あれから何度か戦があり戦勝を続ける程、私の仕事も増えた。
記録するもの、記憶するもの、その戦はどうであったのか。
如何にして勝ったのか。
それを記すのが私の仕事だった。
目眩く策の数々。
その多くに『曹操』『郭嘉』の名を記した。
気にはしないように努めてはいるものの、あの夜から郭嘉殿を意識して見てしまう。
噂だと郭嘉殿は病に伏していると聞く。
郭嘉殿は私に一切そんな素振りは全く見せなかった。
所詮は噂、と言う事だろうか。
あの夜。
二人きりになってから私を護るように、子桓様はとても優しく最後まで抱いて下さった。
痛みはなく、ただ与えられる快楽と子桓様から注がれる思いに身を震わせた。
まだ情事に慣れない私にゆっくりで良い、と疲れて横になる私に口付けて子桓様は言う。
私は子桓様を愛している。
それだけは変わりようがない。
子桓様に告白された時は勿論動揺したが、恋人になってからは子桓様との日々がとても愛しい。
だが、最近は一日の中で一刻会えれば良いくらいには子桓様に会えていなかった。
記録や簿記の執務もさることながら、教育係の仕事とも相俟って休む暇がない。
子供達にも会えず、帰宅することもままならなかった。
大概、夜に執務をしたままいつの間にか寝入ってしまう事が多く、
座卓に頬を付けたまま朝を迎える事も珍しくはない。
何時からだったか。
目覚めると仮眠室に居る朝が続いた。
私自身が移動した記憶はない。誰かが寝かせてくれているのだ。
其れだけではなく。
書きかけの書簡が片付いていたり、出したままの筆がしまわれていたりもした。
私の筆跡ではない。
誰かが私の執務を知らぬ間に手伝ってくれている。
誰だろう、とは思っていたのだが。
何時だったか子桓様の寝台に寝かせられている朝があり、子桓様なのだとそう思っていた。
そう思いたかった。
最も、私が目覚めた時には部屋の主は不在である事が殆どで、
私を運んだのが子桓様なのかどうかは終ぞ解らなかった。
「仲達」
書簡を胸に持ち、回廊を歩いていると子桓様に背後から話しかけられた。
丁度子桓様の部屋に向かうところだったので、そのまま子桓様の横を歩いた。
「お久しゅうございます」
子桓様の部屋に入る。
今朝、私が目覚めた部屋だ。
今日の授業はどうしようかと書簡を開いていたら、
後ろから突然子桓様に抱き締められて手が止まった。
子桓様の香りがして目を閉じ、その手に触れた。
「如何されました?」
「来い」
「?」
子桓様にそのまま手を引かれ、奥の寝台に座らされる。
子桓様が隣に座り、私に改めて向き直った。
「あの…、授業は」
「なしだ。私がお前を独占している時間は短い。少しでもいい。休め」
「ですが」
「ろくに眠れていないのだろう」
子桓様は私の冠を脱がせ、肩当てや腰紐も解いた。
私の肩を引き寄せ、子桓様は寝台に寝かせようとする。
その瞳にはあからさまな心配の色が見えた。
「…子桓様」
「何だ」
「此処に座って下さいませ」
「こうか?」
「失礼ながら、お借り致します」
一度頭を下げて、子桓様の膝にころりと横になって目を閉じた。
背中を丸めるように子桓様に埋まる。
「…猫……」
「ずっと…お会い出来なかったので…御心配をお掛けしました…」
「…ふ、今はおやすみ」
子桓様が私の額や頬に口付ける。
もっとお話をしていたかったのだが、髪を撫でる子桓様の手が心地好くそのままとろとろと眠りについた。
何刻経ったのか。
目を擦って軽く欠伸をし、膝に擦り寄るも何だか先程と太腿の柔らかさが違う。
「…?」
「おはよう。少しは眠れたかな?」
「?!」
「待って待って。そのままで居て。訳を話すよ」
目を開けると其処には子桓様でなく、郭嘉殿が居た。
郭嘉殿の話だと、子桓様は曹操殿から呼び出しを受けたらしくそれを郭嘉殿が伝えに来たらしい。
「猫が余りにも気持ちよさそうに膝で眠っていたから。
それを理由に断ろうか曹丕殿は迷っていたよ。でも殿の呼び出しだからね」
「…猫?」
「起こしたくなくて、束の間だけど私が膝を交代したんだ。黙っていてごめんね」
郭嘉殿がまるで猫を撫でるように私の髪を撫でた。
お二人の言う猫とはどうやら私の事らしい。
釈然としないが、髪を撫でる手は心地好い。
「…あと、そうだ。君はもうこの後、上がっていいよ」
「急にそんな…私が何かしましたか?」
「うーんと…逆かな」
「逆?」
「君の執務の量、いくら私が戦勝しているとはいえ余りにも量が多いよね。
調べたら、嫌がらせで君がやらなくて良い仕事まで回していたようだよ」
「…知って、います」
別に知っていた。
だが私が上官の雑務をこなせばこなす程、執務に慣れる。
何より上官の無能さを私に敢えてひけらかすようなもので内心嘲笑っていた。
上官であれ、使えない者は使えない。
無能な者は要らぬ、それがこの国の秩序だ。
出仕する事になってしまったからには、私は私の役割を成し遂げるだけだと割り切っていた。
「知っていたのなら、何故行動に移さないの?」
「一文官の私が烏滸がましい事です」
「曹丕殿にお願いすれば良かったじゃない」
「…私は曹丕様の身分に惹かれて傍に居る訳ではありません。私の事は私自身で解決します」
「そっか。純粋に曹丕殿を愛しているんだね」
「…っ、そんな事」
何となくあの夜を思い出してしまい、気恥ずかしい。
郭嘉殿は私を慰めるように、頭や肩を撫でた。
「君の上官は元を辿れば私の部下だ。私自らきつく灸を据えて置いたよ」
「…何故、私にそこまでして」
「好きな人だからかな。駄目?」
息をするように話す言葉はどれも甘い。
雰囲気が子桓様に似ている。
だが子桓様より物腰が柔らかい分、女性うけが良さそうだと思いながら溜息を吐いた。
何故、私なのだろう。
よく見れば郭嘉殿は片手に筆を持ち、何かを書いていた。
少し体を起こして見るとそれは私が持ってきた書簡だった。
視線に気付いたのか、郭嘉殿は私の頭を撫でる。
その筆跡には見覚えがあった。
「…郭嘉殿」
「何?ああ、これは気にしなくていいよ。どうせ私のところに来る書簡だからね」
「その筆跡」
「ん?」
「…あなただったのか」
振り返り仰向けになって見上げると、郭嘉殿は罰が悪そうに笑った。
書簡と筆を置き、また私の頭に手を置く。
「ああ、ばれちゃったか」
「此処に運んで下さるのも…あなたですか?」
「うん。あんな所で寝ていたら風邪をひくよ」
「私の執務までそんな…。曹丕殿からは何も」
「私が口止めをしているからね。曹丕殿は全部知ってるよ」
「…そう、ですか」
「最近余り会えていないよね。大丈夫。もう直ぐ帰ってくるよ」
今までの出来事は全て郭嘉殿のせいだと漸く納得がいった。
上官よりも更に上の方にそこまでさせてしまう事に頭が上がらない。
何よりも、私は郭嘉殿の気持ちに答える事が出来ない。
郭嘉殿もそれを解っていて、私を案じてくれている。
申し訳ないと思いながらも、私からは何も出来ず歯痒い。
私の頭を撫でる郭嘉殿の手が温かくて尚更辛い。
この人はずっと私を見守ってくれていたのだ。
扉が開く音と足音がする。
子桓様が殿の呼び出しから帰って来たらしい。
「遅くなった」
「やぁ、おかえり」
「…子桓様」
「起きたのか仲達」
「遅かったね。膝を返すよ」
子桓様が郭嘉殿の隣に座った。
郭嘉殿に支えられるようにして体を起こされる。
「少しは眠れたか?」
「はい…」
「殿は何て?」
「最近よくやっているなと…激励を受けた」
「それはよろしゅうございました」
「ふぅん。殿が君を誉めるなんて珍しいね」
「…ああ、面食らった」
おいで、とでも言うように子桓様は私を引き寄せ胸に埋めた。
だから私は猫ではないと言うのに。
「父が今日はもう執務は良いと…」
「え?」
「奇遇だね。司馬懿殿もだよ」
「…奇遇?郭嘉殿、また何か」
「ふふ、どうだろうね」
「…話したのか」
郭嘉殿が私の頭を撫でて笑う。
二人同時に公休を貰えるなど有り得ない。
去ろうとする郭嘉殿の袖を掴み、寝台に戻した。
「どうしたの?まだ私に何か用?」
「…どうしてこんなに、熱いのですか?」
「何が?」
「失礼」
「あっ、駄目だよ」
郭嘉殿を引き寄せ、額に触れた。
私に触れていた温かい手よりも遥かに額が熱い。
子桓様が私を膝から下ろし、郭嘉殿の隣に座らせた。
眉を寄せ、子桓様は溜息を吐く。
「…噂は、本当だったのか」
「半分、本当だよ」
「半分?」
「病なのは本当。でも寝込んではいないよ。私は今を楽しみたいからね」
「…どうして」
「少しでも君を見守っていたいから、…なんてね」
郭嘉殿が私の肩に頭を乗せた。
やはり熱い。熱があるのは明らかだった。
「薬は?」
「あるよ。でも苦いから嫌いなんだよね」
「飲まなければ治るものも治らんだろう」
「…もう治らないんだよ…」
「何?」
「じゃあ、司馬懿殿が口移しで飲ませてくれるならいいよ?」
「なっ?!」
子桓様の問いに、郭嘉殿が途中小さく呟いたが私には聞き取れなかった。
郭嘉殿が私の肩に頭を乗せたまま、胸元から包み紙を出した。
子桓様が水差しから水を汲み、私に渡す。
眉を寄せ、子桓様が私に耳打ちした内容に驚き器を落としかけた。
「…子桓様…」
「一度だけだ。一度だけ目を瞑る。話は聞いたのだろう」
「…はい。ですが」
「それで、最後にしろ」
「何の話?」
郭嘉殿が子桓様の頬を摘んだ。
私が狼狽していると子桓様が郭嘉殿の頬を思い切り抓った。
「いった!もー!顔は止めてよね!」
「…貴様もはな、せ」
「お、お二人とも…」
「郭嘉、一度だけ許してやる」
「何を?」
「仲達を、だ」
「…何、言ってるの?」
「勘違いをするな。薬を飲ませる事を許すだけだ。それ以上は本気で殺す」
子桓様は私の両肩に手を置く。
その手には力がこもっていた。
許せる筈がないのに、郭嘉殿の根回しに恩義を感じているのは子桓様も同じなのだろう。
郭嘉殿はへぇ?と笑い、私の顎に指を寄せた。
「…苦いよ?いいの?」
「はい…一度だけです」
「解った。これが最期だね」
「最期…?」
郭嘉殿は私の口に水を含ませると、包み紙を開けて薬を口に含みそのまま私に口付けた。
子桓様が眉を寄せ、私の肩を掴む手に力がこもる。
私の口から水を飲んだ後も、郭嘉殿は舌を絡めて口付けを続け漸く離した。
「ふふ、ありがとう。司馬懿殿の唇は柔らかいね」
「…っ」
「仲達」
「なっ、…んっ…!」
息を整える間もなく、子桓様が私を振り向かせ深く口付ける。
郭嘉殿が小さく笑い、子桓様の肩を叩いた。
子桓様が一頻り舌を絡めて深く口付け、漸く唇を離す。
「大丈夫。司馬懿殿を君から奪うつもりはないよ」
「とっとと部屋に帰って寝ろ」
「そうするよ。今のままの司馬懿殿を見てたら襲ってしまいそうだから」
「郭嘉殿っ」
「ふふ、君との口付けは嬉しかった。ありがとう、曹丕殿。悪いことをしたね」
「…ふん」
郭嘉殿はひらひらと手を振った。
曹丕殿の胸に埋まりながら、郭嘉殿の手を握り一言だけ声をかけた。
「郭嘉殿…」
「なぁに?」
「私を…好きになってくれてありがとう…ございました」
「やだな。違うよ」
「え?」
「今でも君が好き」
じゃあね、と明るく郭嘉殿は笑って私の額に口付けて部屋を出た。
扉が閉まる。
「…仲達?」
「…あ、はい」
「泣いて、いるのか」
「いえ、そんな事は」
「来い」
頬を伝う涙に子桓様に言われて気付いた。
何故泣いているのか、自分でも解らない。
嬉しかったのか、悲しかったのか解らない。
何故か郭嘉殿にもう会えない気がして涙が溢れた。
苦手な人だったのに。
「…郭嘉が、好きになったか?」
「私はあなたを裏切る気はありません」
「そうか。私はかなり堪えていたのだが」
「ええ。ですから…あなたが口付けを許した時は驚きました」
「…余り時間がないから、な。一度だけだ」
「時間がない?」
「お前は知らなくていい事だ」
また子桓様が口付ける。
やはり郭嘉殿との口付けを許せなかったのだろう。
子桓様は上書きをするかのように何度も私に口付けた。
子桓様の腕に甘え、目を閉じるとそのまま寝台に寝かせられる。
腕枕をしてくださり、背中を引き寄せられた胸に埋まった。
「私も疲れた。少し眠りたい」
「私と?」
「お前と」
私の想いは既に叶っている。
子桓様が私の恋人。この人以外にはない。
それを確認するかのように、私から子桓様に口付けた。
「子桓様」
「何だ」
「愛しています…」
「ああ、勿論私も」
子桓様の温かさに目を閉じ、寝台に二人で眠った。