れられなかった恋人こいびと

己の死期を悟った時から、考え方が達観していた。
いつでも死ぬ準備が出来ていた。


皆を看取り、見送った私でもどうやら死ぬらしい。
このまま私ひとり残して、皆いなくなってしまうのではないかと思うほどの数の人々を見送ってきた。

今日、あの曹魏の日々を知る者は居らず。
実質、私ひとりだけが生きながらえてしまった。
月日が経つのは本当に早い。

家督を譲り、後任も立てた。
未だ天下は定まらぬが、残る敵は雑魚ばかり。
後は我が子達に任せた。
私がいなくなっても支障のないように、引き継ぎは終えた筈だ。


幾夜、涙を流した事だろう。
もう誰かを思って泣かないと決めたのに、何故。何故。

見えてしまった。


もう起き上がる事も辛いと言うのに、何故今更、そんな。

「子桓様…?」

そのお姿が見えてしまった。
私の声に気付いて振り返り、子桓様は寂しそうなお顔で私の頬に手を触れるが触れられずすり抜ける。

触れられない。
私に何か話しかけているようだが、声までは聞き取れなかった。

「…?」
『辛いか』

ゆっくりと唇を動かし、子桓様は私に何かを伝えようとしている。
今のは私の体調を心配して下さっているのだろう。

「貴方が居るのなら、もう平気です…」

いつ死んでも。
そこまでは言わなかった。
子桓様は悲しそうに少し笑うと、私に口付けるような素振りを見せて姿を消した。

漸く泣き方を思い出して、視界が滲んだ。
私はひとり静かに涙を流し俯いていた。

ひとりではなかった。
あの様子だと、あの御方は、もしや…今までずっと…。


真夜中だった。
ここ暫く寝たきりでいたから、私が体を起こしているのが珍しいのだろう。
ひとり啜り泣く私を見たのか、師が駆け付けて私の元に膝を付いた。

「父上?」
「…師」
「どうされたのですか?胸が痛むのですか?」
「いや、何でもない。案ずるな…、体調は良い。もう寝たのではなかったのか?」
「父上が心配で…。目が腫れています…。傍にいても宜しいでしょうか?」
「ふ、お前が私の傍に居たいのだろう?」
「はい」
「床では体が冷える。此方においで」
「……っ」

師の手を引くと、師は今にも泣きそうな顔をしていた。
この子に家督も跡目も何もかも任せてしまったが、どんなに立派に育ったところで師は私の子供だ。

だから、他の家の子供のように子供らしく甘えさせてあげられなかった。
師にとっても、昭にとっても、私は良い父親ではなかった。


寝台に師を上げると、師は私を抱き締めて涙を流す。
いつかの子供の頃のように、師は私に触れたがる。
この子は私の死期が解るのだろう。

師の頭を撫でる子桓様のお姿が見えて、ふ…と笑った。

「…何もかも任せてしまってすまぬな。乱世は未だ、長引きそうだ」
「……。」
「師?」
「今はただ、貴方様に触れていたいのです。どうか、父上に甘えさせて下さい…」
「構わぬ」

師の泣き顔を撫でて胸に埋めた。
その姿に、子桓様を亡くした日の事を思い出した。
私も昔はこんな風に泣いていた。

私は誰かにこのように縋れなかったから、真夜中に一人で泣いていた。
日が経つ度にもうあの人がいないのだと言う事が解ると、一人寝が淋しくて堪らなかった。
涙はもう涸れたものだと思っていたのだが。

子桓様を失った後、誰かをまた愛する事など出来なかった。
妻や子供達を愛していないとか、そういう事ではない。
愛しているが、そうではないのだ。
子桓様は、私の。


二十余年しかあの人と過ごせなかったが、きっともうあれ以上の幸せは私にはない。

何より懐かしいお姿を目にしてしまってから、心が其方に傾いていた。
子桓様に触れたかった。話しをしたかった。

早く死んでしまいたいとさえ思う。







師を抱き締めながら、私は子桓様に手を伸ばしていた。
最早、今ある私の命に興味がなかった。
生に執着がなかった。

子桓様も私に手を伸ばしていたが、伸ばしたところで触れられない。



その結果、きちんと師を支える事が出来ず体格差に負けて師に押し倒されてしまった。

私によく似た顔が近付く。
師に口付けられていると気付いたのは、舌が口内に入ってきてからだった。

「っふ…?ん…っ!」

口付けられる事が久しく、抵抗しようにも体が反応出来なかった。
出来たとしても、病に蝕まれた体には最早幾許の力も残ってはいない。

師は口付けが上手く、そのまま私の首筋にも口付ける。
されるがままにされ、私は顔を背け耐えるしかなかった。

ふと、師の動作が止まり目を開く。

「師…?」
「…仲達」
「っ…!」

一瞬、子桓様かと見紛い直ぐに首を横に振った。
子桓様のお姿は視界の端にあったので、そんな筈はない。
その子桓様は溜息を吐くような仕種をした後に姿を消した。

「あ…」
「と、お呼びしたら、私はあの御方になれるでしょうか?」
「馬鹿な、何を言って…」
「曹丕様が羨ましかった…。こんな風に父上に触れたかった。
 貴方を愛してみたかったのです。好きで好きで、貴方が好きで堪らない」
「……私は」
「知っています。もうお命の時間が余りないと仰るのに、貴方様の心は未だ…否、ずっと曹丕様のものでした」

勝てません。勝とうとも思わない。
師はそう言うと、私を胸に埋めるように抱き締めて目を閉じた。

「…夏であるのに」
「うん?」
「父上の肌は氷のようで…。寒いのですか?」
「…何も感じぬ」
「そうですか…」

貴方の唇に生気が感じられません。
師はそう言うと、私を温めるように肌を合わせて抱き寄せた。

師の身丈は子桓様のようで、何処か懐かしくて。
胸の中で目を閉じると師が私を強く抱き締めていた。

「…父上が」
「……?」
「こんなに窶れてしまって…、父上が、父上が」
「師?」
「出来る事なら、私が代わって差し上げたい」
「駄目だ。それは嫌だ」
「何故…?」
「お前を愛しているからだ。それに苦しい思いはさせたくない」

無論、昭とて。
そう言って師の頬を撫でると、ぽろぽろと涙を溢れさせて泣いてしまった。






明くる日。
中庭に面した回廊に椅子を置き、硯と筆を持ってさらさらと手紙を書いていた。

昼間だというのに子桓様の姿が私の傍に在り、かの人を見て微笑む。

今日も傍に居て下さるようだ。

『何を書いている』
「子供達に…。せめて、何か遺したいのです」
『お前は何処までも、師と昭に甘いのだな』

昨日よりは声が聞き取れるようになってきた。
子桓様は苦笑すると、私の隣に座る。
触れられないのは解っているが、手を伸ばさずにいられなかった。

唐突に胸が痛くなり、咳き込むと掌が真っ赤に染まった。
子桓様が目を見開いて私の背を支えるように傍に駆け寄った。

「綺麗なままの姿をお見せしたかった…。今はもう、見苦しくて…適いません…」
『お前は綺麗だ』
「そんな事…」
『…苦しいか、仲達』
「もう何も感じません…。貴方様にお会い出来た事で私の胸はいっぱいで…もう、大丈夫です」
『寂しくさせた、だろうか』
「…傍にいたのなら見ていたのでしょうに。酷い人」
『約束を違えた。私はお前との約束を何一つ守れなかった…』
「ええ、本当に…酷い人」

手紙を書く文字が滲み、手が震えてしまうので筆を置いた。
とりあえず手紙は書き終えたので、綺麗に折り畳み筒に入れて封を施す。

咳き込む度に胸が痛くなり、唇を血が伝うのが解る程の吐血をし椅子の手摺に凭れた。

「父上?父上っ!」
「…?」
「父上、雨が降ります。部屋に戻りましょう」
「昭、か…」
「血…、父上…それ」

私の傍に駆け寄って来たのは昭だった。
手摺からずり落ちる私を抱き締めて、私の血に触れ目を見開く。

ああ、この子にも知られてしまった。





昭の胸に埋まっても胸の痛みが引かず、吐血を繰り返し昭の服までも血に染めてしまった。
肩口に凭れ、服を汚してしまった事を謝るとふいに唇が合わさった。

思考が追い付かず深い口付けに惚けた後、この子もかと思い目を閉じた。
師とは違い、私を繋ぎ止めるように幾度も昭は私に口付ける。
昭も師のように泣いていた。


抗えず暫し昭に口付けられた後に、私の血に濡れた昭の唇を拭い頬に触れた。

「…昭」
「はい」
「私はお前を愛しているが…、このような事は望んでいない」
「…やっぱり父上は未だ…曹丕様が好き?」
「……ああ」

いけない子だと、苦笑し幾度か咳き込むと昭はそれでも構わないと言って再び口付け私を抱き締めた。

「…そのまま曹丕様が、父上も連れて行ってしまいそうで…嫌なんです。
 俺は適わないって解ってます。解ってるけど、父上…」
「…昭?」
「傍に曹丕様が居るんでしょう?俺には見えないけど、曹丕様に話しかけているように見えました…」
「ああ…」
「曹丕様、もし居るなら…どうか、父上を未だ連れて行かないで下さい…」
「…昭」

勘のよい子だと苦笑すると、昭は私を横に抱き上げて寝室へ運んだ。
私の吐血で血濡れになった床を見て立ち竦む子桓様のお姿を横目に意識を飛ばした。



次に目を覚ましたのは八月に入り幾日か過ぎた日の事だった。
食欲はなく、最早立つ事すらままならない。
水は飲めるがそれも日に日に飲めなくなってきた。
私の体はもう限界なのだろう。

だが未だ、生きている。


そんな体になっても、私の視界の端には常に子桓様のお姿が見えた。
まだ触れる事は適わないが、声ははっきりと私の耳に届いていた。

『今宵は良い日和だ』
「そうですか…」
『師と昭が直に来るだろう。あの手紙は渡したのか?』
「二人の部屋に隠しておきました…。ふふ、師も昭も気付かないかもしれませんね…」
『意地の悪い事を。なれば、私が少し分かり易い所へ移動させるとしよう』
「……。」
『仲達?』
「すみません…、少し眠ります…」
『ああ、おやすみ…』

目を開けている事が少なくなってきた。
体の重みが尋常ではなかった。
既に胸の痛みは通り過ぎて何も感じない。

子桓様は私を撫でるような素振りを見せるも、触れる事が出来ずに苦笑し私が目を閉じたのを見て姿を消した。



暫くしてから師と昭が部屋に入り、私の枕元に膝を付く。
二人が私の手を握りしめるのが解って、ふ…と微笑みうっすらと目を開けた。
右手側には師、左手側には昭が居て、私が頬を撫でると二人とも目を閉じて私の手に縋る。

二人とも私の腰布にしがみついて付いて来るようなあんなに小さな子供だったのに、本当に大きく立派に育ってくれた。
一人の親として安堵し笑う。

「師、昭…」
「はい」
「はい」
「執務はよいのか。お前達とて、暇ではなかろう…」
「何言ってんですか、父上!」
「今、貴方以上に優先するべき事などありません…。ある筈がない」
「ふ、そうか…。最期までお前達は親離れ出来なかったな…」
「…父上?」
「苦しい…?」
「否、もう良いのだ…」

今にも泣きそうな顔の二人を見て苦笑し、二人の手を引いて胸に埋めた。
師は私の手を取り口付け、昭は私の首筋に埋まるように目を閉じた。

「私も子離れ出来なかったな…」
「父上は、離れたかったのですか?」
「否…、師と昭が居なかったら、私はきっと」
「きっと?」
「…寂しくて、淋しくて、生きていけなかった…」

師と昭を胸に抱きながら、視界には子桓様が居た。
よく見れば子桓様だけではない見知った懐かしい顔触れが見える。

「…ふ」
「父上?」
「お節介どもめ…。ふはは…、私はずっと、独りではなかったのやもしれぬ…」
「ええ、そうです…。私も昭もいるでしょう?」
「元姫とか賈充とか、郭淮とかトウ艾とか。父上を皆心配して」
「…これからは、お前達の時代だ」

もう私が未練たらしく生きる必要はない世界。

私の知る三国の時代は、英雄達を失った時点で既に過去のものとなった。
曹操殿や子桓様の事を過去の皇帝と、一括りで嘲笑う最近の若僧に腹を立てる事すらもう馬鹿らしい。
知らぬと言う事は愚かな事よ。

私は今まで、長く壮絶な物語の中の登場人物だった。
その物語は既に終わっているというのに、私ばかりが生き延びてしまった。

主役達はもういない。


だが生き延びた事で色々なものを見届ける事が出来た。
幾つもの別れと引き換えに、得られた出会いもある。


どちらかと言えば、私は大切なものを失うばかりだった。
では不幸であったか、と聞かれればそれは否と答えよう。
私はただ、人一倍運が悪く、人一倍少し幸せだった。



唯一心残りと言えば、私の代で泰平の世を迎えられなかった事だろうか。

次は戦のない時代に。

苦手だが曹操殿にはまた仕えてやってもいい。
きっと夏侯惇殿や夏侯淵殿らも居る事だろう。
その時はまた、郭嘉殿や賈ク殿にも会える事だろう。
張コウや徐晃にもまた会えようか。
戦のない時代なら王異の恨みもなくなるだろう。


家族が引き離される事もない。

また春華は私を夫に迎えてくれるだろうか。
なれば師と昭にも、また会えるだろうか。

愛していた。大好きだった。




そして我が儘を言うなら、また…。
私は子桓様と恋がしたい。

あの人の傍に居たい。
お仕えしたい。
もうこんな気持ちは忘れていたと思っていたのに、私はこんなにも貴方の事が好きだった。
こんなにも貴方の事を愛していた。

お姿を見てしまった時から、私の心は決まっていた。

「父上」
「何だ」
「…愛しています。大好きです。だから、どうか」
「知っている」
「俺だって父上が好き。大好き。まだ足りない。父上ともっと話したい。もっと色々な所に行きたい」
「これ、仕方のない子らだ…」

もう手に力が入らない。
薄ぼんやり目を開けると、少し拗ねた顔をした子桓様が傍に居た。

子桓様と死別して二十余年。
私を恋人と言ってくれたその人は今、私の目の前にいる。

伸ばされた手が私に触れ、手を掴む。
子桓様が私に触れられている。





ふ…と笑み、今一度、師と昭の額に口付けを落とした。

「父上…?」
「っ、父上!」
「私の傍に居てくれて…ありがとう。お前達が居てくれて、私はとても幸せだった…、礼を言う」
「いや、否、嫌です…っ」
「幸せだった、なんて言わないで下さい…っ父上!」
「…次は、私が見守ろう。好きにするがいい」
「父上、目閉じないで、やだ…お願いですから…」
「父上、父上っ…!」

おやすみ。
そう言って目を閉じて子桓様の手を取った。



















気付けば子桓様の腕の中に居た。

「もう、良かったのか」
「はい…。きちんと別れを告げる事が出来ました」
「漸く触れられた…仲達。仲達…、私はずっと」
「ずっと、私の傍に居て下さったのでしょう…?」

子桓様に腕を引かれ、その胸に縋るように泣いて泣いて泣いた。
恋人だったあの頃のように、子桓様は私を抱き締めてくれた。
背中と腰を引き寄せて子桓様は私に何度も何度も口付けを落とす。

くすぐったくて少し笑うと、触れるだけの口付けをして子桓様も笑った。

「漸く笑ってくれた」
「…そうでしたか?」
「苦しませてばかりだった。漸く仲達を抱き締めてやれる…。漸くまた…」
「子桓様?」
「お前ひとりを置いて来てしまって、私がどれだけ…」
「…私、寂しかった。でも、師や昭が居てくれました。勿論貴方も」
「…そうだ。仲達、口付けさせろ」
「?」

私の唇を拭うように口付けた後、再び憮然とした顔をして口付けた。
少し機嫌が悪そうな顔をして、私の唇に何度も口付ける。

「…ん、子桓様…?」
「お前が、美しいのが悪い」
「なに、言って」
「師と昭だからとて許さぬ。仲達は私のだ」
「…貴方まだ、私の事が好きなのですね…」
「誰がいつ、お前を嫌う」
「ふふ、良かった…。子桓様は相変わらず」




子桓様に手を引かれて、数十年ぶりに皆に逢う。
懐かしい人達は全く変わらず其処に居た。

そして相変わらず、この人は私の事を好きで居てくれた。


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