平行線へいこうせん

幼心にも、その人は笑うのが下手だと思っていた。













「ちちうえ、おかえりなさいませ」
「ああ、今戻った」

何時の日かの、夕刻。
表の門が開いた音がして、父上が帰ってきたのだと悟り小走りでお迎えに上がるのが私の日常だった。
父上はいつも只今を仰って、私の頭を撫でて手を繋いで下さった。
其れが酷く嬉しくて、毎日走ってお迎えに上がった。

その当時、家は昭が生まれたばかりで母上は手が離せず。
私は兄として、しっかりせねばと日頃から背伸びをしていたように思う。


母上が昭の事で手を離せない分、父上は私の傍に居てくれた。

勉学が出来れば、父上が誉めて下さる。
弓が上達すれば、父上がまた誉めて下さる。



父上はいつでも優しく笑って、細い指で私の頭を撫でて。

「よくやった、師」

と。
そう言って下さった。











私は父上が大好きだった。

私の知る父上は、誰よりも麗しく誰よりも偉大だった。
私の父上は、私のものだった。



あの人が現れるまでは。


















「仲達」

父上はその人に字を呼ばれると、私に一言謝罪して席を外した。

私が門前で幾ら待とうとも、父上が帰らない夜もあった。
師と一緒に居て下さらなくなった。






あの人が、私から父上を奪っていった。
あの人が居る限り、父上はあの人のものだった。

私の父上は、あの人に取られてしまった。


































「何故、貴方様が此処におられるのか」

不機嫌な態度を隠しもせず、怪訝な顔でその男を見た。



「ふ、酷い嫌われ様だな。私が何かしたか?」
「身に覚えがない、とは言わせませぬぞ丕殿下」

所要があり父上の執務室に向かい扉を開けると、曹丕様が其処に居た。
私と対して歳が離れている訳でもなく、ましてや父上より年下の公子。
父上が直属で仕える殿下。



私から父上を奪った男。
私はこの人が、嫌いだった。
そしてこの人も、其れを知っていた。

知っていて、其れでいて見せ付けるこの人はどうにも好きになれない。

「怒ると仲達に眼がよく似ている」
「左様ですか」
「ふ、物言いもな」
「…父上は何処に?」
「さて、な」

余裕の笑みを向けられ、其れが不快に思い目を逸らした。
はっ、と曹丕様が笑う。

「仲達は父のところだ。何、間もなく戻るであろう」
「左様でしたか。して殿下は何故此方に居られるのか」
「居たら、悪いのか?」
「…いいえ」

舌打ちでもしてやろうかと思いながらも、父上の主君を蔑ろにも出来ぬ。
しかし気に入らない人だ。

早く父上が来ればいいのに、と溜め息混じりに扉に寄りかかるとその扉の片方が開いた。












「お待たせ致しました子桓さ…、む…師ではないか」

父上が見えた。
扉を開けるなり聞いた言葉が曹丕様の字である事に少なからず寂しさを感じ下を向いた。

私とて、字をあまり呼ばれた事がない。

「仲達、師が長くお前を待って居たようだ。先に所要を済ませろ」
「は…」

私より先に居たくせに、と曹丕様の物言いに少々苛立ちながら父上宛に届いた書簡を渡した。
書簡を届けるくらい使者を使えばいいのに、と昭に言われたものの私の目的は書簡が『次いで』だった。

「師?」
「私の要件は其れだけです」

父上の前では平静で居たかったが、どうやら私の機嫌を見抜かれてしまった。
父上の慧眼に恐れ入る。

「曹丕様、暫し」
「構わぬ」

扉を開け、父上に腕を引っ張られ室外に出される。
視界の端に、曹丕様が卓に肘を付きひらひらと手を振っているのが見えた。

私が居ると、父上は曹丕様を字では呼ばなくなった。











「師、如何した」
「特に、何もございませぬが」
「…まったく、誰に似たのだか」

其れは間違いなく貴方だろうに、と少し笑った。
いつの間にか父上の背丈を追い抜かしてから、頭を撫でてもらう事は少なくなった。

あれから幾年経っても、父上は父上だった。
老けないと言えば嘘になるが、相変わらず麗しいと思った。

曹丕様も、そう思っているのだろうかと考えれば今までの行動や態度に納得がいく。
もしくは私が思っている以上に、と少し考えて考えるのを止めた。
父上は、何処まで承知でいて、どこまで許しているのだろうか。

曹丕様でなくては、駄目なのだろうか。
私では、駄目なのだろうか。




「師?」
「…あ、いえ」
「先程から様子がおかしいが、体調でも悪いのか」
「そういう、訳ではないです」

おそらく。

「仲達」
「はい。此処に」
「父上」
「何だ、師」

扉の中から、曹丕殿の声がした。
この態度の違いは何なのだろうと、また少し寂しくなった。

「待てぬ」

またあの方の我儘が始まった…と溜息をついた。
このまま此処に留まり、父上を困らせてしまうのも悪いと思い立ち去ろうと背中を向けた。



















父が、仕方のない人だ、と呟き、楽しそうに笑うのを横目に見てしまった。
私では、勝ち目などない勝負だった。

勝負にもならない。
勝負をする前から、既に勝敗は決している。

何故、この方の子供なのだろうと、少しだけ恨んだ。
だが自分の存在否定は、そのまま父上を否定する事になる。
其れだけは、したくない。

父上が居て、私は此処に居るのだ。









それでも、やはり口惜しいではないか。
このまま帰れば、昭にでも八つ当たりをしそうだな、と自嘲し一歩を踏み出した。

「師」



父上ではない声に呼び止められて、振り返るとそこには曹丕様が居た。
どうやら父上は、既に室内らしい。

「…悪いが、あれは私にとっても大切な者なのでな」
「家には、帰して下さい」

父上をあれ呼ばわりする曹丕様に、少なからず腹が立ったが、
この人くらいにしか言えない言葉だろう、とも思った。

其れが尚更、胸糞悪い。



「お前には、やれぬ」

一番言われたくない言葉を、一番言われたくない人に言われたが何も言い返せなかった。
私の大好きな人を取ったのは貴方であるのに。

「貴方が、奪ったくせに」
「そうか。すまん」


今のは一体何の謝罪だったのだ。
謝るくらいなら、今すぐ父上を私に返してほしい。









この人と私はきっと、いつまでも平行線で解りあえない。


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