少し短くなった髪を撫でた。
仲達の髪がさらさらと風に流れた。
薄目を開けて仲達は私を見つめる。
「…仲達?」
「ひとりになると色々思い出します…。
曹操殿をはじめ、勇猛果敢な将軍の皆様、偉大な軍師の先輩方。
将、戦、策、計略…。全てが輝いていたあの頃の魏のお話し。
もう何十年経ったのか覚えておりません」
「……。」
「天下に一番近いと皆が私を讃えますが、私は何者にもなったつもりはございません…」
「お前は、お前だ。私は知っている」
「私は私…」
「…仲達、お前は淋しいのだな」
「…少し、淋しい…です…。五月は尚更、あなたの事ばかり考えてしまいます」
「…私はずっと…お前の傍に居るのだが、な」
眉を寄せて、仲達は淋しそうに笑う。
触れられない私の恋人。
私が抱き締めても届かない。
隣にいるのに、とても遠かった。
仲達はそのまま眠ってしまったようだ。
風邪を引かぬように、近くにあった膝掛けを肩に掛けて頭を撫でた。
やはり、淋しいのか。
皆の前では気丈に振る舞っているのだろう。
皆に弱い己の姿を見せるなど、仲達の矜持が許す筈がない。
私の前でしか、仲達は己を見せなかった。
文官、軍師、将軍、宰相。
数々の役職を経た仲達であったが、私の前では仲達自身のままで居てくれた。
今や、そのような姿を見せる相手もいないのだろう。
仲達が私を忘れて新しく誰かを、と考えない事もなかった。
だが、仲達は一人でいる事を選んだ。
寝息で上下する肩を撫でる。
葡萄を摘みながら、仲達の傍に座る。
心地良い風が部屋に吹いた。
長い睫毛が濡れているのが見えて、起こさぬように優しく涙を拭った。
私はもう傍に居てやる事くらいしか出来ない。
「子桓様…?」
「ん?」
「……葡萄は美味でしたか?」
「ああ、美味かった」
「あなたは…私が恋人で、幸せでしたか?」
「無論。今でも…愛している」
「…ふ、もう少ししたら、私もあなたに会いに行きます」
「…お前、まさか」
「父上?」
「ん?誰か居るんですか?」
開いた扉の前に師と昭が蒸籠を持って立っていた。
出来立ての食べ物の良い香りがする。
正午なのだろう。
約束通りの時間に子供達は部屋にやってきた。
師が仲達を案じて駆け寄り、床に膝を付いた。
昭も蒸籠を卓に置いて仲達に駆け寄る。
「父上?」
「案ずるな。うたた寝をしていただけだ」
「なら、良いのですが」
「はぁ…心配しましたよ。父上が倒れたんじゃないかって思いました」
「寝ていただけだと言うに」
「はは、良かった。父上が元気で何よりです」
「…ああ」
仲達は少し笑ったが、体を起こさない。
長椅子から離れて昼食の支度をしていた師と昭だったが、
何時までも起きてこない仲達に振り向き、顔を見合わせた。
本当は具合が悪いのではないか。師と昭が心配をして仲達の前に膝を付く。
仲達は既に目を閉じていた。
師が仲達の手を握り締め、頬に寄せる。
「…すまぬが、暫し眠りたい。このままで良い」
「そんな、長椅子でなど」
「せめてちゃんと寝台で寝て下さいよ。俺が運びますから」
「…否、昭よ。今日だけはこの部屋に留まりたいのだ。長椅子でも構わぬ」
「腰を痛めますよ」
師と昭が身を案じても、仲達はそのまま動こうとしなかった。
ふと、師が訝しげに葡萄が盛られた皿を見ていた。
一人黙々と葡萄を摘まんでいたのだが、気付かれただろうか。
「…曹丕様、ですね」
「兄上?」
「父上が葡萄を口にする時は、あの御方の」
「…あ」
師と昭もさすがに気付いたらしい。
ふ、と笑って頭に手を置き子供達を通り過ぎて眠る仲達の隣に立った。
「御安心下さい、曹丕様。父上が貴方様を忘れた事は一度もありません」
「知っている。だが…忘れた方が、仲達には楽であったろうに」
「父上は以前より少し、柔らかく優しくなられました。同時に少し窶れたようにも思えます」
「ああ、兄上もそう思いますか?」
仲達を支える者達は確かにいる。
若い力が仲達を支えているのは解っている。
だが、心の奥底では仲達はずっと一人だった。
だから私は傍を離れられない。
「…私達では代わりにすらなれぬか」
「俺もそう思います」
「そんな事はない。仲達はよくお前達の事を話してくれる」
私の声は、きっとお前達にも届かぬであろう。
苦笑し、仲達の髪を撫でた。
「…綺麗な人です。大切な人です」
「私もそう思う」
「曹丕様は父上の傍に居ますかね?」
「ああ、此処に」
「…きっと、見守っておられる事だろう」
師と昭は仲達を見つめて、昼食を置き格子を下ろして去っていった。
外は通り雨が降りそうな天気になっている。
しとしとと降る雨。庭に出来た水溜まりに私の姿が映る。
目を覚ました仲達は椅子に座り、静かに格子から雨を見つめていた。
「今日はずっと雨でしょうね」
「寒くはないか?」
「…私の心も、今日はずっと雨です」
雨を見つめる仲達の頬に一筋、涙が流れていた。
拭おうと手を伸ばすも、触れられない。
目の前で恋人が泣いているのに、私は涙ひとつ拭えない。
仲達は沢山私に語りかけてくれるが、私の姿も声も仲達には伝わっていない。
「子桓様…」
「何だ?」
「愛して、います」
「…知っている…」
「抱き締めて、下さい」
「そうしたい」
「私に口付けを…」
「…すまぬ」
「…酷い人。私を振り回して…私に恋をさせて、私を置いて」
「すまぬ」
「馬鹿、めが…」
仲達は涙を溢れさせながら哀しげに笑い、格子に凭れた。
その背中を抱き締めても、仲達には届かない。
通り雨かと思われた雨はいつまでも止む事はない。
どんなに手を伸ばしても、私はもう仲達に触れられなかった。