四里後陣にいる殿軍が急襲を受けたとの報告があった。
率いるのは仲達。
先勝し浮かれた我が軍が敵に不意を突かれた、とは考えにくい。
率いるのが仲達であるのならば、其れは有り得ない。
殿軍の士気は高い筈だ。
恐らくは、伏兵。
だが、既に本隊が通過した道での急襲。
先の戦での残党が私に一矢報いようとするのならば、まだ解る。
殿軍には、私の背後を護る仲達しかいない。
わざわざ本隊をやり過ごし、敢えて殿軍を狙った敵軍。
これは、残党ではない。
一里しか本隊と距離のなかった殿軍が、四里も離されている。
伝令を待ってからでは遅い。苦戦しているのだろう。
「本隊を先へ。騎馬二百は私と共に下がれ」
「御自ら、後退される必要など。私が参ります」
「否、私が行く」
「承知しかねます。貴方様は総大将でしょう」
「あれは私のものだ。
敵軍の狙いが仲達で在るのならば尚更、私自ら殺めねば気が済まぬ」
「御意。左様なれば本隊はお任せを」
「四刻経ち、帰陣されぬのならばお迎えにあがりますからね」
「それで良い。任せた」
「御武運を」
張コウ、徐晃が本隊を率いて駆けた。
仲達の子供達は先陣に居る。
師と昭には伝えない方が良かろう。先陣に居て貰わねば、隊列が乱れる。
私が早急に片を付ければ良い話だ。
「…四里か、急ぐぞ」
「はっ」
もう直ぐ魏の領内だ。
馬を引き返し、元来た道を駆けた。
そうこの時は、まだ私は何も解っていなかった。
物陰からの急襲。
側面から矢の雨が降り、私の右肩にも矢が刺さった。
何名かが私を護り、矢を受けた。
残党であれば蹴散らすのみだが、
敵の動きが如何せん指示を受けて動いているように見えなくもない。
「司馬懿殿!」
「大事ない。隊列を乱すな!これしきの数、魏軍なれば討ち果たしてみせよ!」
「はっ!」
幸い我が軍の士気は高い。我が軍なれば、易々と討ち果たせよう。
相手はどうやら蜀のようだが、数は少数で目立った将も見当たらない。
余裕、そう思っていた。
馬が嘶き、地面に振り落とされる。
冠が落ちたが構っていられない。
幸い軽傷で済んだが、馬は矢を受けており恐らくもう駄目だろう。
敵の槍兵が私を取り囲む。
私の首が欲しいのであれば、先程の落馬の不意をつけばそれで終わった。
だが敵は私を取り囲むだけだ。
「…?」
「決して殺すな!」
「…これは」
生け捕りが目的、とも思えない。
私が蜀に捕縛されたところで、蜀に理はない。
従う気などさらさらないからだ。
人質か囮。
私を餌に、本隊を引き寄せる算段か。
私が捕縛されたとの報せが伝われば、
身分を省みず私の元に来てしまうであろうその御方が狙いなのか。
そうだとしたら、捕縛される訳にはいかない。
羽扇を持ち、何人かを殺し馬を探した。
肩に刺さったままの矢を引き抜き捨てた。
右肩全体が血濡れになり、武器を持っているだけでも辛い。
握力がなくなってきた。
背後からの槍。
咄嗟に避けることが出来ず、左太腿を槍先が貫通した。
膝を地に付きかけるが、右足だけで何とか立ち上がり、振り向きざまに一人殺した。
膝を付いたら何をされるのか解らない。
無事な左手に武器を持ち替え、何人か殺しこそすれ立っているのが限界だった。
援軍を呼んであるとはいえ、自軍の兵が少なくなってきた。
援軍が近いとの報せ。
誰が来るかは解らないが、恐らくは張コウか徐晃であろう。
師と昭は先陣だ。距離が離れすぎている。
あの御方は来ては行けない。
それこそが敵の罠だ。
どうか気付いて欲しいものだが、今からではどうにもならぬ。
血を流し過ぎたのか、視界が霞んだ。
意識を保つ事すら限界で、背中を剣の柄で殴られ脚をかけられ地に俯せで倒された。
「まだ来ないのかよ」
「…殺さなければ、何をしても良いって事だよな」
仰向けにされ、右肩と左太腿を踏まれた。
激痛が全身に走り、私は武器を手から離した。
「…貴様等」
「ほぅ、魏の軍師様は大軍を殺す癖に随分と麗しい顔をしているようだ」
「殺してやる…」
「無理だろうな。もうあんたの右腕は使い物にならないよ」
両手両脚を抑えつけられ、一人の男が私の胸元の紐を切り服を破った。
「…なに、をし、て」
「丞相には“司馬懿をその場に留まらせよ”“殺すな”としか言われていない」
「…諸葛亮…」
「その場に留まらせるのなら、殺さなければ何をしてもいい訳だ」
「澄ました顔をして、どうせ経験があるんだろ?」
此奴等の下衆な考えが透けて見えた。
髪紐も切られ、髪を下ろされ顎を掴まれる。
強く睨み付けるも、返ってそれが奴等を煽ってしまったらしく下半身の服すら破られた。
血に染まった左脚。
大量の出血が服に滲み、黒く滲みている。
もう何の力も入らなかった。
無惨に切られた髪紐が視界に入る。
あの御方から戴いた私の大切な髪紐はもうただの布切れになっている。
其れだけが私の心を傷付けていた。
「やめ、ろ…!」
「煩いな」
「ぅあぁ…!!」
右腕に直接、刃が地に突き立てられた。
そのまま行為は続けられる。
体を好き勝手に弄ばれても、抵抗すら出来なかった。
口淫を強要され、抗えず口内に無理矢理入れられた。
少しでも抵抗すれば、傷口を踏まれた。
口の中に出されたが、呑み込む事はせず吐いた。
顔を殴られ、口淫だけでは満足出来ないのか私の脚を掴み腰を持ち上げられた。
この後の行為に察しが付いて、涙が溢れた。
嫌だ。子桓様以外となんて絶対に。
「…それ、だけは…」
「あんたは男を悦ばせるのが上手いようだ」
「…子桓、さ…っ」
「しかん?…ああ、成る程。丞相が言っていた意味が解った」
「ああ?どうした」
腰を抑えつけていた男が、私の髪を掴み上を向かせた。
もう睨み付ける気力もない。
「此奴、曹丕の情人だ。殺したら魏が更に強敵になる、ってのはこういう事か」
「曹丕をおびき寄せるのにこれ以上の餌はない、って事か」
「そのようだな」
聞こえた声。
霞んだ視界に、目の前の男達の首が飛んだ。
視界が赤に染まり、私の周りの敵軍は斬殺され誰一人として首と胴が繋がっていない。
「…遅くなった」
「っ…早くお退き下され!これは罠です!」
「仲達」
「お早く…っ」
「…大丈夫だ」
一番此処に来てはいけない人。
総大将である子桓様が、精鋭を連れて私を迎えに来た。
退却を叫ぶ私に、子桓様は馬を下り、血塗れの地に膝をついて私を胸に埋め強く抱き締めた。
壊滅に近かった我が軍は援軍と合流した事で態勢を立て直す。
「…抜くぞ。私の肩を噛め」
子桓様が私の頭をそっと撫でて、肩を噛むよう促し抱き締めた。
そんな事はとても出来ないと首を横に振り、自らの唇を噛み胸に埋まった。
「帰るぞ」
子桓様が眉を寄せ、私の右腕を貫いていた剣を一気に引き抜く。
激痛に唇を噛みしめた所為か、血の味がした。
右腕の感覚がない。
子桓様からは、汗と血と少しだけ沈香の匂いがした。
視界の端に映る髪紐だったものを、左腕を伸ばして拾い集め胸元にしまった。
それからは覚えていない。
罠であると、直ぐに理解した。
仲達の元に向かうまで、数々の伏兵に遭遇し其れを全て斬り捨てた。
まるで私を迎え入れるように、正面から矢の雨。
その先に、仲達の冠が落ちているのが見えた。
剣を右腕に突き立てられ複数の男に抑えつけられている仲達を見た時、自分の中で何かが切れた。
これ以上ない程に怒りがこみ上げ、その場を殲滅せしめる。
止血と応急処置を施し、血塗れの仲達を胸に抱き馬を走らせた。
帰路で張コウと徐晃と合流し、周囲の伏兵を全て殲滅せよと命じて分かれた。
私の胸に埋まる血塗れの仲達を見て心情を察したのか、
二人は頭を下げただけで何も言わなかった。
「怒りで我を忘れませぬよう、
そして御自分を攻められませぬようお願い申し上げます」
「…解っている」
ただ、去り際に張コウが一言私に告げた。
視線の先の城門、此処から魏の領内だ。
入城し閉門すると師と昭が待ち受けていた。
「…曹丕様、父上は…」
「息はある。だが右腕が酷い」
「父上…っ」
「…私の責任だ」
「いえ」
「暫し、仲達を預かる。報せを待て」
早急に仲達の右腕と左太腿の処置を済ませ、師と昭を連れ許晶に帰還した。
あれから幾日経ったのか。
私の邸で暫く寝たきりだった仲達が漸く目を覚まし、一命を取り留めた。
子供達を呼び面会をさせたが、仲達の体調が優れない為、会話をするだけに留めた。
師も昭も仲達の枕元に膝を付いて、包帯の右手に触れる。
仲達の枕元に膝を付く昭の隣、
師の瞳に私と同じ色を見つけ、一言釘をさした。
「…復讐などと、考えているのではあるまいな」
「…堪えますよ、今は」
「戦には勝った。敢えて手を出す相手ではあるまい」
「解っています。敵の思惑通りになると仰るのでしょう」
「そうだ」
「堪えますよ…他ならぬ貴方様が堪えているのですから」
「どうか、父上の御傍に」
「…任せよ」
師と昭が私に軍礼をとり、頭を下げた。
私に仲達を託し、また来ると言って師と昭は下がって行った。
右肩から指先に至るまで包帯が巻かれ、仲達の右腕は暫く動かせない。
左太腿も同様、包帯がきつく巻かれている。
酷く傷めつけられた右腕と、傷の深い左足では仲達は掴まり立ちすら出来ない。
仲達を運ぶ時は私が横に抱いて運んだ。
私が他の者に触れさせないからだ。
あの日。
仲達を使った卑劣な策は全て看破した。
潜んでいた伏兵は全て殲滅し、私は血に濡れた。
殺気を秘めた冷たい瞳。
眠る仲達の枕元、桶に汲んだ水面に映る私の眼は怒りに満ちて醜かった。
桶の水に、少し湯を混ぜて手巾を浸した。
寝台で横になる仲達の体を起こし、横に座った。
仲達はまだ湯には入れない。故に拭いてやるしかないのだ。
「…仲達」
「はい」
「拭いてやる」
「…本当に、申し訳ありません」
「いや」
あのような姿を見た後だ。
仲達を、誰にも触れさせたくはない。
白い寝間着を脱がすといつも右腕か左足からの血が滲んでいた。
体を拭く前に包帯を替える為、血濡れの包帯を外していく。
仲達の傷を見る度にあの日を思い出し、
自分が冷たい目をしているのだろうと思うと、仲達に触れる事すら怖かった。
私は戦が下手だ。
故に、こんなにも仲達を傷付けてしまった。
たらればで物を語るな、といつだったか仲達に言われた言葉だが、
私が早く策に気付いていれば、と日々悔いるばかりだった。
私には触れる資格がない。
そう思い悩む程、仲達の傷は酷かった。
日に日に良くはなっているが、早々治るものでもない。
一日の殆どを寝台の上で過ごす事が多かった。
剣どころか、筆すら持てぬ右腕。
直ぐには歩けぬように計算された左足の傷。
腱を切られていないので治れば右腕も左足も動くが、完治までには時間がかかりすぎる。
それに。
枕元に置いてある蒼い布切れを見つめた。
あの日を思い出して、ふと涙が頬を伝った。
子桓様から戴いた、髪紐だったもの。
左腕で上体を起こし、それを手に取った。
陵辱手前、だった。
少しでも子桓様が遅ければ口淫だけではなく、体を犯され陵辱されていた事だろう。
策だと解っていた。
だから、子桓様には来て欲しくなかった。あのような姿を見られたくなかった。
私の体を這う手を思い出し、両肩を抱いてうずくまる。
気持ち悪い。
多数の手が肌を這う感触を体が覚えている。
「…どうした?」
直ぐ近くで子桓様の声がして、顔を上げた。
私の様子を見に来たのだろう。
扉を閉めて直ぐに私の傍に来てくれた。
「…何、でも、ないです」
「話せ」
「何でもありません…」
乱暴に涙を拭って顔を背け、目を閉じ下を向いた。
あの日から、子桓様は私に口付けすらしてくれない。
もしかしたらあの姿の私を見て、穢いと思われているのかもしれない。
既に嫌われてしまったのかもしれない。
かもしれない、から考えが先に進まない。
子桓様は私に何もしない。
一向に優しい。それが辛かった。
子桓様以外の手が背中にある気がして、咄嗟に子桓様の胸に埋まった。
私の肩を抱き、子桓様は私を包むように抱き締める。
「…仲達」
「は、い…」
「此方を向け」
「…はい」
涙を止める事が出来ない。
恐ろしくて、不安で、怖くて、心細くて、自分の感情がよく解らなかった。
子桓様が私の両頬に触れ、不意に唇を合わせた。