綺麗な人。
其れが私の持つ第一の印象だった。
次に、忙しい人。
父上は忙しい人だからなかなか帰れないのよと、母上が常々言っていた。
なかなか会えない大好きな人。
それが父上だった。
子供の頃の話。
昼を過ぎた頃。
母上が出掛けられた。
父上の言いつけを守って孫子を読んでいたところを、
昭がふざけて邪魔をするので集中出来ない。
邪魔するな、と言うと昭が父上に会いたいと言う。
「私だって父上に会いたい」
「なら、あにうえといく!」
「…行こうか」
突発的ではあったが、父上のところへ行こうと、
幼い昭を連れて父上の居る邸内に向かって手を繋いで歩いた。
最近父上は、戦に行ったり視察に行ったり。
父上はなかなか家に帰ってきて下さらない。
父上が帰って来るのはいつも夜中で、
会えても直ぐに寝なさいと促されてしまいなかなかお話しする事が出来ない。
たまには父上とお話しがしたい。
白い大階段を昇る。
何だか空に向かって歩いているようで、父上達がまるで天にいるような心地さえした。
蒼天は青く眩しい魏の色をしている。
長い長い大階段を昇り終わり、西門から衛兵に話しをして通して貰った。
返り見た眼下に広がる魏の国は、今日も美しかった。
父上達はこの景色を創っている。
そう思うと父上がただただ誇らしい。
幸い、父上の居る執務室が何処にあるかしっかりと覚えていたので邸内で迷う事はなかった。
父上に連れられて、とても幼い頃によく来たのを覚えている。
私達だけで邸内に居る事が珍しいのか、
回廊ですれ違う将軍や軍師らにやたらと声をかけられる。
口々に言われる言葉。
「お父上なら執務室に」
「司馬懿殿なら執務室にいますよ」
「軍師殿なら執務室に」
「ありがとうございます」
「ありがとーございます」
話しかけてくれた全ての人々に粗相のないよう、
きちんと昭にも挨拶をさせて父上の執務室を目指した。
「失礼します」
「ちちうえはいますかー」
漸く父上の居る執務室に辿り着き、扉を開けた。
父上の冠が卓の上に置かれているのが見えた。
官服のまま、卓に肘を立てて目を閉じている父上を見つける。
最近の連戦でお疲れなのか、筆を持ったままだ。
「父上」
「ねてる?」
格子は開いていて、風が入る。
さらさらと父上の黒髪が風に流れていた。
父上の寝ている所など見たことがなかったので、まじまじと見とれるように見つめた。
父上の手に気付く。
筆を持ったままでは書簡が台無しになってしまう。
父上のお仕事を増やしたくはない。
行儀が悪いが台を出して、卓に乗り父上の手から筆を取って書簡を遠ざけた。
ほっ、として振り返ると目を見開いた父上と目が合った。
「!ご、ごめんなさ、い」
「……師、昭か。良かった」
「?」
「否、すまぬ。寝ていた訳ではないのだ。
考え事をしていて、お前達に気が付かなかった」
「そうでしたか」
「筆、すまぬな。師はよく気が付く」
私の頭を撫でた後、小さく溜息を吐いて父上は私を卓から床に下ろした。
筆と書簡を片付けて、部屋を走り回る落ち着きのない昭を捕まえ膝に置く。
父上の膝に座れる昭が羨ましい。
「母上はどうした」
「出掛けられました」
「…何かあったのか?」
「いえ」
「孫子は飽きてしまったか?」
「いいえ」
「女中はいなかったのか?」
「いいえ」
「うん?」
首を横に振り続け、裾をぎゅっと握った。
言いつけを守らなかったから父上に怒られる。
そう思って下を向いていた。
「どうした、師。言わねば解らん」
直ぐ近くで父上の声がして、はっとして顔を上げると父上が私の前に膝をついていた。
昭は父上の膝から下ろされている。
お疲れの父上にそんな事をさせられない、と顔を上げて父上を座卓にぐいぐいと押した。
「?、今度は何だ?」
「お仕事の妨げになるので師と昭は帰ります」
「うん?来たばかりだろうが」
「お邪魔しまし…っ」
「落ち着け。別に邪魔とは言っていない」
父上を座卓に座らせて昭を連れて帰ろうとしたら、父上に襟首を掴まれ捕まえられた。
父上に抱き上げられて、膝に座らせられる。
昭は直ぐ隣に座っていた。
「…しかし、よくお前達だけで此処まで来れたな」
「道を覚えていましたから」
「そうか。誰ぞに何か言われなかったか」
「しばいどのはしつむしつですって」
「…皆、随分と世話好きな事だ」
私と昭の頭をそれぞれ撫でて、
父上は何処か安堵したように胸をなで下ろしていた。
「誰ぞ居るか」
「はい。あっ」
「すまぬが是れを妻に」
「ふふ、見つかって良かったですね」
「…妻に殺されるところだった」
「?」
父上が部屋の奥から出て来た人に小さな紙を渡した。
どうやら手紙らしい。
「『見つかった』と。『女中を攻めるな』『連れて帰る』と妻に伝えてくれ」
「承知しました。ではまた。司馬師殿、司馬昭殿」
「はい」
ぺこりと頭を下げた。
父上の様子から察するに皆に捜されていたように思う。
そう言えば昭に言われて突発的にそのまま外に出て来ただけで、
誰にも何も言伝をしていない事を思い出した。
「…ごめんなさい」
「ん?」
「ごめんなさい…」
「ああ…良い。何よりお前達が無事で良かった」
父上に抱き締められて漸く、自分達のした事が解った。
よしよしと背中を撫でられて、泣きそうになるのを必死にこらえた。
昭はにこにこと機嫌良く笑っている。
父上に漸くお会い出来た。触れる事が出来た。
それだけで私はとても幸せで嬉しくて、ぎゅっと父上に抱き付いた。
「…やれ、先に執務を終わらせて良かった」
「お仕事の、邪魔になりませんか」
「午前中のものは終わらせた。今日は…そうだな、夕方までは時間がある」
「!」
「ちちうえとあそぶ!」
きらきらした瞳で昭がはしゃいで父上に抱き付いた。
私も嬉しくて父上の胸にすりすりと擦りよった。
父上が笑って、私達の頭を撫でた。
「居るか、仲達」
「…居ません」
「居るではないか」
「書簡の追加ならお断りしますよ」
聞き覚えのある声がして、扉が開いた。
記憶に新しい。やっぱり曹丕様だった。
少しだけ父上が嬉しそうな顔をしているのが何となく解った。
「追加はない。…ああ、見つかったのだな」
「ええ、二人とも無事です。お騒がせ致しました」
「そうか」
私達を一瞥し、
父上に向かい合うように曹丕様は、
近くにあった座椅子を引っ張り出し目の前に足を組んで座った。
昭が曹丕様の前に尻をついて座った。
「此方は片がついた。お前はどうだ」
「滞りなく」
「大儀であった。昼は?」
「まだです」
「…え」
「ちちうえは、まだおひるをたべていなかったのですか?」
「忙しくてな。お前達は?」
「もう食べました」
「仲達、医者には」
「しっ」
「…ん?」
曹丕様が何か言いかけたのを父上が口元に指を当てて黙らせた。
目配せをした父上を見て、曹丕様はそれ以上何も言わなかった。
「…どうか、内密に」
「ああ、解った。昼食を誘いに来たのだが、行くか?」
「…さて、どうしましょうか」
遅くなった昼食を食べに行こうと言う曹丕様のお誘いに、父上は困っているようだ。
曹丕様は首を傾げたが、直ぐにああ、と感嘆し言葉を続けた。
「師と昭か。連れて行けばいい」
「!」
「!」
「宜しいのですか?」
「昼食を食べたら、夕方まで仮眠もしたい事だしな」
「それは魅力的なお誘いで」
私達はもう昼食を済ませているのだが、
何処かに出掛けられるのか嬉しいのか昭が楽しそうに笑っている。
曹丕様の周りをはしゃいで走った。
私は父上の膝の上に座り裾を握った。
父上のお傍にもっと居たい。
曹丕様に父上を取られたくなくて、父上の胸にぎゅっと埋まった。
その様子に父上が気付いたのか、私の頭を撫でてくれた。
それが心地良くて目を閉じる。
「…貴方より先に、子供達が眠ってしまいそうですね」
「此奴らだけで、よく此処まで来たものだ」
「ええ全く…。昭もいずれ落ちますよ。元気なのは今だけです」
元気にはしゃぎまわる昭を曹丕様が捕まえ、小脇に抱えて立ち上がった。
「行くか。お前も少しは休め。執務に滞りはないのだろう」
「ならば後程、子供達と夕方まで仮眠させて下さい」
「私も付き合いたい」
「どうぞ」
私を膝から下ろして、父上も立ち上がった。
少し淋しくなって下を向いていたら、父上から手を差し伸べられて手を繋いだ。
執務室を出て回廊に出る。
曹丕様に小脇に抱えられていた昭だったが、
余りのはしゃぎぶりに曹丕様が床に下ろした。
「ちちうえ、はやく!」
「元気なことだな」
「其れが何よりです」
先を走る昭を見ながら曹丕様が笑った。
父上の手を離さぬよう、ぎゅっと握ると父上に振り返られる。
やっぱり父上は綺麗だと改めて思った。
勝手に走り回る昭に、
其方ではないぞ、と肩を捕まえて曹丕様が先導し回廊を曲がった。
中庭に面した回廊に机と椅子がいくつか置いてある。
机に対し、二つしかなかった椅子を曹丕様が近くから引き寄せ四つに増やした。
木漏れ日が差し込む中庭はとても涼しく、うとうととしてしまい眼をこすった。
「此処でお待ちを。何が良いですか?」
「茶と、何か軽い物」
「ももまん!くり!」
「おい、お前はさっき食べたと言わなかったか」
「しょうもたべる」
「…ふ」
曹丕様が足を組んで椅子に座ると、
昭が其れを真似するように椅子によじ登って足を組んで座った。
曹丕様が昭を横目に見て笑う。
「師は肉まんか?」
「はい。私は父上と行きます」
「左様か。子桓様、申し訳ありませんが」
「ああ、昭は任せておけ」
曹丕様が手を振った。
父上に連れられて、女官の元に向かう。
父上が一言二言、女官と会話し暫くその場で待った。
父上の服の裾を掴み、私も大人しく待った。
父上が左手首を右手で抑えつけている。
先程はそんな素振りを見せなかったはずだった。
気になって左側に回ると、
私に気付いた父上がするすると袖を下ろし左手を隠してしまった。
「父上」
「何だ?」
「左手、どうされたのですか」
「…本当に良く気がつく」
父上が溜め息を吐いた。
聞いてはいけなかったのかと聞いてから悔やんだ。
父上は渋々私に左手首を私に見せた。
血の滲んだ包帯が巻かれている。
剣で斬られた痕だ。
「…父上」
「先の戦でな。大事ない」
「戦…」
「母上と昭には秘密にな」
「師は…戦が嫌いです」
「私も別段好んではおらぬ」
父上の左手をさすり手を握った。
温かい父上の手が傷付いている事に、私自身が傷付いた。
戦は全てを傷付ける。
父上を連れて行く。父上を傷付ける。
私は戦が嫌いだった。
「皆が人を殺す為に動いてる。父上…私は戦は怖いです」
「そうか」
父上はそれ以上、戦の話をしなかった。
暫くしていくつか蒸籠を渡される。
右手に多めに皿を持ち、左手を庇う父上を見て、
成る可く父上には持たせまいと私が持てるだけ持った。
私の視界より上まで蒸籠が積まれる。
落とさないように慎重に歩く私を先導するように、茶器を持った父上が先を歩いた。
「大丈夫か?私が少し」
「平気です。父上は先に行って下さい」
「…暫し待て」
父上が足早に先に行く。
角を曲がった際、入れ替わるように曹丕様が私の方に歩いて来た。
「…?」
「…ふ、蒸籠が歩いているように見えるな。寄越せ」
曹丕様が笑い、私から蒸籠を半分以上取り上げて持って行った。
父上が昭と茶を入れて待っていた。
「申し訳ありません。お手を煩わせてしまって」
「否、お前の手の事を案じなかった私が悪い。師、大義であった」
「すまぬな、師」
「いえ」
曹丕様に褒められるのは悪い気はしなかったが心中複雑だった。
曹丕様が居ると父上が私と余りお話ししてくださらない。
父上に頭を撫でられる。
父上から褒められるのは素直にとても嬉しい。
子供ながらに恋をしているような心地を父上に感じていた。
父上が入れた茶を曹丕様の次に戴き、仄かな香りに眠気が増して目を擦った。
ひたすら甘栗の皮を剥いて摘む昭を隣に見ながら、蒸籠を開けて肉まんを頬張る。
やはり肉まんは美味しい。
私が肉まんを好きになったのは、私が笑うと父上が嬉しそうに笑うからだ。
父上と曹丕様は相変わらず談笑をしながら、粥や炒め物を口にしていた。
茶を飲む度に視界に入る父上の左手の包帯が痛々しい。
「…痛むか」
「多少。痛み止めはあります故」
私には成る可く見せぬよう父上は袖を下ろしたが、曹丕様は訝しく父上の左手を握る。
曹丕様は父上の怪我を以前から知っているようだった。
「父上」
「うん?」
「師が大きくなったら…父上を御護りします」
椅子に座る父上の隣に立ち、真剣な眼差しで父上を見上げた。
父上は期待している、とは言ったが嬉しそうではなかった。
「…嬉しくはなさそうだな」
「子供達の命を捨てて、私だけ生き残ろうとは思いませんよ」
父上は私の頭を撫でて、おいで、と手を差し伸べた。
父上に引き寄せられるまま、膝の上に乗せられ胸に埋められる。
「私は父上を御守りしたいです」
「其れ以上に、私がお前達を護るよ」
「嫌です。父上が傷付くところなんて見たくないです」
「其れは私も同感だな」
曹丕様が私と意見を合わせた。
振り返り曹丕様を見る。
よく見ると曹丕様の襟首に白い包帯が見えた。
「…貴方様は、人の事が言えないでしょう?」
「良いではないか。結果的にはお前は深手を負わず、私も死んではいない」
「…馬鹿めが。私がどれだけ…」
「主君に馬鹿と言うな」
「…部下を庇う主君など何処にもいませんよ」
「お前の目の前に居るではないか」
父上と曹丕様の会話を聞いて、はっとして曹丕様を見れば、
開いた胸元は全て包帯で覆われている。
曹丕様の方が父上よりも深手を負っているように見えた。
父上の様子から察するに、曹丕様は父上を庇い傷を負ったのだろう。
この人は父上を護ったのだ。
「曹丕様も、お怪我を?」
「大事ない」
「…大事、あります」
「咄嗟に体が動いていたのだ。仕方あるまい。いい加減に機嫌を直せ」
「……。」
父上はあからさまに不機嫌だ。
訝しく眉を寄せて茶を啜る。
昭が父上の真似をして茶を啜った。
「曹丕さま」
「ん?」
よじよじと昭が曹丕様の膝に登って座った。
父上がはっとして退かそうとしたが曹丕様は構わない、と手で制した。
昭は曹丕様の包帯を見て、両手でさする。
「昭、何を」
「いたいのいたいの」
「?」
「とんでけっ」
「…っふ」
昭のまじないに曹丕様が笑い、父上も笑った。
昭も話を聞いていたのだろう。
曹丕様が有り難う、と一言笑い昭の頭を撫でた。
撫でられた昭は笑いながらも目を擦っている。
「…眠かろうな」
「子桓様もお飲み下さい」
「ああ、仲達もな」
「何ですか?」
「痛み止めだ」
三角に折り畳まれた紙を袖から出し、茶に混ぜて父上が曹丕様に渡した。
苦い薬なのか、父上も曹丕様も眉をしかめている。
咄嗟に桃まんを割って、中にある桃餡を指で唇に押し付けた。
「…?」
「甘い、ですから」
「ふ、有り難う」
私の指に唇を付けて、父上が餡を舐めとった。
そのまま父上は私の額にも唇を落とした。
其れが堪らなく幸せで、父上の胸に埋まった。
「…良いな」
「何がです」
「師と場所を交換したい」
「もう子供じゃないでしょう」
「ちっ」
卓に肘をついて拗ねたように私を見つめる曹丕様に、
少なからず優越感を感じ父上の胸に埋まった。
曹丕様が眉を寄せて手を伸ばし、私の頬を引っ張った。
「っ!」
「子桓様っ」
「其れは私のものだと言うに」
「子供相手に何を馬鹿な」
「お前は子供に甘すぎるぞ仲達」
「貴方はもう子供じゃないでしょう?」
「…二回も言うな。解っている」
私は早く大人になりたいと思うのに、曹丕様は子供に戻りたいと言う。
悪かったと一言添えて、私の頬をさすり手を離した。
曹丕様の腕の中の昭がやたら静かなのが気になった。
「…昭?」
「寝てしまったか」
「やれ、仕方ない」
眠ってしまった昭を片手で抱き上げ、曹丕様が皿を片付ける。
「ふ…、甘栗の匂いがする」
眠っている昭は曹丕様の指を無意識に握っている。
その横でてきぱきと支度をする父上のお手伝いをしながら、皿をまとめた。
「申し訳ありませんが、暫し昭をお任せしても…」
「構わぬ。此処で待っている」
「はい。師、手伝ってくれるか?」
「勿論です父上」
食器を重ねて父上の後に続く。
給仕に食器を渡すと父上は私と手を繋いだ。
父上の手は温かくて優しくて、とても安堵出来る。
うっとりとして目を閉じると、父上が私の前に屈んだ。
はっとして目を擦る。
「眠いか?」
「ち、違います」
「それにしては随分と手が温かいな」
「…父上の熱が移ったのですよ」
「そうか」
温かい手を繋いで、昭と曹丕様のところへ戻った。
そのまま父上に手を引かれ、執務室の奥の仮眠室に入った。
父上がよく寝泊まりしているのか、父上の私物がよく置いてある。
差し込む陽を和らげる為に格子を半分下ろし、
曹丕様が寝台の真ん中に昭を寝かせ掛布をかけた。
父上が扉を閉め、冠を取り、肩当てや腰布を取り寝台に座る曹丕様の隣に座った。
「仲達」
「はい。お脱ぎ下さい」
父上が手際良く曹丕様の上衣を脱がしていく。
父上達の会話は言葉が少なく、お二人にしか解らない。
父上の隣で様子を見ていると、曹丕様の包帯を取り替えるのだと漸く理解した。
包帯を全て取ると、治りかけの刀傷が曹丕様の胸を斜めに裂いていた。
父上は眉を寄せ、その傷痕に触れた。
「…そう毎度、気に病むな」
「気にならない訳がないでしょう。是れは私が貴方につけたようなもので…」
「聞き飽きたぞ、仲達」
曹丕様が父上と額同士をつける。
父上は目を瞑り、小さく申し訳ありません…と謝罪した。
大事ない、と父上の頬を撫で曹丕様は離れた。
父上は溜め息を吐いて、曹丕様に新しく包帯を巻いていく。
このように謝る父上を初めて見た。
曹丕様の前で父上は何処か柔らかく、そしてとても甘く優しくて羨ましかった。
我等に向ける顔とは違う笑みを、曹丕様にだけ見せる父上。
曹丕様に取られたくない、そう思い父上の背中に埋まった。
「…師?」
「……。」
「どうした?眠いか?」
「拗ねているな」
解っているなら少しは私にも父上を譲ってほしい。
口には出さず、父上の腕の中によじよじと埋まり目を閉じた。
「師?」
「三、四刻ほど眠るとしようか」
曹丕様は既に昭の隣に横になっていた。
昭の隣に引っ張るように、父上ごと寝台に横になり胸に埋まった。
「うん?今日は甘えたがりだな、師は」
「…気持ちは解らんでもないが、な」
曹丕様は小さく欠伸をして、横になった。
父上と私にも掛布をかける。
父上の腕の中は白檀の香りがして、其れがとても心地良くとろとろと直ぐに眠りについた。
何刻経ったかは解らない。
直ぐ横で父上の寝息が聞こえる。
同時に誰かの腕の影。
薄目を開けて見上げると、静かに眠る父上の髪を曹丕様が撫でていた。
そのお顔はいつも皆に見せていた皮肉めいた笑顔ではなく、
心から優しい人と思える笑みだった。
この人は本当に父上が好きなのだ。
子供ながらにそう思った。
「…仲達」
眠る父上に曹丕様が語りかける。
髪から頬に移動した曹丕様の手はひたすらに優しい。
「…無事で良かった。仲達、お前を護る為ならば私はいくらでも強くなれる」
曹丕様は父上の手を握る。
私は目を瞑りながら、曹丕様の言葉に耳を傾けていた。
「ずっと、私がお前を、お前達を護ってやる」
曹丕様が父上の額に唇を寄せた。
昭と私の頭もそれぞれ撫でる。
その手は父上よりも大きく、温かかった。
太陽のようだ、と何となく思った。
となれば、父上は月だろうか。
父上はこの人を護って、護られているのだ。
「今は暫し、おやすみ」
曹丕様は笑い、目を閉じた。
いけ好かない曹丕様の意外な一面に動揺しながら、父上の腕に戻る。
父上の頬には一筋、涙の痕がついていた。
今。
見つめる先のお二人の背中。
昔から変わらない風景。
父上の傍にはいつだって曹丕様が居て、曹丕様の傍にはいつも父上が居た。
変わらぬ太陽と月のように寄り添う二人。
その少し後ろに、私と昭が立っている。
いつの間にか父上を抜かしてしまった身丈であったが、
父上の事は子供の頃から好きなのは変わらない。
「どうしたんです兄上、さっきからずっと父上と曹丕様の背中を見てる」
「…ふ、いや…変わらぬと思ってな」
「何がです?」
「良い日和だな昭」
「何なんです?もー」
相変わらずのお二人の背中に、少しだけ淋しさを感じながら格子から差す日和を見上げた。