初めて姿を見た時は、特徴的な髪色が印象的で、目が釘付けになったのを覚えている。
私の姿を見るや、少し怯えた様子で隣の幸隆の裾を小さな手で握っていたが、幸隆に頭を撫でられて私を見つめてくれた。
「私は四郎だ。名は何と言うのだ?」
「ほら、御挨拶なさい」
「さなだ、げんごろう、です」
「末子の源五郎です。四つを数えるようになりました。お見知り置きを」
「そうか、源五郎と言うのだな!いっしょにあそばないか?」
「あ、の」
「すごく綺麗な髪だな!地毛なのか?すごく綺麗だ!」
「あ、あの、あの、あ、ありがとう、ございます」
源五郎と言うその子は私よりも小さくて、幸隆殿の足に掴まって隠れているような素振りを見せている。
源五郎の髪色は珍しくて、とても綺麗だった。右側は銀糸のような白髪、左側は漆黒の黒髪をしていた。
髪の話をしたら怯えたような瞳をしていたのだが、綺麗だと伝えると頬を染めて本当に嬉しそうに笑った。
それでも恥ずかしがり屋なのか、幸隆殿の袴を掴んで離さない。
確か義信兄上と歳が近い、源五郎の兄の信綱も白髪と黒髪が混ざったような髪をしていたような気がする。
義信兄上のところに行くと、信綱によく会う事が多かったから覚えていたのだ。
「可愛い子だね幸隆。源五郎や、四郎の遊び相手にしてくれないかね?」
「よろしいのですか」
「うむ。四郎や、源五郎は繊細な子のようじゃね。苛めちゃならぬよ」
「もちろんです!源五郎、いっしょにあそぼう?」
「はい、四郎さま」
源五郎はもじもじとしていたが、私が手を取り微笑むと、釣られて笑ってくれた。
とても可愛い。源五郎が笑うと胸がきゅんとした。
手を繋いで歩くと、源五郎はまだ足元が覚束ない。源五郎は私に追いつこうとして慌てて走った。
源五郎は、まだ四歳なのだ。一歳の体格差は大きい。
走らなくていいんだよと頭を撫でると、源五郎は安心したように笑った。
「勘助や」
「は、目付けは心得ました」
「かんしゅけがいるなら安心だな!」
「うむ。幸隆や、四郎と源五郎は勘助が見てくれるから安心おし」
「は、勘助殿、倅をよろしくお願い致す」
「任せておけ」
「幸隆との話が終わったら迎えを送るから、それまで遊んでおいで」
「はい、ちちうえ!」
「はい、おやかたさま。ちちうえ、いってまいります」
「ああ。余り遠くに行ってはならんぞ」
「はい」
「可愛いねぇ~。四郎をよろしくね」
「はい」
父上がにこにこ微笑んで私と源五郎の頭を撫でてくれた。
嬉しくて微笑むと、その頬も父上にもちもち触られて揉まれる。
そして、いつもの様に勘助がついてきてくれるようだ。
「勘助殿、何卒よろしくお願い致しますぞ。夕刻には迎えをやります」
「あいわかった。幸隆殿の子だ。丁重に致すぞ」
勘助と幸隆は以前から交流があるようだ。
父上は幸隆と話があるらしい。迎えが来るまでは遊んでおいでとの事だった。
近くで遊んでおいでと言われたので、遠出はやめておこうと思った。
それに源五郎は私よりも小さくて幼い。
「お外で遊ぶか、館で遊ぶか、それが問題だ…」
「四郎さまについていきます」
「うむ。源五郎はついてきてくれるか?」
「はい」
「ふむ。源五郎は甲府に来たことがあるのか?」
「はじめてです。父上や兄上のおそばをはなれたのも、はじめてです…」
「そうなのか」
源五郎が不安げな様子だったのは、今日が何もかも初めてだったからなのだ。
勘助に聞けば、幸隆殿や、信綱達から離れたのも初めてらしい。
私は立場上、一人にされた事があまりない。
だから源五郎の気持ちを全部分かってやる事は出来ないけれど、心細くて寂しいのだと言う事は分かった。
甲府に来たことがないのなら、皆に会ったこともないのだろう。
幸隆殿は躑躅ヶ崎館のすぐ側に館を構えているが、源五郎が此処に来たのは今日が初めてだと言うのなら見せたいもの、会わせたい者が沢山あるのだ。
腕を組んで思案する素振りを見せると、勘助が膝をついて我らの傍に歩み寄ってくれた。
「源五郎、直に話すのは初めてであるな。軍師、山本勘助である。幸隆殿とは懇意にさせて頂いておる。よろしく頼む」
「かんしゅけさま。ぞんじております。父上からお話をおききしました」
「うむ。ふふ、おぬしは一番、幸隆殿に似ておるな。幼いが聡明さを感じるのう」
「ほんとうですか?」
「うむ。大きくなったらお館様や若子様を一緒に助けていこうな」
「はい!」
勘助が源五郎との挨拶を済ませたようだ。
どうやら勘助は源五郎の事を知っているようだ。
勘助は、源五郎の父の幸隆殿と仲良しなのだ。源五郎の事は聞いていたのだろう。
勘助が源五郎の頭を撫でると、源五郎は目を細めて微笑んでいた。やはり可愛い。
「若子様、何処かに出掛けられますかな。勘助がお連れしますぞ」
「うむ。源五郎を皆に会わせてやろうと思う。皆の屋敷に行きたいのだが」
「皆ともなるときりがありませぬ。日が暮れてしまえば幸隆殿も心配されるでしょう。ましてや若子様より幼子の源五郎を連れ回すのは酷ではありませぬかな?」
「うーむ、たしかに」
「?」
皆に会わせてやろうと思ったが、今日は何処かに集まっている訳でもない。
訪問する事を事前に伝えてもおらん。急に来訪したとて、居ないやもしれぬ。
そして不躾に来訪しては、如何に主従とて無礼であろう。
そういう事を気にしない者、私に親しい者の方が良いだろうか。
うーんうーんと悩んでいると、源五郎が眉を下げてしまった。
きっと不安にさせてしまったのだと思ってて、大丈夫だよと頭を撫でた。
「さすれば、追追、皆に会わせてやる事にして、本日は厳選しては如何ですかな」
「うむ、そうしよう。源五郎、勘助、ついてまいれ」
「はい。よろしくおねがいします」
「承知」
先ずは近いところから、と勘助に見守られながら源五郎と歩く。
源五郎は足元が覚束ない。じっと見つめていると、びくっとしてまた眉を下げてしまった。
「源五郎、手をつなごう」
「よろしいのですか?」
「うむ。はぐれたらいけないからな!」
源五郎と手を繋いで、館内を歩いた。
先ずは兄上であろう。
義信兄上はきっとお部屋に居らっしゃるはずと足先を向けたところ、勘助が引き留めた。
「お待ち下され、若子様」
「どうしたのだ、かんしゅけ」
「義信様は生憎出払っております。堤防の視察に供を付けて行かれました」
「むう、そうなのか。だが、信親兄上はおられるだろう?」
「信親様は只今、僧侶らと勉学に励んでおられる刻限かと。今暫くは御遠慮召されい」
「むうう」
何方の兄上も応対出来ぬと聞いて頬を膨らませる。
それを見て源五郎はおろおろとしていたが、勘助はしゃんとして私の手を取ってくれた。
「先程、信房殿と昌景殿にお会い致しました。まだ近くに居られるかと」
「馬場の爺に、昌景か!うむ、遊んでくれそうだ」
「では探してみましょう」
行き先が決まったので、源五郎の手を引いた。源五郎が焦らないように歩幅を合わせた。
勘助は私の前には歩かない。道を促してくれるのだ。
私がついてまいれと言ったから、先には立たぬのだろう。
源五郎の手を引いて屋敷内を歩き、曲輪を回ることにした。
源五郎が小首を傾げて私に尋ねた。
「馬場さまは、おにみのうの馬場さまでしょうか」
「おお、そうだぞ!鬼美濃をよく知っているな!」
「父上や兄上におききしました。ましゃ、ましゃかげさまは、あかぞなえのましゃかげさまですか?」
「ふふ、そうだぞ。武田の赤備えの昌景だ。義信兄上の傅役に飯富虎昌という者が居てな。虎昌が最初に赤備えをしたのだ。昌景の兄なのだ。あの兄弟は武田軍でいちばん強いのだ!」
「すごいです!兄上からよくお名前をお聞きしておりました!とてもお強いとおききしました」
目を輝かせて私の話を聞いてくれる源五郎に、私の事ではないけれど私の事のように思えて嬉しい。
武田家には強い家臣が沢山いる。そんなすごい者達に父上や私達は支えられているのだと改めて考え誇らしく思った。
源五郎は、昌景が言えぬらしい。
可愛いなと思って頬を撫でると、私よりもふわふわもちもちで思わず揉み続けてしまった。
源五郎はあわわと恥ずかしそうに笑っていたが、拒みはしなかった。
寧ろ年端のいかない幼子であるのに、きちんと喋れている方だと思う。源五郎は利発なのだろう。
「そうだ!そなたの兄の、信綱と昌輝を知っているぞ!」
「信綱兄上と昌輝兄上を知っておられるのですか?」
「うむ。私にも兄上がいてな!信綱は私とも遊んでくれるし、昌輝とは特に…あ!」
普段表向きは大人しく遊んでいるつもりなのだが、昌輝は馬に乗せてくれたり武器に触らせてくれたりと、義信兄上や勘助よりも遊んでくれる。
昌輝に、秘密ですよと言われていたのを忘れていた。
背後の勘助をちらりと見て、何でもないぞと源五郎に微笑んだ。
「私にも兄上がいてな。信綱と昌輝とも仲良しだぞ」
「そうなのですか?」
「義信兄上は信綱を友と、信親兄上は昌輝をお友達だと言っていた」
「ともだち」
「そうだ!源五郎、私の友にならないか?」
「え、あの、その」
義信兄上も信親兄上も、信綱や昌輝の事を友達だと言っていた。
武田と真田は主従の関係にある。ましてや真田は外様だから、譜代家臣らと比べれば身分は低い。
だが、父上もああして幸隆殿をわざわざ呼んでいるし、屋敷も建てている。真田を信頼しているのはよく分かった。
兄上達の様子を見ていれば、身分など気にしていないように見える。
「だめか?私は源五郎の友になりたい」
「わたしで、よいのですか?」
「うん!源五郎がいいのだ!」
「ほんとう?」
「私の友になって欲しい」
「はい。私でよかったら」
「ほんとうか!!かんしゅけ!聞いたか!!」
「よろしゅうございますな。しかし、武田家の皆様は、まこと真田が好きですなぁ」
嬉しくて思わず源五郎に抱き着くと、源五郎も微笑んで手を握ってくれた。
それがまた嬉しくて頬同士を擦り寄せると、くすぐったいと源五郎は笑った。
源五郎は私の友達だ。
友達、友達。友達は初めてかもしれない。確かに源五郎の兄達の信綱や昌輝とも仲は良いが、源五郎とはちょっと違うのだ。
聞けば、信房や昌景は既に曲輪を出たらしい。屋敷に向かう姿を見た者から話を聞いた。
なれば屋敷に向かった方が早かろう。信房の屋敷ならば近い。
源五郎の手を引き曲輪を抜け、門を出て大通りを歩く。
見るもの全てに目を輝かせて源五郎は辺りを見ていた。
「あの甘味屋は美味しいのだぞ!」
「そうなのですか?」
「うむ。今度一緒に行こう!」
「はい」
「そうだ、あのお山が見えるか?」
「はい。沢山白いお山が見えます」
「あれは八ヶ岳というのだ。あの麓を辿ると信濃に行けるのだぞ」
「そうなのですか?」
「うむ。正面に特段に大きな白いお山があるだろう?あれが日ノ本一の富士山だ」
「ふじさん…!これがそうなのですね」
「うむ!大きくて立派だろう?」
「ちゅちゅじがしゃきやたか…からも見えるのですか?」
「天気が良ければ見えるぞ!富士はいつも我等を見守って下さっているのだ」
「そうなのですね。こんなに近くで見たのははじめてです」
躑躅ヶ崎館を言えない源五郎が可愛い。私もたまに言えないのは秘密なのだ。
源五郎に見えるもの全てを説明して回る。
きっと源五郎には知らないものだらけだから、教えたいのだ。
私は信濃国の真田の郷に行った事はないけれど、源五郎に甲斐国を教えてあげたかったのだ。
躑躅ヶ崎館から真っ直ぐ真っ直ぐ、富士山を見ながら歩いていった。
「若子様、馬場様のお屋敷ですぞ」
「おお、通り過ぎるところであった!」
「馬場さま、おにみのうの馬場さまは、こわいひとですか?」
「たくさん遊んでくれるぞ」
勘助が三歩後ろくらいを着いてきている。
もう少しで信房の屋敷を通り過ぎる所であった。
今までも皆の屋敷を幾つか通り過ぎて、その度に源五郎に説明もしていたのだが、立ち寄ろうとしていたのは馬場信房の屋敷である。
門番が頭を下げると、源五郎もぺこりと頭を下げた。
思わぬ仕草が可愛らしくて源五郎から目が離せん。
ふふと微笑んで開けてくれた門の前で立ち止まる。
「御免。主は御在宅か」
「信房はいるか?」
「おや、どなたが見えたのかと思えば」
「信房!遊びに来たぞ」
「これはこれは、四郎様。ようこそおいでくださいました」
丁度、庭に出ていたらしい信房が我等を見つけた。
勘助が頭を下げると、源五郎も頭を下げた。
その様子に微笑みながら、信房の足元に源五郎の手を引いて駆け寄る。
「や、傅役は勘助殿か」
「左様。光栄な事でございます」
「ふふ、戦場では怖い男が四郎様の事となると人が変わるのう」
「若子様の成長を見守るのが今の某の楽しみでござる」
「さて、四郎様。こちらの童は」
「私の友の源五郎だ!」
「さなだ、げんごろうです。よろしくおねがいします」
「ほう、真田の」
源五郎が頭を下げると、信房は膝を折って我等に目線を合わせた。
口髭に手をやり、源五郎をまじまじと見つめている。
源五郎がそれに気付いて、私の後ろに隠れてしまった。
信房は源五郎を追いかけるようにして一歩前に歩む。
「どうしたのだ?」
「幸隆殿の子か」
「?」
「つまり、信綱と昌輝の弟か。話は聞いていたがまさかこんなに愛い童だとは思わなんだ。あの兄弟もさぞや可愛がったのであろう幸隆殿が目に見えるようだ」
「あ、あのっ」
「源五郎、触って良いかな」
「は、はい」
「ふふ、よしよし。四郎様をよろしく頼むぞ」
「はいっ」
信房が源五郎の頭を撫でた。
源五郎は人見知り故に少し怯えた様子だったが、信房に頭を撫でられて緊張が解れたのか頬を染めて笑っていた。
私も源五郎の頭を撫でると嬉しそうに笑う。
そんな源五郎が可愛くて頬を擦り寄せるようにして抱き着いた。
「客人ですかな」
「おお、すまん。途中だったな昌景」
「これは四郎様、勘助殿。失礼致した」
「まさかげ!」
「ましゃかげさま?」
屋敷の方から赤い略装の昌景がやってきた。
武田騎馬隊最強の昌景である。
と言っても普段は楽しく遊んでくれる昌景である。
昌景に改めて挨拶をされた後に一言二言、勘助と信房と話した後、源五郎に気付いたようだ。
「おや、この童は」
「私の友なのだ!」
「あ、あの、さなだげんごろうです」
「ほう、真田か」
「あの、あの、あかぞなえの、ましゃかげさまですか?」
「っ、うむ、某である」
「すごくつよい方だと、兄上にお聞きしました。お会いできてこうえいです」
「ふむ、そうか。そうか、お前は愛い子だな」
「うい?」
「かわいいってことだぞ!」
「か、かわいくないです」
ぽぽぽと頬を染めて恥ずかしがる源五郎の何処が可愛くないというのか。
寧ろ可愛すぎるだろう。
そんな可愛い源五郎に擦り寄り笑っていると、昌景と勘助が眉間を抑えて何やら頭を抱えていた。
「かんしゅけ、どうしたのだ?」
「若子様に、ご友人が出来て何よりでございまする」
「うむ!」
「ましゃかげさま?」
「勘助殿の事を涙脆い爺だと思うておったが、今ならそなたの気持ちが解る」
「そうであろう。幼子は可愛かろう」
「??」
「おう、気にするな。こやつらはそなたらが可愛いのよ」
「むう、そうなのか?」
「かわいくないです」
「それが可愛いのよ。のう?」
昌景は源五郎の事を気に入ったらしい。
どちらかと言えば昌景は厳しく真面目な男なのだが、源五郎を前にすると口元が緩んでいる。私も昌景も源五郎が可愛いから仕方ないのだ。
でも源五郎は私の友達だから、昌景に構われ過ぎても面白くない。
勘助が信房と昌景と話している間、源五郎と手を繋いで庭を歩いた。
蝶々が飛んでいたので、源五郎と二人で追いかけて遊ぶ。
「ちょうちょ!」
「ちょうちょ」
源五郎の手を繋いで走る。
視線を感じて振り向くと、遠目に勘助が我等を見守ってくれていた。
暫く追いかけていた蝶々だったが、徐々に高く飛んでしまいもう追いつかなくなってしまった。
ふうふうとした息遣いが聞こえて振り返ると、源五郎の息が上がっていた。
どうやら源五郎は疲れてしまったらしい。
私と源五郎では体力が違うのだ。
「源五郎?大丈夫か?」
「へいき、です」
「若子様、少しお休みくだされ」
「うむ」
「源五郎は、まだ幼いのに気遣いの出来る優しい子だ」
「ぁ、あの」
「ほらお前もお上がり。葡萄を食べよう」
勘助と手を繋いで、縁側に座る。
源五郎は昌景に連れられて、昌景の隣に座らせられた。
信房が冷たい水を持って来てくれて、私と源五郎は揃って一杯飲み干してしまった。
ぷふうと一息ついていると、源五郎が目を擦っていた。口を抑えて肩を震わせている。
皆に欠伸を見せまいと口を隠しているのだろう。そんなことしなくてもいいのに、と源五郎の頬をつついた。
とれたての葡萄を信房持ってきてくれた。
勘助が葡萄を摘んでいる。信房の手ずから葡萄を食べて微笑む。葡萄は昌景が持ってきたらしい。幾つか色が違う葡萄を持ってきてくれたようだ。
「如何ですかな」
「美味い!」
「若子様、此方も如何ですかな」
「あーん」
「何と」
勘助に葡萄も食べさせてもらい、縁側で足をぷらぷらとさせた。
源五郎も食べているかと思えば、水が入った竹筒を持ったまま下を向いていた。
「源五郎は食べないのか?葡萄は嫌いだったか?」
「そんな、あの、その」
「よく躾られた子だ。幸隆殿の子だな」
「お前もお上がり。ほら、口を開けなさい」
信房が感心したように微笑み、源五郎の頭を撫でた。
昌景が皮を剥いた葡萄を差し出すと、源五郎は嬉しそうに微笑んでしゃくしゃくと食べていた。
私が葡萄をあげると、それもまた嬉しそうに食べた。
源五郎は食べて良いと言われるまで黙って待っていたのだ。
きっと、食べて良いと言われるまで食べるつもりはなかったのだろう。
そんなところに、私と源五郎の身分の違いを感じてしまった。源五郎はきっとずっと緊張しているに違いない。
今日は私が連れ回してしまったが、源五郎の郷でなら源五郎も肩肘張らずに済むのではないだろうか。
「かんしゅけ」
「は」
「源五郎の家は、何処にあるのだ」
「真田家は、信濃国ですな。上田原の奥、四阿山の麓に真田の郷はございます」
「浅間のお山、あずまやさんのふもとのやまざとです。いつもおてんきで、ひあたりぽかぽかです」
「そうなのか。私も行ってみたいぞ」
「はい!でも朝と夜はとても寒いのです」
「ふむ。あたたかくしていかねばならぬな!兄上なら連れて行ってくれるだろうか」
「義信様はお忙しいですからな。今朝方、出掛けられましたぞ」
「そうなのだ。今日は兄上に源五郎を紹介したかったのに。信親兄上もお忙しいのだ」
「源五郎がいるではありませんか」
「!」
「そうだな、うむ。今日は源五郎がいるから寂しくなかったのだ。かんしゅけも、信房も昌景もいて良かった」
「ありがたき幸せ」
「私も、四郎さまがいるので、とてもたのしかったです。ひとりでは皆さまにも、お会いすることはできませんでした。お礼もうしあげます」
「友ではないか。当たり前だ」
「うれしいです。四郎さま」
「出来た子だ。幸隆殿は子育てが実に上手い。ひとりくらい欲しいものだ」
「信綱と昌輝は、さぞおぬしを可愛がっていような」
「はい。私の大好きな自慢の兄上達です」
「わかるぞ。わしも兄上がいるからな」
昌景は随分と源五郎が気に入ったらしい。
源五郎が控えめだからか、あれやそれと昌景が世話を焼いている。
何だか昌景に源五郎を取られてしまった気がして面白くない。むーと頬を膨らませた。
源五郎が昌景に取られてしまわないように、すっと立ち上がり源五郎の隣にくっつくように座った。
源五郎にぎゅうと抱きつき頬を擦り寄せる。
「四郎さま?」
「源五郎は私の友達だから、私のなのだ」
「はっはっは、昌景が源五郎に構いすぎたようじゃ」
「それは失礼致した」
「されど、源五郎は物ではござらぬ。まこと、友で在られるならばそのような物言いはやめなされ」
「そうなのか。ふむ、気をつける。源五郎、ごめん。昌景もすまない」
「めっそうもないです」
「某も失礼致した」
昌景が申し訳なさそうに源五郎から距離をとる。
源五郎がそれを見て寂しそうな悲しそうな顔をした。
その表情を見て、私も寂しくなったのだ。
源五郎の手を取り、昌景の手を取って握らせた。
「四郎さま?」
「どうなされた」
「好きになることは悪いことではないのだ!私は源五郎が好きだけど、皆にも源五郎が好きになってほしいから、じちょうする必要はないのだ!」
「はは!承知仕った」
前のめりに昌景に語ると、昌景は笑った。
信房や勘助も笑っている。
源五郎はきょとんとしていたが、私の思いをわかってくれたのか、昌景の手を握ってにこにこと微笑んでいた。
「葡萄がまだ残っておりますぞ」
「ふむ、潰して汁物に致しますか」
「む?それをどうするのだかんしゅけ」
長く話し込んでいたからか、色が少し悪くなってしまっていた。
私は気にしないのだが、どうやら勘助が何か趣向を凝らしてくれるらしい。
信房の家のものからすり鉢とすりこぎ棒を受け取ると、勘助は葡萄を手に取り、小刀で皮を剥いたり種を取ったりしている。
信房は煙草を吸ってじっと勘助のすることを見ていたが、皮を剥いたり種を取るのは大変そうだ。
源五郎がそっと勘助の傍に座り、葡萄の種取りと皮剥きを手伝い始めた。
手伝ってくれるのかと勘助は微笑んで、源五郎の頭を撫でていた。
私も手伝うぞ!と皮剥きをすると、勘助は申し訳なさそうにしていた。
私と源五郎とでは反応が違うことに、むうと頬を膨らませていると、信房と昌景も手を貸してくれたので種取りと皮剥きの作業はあっという間に終わった。皆でやれば早いのだ。
「方々、申し訳ござらん」
「何の。水臭い。指示を下さればよかろうに」
「御二方にお手数をお掛けするなど…。儂だけで直ぐに終わると思いましてな」
「要らぬ気遣いぞ、勘助殿」
「して、それをどう致す」
「これを潰して混ぜますると、非常に美味な飲み物になります」
「ほう、潰すのか。」
「お試しあれ」
潰した汁と角切りにした果実を枡に掬って、匙と共に私と源五郎に配ってくれた。
信房と昌景は少しで良いと言い、杯に掬って貰っていた。
勘助の手から枡を受け取る。
葡萄たちが混ざり、すごい色をしている。
だが、とても甘くて良い香りだ。
ちび、と少しだけ飲んでみて、あまりにも美味しくて顔を上げる。
二口目はぐいぐいとそのまま飲み干してしまった。
「若子様、如何ですかな」
「おいしい!おかわり!」
「おお、まだありますぞ」
「源五郎も飲んでくれ」
「とても、おいしいです」
「ほら、もっとおあがり」
源五郎もとても美味しそうに飲み干していた。
源五郎が笑うと、とても可愛い。
何て可愛いんだろうと思って思わず源五郎をぎゅっと抱き締めて頬を擦り寄せた。
馬の蹄の音がして、何やら騒がしい。
馬屋に馬が留められたようだ。誰かが馬場邸に着いたらしい。
男が二人、此方に向かってくる。その内の一人は歩き方で誰だか直ぐに分かった。
「兄上!」
「義信様」
「ああ、四郎。皆も揃っておるな」
「は」
勘助、信房、昌景がさっと身を正して兄上に頭を下げた。
源五郎も勘助達に倣って立ち上がり、頭を下げた。
私も兄上に駆け寄り、兄上に一度ぺこりと頭を下げると、その頭を兄上が撫でてくれた。
義信兄上は私の一番上の兄上だ。
「若、如何なされた」
「ああ、四郎が信房のところに居るからと信親に言伝られてな」
「左様でしたか。されば戻られますかな」
「信親が四郎に構えず申し訳ないと言っていたぞ。今、務めから帰ってきたところだ。信房、すまぬが水を貰えるか」
「とんでもないです」
「水と言わず、茶でも如何か」
「なれば、馳走になろう。信綱、お前も疲れただろう。信綱の分も良いか」
「無論。暫しお待ちあれ」
「お務めは如何でしたかな」
「釜無川の堤防の視察だ。彼処は氾濫が多いからな。見て回ったが大事ないようだ」
「されば、ようございました」
「おう、信綱。若の傅役とは大したものだな」
「否、虎昌殿の代役でございますれば」
「兄上の代わりが出来るという事は誇って良い事だ、信綱」
「畏れ多いことです」
信房が茶を用意している間に、義信兄上が縁側に座ったので、私も隣に座る。
勘助や昌景が兄上と信綱に話しかけていた。
昌景の背中に隠れるようにして座っていた源五郎がひょっこりと頭を出していた。
「…信綱兄上?」
「ん?今、弟の声が聞こえたような」
「おお、ほれ、此方に来い」
「信綱兄上、私です。源五郎です」
「源五郎!どうしてここに?」
源五郎が顔を上げて、おずおずと信綱の方を向いた。
信綱は源五郎の一番上の兄である。
今日の義信兄上の供は信綱だったのだ。
信綱が兄上に目配せをして、兄上は頷いた。
源五郎は勘助に目配せをして、勘助が頷いた。
許しを得た源五郎は瞳を潤ませて、信綱に駆け寄って行った。信綱も膝をついて源五郎を抱き留めて頭や頬を撫でている。
「あにうえ、あにうえ」
「父上が此方に来られているとは聞いていたが、人見知りの源五郎が父上から離れるとは。父上とはぐれたのか?」
「いいえ、四郎さまの、友です」
「そうか、供か。立派な事だ」
「違うぞ信綱。源五郎は、私の友だ!友達だ!」
「左様でしたか。失礼いたした。よかったな、源五郎。初めての友が四郎様か」
「そうなのか、四郎。友か。初めてではないか?」
「はい!」
そうなのだ。私の初めての友は源五郎である。
後に源五郎から歳近い友と呼べる者は聞いたことがなかったと信綱から聞いて、互いに初めての友なのだと聞いて余計に嬉しくなった。
信綱が改めて源五郎を兄上に紹介し、私からも源五郎を紹介した。
兄上は、よろしく頼むと源五郎の頭を撫でていた。
源五郎も私と手を繋いで、にこにこと笑っていた。信綱が来たから緊張が解れたのかもしれない。
義信兄上が信綱も座れと隣に促し、信綱が座った。源五郎が遠くなってしまったので、義信兄上の膝を叩いて兄上の膝に座らせてもらう。
信綱が気付いて源五郎を膝に座らせたので、また源五郎が近くなって嬉しい。
手を繋いで二人で微笑む。
「すっかり仲が良いようだな」
「はい!」
「若子様が楽しそうで、何よりでござる」
「ああ、何よりだ」
「源五郎、良かったな」
「はい」
「まこと、愛らしい子だ。羨ましいぞ信綱。わしの子に欲しいくらいだ」
「?」
「昌景様、差し上げませぬぞ」
「お前ごと可愛がってやるぞ?」
「ご冗談を」
「お待たせ致した。ほれ、方々も召されい」
信房が兄上と信綱の分以外に、勘助や昌景にも茶を入れてきてくれた。
私と源五郎には葛湯を煎れてきてくれた。
あちあちと湯呑みをふうふうしていたら、兄上が持ってくれた。
源五郎も同様に熱くて持てないらしく、信綱が湯呑みを支えていた。
これを飲んだら帰ると、兄上が皆に言っているのを聞きながら、ふうふうと葛湯を飲む。
ほんのり甘くてとても美味しい。
源五郎もおいしいと嬉しそうに微笑んでいた。それを見た信綱が源五郎の頭をやわやわと撫でていた。
羨望の眼差しで源五郎達を見つめていたら、兄上が私を撫でて下さった。
嬉しくて微笑むと、頬をふにふにと触れられてくすぐったい。
日が暮れかけている。
暗くなったら館のものが心配するかもしれない。それに源五郎には迎えが来ると言っていた。信綱は義信兄上の傅役代理だと聞いていたから今日はたまたまなのだろう。
そっと義信兄上に手を取られて、手を繋ぐ。
信綱も立ち上がると、源五郎が信綱の裾を掴んでいた。そして私の方を見つめるものだから私から手を繋いで微笑むと源五郎も嬉しそうに微笑んでいた。
「そろそろ行く。父上に御報告せねばならん。四郎、帰るぞ。勘助も参れ」
「はっ」
「承知」
「兄上、げんごろうもいっしょに連れていきたいです」
「そうだな。うむ、幸隆殿が来ておられるのであったな。信綱、任せて良いか」
「は、お気遣いありがとうございます」
源五郎の迎えが遅くなっても、信綱がいるなら幸隆殿も安心するだろう。
何より私が源五郎の傍に居たかったのだ。
「信房、昌景、世話になった」
「何の、また遊びに来てくだされ」
「また遊ぼうな、源五郎」
「弟が世話になりました。御礼申し上げます」
「おう、信綱。おぬしも遊びに来い」
「は…、お呼び下されば馳せ参じます」
「固いのう、信綱は」
「源五郎、杯を交わせるようになった時が楽しみだ」
「有り難きお言葉」
「信綱、今度は儂の屋敷に来い」
「は、わしも昌景殿とは話したい事がございます」
「ああ。源五郎も、歓迎するぞ」
「はい!」
「されば御二方、御免」
信房と昌景に見送られる。
二人に手を振ると微笑んでくれた。信房は手を振り返してくれた。
今度は昌景の屋敷に行く!と伝えると昌景はお待ちしておりますと笑った。
義信兄上が馬に乗り、私を前に乗せてくれた。勘助も馬で後についてきた。
源五郎は信綱の前に座ったようだ。
「げんごろう、げんごろう」
「はい、ここにいます」
「信綱、隣に参れ」
「は」
「ああ、源五郎。今日はもう帰ってしまうのか?」
「はい、父上の館にまいります」
「…そうなのか」
「でも、ほんとうは、あの、その」
「?」
「もっと、いっしょにいたいです」
「ほんとうか!」
「またいっしょに、遊んでくれますか?」
「もちろんだ!」
兄上が信綱を呼び、源五郎が真横に並ぶようにしてくれた。
しょんぼりという音が出るのではないかと言うほど落ち込んでいたが、源五郎の言葉に表情が緩む。
信綱は、随分仲良くなったのだなと源五郎の頭を嬉しそうに撫でていた。源五郎も嬉しそうに信綱に甘えていた。
躑躅ヶ崎館に着くと、幸隆殿が待っていた。
どうやら父上との話は終わったらしい。
義信兄上の姿を見て頭を下げ、信綱には手を振っていた。源五郎も気付いて幸隆殿に気付いて頭を下げている。
幸隆殿の他に縁側に二つ人影が見える。先に下馬した勘助に抱き上げられて下馬すると、源五郎も抱き上げられて馬から下りた。
父上に報告に行くと言って、義信兄上と信綱は躑躅ヶ崎館の御主殿に向かった。
源五郎と手を繋いで、勘助と幸隆殿の元に小走りで向かう。
「四郎。お帰りなさい」
「ただいま戻りました、信親兄上!」
「源五郎、お帰り。勘助殿、御礼申し上げる」
「はは、楽しかったか?」
「はい、父上。昌輝兄上」
信親兄上と昌輝が幸隆殿の傍に座り縁側で寛いでいた。
幸隆殿と昌輝は一度、立ち上がり拝礼をしてくれた。
信親兄上は、私の二番目の兄上である。そして昌輝は源五郎の二番目の兄だ。
信親兄上は目が見えないけれど、直ぐに私だと気付いてくれるから凄いのだ。
信親兄上のお膝にぎゅっと抱き着くと、昌輝が源五郎を抱き上げて撫でていた。
幸隆殿の隣には勘助が座り、話をしていた。
信親兄上は目が見えないという事を源五郎に伝えると、源五郎が少し悲しそうな顔をした。
「おや、もう一人居ますね」
「はい、信親兄上。げんごろうです!」
「はじめまして、さなだげんごろうです」
「信親様、末子の源五郎です。おれの弟です」
「それはそれは。源五郎、お顔を近付けてくれますか?」
「はい」
「私は触って覚えるので、嫌だったら言って下さいね」
「だいじょうぶです」
信親兄上は、おずおずと目の前にちんまりと座った源五郎の頭や髪や頬を撫でて手で覚えているようだった。
義信兄上は嫡男だからと、凄くしっかりしていて厳しいところもあるけれど、家族思いのお優しい兄上だ。
信親兄上は、とてもおっとりしていて凄く優しい。私の母上を思い出すような温かさがあって、知る限り信親兄上が怒ったところを見たことがない。
源五郎の兄で、信綱の弟の昌輝は実はよく一緒に遊んでいるのだ。
義信兄上も信綱も遊んでくれるのだが、昌輝は思いっきり遊んでくれる。
躑躅ヶ崎館の裏山で、かけっこをしたり隠れんぼをしたり、時たま稽古を見てもらったりしていた。
兄上や勘助に知られたら怒られてしまうかもしれないからと、昌輝との遊びの内容はちょっと秘密なのだ。
「源五郎は大人しい子ですね。四郎が世話になりましたね。ありがとう」
「お会いできてうれしいです」
最初は緊張していた源五郎だったが、信親兄上に撫でられる内に絆されたようで掌に頬を擦り寄せていた。
四郎も!と信親兄上に言うと、信親兄上は微笑まれて私も撫でてくれた。
信親兄上はお勤めが終わり、縁側で昌輝や幸隆と話し込んでいたみたいだった。
信親兄上の膝に源五郎と一緒に甘えていると、義信兄上と信綱が帰ってきた。
再び立ち上がり拝礼をしようとしていた幸隆殿と昌輝にそのままでいい、と義信兄上に手で制されて、皆の団欒の輪に義信兄上と信綱も落ち着いた。
義信兄上は信綱と、信親兄上は昌輝と仲が良い。私も羨ましいと思っていたのだ。
歳が近い友達が今までいなかったのだ。
私には源五郎がいる。今日からは源五郎がいるのだ。それがとても嬉しい。
月が見えるようになってきた。
幸隆殿らはもう屋敷に帰るようだ。
信綱、昌輝、源五郎とも、今日はこれでお別れだ。
「っくし」
「ああ、冷えてきたか」
「ほら、おいで」
源五郎がくしゃみをした。信綱が上着を脱いで源五郎を温かく包む。
聞けば源五郎は寒がりで冷え性らしい。直ぐに手が冷たくなってしまうそうだ。
私の手はいつもぽかぽかと温かいから、源五郎の頬にくっ付いて手を握る。
源五郎はあわあわと慌てていたが、私が温かいか?と聞いて擦り寄ると、源五郎も嬉しそうに抱き着いてくれた。
「げんごろうが寒いときは、私がいつでもくっつくぞ!」
「ふふ、あったかいです」
頬をくっつけて笑う源五郎はとても可愛くて、胸がきゅんと音を立てたような気がした。
父上や兄上、勘助ら家臣達に今までも構われて居たけれど、源五郎はその誰とも違う。
すごく、守ってあげたくなるのだ。
それは源五郎が私より歳下だからとか、私より小さいからとか、色々理由があるかもしれないけれど、何よりも直感的に守りたいと思えたのだ。
幸隆殿と勘助、兄上達が夫々話し込んでいる間、源五郎にくっついていた。
何となくもう今日はお別れなのだと思って、源五郎にくっついていたかったのだ。
「四郎、そろそろ」
「ほら、また直ぐに会えますからね」
義信兄上と信親兄上が私達に目線を合わせて屈み、頭を撫でてくれた。
「それでは、そろそろ失礼致します」
「幸隆殿、また付き合って下さらぬか」
「勘助殿のお誘いならば喜んでお受け致す」
幸隆殿と勘助が楽しそうに言葉を交わしていた。
「義信様、ではまた何かございましたらお呼び下され」
「ああ、信綱。御苦労であった。その、今度は…否、何でもない」
「?」
義信兄上が信綱を労い、何かを言いかけて止めていた。信綱は小首を傾げていたが、深くは聞かなかったようだった。
義信兄上は信綱の事をとても大事に思っているとお聞きしているのだが、真面目で慎重な兄上は何となくぎこちなかった。
「昌輝殿、また来て下さいますか?」
「勿論。またお会いしましょう」
「ふふ、寂しくて泣いてしまうかも」
「走っていきます」
信親兄上と昌輝はとても仲良しだ。
信親兄上の手に触れ、片足を地に付けて頭を下げる昌輝は何かとても格好良く見えた。
今度、源五郎にやってみようかとも思う。
源五郎を見ると目に涙を溜めているようだった。源五郎のその表情を見て私も涙がぽろぽろと頬を零れていった。
私達の様子に慌てて義信兄上と信綱が駆け寄ってくれた。
何処か痛いのか?とか心配してくれたけれど、痛い訳じゃないのだ。
源五郎と手を繋いだまま、目元を擦った。
「今日とても楽しかったのだ」
「わたしも、たのしかったです」
「でももう終わっちゃうのだ」
「はい」
「さみしい」
「はい…」
「また、わたしと一緒に遊んでくれるか?」
「もちろんです!」
「よかった!今度は私が信濃に行きたいぞ。信濃に行ったら源五郎に案内して欲しいのだ」
「はい!」
これでお別れと源五郎とぎゅっとして、兄上と手を繋いだ。
源五郎も信綱と手を繋いで目を擦っていた。
「馬に乗れるようになったらな」
「大きくなったら、一緒にお迎えしような」
私は義信兄上に、源五郎は信綱に頭を撫でられていた。
源五郎に名残惜しく手を振ると、源五郎も名残惜しく手を振ってくれた。
元服した源五郎は、昌幸と名を改めた。
私も四郎から、勝頼と名を改めた。
躑躅ヶ崎館の縁側で二人、月を見上げながら昔を思い出していた。
甲府は月見里と呼ばれるくらい、月が綺麗に見えるのだ。
初めて出会ったあの小さな可愛い源五郎を思い出して、傍に侍る昌幸を見て笑った。
私の視線に気付いた昌幸が私に微笑みかける。
「どうかなさいましたか」
「ん?ふふ、月が綺麗だと思ってな」
「左様でございますね」
「月より綺麗だと思うものもあるんだぞ」
「私にも、眩しいと思う方がおります」
「む、それは誰だ?気になるぞ」
あれから十年と変わらず、私達は友であった。もう、ただの友ではないかもしれない。
私にとって、昌幸はかけがえのない友になった。
勘助や信房、昌景も変わらず、頼もしくて強い。義信兄上や信親兄上、信綱や昌輝も変わらず、皆親しく関係が続いていた。
「直ぐ近くにおりますよ、勝頼様」
昌幸は笑ってそう答えた。
可愛い源五郎は、随分美しくなったと思う。
月見里にて友と過ごす夜は静かでいて、心地好く過ぎていった。